1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/08/19:聖日礼拝(旧音源)
2012-08-19 54:49

2012/08/19:聖日礼拝(旧音源)

2012/08/19 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着席ください。聖書朗読をしていただきます。
今日の聖書の箇所は、マルコの福音書、8章31から38冊です。
柳沢姉妹にお願いします。
マルコの福音書8章31冊から38冊まで拝読いたします。
イエス、死と復活を予告する。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、妻子長、立法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると、弟子たちに教え始められた。
しかも、そのことをはっきりとお話になった。
すると、ペトロは、イエスを脇へお連れして痛め始めた。
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロ、ペトロを叱って言われた。
ささん、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。
それから、群衆を弟子たちとともに呼び寄せて言われた。
私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
03:08
神に背いた、この罪深い時代に、私の言葉を恥じる者は、人の子も、また父の栄光に輝いて、聖なる天使たちとともに来るときに、その者を恥じる。
続きまして、聖火隊に神聖火469番を賛美していただき、後に内田先生よりかけがえのない命と題してメッセージしていただきます。
馬車よ、おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
馬車よ、おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
わしは川岸に立ってる。
ぐるさこへ帰るのだ。
天使がそこで待ってる。
ぐるさこへ帰るのだ。
馬車よ、おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
馬車よ、おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
木がわしの岬なら、ぐるさこへ帰るのだ。
とこへつかえてくれ。
ぐるさこへ帰るのだ。
馬車よ、おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
こころがきよくなったのは、ぐるさこへ帰るのだ。
06:00
ぐるさこへ帰るのだ。
馬車よ、おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
馬車よ、おみてこい。
ぐるさこへ帰るのだ。
わしは時にぐらつくが、ぐるさこへ帰るのだ。
ああ、なんとかしてゆきたい。
ぐるさこへ帰るのだ。
おはようございます。
今日も見事間の時が与えられていますことを感謝をいたします。
一言お祈りをして、今日の見言葉を開きたいと思います。
井戸高き方の隠れ場に棲む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう、我が酒どころ我が鳥で、私の信頼する我が神と。
恵み深い天の父なる神様。
今日もこうしてあなたに命を与えられて、この安息の日の朝、ここに集え得たことを感謝をいたします。
あなたを賛美し、また心を込めてあなたを礼拝しております。
どうぞ天においてこの捧げ物を受け入れてくださり、また清めてくださるようにお願いをいたします。
そして、天からのこの礼を注ぎ、また私たちも新たなるあなたの命をいただいて、ここを出ていくことができるように。
主をどうぞこの礼拝を祝し、私たち一人一人を導いてください。
今日も見言葉を待ち望んでいます。
どうぞ見言葉を通してあなたの御心を今日も語ってくださるように。
この暑い中でありますけれども、それにもまして一人一人があなたを慕う思いが、
今日こうしてこの礼拝を捧げる思いへと高めてくださったことをありがとうございます。
賛美にありましたように、ふるさとへ帰るのだと、私たちはそれぞれの生まれたところ、また家族のいるそのふるさとへと帰ったものであります。
しかし、今もう一度私たちの魂のふるさと、そして天を仰ぎ見ながら、
今日もあなたを心から拝していただく見言葉に聞き入ることができるように助けてください。
09:04
私たちが望む何よりも素晴らしい天皇御国を目指して、また今日から新たな思いで一歩一歩会いませてくださるように。
自分では歩めないところも主が伴って支えて、そして全てを導いてくださるようにお願いいたします。
私たちの信仰をもってこのお方を信じて、委ねて会いませていただけるように。
また見言葉は我が足の灯でありますから、私の行く道を照らして、そして正しきに導いてくださるようお願いいたします。
ただ今からのこの見言葉の時をも祝福してくださるように、
今日ここに集えたことを心から感謝するとともに、
夜明けを覚えて、あるいは何かの事情でここに来れなかった兄弟姉妹方も、
どうぞあなたがその場にあって臨んでくださるように、
今日もたれる日本全国の世界中の礼拝が主の礼に満たされ、
恵みに満たされて祝福されるように、イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
読んでいただきましたマルコの夜福音書の8章の31節から38節まで読んでいただきました。
以前にも申し上げましたように、私たちが本当は大切なもの、必要なものなんですが、
案外そういうものは日頃意識していない、当然のこととしてそこにあるということでありました。
今日のテーマのこういう命ということもそうだと思うんですね。
朝起きて、そして今日も生きているなとか、そういうことは意識しないで、
今日与えられているその一日を淡々と過ごしている。
しかしそれは本当は、今日のタイトルにありますようにかけがえのないものなんだ。
本当に大事な大切なものだということを、改めてそういうものを考えるひとときというのを持てるということは幸いだと思います。
聖書のこちらこちらを開きますけれども、聞いていただいたらいいかと思います。
三十一節から読んでいただきましたが、二十七節、少し前の二十七節から見ていきたいと思います。
と申しますのはこの八章の中には、イエス様が語られたお言葉の本当に大事な大切なものが凝縮されている。
どの言葉も大切なんですけれども、特に私たちの信仰という面において非常に重要な言葉を数々語られています。
12:08
それを今日一回で語るにはとにかくもったいないというぐらいのものであります。
まず最初に二十七節、それからイエスは弟子たちとピリポカイザリアの村々へ出かけられた。その途中イエスは弟子たちに尋ねて言われた。
ここにありますようにイエス様と弟子たちとの会話の中でこの話が進められているということであります。
弟子たちというのは私たちとも重なるわけですけれども、弟子たちが答えたその言葉の中にも数々のメッセージが込められている。
それに応答されたイエス様のお言葉、それを今日見ていきたいと思います。
イエス様が弟子たちに尋ねたとあります。人々は私を誰だと言っていますか。
この時までイエス様は弟子とともにいろんな村、町へ行ってはそこで癒しをしたり福音を説いたり、さまざまな言葉と行いをしてきた。
そして今日この時弟子に尋ねたとあるわけです。
弟子もいろんなことをイエス様と行動を共にする、信職を共にする中で、人々との関わりの中でいろんなことを耳にしたり目にしたりしたわけですが、そういう中で人々はこの私を誰だと言っていますか。
弟子たちは答えた。バプテスマのヨハネだと言っています。あるいはエリアだという人もいますし、また預言者の一人だという人もいます。
これが弟子の答えです。そういう答えに対してイエス様が返された。もう一度尋ねられた。ではあなた方は私を誰と言いますか。
なるほど。人々の私に対する見方というのはわかった。あるいは弟子たちに言われなくてもそういうことをイエス様も耳にしていたでしょう。
でもイエス様が聞きたかったのは弟子たち、あなた方は私を誰と言いますか。その問いに対してペテロ、一人の弟子であるペテロが答えていった。
ペテロ個人の答えとも言えますけれども、あるいは弟子全体の代表として彼が答えたとも考えられるわけですが、あなたはキリストです。
15:00
あなたはキリストです。これは大変重要な言葉であります。ペテロはそこまで意識したかどうかわかりませんけれども、あなたはキリストです。
これはおそらく当時の彼らを取り巻く宗教信仰の世界、そういう中で行天するような言葉と言ってもいいぐらいの驚くべき言葉です。
キリスト、それは旧約聖書で予言されていた油注がれた者、メシアという救い主のことであります。
イスラエルの民はその長い間その救い主、いわゆるメシアキリストを待ち望んでいたわけです。
今来るか、今来るか、今日だろうか、明日だろうか、それを彼らは待ち望んでいる。
そのキリスト、それがあなたです。イエスと言われるそのイエス。あなたが、その私たちが、イスラエルの民が待ち望んでいたキリスト、あなたがキリストですと、このペテロは答えたんです。
いわば、このあなたはキリストですというのは、ペテロをはじめその弟子たち、そしてこの救い主を待ち望んでいた人たちのまさに信仰告白であります。
あなたこそイエス様、あなたが私たちが長い間待ち望んでいた救い主キリストですと、こう言い放ったわけです。
私たちも今日、このことを信仰告白しながら、この信仰生活を続けさせていただいている。
あなたはキリストですとなっていますが、あなたというのはイエス様のことですね。
ですからイエスはキリストです。これが信仰告白。キリストは他の誰でもない、あなたイエスがキリストです。
ですから聖書の中にイエスキリスト、キリストイエスとも書かれるときがありますが、イエスキリストというのはこのことなんです。信仰告白です。
山田太郎のようにイエスキリストではないんです。イエスは救い主、それがイエスキリスト、あるいはキリストイエスというのは救い主はイエスですということですね。
ですから大変なことをペテロはここで答えたということ。
18:00
私たちも常にイエスキリストという場合に、イエス様こそが救い主、イエス様こそが私たちのメッシャー、油注がれたもの、そういうものであるということを信仰告白として捧げているんだということをここから覚えたいと思うんです。
そして三十一節、それから人の子は必ず多くの苦しみを受け長老、歳死を立法学者たちに捨てられ殺され三日の後に蘇らなければならないと弟子たちに教え始められた。
それからイエス様は今度また大変なことをおっしゃったんです。
人の子、これは自分自身のことをこのように表現なさるわけですが、人の子、すなわち私、あるいは救い主であるキリストとなる私自身は必ず多くの苦しみを受けます。
これは弟子たちに言っているんですが、弟子たちはイエス様が何をおっしゃるんだろうと耳を傾けているんですが、多くの苦しみを受ける。
二つ目に長老、歳死を立法学者たちに捨てられる。そして三つ目に殺されます。そして四つ目に三日の後に蘇らなければならない。
そういうことを弟子たちにおっしゃったわけです。
弟子たちにとっては苦しみを受ける長老立法学者たちに捨てられる。
時々そういう人たちがイエス様に批判をしたり、イエス様を攻撃しているそういうことも一緒に生活をしていて、何となくわかる。
それはいいとしても、それが殺されるということ。殺されるだけではなくて、その死んだ後に三日目に蘇らなければならない。
こういうところに来たときに、弟子たちにとってはあまりにも突拍子もない、あまりにも驚くべきことを言われるものですから。
逆に何のことなのかわからない。そういうようなことではなかっただろうかと、そう想像するわけです。
イエス様の受難とそして復活の予言に当たるそのお言葉なんですが、このお言葉はここだけではなく、また何度か繰り返されるんですが、この箇所はこのことを初めておっしゃった箇所であります。
21:01
私は苦しみを受け、そして殺され、そして三日目に蘇ります。そういうことを弟子たちにおっしゃったわけです。
ですから弟子たち、あるいはここではペテロが代表して出てきますけれども、彼はイエスを諌め始めた。
イエス様、何をおっしゃるんですかというようなことだというわけですね。
あなたが捨てられる、そして殺されるなんて、そんなことがありましょうか。あるいは三日目に蘇るなんていうことは、一体それは何をおっしゃっているんですか。
そういうことをペテロは言ったわけです。その箇所を、同じことを言っているマタイの福音書、マタイの福音書ではこのように書いてあるんですが、するとペテロは、マタイの十六章の二十二節なんですけれども、
するとペテロはイエスを引き寄せて、イエス様、イエス様と諌め始めた。主よ、神の御恵みがありますように。そんなことがあなたに起こるはずはありません。
ペテロという人の人となりがわかるんですけれども、いわば自分の思ったことをはっきり言う人でしょうね。そんなことがあなたに起こるはずはありません。
この気持ちはわかるわけですけれども、それに対してイエス様がどうおっしゃったか。
さがれサタン、あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。ペテロが言った言葉なんですけれども、イエス様にすればこれはサタンがペテロを通して言わしめている。
ですから、このサタンに対して引き下がれ、黙れサタン、そういうことをおっしゃったわけです。マタイの福音書では、さがれサタン、あなたは私の邪魔をするものだ。サタンよ、私の言葉の邪魔をするな。
私たちはすでにこのイエス様は神の子として、そして私たちはイエス様の言葉を神の言葉として受け止めているということは当然のことなんですけれども、弟子にとってはまだそういう意識がなかったのでしょう。
イエス様が自分は殺されたり、また死んで三日目に蘇るというようなことをおっしゃるものですから、そんなことは起こるはずはない。そんなことを言ったわけであります。しかしそれは、神のことを思わないで人のことを思っている。
24:12
イエス様の口から出た言葉は全て神から出た言葉、神の言葉であります。しかしそれを神の言葉として聞かなかったペトロは、人間的な思いで、そんなことはないですよ。イエス様はそう言いますけれども、殺されたり、あるいは三日目に蘇るなんて、どうしてそんなことをおっしゃるんですか。
イエス様はそのことを逆に今しめたわけであります。さがれサタン、あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。人間的な思いでそのことを受け止めて、そのように返事したペトロに対して、そのように言われたわけです。あなたは私の邪魔をする、御言葉の邪魔をするものだ。そのことをおっしゃったわけですね。
ペトロという人がここに登場しますけれども、ペトロは弟子の代表でもありますし、時として私たち信仰者の代表のような形で登場してくださってありがたいなと思うんです。
ペトロは先ほど素晴らしい返事をしました。私を誰だと思うか。あなたこそキリストです。私たちが待ち望んだイエス様、あなたこそ救い主です。メシアです。そう言ったペトロ。
その同じ口からイエス様がおっしゃったその言葉に対して、「いえいえ、そんなこと起こるはずありませんよ。何をおっしゃるんですか。」そういうふうに言うペトロ。それはまた私たちのことでもあるわけです。
イエス様、あなたこそ救い主、そしてあなたは救い主、私たちを救ってくださる素晴らしいお方、神です。そう信仰告白を私たちもするものであります。そしてこのお方はどんなことでもできる力があり、また天地創造者のその作り主である。
どんな人も救ってくださるそういうお方である。その信仰告白をした同じ口があるときには、「こんなことは神様だって無理ですよ。そんなこと起こるはずがない。できるはずがない。」そう思ってまた口をついて出てしまう。
27:11
そういう弱さが私たちにあるわけです。
ですから私たちも、私たちのそういう信仰な思いが来たときには、「主よどうぞ私を憐れんでください。またあなたを信じる信仰へと導いてくださるように。」そのように素直に祈ることをさせていただけたらと思うんですね。
そしてイエス様は続いてこのように言われたわけです。
三十四節、それからイエスは群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて彼らに言われた。
誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追い、そして私についてきなさい。
この言葉は皆さんも安詳聖句とかで覚えて、そしてこの御言葉に励まされたり、いわゆる導かれてきた方も多いと思うんです。
しかしもう一度私たちはこの御言葉をかみしめながら、自分自身でもう一度振り返ってこの御言葉を味わうとともに、これは一体私たちに今日何を語っているんだろうか。
もちろん仲介書を見ることもいいでしょうし、説教者の話を聞くこともいいでしょう。
しかしそれとは別に、また自分自身でこの御言葉と相対して、そして直接この御言葉から私に主は何を語っておられるんだろうか。
あるいはそれに対して自分はどう応答していくのか、そのことを考えるときとさせていただきたいと思うんです。
イエス様が群衆、そして弟子たちに言われた。
誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を追い私についてきなさい。
誰でも、ですからこの言葉は全ての人に投げかけられているということ。
決してある一定の特定の人だけではなしに、誰でもということをイエス様はまず言われたんです。
誰でも、どんな人でも私にこのイエスについてきたいと思うなら、思わなければついてくることもないでしょうし、
まず大事なことは私についてきたいという思いが湧いてきたならば、私についてきなさい、そのようにおっしゃったわけです。
30:07
もしついてくるというならば、まず第一に自分を捨てなさいというわけです。
自分を捨てる、自分を捨てる、自分を捨てる。イエス様についていきたいと思うなら、自分を捨てる。
自分を捨てるとは何なのか。何かいらないもの、ごみを捨てる。そういうものでもない。自分を捨てる。
仲介書を見ますと、そこには事故を否定することだと書いています。
私たちが覚えておかなければならないのは、仲介書というのはあくまで参考書です。それを書いた人の一つの思いとして、こういう解釈があります。
こういうふうに考えていますという、その人の思いがそこに込められているわけです。参考書であって決してそれは答えではありません。
その仲介書には事故を否定することだと書いてありました。事故を否定する。でも自分には自分という存在がある。
この私にしか与えられていないそういう存在と、そしてその尊いものが一人一人に与えられている。
それを否定するということは本当にそれでいいのだろうか。やはり自分は自分として与えられている。むしろ自分を肯定するということも時には必要。
時には、あなたはこれをどう思っていますか。人は、それこそイエズス様が言われたように、人はどう言っているか。それはわかった。ではあなたは私のことをどう思っているのか。
ペテロが言ったように、私はあなたこそキリストだと思っている。その私という自分の考え、あるいは自分の価値観、そういうものをしっかりと持つということ、それは大事なことでありますし、
自分の生き方、あるいは自分はこういうふうにしてこれから生きていこうといういろんな面で、やはり自分というその存在と、そして自己というそれを尊いものとする。
でも、自分を捨てて私についてきなさい。でもその仲介書に書いてある自己を否定するということもわからなくはない。それは何を言っているんだろうか。
33:16
イエズス様についていく、従っていくというときに、もちろん自分の考え、自分の価値観、自分の生き方、そういうものを尊いとしながらも、イエズス様が行かれようとするとき、あるいはイエズス様の持っておられる御国への福音とか価値観とか、そういうもの。
そういうものに私がついていくとするならば、ときとしてこのイエズス様に自分が合わせて行かざるを得ないようなところがあるのではないか。
あるいは、自分というものを置いて、このイエズス様に従っていく、合わせていく。私にイエズス様が合わせてくださるということはまずないわけです。私がイエズス様についていくわけですから、従っていくわけですから、私という存在も尊いとしながらも、このイエズス様に自分が合わせていくという。
そういうものがなければ、ついてはいけない。イエズス様についていくと言いながら、いや自分が、自分が、自分が、自分が、という。それであっては到底、このイエズス様に従っていくことはできない。
そういう中でイエズス様は、私たちの存在も、私たちの価値観も、私たちの考えも尊いものとしてくださりますし、しかし根底には、このイエズス様についていくときに、自分の自我のような、あるいは自分のわがままのような、そういうものを前面に出して、いやイエズス様そうおっしゃいますけど、でも私は。イエズス様はそういうふうに言われるけど、でも私は。
それではイエズス様に到底、ついていくことはできない。そういう意味で、自分を捨てなさい。捨てなければ、ついてくることはできない。
いわば、私というそういう一つの生涯、それを船に例えるならば、この私の生涯という船の舵取りを誰がするのかということですね。私の生涯、私の与えられた一生だから、私がハンドルを取って、そしてイエズス様をお乗せして、そして私の行きたいように行くのだ。
そうではない。私たちがイエズス様についていくという時に、この自分を捨てというのは、イエズス様にその舵を任せて、イエズス様が右に行かれようとする。
36:04
これが幸いなのだ。あるいはこれが天に行く道のりなのだとおっしゃれば、もうそれをイエズス様に委ねていく。私の生涯というその船をイエズス様にお任せして、そしてその中でイエズス様と共に歩んでいこう。
それが自分を捨てて、そしてこのイエズスに従っていく、ついていく。それも一つだろうと思うんですね。皆さんは皆さんで、自分を捨てて私についてきなさいということを、どのように皆さんに語っておられたのでしょうか。
では、今日もう一度そのことを改めて考えてみていただきたいと思うんですね。私はイエズス様に従ってきた。あるいはこれからも従っていこう。その時に自分を捨てるという、それは一体どういうことなのか。
そしてもう一つが、自分の十字架を追って私についてきなさい。これも考えれば考えるほど何か深いことを考えさせられるわけです。もっとわかりやすい言い方はなかったんだろうか。私についてきなさい。こういうふうにしてついてきなさい。そういう言葉ではなくて、自分の十字架を追って私についてきなさい。
そのようにおっしゃったわけです。これもちょっと戸惑ったので、仲介書を見ましたら、その仲介書は死を覚悟してついていくということだと書いてありました。
でも私たちがイエズス様についていきたい、ついていこうと思った時に、イコール死というものを覚悟しただろうか。この死を覚悟するということもわからなくはない。覚悟する何かの決心ですから、今日からイエズス様に従っていこう。この方を私の死として信じていこうという決心、覚悟というのはわかりますけれども、
それがイコール死をも覚悟する。自分がイエズス様に従って死ぬんだと。そんなことを思っただろうか。もちろんこの福音書を読んでいたり、あるいは私たちの教会の歴史、あるいは私たちの世界の兄弟姉妹方のことをもって殉教というようなことは確かにありました。
しかしそれは最初から私たちがそういうものを求めて目指してやっているわけではなく、そういう流れの中でそういうこともあったでしょう。もちろん中には死を覚悟して、そしてイエズス様に従ったという人もいますけれども、すべての人に対してイエズス様に従っていくなら、死をも覚悟しなさいということをイエズス様はおっしゃっておられたんです。
39:19
それならばそれで私についてきたいと思うなら、死をも覚悟して私についてくるんだぞとおっしゃったはずであります。しかしそうではなく、自分の十字架を追って私についてきなさい。
私たちはイエズス様に従おうとしたとき、死というよりもむしろ生きるということに重きを置いて従ったはずではなかったか。もう魂が死んで滅びに行くしかない。もう中にはこんな生涯、自分の生きている。もうどうしようもない。つまらない。
それこそもう死んだ方がましだ。でもこのイエズス様に出会って、この福音を聞き、このイエズス様の命をいただいて、さあもう一度自分は生かされている。生きていくんだ。これからイエズス様とともに生きていくんだ。そういうふうに考える人の方がむしろ多いわけでありますし、そのことをイエズス様は言っておるに違いないと思うんですね。
死を覚悟するというのはもっともっと別の次元のことであって、イエズス様が自分の十字架を追って私についてきなさいという、ここはまたもっと広く深い意味があるのではないか。
ここに自分の十字架を追ってとありますから、人には人の十字架というのがあって、そして私には私の十字架があるんだ。そういうことも考えられるわけです。
十字架というのは死刑の道具ですから、こういうものは誰だって追いたくないわけです。しかし自分の十字架、人は人の十字架として、自分に追わされるもの、イエズス様に従っていくというときには、自分が何か追いたくはないけれども追わなければならないことがある。
追わされるようなこともありますよ。そういう意味での覚悟をして、あるいはそれを喜びとして、そういうものを自分も知った上で、それがむしろ私にとっての幸いである、そういうものをきちっと整理して、そして私についてくるんですよ、自分の十字架。
42:03
十字架というのは罪を犯した人が処刑されるということを意味している。
罪深いものをイエズス様が救ってくださった。本来なら自分は十字架を追わなければならない罪人なんだ、そういう自分なりのきちっとした覚悟と、そしてそういう認識をもってこのイエズス様に従っていく。
そういうことでもあろうかと思うんです。自分の十字架を追って私についてきなさい。そういうことをもう一度群衆に語り、また弟子たちにもそのことを語って、そして今日のイエズス様に従っていく私たちにも改めて今日このお言葉が語られているわけです。
誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追い、そして私についてきなさい。そしてもう一つのことなんですが、この命というテーマであります。これは非常に重いテーマであります。
ですからこれを簡単に語るということはできません。ですから本当に精霊の導きなしには語れないと思うんですね。ですから皆さんもどうぞこの命ということを改めて考える、そういうときを持っていただきたいと思うんです。
この短い時間の中で語り尽くせませんし、これは私たちのいわば永遠のテーマであろうかと思うんです。
命とは何なのかという、そういうところから入らなければならないんですが、人を生かしめている力のようなもの、あるいは私たちが生きている時間ともいえます。
あるいはその人の存在そのものが命。それは医学的に見る命もありますし、私たちはすでに信仰者として永遠の命という、そういう命、それも命です。私たちはいろいろなことを命という一つの言葉に対しても持っているわけです。
45:10
ある歌にこういうことがありました。ずいぶん昔の歌なので、知らない方はそのまま聞いてくださったらいいんですが、君こそ我が命。
我が命って知っておられますか。君こそ我が命。あなた、あなたに対してですね。男性が女性に対してでもいいですし、女性が男性に対してでもいいですが、君こそ我が命。
これは何を言っているのか。要するに君がいなければ私はもう生きていけない。あるいは君がいてくれるから私は生きていけるんだ。それほど大事なもの、あるいはかけがえのないものとしてのそういう思いを歌にしたときに、君こそ我が命という、そういう言葉が出てきたんだと思うんですね。
そういう意味でこの命というものが大事なものであるということを否定する人はいないと思うんですね。これは私たちの生きているという意味での命もそうですし、聖書の言う永遠の命という、そういう命、どちらでもいいですし、両方でもいいかと思うんですが、
ではなぜその命が大事なのかということなんですが、一つはそれは神様がつくられたものであるから大事なのだということ。
いわゆるその命、与えられているということでもいいですし、私たちが今持っているその命というものが、誰がつくり誰が与えたのか、そこがポイントなんです、ということですね。
そのつくったお方、あるいはそれを与えてくださっているそのお方が偉大なお方、そして素晴らしく尊いお方である、そのお方によってつくられたもの、与えられたもの、だからその命は大事なのだ。
私が何か作ったり作品を作ったり、あるいは絵を描いたとしても、もうそれは邪魔になるだけで捨てられるわけです。
しかしその作った、例えば彫刻にしろ、その描かれている絵にしろ、それがレオナルド・ダビンチが描いた絵、あるいはピカソの描いた絵、そうするならば多くの人がそれを尊いものとして、価値あるものとして、そしてそれを大事にして、そうするわけです。
48:10
結局はその描かれている絵の絵がどうとかこうとかいうよりも、誰が描いたのか、誰がつくったのか、そこを人々は見ているわけですし、そこに思いを寄せたときに、これはあの人が描いた、あの人がつくったものだということに価値がある。
ですから私たちの与えられている命、これは神によってつくられ与えられたものだとするときに、この命というものは尊いものであり大事なものである。
もう一つはなぜ命が大事なのか。それは限られた命、永遠の命ではなくて私たちが今与えられているこの命、人の命。
それはこの地上にあって限られている、それは寿命というものを通して言いますと70年でしょうか80年でしょうか90年でしょうか、そういう限られた時間の中で生きる命として尊いわけです。
これがそれこそ何百年も続くとするならば、そんなに人々は価値あるものとはしないかもしれない。しかし私たちのこの世で生きる命というのは限りがあるんだ。
もう一つはなぜ命が尊い、なぜ大事なのか。これはこの世にたった一つしかないということにおいて尊いわけです。
これは言わずもがな、二つとないもの、それこそが大事。変わりがないという意味でかけがえのない命、そういうものを私たちがお互いに意識するときに、それが自分の命であったり人の命であったりそういうことを考えるときに命というのは大切なもの、尊いものなんだという思いが芽生えてくるわけであります。
イエス様は全世界を手に入れても命を尊じたら何の徳がありましょうか。この命というのは全世界、みんなが欲しがる全世界、全てのものを自分の思い通りになる、そういう全世界、それを得ても命を尊じたらその全世界を手に入れたというのは何の価値もないし何にもならない。
全世界があって命があるのではない。まず命や力、命があってこその全世界でありますし、たとえ全世界でなくても、まず命が尊いのだ、この命があってこその話なのだという、そういう意味で何よりも尊いものが命。
51:12
一つとしかないその命、それが大事なんだ。自分の命を買い戻すために人は一体何を差し出すことができるでしょう。何を差し出してもこの命は買い戻すことはできない。それはかけがえのない、一つしかないからである。
そのことを、イエス様は私たちに今日語っていただいてくださり、この与えられている命、人の命、ですから十回の中の一つ、殺してはならないという、短いフレーズですけれども、それは今言ったようなこの命ということを言っているわけです。
殺してはならないというのは人の命が尊い、大切なもの、神からのもの、限られたもの、かけがえのないものだから、その命を奪ったりしてはいけない。人の命を奪ってはならないし、また自分の命をも奪ってはならないんだ、そのことを言ったわけであります。尊い命。
8月、もう時間ですね。私たちはこの二つとないもの、それを失えばもう取り戻すことはできない、それほどに大事なもの、ですからイエス様は今日もう一度私たちにもこの言葉を語ってくださった。
誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を追って私についてきなさい、このことと、たとい全世界を得ても命を損じたら何の得がありましょう。人の命を買い戻すために、人は一体何を差し出すことができるでしょう。何も差し出すことができないほどの尊い命なのだ、そのことを覚えて、これからもお互いに助け合い、励まし合い、与えられたこの命を全うしていきたい。
お祈りをいたします。天の神様、今日は御言葉を通して、重いテーマですが、命について考えるときを与えられ感謝をいたします。私たちがもう一度イエス様に従ってきたそのことの意味と、私たちがそこに思うその思いを改めて確認させていただき、自分を捨てるとは、自分の十字架を追うとは、何のことでいいのか。
何のことでしょうか。もう一度静まって、そしてこの方に従うことの幸いと、そして必ずそこに神様が私たちを良きに導いてくださるその道があるということを、もう一度改めて思うときが与えられますように。
そしてまたお互いの命を大切にしながら、尊いものとして、そしてこの世に生かされているときのこの命をそれぞれに支え合いながら生きていくことができるように。
54:15
さらに深く、さらに望んで、永遠の命にも神様が私たちを導いてくださることを覚えて皆を崇めます。どうぞ全ての人がこの世で幸いを得て、また天のふるさと、永遠の命をいただくことができるように、一人一人をお導きくださるように、イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします。
アーメン
54:49

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