1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/04/24:聖日礼拝(旧音源)
2011-04-24 38:51

2011/04/24:聖日礼拝(旧音源)

2011/04/24 聖日礼拝(旧音源)


00:02
マルコによる福音書16章の1節から8節まで。
さて、安息日が終わったので、マクダレアのマリアと役母の母、マリアとサラメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、週の初めの日の早朝、日が昇った時、墓に着いた。
彼女たちは、墓の入り口から、あの石を転がしてくれる人が、誰かいるでしょうか、と皆で話し合っていた。
ところが、目を上げてみると、あれほど大きな石だったのに、その石が既に転がしてあった。
それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えた。
彼女たちは驚いた。青年は言った、驚いてはいけません。
あなた方は、十字架に作られた謎レジンイエスを探しているのでしょう。
あの方は蘇られました。ここにはおられません。
ご覧なさい、ここがあの方の治められたところです。
ですから言って、お弟子たちとペテロに、イエスはあなた方より先にガリラ屋へ行かれます。
前に言われた通り、そこでお会いにできます。と、そう言いなさい。
オーナーたちは墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、木も転倒していたからである。
そして誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
成果体に賛美をしていただきました後に、内田牧師より、昭和よみがえ屋と題してメッセージを語っていただきます。
03:03
昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年
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代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、
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昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年代末、昭和40年
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それぐらい喜ばしいこのイースターの朝であります 今日もまた聖書を通して
神様からメッセージをいただきたいとそう思っておるわけであります 話はほんと飛ぶんですが、飛ぶといっても関係あるんですが
このポストイットっていうんでしょうか、これは大変便利ですね イースターでなんでそんな話が出るのか
このポストイットと言いますのは これも教会に関係があるらしいですね
これができた戦っていうのは 教会でそれこそその賛美歌、今日の賛美歌
何曲、こことこことここ そしてしおりを挟んでおったわけですが
そして立ち上がって賛美をしているうちに そのしおりがポロッと落ちる
また拾っては探してまた挟むというようなことを しておったときにある人が
09:02
このしおりの代わりに何か貼り付けてまた剥がして すぐにまた付けられるような
そういうものはできないだろうかということで こういう特殊なノリが開発されて
そしてこういうものができたわけですね これは大変便利です
私たちがきょうイースターを迎えるにあたって この副印書を見ているわけですが
この四つの副印書の中にどの副印書にも イエス様の読み替えの記事が書かれてある
ですから私もこのマタイマルコルカヨハネ それぞれにポストイットをつけまして
そしてマタイではどういうふうにそれを書いているのか そしてマルコではこういうふうに書いてある
ルカではここがこうかと ヨハネの副印書ではこういうふうに書いてある
そういうようなことでこの四つの副印書を読みながら この復活の記事
イエス様のよみがえりの記事を立体的に 四方向から見る読んでいくという
これは本当に幸いなことであります
私たちはこのイエス様の復活を今日覚えて この副印書の中からメッセージをいただきたいと
そう願っているわけであります 三つのメッセージを今日聞きたいと思うんです
一つは主は備えていてくださる もう一つは主は生きておられる
そしてもう一つは永遠の命の始まりということであります
安息日を終えてそして婦人たちがイエス様が葬られた その墓に向かったということが書かれてあります
そしてイエス様に香料香油を塗ってあげたいという そういう思いで彼女たちはお墓に向かったわけです
そしてお墓に向かうその道すがら彼女たちは 何を話していたのかということがここに書かれてありました
三節彼女たちは墓の入り口からあの石を 転がしてくれる人が誰かいるでしょうか
そのお墓には封印とするための大きな石も重たい 誰も動かすことのできない
もう屈強な男たちが何にもかかって封印したであろう そういう大きな石がその墓の前に封印とされておったわけですね
12:07
ですからイエス様に香油を塗ってあげるためには あの石をどうしたら取り除けられるだろうか
あるいはそういうものを取り除けてくれる人が 果たしているだろうか
そんなことを話し合っていたというんですね
四つの封印書を読んでみますときに そこには男性はいなかった
みんなご夫人たちが墓に向かったということが 書かれてあるわけです
ここに一つの私たちへのメッセージもあるかもしれません
男性はどういうんでしょうか理屈で考えるっていうんでしょうか
ヨシ様は亡くなられて墓に葬られた
そしてあんな大きなもうどうしても動かせないような そういう石が封印されているんだから行っても仕方ない
行ったって無理だ だから
私は行かないみたいなそんなことがあったのかもしれない
ご夫人たちはとにかく行くんだ
行っても無駄だ そんな大きな石どうして動かせるんだ
そういう理屈は私はわからない とにかく行くんだ
もう行かざるを得ない 行ってヨシ様にこういう封印を塗ってあげたいんです
もう何か突き上げられるような
そういう行ってからまたそれ考えます というようなことなのかもしれませんね
そういうふうにして彼女たちは墓に向かったわけです
どうしたら石が取り除けられるだろうか 誰か取り除けてくれる人はいないだろうか
向かいながら考えながら一歩一歩墓に向かうという
もうどうしようもないのは分かっているけれども 向かっていったというそういうことであります
教会の中に男性がいて女性がいて そういうことも覚えるときに
もう男性だけではやっていけないなというのを よくここからも分かりますね
でも男性でないとできない そういう働きも当然ありますから
やはり男性が備えられ またご夫人たちの働きも尊いものであると
そんなこともここから思うわけであります
とにかく彼女たちは何とか えっさまにこういうをぬってあげたい
そういう思いで墓に向かった でもどうなるかわからない
15:02
そんな中でありましたが4節
ところが目を上げてみると あれほど大きな石だったのに
その石がすでに転がしてあった
ご夫人たちがあの石は動かせない 誰もそれを取り抜けてくれる人はいない
しかし彼女たちは一歩一歩一歩 足を墓に向けていった
おそらくそれは少し小高い丘の上に あったんでしょうか
彼女たちがその坂を上っていって そのお墓のあるところを見た
その時になんとその大きな重い封印の石が 転がしてあった
それは大変な驚きであったわけです
あれほど大きかった石なのに その石がすでに転がしてあった
私たちはこのイースターの時 この週の初めのこの出来事
まず初めに私たちが神様から与えられるメッセージ
それは主はいつも信じるものに 備えていてくださる
一歩踏み出すその時にもうすでに主は 全てを備えていてくださるんだ
私たちの心配事も思い患いも 一切主は御存じでそれにふさわしく
もう神様はそれに 備えをしてくださるお方である
目を上げてみると その大きな石はすでに転がしてあった
私たちは今日この時もう一度見上げてみると 何を見上げるのか
それは主を見上げてみると すでに大きな石は転がしてあった
私たちが神を見上げる時 私たちの思い患いあるいは心配事
そういうものは神様はもうすでに備えて 新しい道を開いてくださり
またそれに必要なものも 備えていてくださるお方である
四辺の記者はこのように歌いました
私は山に向かって目を上げる 私の助けはどこから来るのか
私の助けは天地をつくられた主から来る この四辺の記者も目を上げた
主に目を向けた時にすでにその助けは 天から来ているのだ
その確信を与えられたわけであります
私たちがまず神の国と神の義を求めて まず一歩踏み出す時
18:05
そこに主はすべて必要なものは添えて 与えていてくださる
その御言葉を私たちはもう一度 今日覚えたいと思います
明日のことを思い煩うなかれ 明日自身が思い煩うであろう
明日のことはもう神様がすでに すべてを備えていてくださるんだ
お前たちは今日この時を精一杯生きていきなさい
そういう語りかけを神様は今日してくださる
第一ペテロの五章七節の言葉
あなた方の思い患いを一切神に委ねなさい
神があなた方のことを心配してくださるからです
私たちはただ主を見上げて主を賛美して 主にすべてを委ねて
そしてこれからの日々を歩んでいくこと
それがイースターのメッセージであります
第二のメッセージそれは主は生きておられる ということであります
夫人たちが墓の中に入ってみますと
マルコの福音書では真っ白い衣をまとった 青年と書いてありますが
マタイでは密会というふうに記されています
そしてその密会が夫人たちに言いました
六節
驚いてはいけません
あなた方は十字架につけられた ナザレジンイエスを探しているのでしょう
あの方はよみがえられました
ここにはおられません
あの方はよみがえられました
私たちが初めて聖書に接して このところを読んだときに
弟子たちと同じように本当にそれは 信じられないことであったわけです
そんなことってあるんだろうか
イエス様は十字架におかかりになったけれども
実は死んでいなかったんじゃないだろうか
というような思いが湧いてきたことも確かです
おそらく弟子たちもそうであったでしょう
しかしイエス・キリストは十字架で間違いなく死なれた
死んだお方がもう一度よみがえられたのです
密会はそう言っているわけです
あの方はよみがえられました
十字架につけられて息絶えた そして墓に葬られた
21:03
その事実の上に
そしてこの週の初めの日の朝
密会はあの方はよみがえられたのです
そう夫人たちにあるいは弟子たちに
そして今日もう一度私たちに そのことを告げているわけです
神は天地万物をお作りになり
そして私たち人間を作ってくださった
その被造物である私たちが
神様のなさることに何の口出しができましょうか
その作り主なるお方が
私はこうなるのだこうするのだ
そうおっしゃっておられる限り
その方はそうなさるわけです
そのよみがえりの主
そのお方が
今日も生きて私たちとともにいてくださる
神様のその
私たちへのメッセージそれは 私は生きている
そして
あなた方とともにいて
そして
今日を迎えています
そういうことであります
ヨハネの福音書の20章20節
弟子たちは主を見て喜んだとあります
マルコでは
夫人たちが
弟子様がよみがえられたということ そしてその主のお体がないということ
それで本当に驚いて
そういう様が書かれてありますけれども
ヨハネでは彼らはよみがえの主を
もう一度目の当たり見たときに
主を見て喜んだ
これがイースターのメッセージです
主は生きていてそして私たちと今日ともにいてくださる
私の主として救い主として
生きて私たちとともに日々の生活の中にもいてくださる
そういうお方であることを私たちは信じているものです
生きているということはその
お方に命があるということです
その命あるお方に私たちは信じてより頼んでいく
だからこそ私たちにもその神の命が注がれるわけです
そのお方は私の与える水を飲むものは決して渇くことはない
私は生きた
命あるものであるから私の命それは水
それをあなた方に与えよう
それを飲むものは決して渇くことはない
心の渇き魂の渇きは癒されるんだ
24:03
その命の水によって渇きは癒されるんだ
私は命のパンです
私を求めてくるものは決して飢えることはない
命のパンであるお方のそのパンをいただくとき
私たちはこの魂に飢えることはない
そう言ってくださる
種はぶどうの木
私たちはその枝です
枝がその幹にしっかりとつながっている限り
そこから命をいただける
栄養分を注いでいただいて
私たちはそこで生き続けていくことができる
そして豊かな実をならせることができる
それは神であるそのお方が命ある生きたお方であるからです
ですからこの密会が言った
あの方は蘇られた
それは私たちの信ずる誠の神は命ある生きておられる方である
永遠から永遠というその命の中にあって
私たちもその命に預かることができる
その神にしっかりとつながっている限り
私たちはその命をいただける
しかしそこから離れたならば
もう命は届かない
ですから私たちはしっかりとその命あるお方につながっていましょう
あるいは私を捉えて離さないでしっかり私をとどめておいてください
そういう祈りを絶やしてはいけないのです
三つ目のイースターのメッセージ
それは永遠の命の始まりということ
これを覚えたいと思います
主のよみがえり
今日私たちはイースターのメッセージを福音書から見ているわけですが
どうしてこのよみがえりというものがあるのか
弟子たちは後でわかるんですが
これはもうすでにイエス様ご自身が予言なさっていたこと
その予言が成就したのがこのイースター週の初めの朝の出来事なんです
ですから誰も知らない誰も聞かされていなかった
そういうものが突然この時起こったのではないということです
イエス様は弟子たちに何度かおっしゃっておられたわけです
人の子は私は人々の手に渡されそして殺されます
27:03
しかし3日目に人の子はよみがえります
イエス様は何度か弟子たちにそう言っておられた
弟子たちは上の空で聞いておったようですが
イエス様は確かにそうおっしゃっていたわけです
そして私はよみがえりです命です
私を信じる者は死んでも生きるのです
そのこともはっきりとおっしゃっていたわけです
その予言がこの時成就したそれがイースターの出来事であったわけです
弟子たちにとってもあるいは私たちにとっても
この主がよみがえられたもう墓にはおられないというそのことを聞いたとき
あるいはそれを読んだとき本当に驚きであったわけですし
最初は信じられない
私たちの信じられないようなことを起こされるのが神であり
そしてそれが私たちの主である
私たちがもし神様のことを知っている
神様はこういうお方だというならば
その人にとっての神様はそれだけのものであります
私たちの小さな頭の知恵とそしてわずかな経験で
到底この永遠から永遠の天地万物の創造主なるお方を
計り知ることはできません
ですから神様がこうすると言われたことがそうなったからと
神様は私はこうであると言われたことに対して
私たちは何も言うことのできない
計り知ることのできないただ主よあなたはそういうお方なのですね
皆をあがめますと
それが私たちの人間としての取るべき姿勢であるわけです
ですから
主御自身が私は3日目によみがえると言われたその約束は
この時それがその通りになった
私はよみがえりです命です
たとえ死んでも生きるのですと言われた主は
この時それをなさった
私たちにとってある時そういう
キロに立たされるそういう時がきます
いわゆる信じる道を行くのか信じない道を行くのか
30:00
それは私たちに与えられた自由意志自由の選択
それが与えられているわけですね
これから私たちは世に出てこの福音
イエス様を紹介しそれこそよみがえの主私たちの救い主
この方を述べ伝えていくわけですが
私たちのできるのはそこまでです
もう何としてでも精一杯皆さんにそれを伝えていく
しかしそのことを聞いた人たちに与えられる
それは選択するということ
それは信じる道を行くのか信じない道を行くのか
今まではどうであれ今その時
私はそれを信じて生きていきますと
その時からその信仰告白をした時から
その人の生涯は変わっていくわけです
信じるという生き方を選んだその祝福がその方に及んでくる
しかし立ち止まって今までのように
私はやっぱり信じないで生きていきますとするならば
今までと同じそういう生涯がずっと続くわけですね
いやどちらでもないんです
車でいうニュートラルに置いておきたいと
何かの時には信じまた戻って何かの時には信じない
それも一つのその人の生き方でありましょう
しかし間違いなく信じる生き方を選択した人には
神様はふさわしくその人に恵みと祝福を与えてくださる
それが聖書が約束していることです
ですから夫人たちがしたように
これからのことはわからない
今もたくさんの困難試練もうどうしようもない
そういうものが前に立ちはだかっている
しかし一歩踏み出す神の国と神の業を信じて歩んでいく
その時にもうすでに主は備えたも
信じない生き方はそれをシャットアウトして
神様の恵み祝福はそこで途絶えてしまう
神様を与えてくださらないのではなく
こちらの方がそれをシャットアウトしてしまう
そんな生き方は本当に残念であります
私たちはそういうことのないように
まず自らそのことを確信しそして証をし
そして多くの皆さんにそのことを伝えて
信じて幸いな生き方をしていただきたいと
そう願っているわけです
33:02
イエス様は生きてそして私たちに永遠の命を与えてくださる
そしてそのお方はよみがえりであります
そして私たちはそのお方を信じて
そして歩んでいるものであります
もしこの主が私たちの信ずる神様が
よみがえってくださらなければどうだったろうか
もちろん主は十字架にかかって私たちの罪をあがなってくださった
それは誠に感謝でありますし
そこから私たちの罪のあがないあるいは救いの道が
成就したわけであります
そして永遠の命を与える約束もいただいた
しかしそのお方は十字架にかかって死なれた
おそらく弟子たちもそのことがどうしても納得いかない
どうしてなんですか
そういう思いがあったんでしょう
しかし救い主なるお方はそれで終わらなかった
主は死にましたがよみがえられた
ここに永遠の命の保証をしてくださったのです
その私たちが与えられてこの永遠の命はまさに間違いなく永遠の命なのです
なぜなら主が死んでよみがえってくださったそのお方に私たちは一つとされる
その永遠の命はそこから私たちにも注がれる
このよみがえりの事実を通して約束された永遠の命は保証されたわけです
私たちはこの永遠の命をもう一度このイースターの時に覚えて
それを確かなものとさせていただきたい
そう思うわけです
主は私はよみがえりです命です
私を信じる者は死んでも生きる
たとえ死んでもこの肉体が朽ちて滅んでもその魂においてその者は永遠に生き続けるのだ
魂は永遠に神とともに生き続けるのだというそのことを今日私たちはもう一度覚えて
その約束を私たちのうちに揺るがないものとして確かなものとさせていただきたい
そう思うわけであります
あの弟子たちは
イエス様が死んで葬られた後もう息承知
もうかっかりそんなことをしておったわけですね
ある者は自分がイエス様を裏切ったそのことによってもう後悔して
36:05
そしてもう生きる力さえないというそんなうなだれた状態であった
しかしこの主はよみがえられた
そしてまさにその生きたイエス様を前にした時彼らはそこから変わったんですね
そしてよみがえられた主を見て彼らは喜び
そして彼らはもう一度その死んだような魂に命が与えられて
そしてもう以前のような弟子ではなくあのベンテコステの精霊を受けて
彼らはもう一度新たに変えられて
そして生き生きとしてそこからまた戦況に向かうわけですね
今度は何恐れないそういうただよみがえの主を仰いで
そこから勇ましくこの戦況に出ていくその様もまた後私たちは知るわけです
よみがえの主は間違いなく人を生かす死んだ者をもよみがえらせる力がある
そのことを私たちはこのイースターで覚えたいと思います
私はよみがえりです。命です。私を信じる者はたとえ死んでも生きる
ご夫人たちは主の初めの日に朝早く墓に向かいました
そこで見たものそれは主のよみがえりの事実でありました
墓とは何でしょうか
墓とは信じる者にとってはこの世の終わりではなく永遠の命の始まりなのです
お祈りをいたします。恵み深い天の父なる神様
このイースターの時もう一度よみがえの主を覚えて皆を崇めます
あなたは生きて今日も共にいてくださる
そしてこれからもあなたは私たちの主として
共に歩んでくださいます。それは永遠に続く永遠の命として私たちに注がれたものです
これからもこのお方をしっかりと私の主として
仰ぎつつ たとえ死んでも生きるのですとこのよみがえの主を
たたえてあえまして行くものとしてください
やつ様の尊い皆によってお祈りをいたします
アーメン
38:51

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