1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/08/26:聖日礼拝(旧音源)
2012-08-26 50:04

2012/08/26:聖日礼拝(旧音源)

2012/08/26 聖日礼拝(旧音源)


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御着席ください。聖書朗読を、淵田兄弟にしていただきます。
聖書の箇所は、マルコの福音書、9章の1節から8節までです。
新約聖書、後ろの方ですが、新約聖書82ページです。
では、お願いいたします。
お申し上げます。
イエスは彼らに言われた。誠にあなた方に告げます。
ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。
それから6日経って、イエスはペトロとヤコブとヨハナだけを連れて、高い山に導いていかれた。
そして彼らの目の前で、見姿が変わった。
その身衣は非常に白く光り、世の晒し屋ではとても出来ないほどの白さであった。
またエリアがモーセと共に現れ、彼らはイエスと語り合っていた。
するとペトロが口出ししてイエスに言った。
先生、私たちがここにいることは素晴らしいことです。
私たちが幕屋を三つ作ります。
あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリアのために一つ。
実のところペトロは言うべきことがわからなかったのである。
彼らは恐怖に打たれたのであった。
その時雲が沸き起こって、その人々を追い、雲の中から、これは私の愛する子である。
彼の言うことをお聞きなさい、という声がした。
彼らが急いであたりを見合わすと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、そこにはもはや誰も見えなかった。
以上です。
聖火隊の賛美、新聖火の470番を賛美していただいた後に、内田牧師から輝く栄光の姿と題してメッセージをしていただきます。
おつかしにすわり 光るもとの果てに
そこに嵐が立つ 暗き夜も同じ
03:07
やがて わらすの果てに
友達はすでに そこに行けばいい
愛しおいてついに 会いに帰るまで
明日の果てに
悲しみはあらず 歌はたちびてに
救い主は 国の主だれか
やがて わらすの果てに
この世は猿に 人は知らずさえは
救い主であれに どう嘘がれせよや
やがて 上りゆかる
06:10
わらすの果てに
皆さんおはようございます。
プログラムの一つ一つが祝福されていますことを感謝をいたします。
御言葉をいただく時が来ましたので、一言お祈りをして今日の御言葉をいただきます。
さあ主に向かって喜び歌おう 我らの救いの岩に向かって喜び叫ぼう
感謝の歌をもって御前に進み行き 賛美の歌をもって主に喜び叫ぼう
恵み深い天の父なる神様 あなたを心から賛美いたします
私たちが今日ここにあるのはすべて主の憐れみとまた許しと御愛のゆえであることを
今一度覚えて皆をあがめます 心から精一杯の賛美をあなたに捧げます
感謝をもってあなたをあがめまた御前に進み出ています どうぞ一人一人をあなたが今
支えてくださりそして 今日でなくてはならないあなたからのお声を御言葉を聞くことができるように一人一人を支えてください
やがてやがて上りゆかん 我も我が家我が家我が家と我が住むをまてりと私たちの目指すべき天の御国を今日も覚えて
御言葉を通してあなたの教えをいただきさらに私たちが信仰を 強めていただいて
熟べき 私たちの天のふるさとを目指して歩んでいくことができるように
どうぞ今日集えましたお一人お一人をあなたが支えて伴って導いてくださるように お願いをいたします
今日も暑い中でありますけれどもあなたを主体求めてここに 登ってこられたお一人お一人を今あなたが祝福してくださるように
また夜明けを覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方 あるいは何かの避けられない用事で
来ることができなかった兄弟姉妹方もどうぞ あなたが覚えてくださりその場にあって主を
あがめまた賛美礼拝することをさせてくださるようにお願いをいたします また来たるときにはともにあなたを心から礼拝できますように助けてください
今日も 御言葉をいただきます御言葉に託されたあなたの身胸とまた見思いを私たちが悟ることが
できるように 罪に満ちたこのようでありまた私たちのうちにあるその罪をあなたはご存知であります
09:07
どうぞその一切をあなたが 美好イエス様を通して流された恩父主よによってあらいきをめてくださるように
またそのことを覚えるために私たちが今日しっかりと十字架を合うことができます ように助けてください
今からの御言葉の時どうぞ主が 全てを導いてくださるように語るものを哀れんで最後まで支えてください
イエス様の尊い皆によってお祈りをいたします アーメン
聖書には色がある と
いうと皆さんはどう思われますか聖書に果たして色があるでしょうか 白い紙に黒字で書いてあります
しかし これは英語の訳の聖書なんですが
この聖書は 白字に黒い文字そしてイエス様が語られた言葉
イエス様ご自身が自分の口で語られた言葉のみをこの 赤字で書いてあるそういう聖書があるんですね
こういう聖書はこの色があると 言えるかと思うんですが
なぜかと言います今日の御言葉の中に それから6日経ってイエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に導いて行かれた
そして彼らの目の前で見姿が変わった その身衣は非常に白く光り
世の晒し屋ではとてもできないほどの白さであった ここに
白くあるいは白さという 色があるわけですね
聖書のお言葉の中にこの色が出てくるということ そういう意味で聖書には色があるんだなということを私たちは
もう一度覚えたいと思うんですね イエス様がこの世に来られた
その理由はこの聖書の中にあるわけですけれども 医者を必要とするのは
健康な人ではなく病人である 私が来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くために来たのです
そうおっしゃった イエス様ですありますけれども
イエス様が 人を救うために罪から救うために私は来たのだ
その罪という 私たちのこのイメージ
12:00
それを色で表すと 何色でしょうかそれは
黒ですね黒 これもまたこれは聖書ではないんですけれども
いわば 聖書の真理を表している一つの本であります
罪というものを色で表すならそれは黒です
それは暗闇であったりあるいは暗黒と言われるような罪の世界
それを表しているわけですね私たちの心が罪で穢れている
それを黒で表すそこには希望がない 目の前がもう真っ暗であるという心の状態を表すときにこの黒を表す
試合で負けるとそれは黒星ということですね そういう意味でもあろうかと思うんです
黒でいいというのは 経営が黒字だというそれぐらいではないでしょうかね
ほとんどマイナスのイメージ
それは全てこの黒で表されるですから 罪それは黒である
その罪を黒い罪をイエス様が
そこから人を救おうとするために来てくださった それではイエス様は何によって私たちの
暗い心の罪を
罪あるその心を救ってくださったのか それはイエス様が流してくださった血潮によって救ってくださった
血とは どんなイメージですかそれは赤ですよね赤
そのイエス様が十字架を通して私たちに示してくださった神の愛 血を流すことによって
全人類の罪を身代わりに追ってそして十字架にかかって死んでくださった ただ死んだのではない
身を逆れ血を流してそして一切の人類の罪を 贖ってくださった
その血の色は赤であるということですね そしてその血によって贖われたこの暗い私たちの罪ある心は
白くなったという それが
今日も 聖書の中に見る白ということですね白
この白にもいろいろあるということを私たちは知っています 皆さんが着ておられるシャツを見てもそうですね同じ白でもいろいろある
15:05
しかしその白さはどんな白さであろうか 聖書の
中にはこのように書いてあるわけですが紙編の例えば紙編の51編の
6節7節聞いていただいたらいいかと思うんですが こういうことが書いてあります
あなたは私のうちに真実を喜ばれますそれゆえ私の心の奥に知恵を教えて ください
秘俗を持って私の罪を除いて清めてください そうすれば私は清くなりましょう私を洗ってください
そうすれば私は雪よりも白くなりましょう その白さは
あの冬の冷たい 吹雪の中で
降る真っ白な雪 私たちがこの都会で見るようなそういう雪ではない山奥の何の
汚れのないところで降る雪のことでしょう その真っ白な雪よりももっと白い雪のような
そういう白さ そういうふうにこの黒い罪が洗い清められると聖書は言うのです
伊沢の1章の18節でも このように書かれていますたといあなた方の罪が
火のように赤くても糸編に 火ですね
火のように赤くても雪のように白くなる 雪のように白くなるたとい紅のように赤くても羊の毛のようになる
伊沢はこの罪を 火とか紅というように
見たわけですけれども それが
雪のように真っ白な雪のようにあるいはその白な雪よりももっと白い そういう私たちの心にしてくださる全く清くしてくださる
そして私たちはやがてその白くなった心を持って神様のもとに行くことができる それが輝く栄光の姿として神様に迎え入れられるんだ
聖書はそのように言うわけです 私たちはそのように私たちの黒いその穢れた罪を
イエス様の自主を赤い自主によって清められてそして真っ白にしていただいて そしてやがて天の御国に迎えていただく
18:00
これが聖書の 言っていることであります
今日の御言葉の中にも イエス様のお姿が変わられてその
衣が見衣が 白くなった
この世の 何をもっとしても
例えることのできないほどの白さであった そのように書いてあるわけです
その白というのはもちろん罪から 贖い出された清い心も表しますが
それは 純潔であるとかあるいは
汚れのないことを表すときに私たちは白という 色をイメージするわけです
ですからイエス様にあってはやはり イエス様のぴったりくる色というのはやはり白ですね
その白の衣に身を包まれたイエス様が ここに登場なさっているわけです
イエス様は弟子たちを連れて高い山に導いて行かれた そして彼らの目の前でその見姿が
変わられた
いつも弟子たちが接しているイエス様ではない このときばかりはそのお姿が変わられた
それは栄光に輝いているお姿 そしてその身衣は非常に白く光り
世の晒し屋ではとてもできないほどの白さであった どんなものをもってしてでも
例えることのできないほどの白さ それがイエス様であったと聖書は言うのです
モーセという人が彼もシナイザンというところで 神に出会ったわけですが
そのモーセも神様に出会って そして山から降りてきたときに人々がそのモーセを見たときに
彼の顔が照り輝いていた そのように聖書は書いてあるんですね
神の栄光がモーセをそのように映し出していた
モーセは彼自身人間でありますから 自分自身が輝きを放つことはできない
彼の顔が照り輝いていたそれは神様とお出会いして 神様の光輝くその光を彼は一心に受けたわけですね
21:02
あるいは神様がモーセにその光を与えたと言ってもいいかもしれません
ですから自分では気づかないモーセでありましたけれども 山を降りていったときに人々がモーセを見たときにモーセは輝いていた
しかし イエス様ご自身は
そうではなかった イエス様は
ご自身が 栄光の姿をもってそして輝いておられた
それは イエスご自身が神であるから
その 一つの表しとして
モーセとエリアという人が
イエス様と一緒にいて語り合っていたと
マルコの福音書に書いてあるわけです 弟子たちがそのことを見たわけですが
モーセというのは
立法を 表してそして神様が立法を授かりそれを人々に示したそういう人でありますから
この立法
今でいう私たちのこの聖書でありますが 神様のお言葉を
このイエスとともにいてその立法をすべてこの
イエス様に授与する そういうようなことであったのでしょうか
あるいはエリアというのは預言者の中の預言者 預言者の代表としてのエリア
それが イエス様を
またともにいて支えている
多くの預言者が世に出ましたけれども このイエス様こそ
偉大なる預言者
ですからイエス様は3つの賢能があると言われています それは王であるということと
大祭司であるということと預言者であるということ その3つを備えているものとしてのこのイエスキリスト
それを表すために孟節が現れそしてエリアが現れ そして2人を従えたイエス様がそこにおられた
これは何よりも イエスこそがメシアでありイエスこそが救い主なのだ
そして王であり 大預言者でありそして大祭司である
そのことを この箇所で物語っているわけであります
私たちは今日の御言葉を通してこのイエス様というお方が どういうお方でありそして
私たちがこのイエス様を どういつも思ってこの方にいつも照準を合わせているかということを
24:07
問われるわけであります 私たちはすでに
私についていきたいと思うなら自分を捨て自分の十字架を覆って私に従いなさい そういう御言葉をいただきました
イエス様についていきたい そのためには自分を捨てるということはどういうことなのか
あるいは自分の十字架を覆って従うとはどういうことなのか それは一人一人が
首都の交わりの中で示されたことを そのまま行っていくということ
これは私たちの生涯の宿題でもありますし 私たちへの課題であります
そしてこのイエス様にそれじゃ 従ってきなさい私についてきなさい
それじゃついていくとはどういうことでしょうか
イエス様の行かれるところをただ いわば弟子たちがぞろぞろぞろとついていく
イエス様がこっちに行かれたらただついていく イエス様はあそこを曲がられたから私も曲がっていこう
そういうついてきなさい従ってきなさいということではないと思います
私に従いなさい私についてきなさい それは私から学びなさいあるいは私に習いなさい
そういう意味の私についてきなさい 私に従ってきなさい
私たちが尊敬する人あるいはこういう人になりたいな ああいうふうになりたいなと思うとき
それもまた一つのついていく 従っていくだと思うんですが
そのときに必要なことは何かというとそれは やはり自分の尊敬する人その人は会ったことがない
しかし何かの書物とかあるいは人の話を聞いたときに そのイメージを膨らませてあの人はこういう人だ
もちろん実際に一目でも会ったらそれは本当に確かなものですが
こういう人だこの人だこの人のようになりたい そしてその人と別れたとしても
自分のイメージの中にそれが鮮やかに残っている それを目標にしながらそういうイメージを常に抱きながら
その人に習っていこうその人から学んでいこう ああいうふうになりたいそういうふうに思うわけであります
ですから私たちも
27:01
イエス様に従いたいあるいはイエス様についていこう そういうときに必要なことは何か
それはイエス様のお姿を常に思い浮かべていくということ そのためにはやはり聖書をしっかりと読んでおく必要がある
福音書を読んでイエス様が場面場面でどういうことをおっしゃったのか どういうことをなされたのか
そのお姿をいつも祈りの中にあるいは目標の中に覚えながら 私もそうありたいそういうふうにできたらいいのに
それはなかなか困難な作業でもありますけれども それは私たちの生涯をかけてイエス様についていこうイエス様に従っていこう
イエス様から習おうイエス様から学びたい ああいうふうになりたいとそう決心したときから始まっている
生涯をかけての一大事業であります いわば私たちはイエス道を行くのだ
このイエスを極めるのだそういう思いで日々過ごしているわけであります そのためにはやはり聖書を読んでそして常にイエス様のお姿をイメージする
これは非常に大事なことであります 皆さんはイエス様のどんな姿を思い浮かべるでしょうか
今日の御言葉には彼らの弟子たちの目の前でその姿が変わった その衣は非常に白く光って世の晒し屋ではとてもできないほどの白さであった
それも一つのイエス様のイメージとして大切にしておかなければならない イエス様の本当に白い清い
穢れのないそういうお姿それに対して私は何と穢れた真っ黒な人間であろうか 寝がわくは主よイエス様のように清めてくださいそのためにはイエス様の
師匠が必要です十字架に私も つけられたと信じてこのイエス様の贖いを信じますと
そういうことを常に祈りの中で イエス様に申し上げていく
そうするとイエス様は必ずそのようにしてください イエス様のどんなお姿を思い浮かべるでしょうか
あらので イエス様は
40日40夜断食をなさって 過ごされたというそういうイメージが一つあります
これはサタンの誘惑を受けられてそして試みを受けられたわけです 本当にお前は神の子として
30:00
この福音宣教のそして罪の贖いとして救い主として 立てるのかと問われたときに
精霊が アラノに導いてそしてさらのサタンの試みに合わせなさった
私たちはそのイメージの中で 誰もいない
そして 岩でしょうか
ゴツゴツしたそういう何もない 時には風も吹く
水もない食べるものも何にもない 人の声も聞けないそういうようなところで
ただ神様と 相対された
そしてサタンの試みに
打ち勝った
そういうことを私たちは目想の中でイメージする 私たちもまた世にあっては様々なアラノと言われるような試みを受けることがある
その時に私もまたエスマと同じように今アラノに 試みを受けているんだ
しかしイエス様は御言葉を持ってサタンを知りづけ その
試みを打ち払われて勝利なさった 私もイエス様の助けとそして御言葉さえあればどんな
試練にも打ち勝てるのだ そのことを私たちは
思うことができる幸いがあります イエス様はある時
人々のたくさんおられるときにところに行きました アラノとはまた違ってそこには人がたくさんたくさんいるようなそういうところに
出て行かれるイエス様のお姿が浮かびます 時にはシナゴクというユダヤ人のたちの街道に入ってそこで神の国を
説かれた 時には外に出て行って山の上から
群衆たちの に向かってそして
幸いとは何か 生きるとはどういうことか
そういうことをイエス様は 説かれた
それは権威あるもののように語られたと聖書は書いている 私たちの目標の中で
どんなふうにイエス様は語られたんだろうか 時には声を張り上げて時には優しく語りかけるように
時にはユーモアを交えて人々を笑わせなさったこともあろうかと思います あるいは泣く者とともに泣きそして喜ぶ者とともに喜びながら人々との交わりを
なさっておられたそういうイエス様の姿
ある時には悪霊に取り憑かれて
33:03
希望のない 何の望みもない
自分が悪いのではないそのサタン悪魔が自分の中に取り憑いてそして 生きていても死んでいるようなそういう
生き方を強いられている人が見た時に人を見た時にイエス様は この者からサタンよしりぞけと悪霊を追い出された
そういうイエス様のイメージ 病んでいる人のところに行って手を置いて
この熱を癒され あるいは
雷鳴を癒され そして中部を癒される
そういうイエス様を私たちは 思い浮かべることができる
ある時 イエス様は弟子たちと一緒に船に
乗っておられた湖の中に 船を漕ぎ出して一緒に
そこに乗っておられた そこに突然嵐が吹き荒れてきてもう船は木の葉のように揺れて
弟子たちはもう溺れ死んでしまう 落ちて死んでしまうかもしれない助けてくださいイエス様
それぞれイエス様は友の方で寝ておられた そうだったイエス様はあの嵐の吹く
湖の上の船の中で寝ておられたんだな そういうことを私たちは聖書を通して知り
今もそのお姿が目に浮かびます イエス様あなたはこんな時によく寝ていられますねと
イエス様にとってはこの天地万物を作られた全てを作られた 父なる神様それは私の神でありこの方は大自然をもご支援なさっている
我が神である 私はまたその御子としての神として今ここにいる
その 大きな神様の御手の中に
いる私は どんな状況の中であっても平安なのですと
そのように様は弟子たちに言われたわけであります どんな状況の中にあっても平安でいることのできたイエス様を私たちがイメージする
これもまた幸いなことではないでしょうか ある時は男だけで5000人の人たちがお腹を空かしていた
ここにあるものは何か食べるものはないか ただ5つのバント2匹しのをしかありません
こんなものでどうして5000人 女の人や子どもたち
年配の人たちを含めて 食べさせることができるんですか
36:01
イエス様はそれを私に貸しなさい5つのバント2匹のを貸しなさい イエス様はそれを祝福されると
それを咲いて弟子たちに渡して弟子たちはそれを持って 男だけで5000人のすべての人たちのお腹を満たされた
5つのバント2匹のを祝福されているそのイエス様の姿 それを私たちはしっかりとイメージして
この方は神だ 私たちにはできないことも神はできるのだ
神がしようとすることはどんなことでもできる だからこそこのイエスは神なんだ
私たちはそれをしっかりと言う言葉から教えられたわけであります 時には自分のこれからの受難とそして復活の予言をなさったイエス様
最初弟子たちはその 自分は
殺されそして3日目によみがえる そんなことを言われた弟子たちは何のことをしちゃっているのかわからなかったでしょう
しかし繰り返し2度3度それを弟子たちに 悟すように語られているイエス様
その予言の通り イエス様はパリ裁備と最主張立法学者たちによって捉えられて
避難されてそして 捉えられたということ
もう イエス様を憎む者はたくさんいたわけです
私たちは イエス様という方は私たちの罪を救うためにあるいは人を癒すために悪霊から
解放するために来てくださった どうしてこういうイエス様を嫌う人があろうか
と思います しかし
このイエスを憎みそしてこのイエスを殺そうとした人が
いたということ これが世の常であります
すべて 良いことをする人そしてみんなのためにと思って
やる人はみんなから好かれるかというとそうではない むしろ妬まれそして
抹殺しようとする人がいるということ これが
世の中であり 私たちにとっては不可解なことであります
イエス様を取り巻く状況も同じでした
イエス様が来てくださったおかげで助かった そして多くの人が癒された
この人のおかげで というふうに感謝する人と
イエスが来たおかげで私の地位は危うくなった あいつさえいなければ
39:06
あんな奴はいないほうがいいんだ イエスの命を狙う人たちが
いたということも事実であります
そういう人たちに 命を狙われているイエス様のお姿
イエス様は決して逃げも隠れもいたしませんけれども
ただ自分の与えられた使命を全うするための その期間は必要であった
どんなお気持ちであったでしょうか 自分の命を狙われることの恐ろしさ
そのことよりもイエス様が心を痛められたのは どうして
この世にこんな罪があるのか どうして人々の心に
悪が潜んでいるのか そのことを心を痛められ
そして何とか人々からこの罪を 取り除いてあげなければ
そのために自分はこの世に来たのだ それが私は正しい人を招くためではなく
罪人を招いて 改めさせるために来たのです
これがイエス様の使命であり 目的であったわけですから
しかしいつも命を狙われているイエス様 いよいよ十字架にかかるということが決まった
その前にイエス様はいつも祈られている 月狭めという園に行かれた
そこでイエス様はそこにひざまずいて 祈られたということが聖書に書かれてあります
これから私は十字架に向かいます それはどんなに恐ろしいことでしょうか
今では十字架系というのはもう廃止されています それは余りにもむごいひどすぎる
もう見てはいられない あるいはその十字架にかかっている人が
その苦しさまの家に叫ぶその叫び声 人々はもう聞いておれない
この世で最も恐ろしい処刑の方法 それが十字架系であります
苦しめて殺すというそれが十字架系 人間としてそれは耐えがたいものであります
ですからイエス様は一心に祈られた
願わくはこの杯 人々の罪を負って自分が十字架にかかって罪を贖う
私が身代わりになってその十字架を負うという その杯は願わくは避けたい
42:07
飲まなくて済むようにと願います しかし父よあなたのそれが御心であるならば
私はその杯を飲み干します
その祈りを何度も何度も繰り返された
もう汗が血のように滴り落ちる そのように書いてます
どんなに苦しめられたのか 私たちは
時にはその月せまねで祈っておられる イエス様のお姿を思い浮かべて
この私の罪のためにイエス様はどれほど苦しんでおられたのか
そしてその後
イエス様は十字架を 背負いなさるわけです
もちろん裁判にかけられてそこでは無知を打たれて
そして身を裂かれ 血を流して
そして ビアドロローサ
柔軟のこの道を十字架を追いながら担ぎながら カルバリーへと向かわれた
そういう私たちは イメージを持つそういう姿を私たちは直に見ることは許されなかった
しかし私たちは福音書を通して それをしっかりと読むとともに
瞼に焼きつけることはできる 黙想しながら祈りながら
イエス様が十字架を背負って カルバリーに向かわれるそのお姿
そしてやがて 十字架につけられていくそのイエス様を私たちは
イメージすることは 大事なことであります
それがまた私たちの信仰でもあるわけです
何の罪もない神の御子イエス様 そのイエス様が十字架に釘打たれて
そして 頭には茨の冠をかぶせられて体中は血まみれ
鞭打たれた傷があちこちにあって そして周りにいる兵隊たちはあらん限りの言葉で罵る
中には椿をかけるそういう人たちもいたということ
その様子を その時からすでに700年も前に イザヤが予言していた
イザヤは やがて来られる救い主は
こういうお姿で十字架にかかられるということを 予言したということですね
イザヤの信仰の中には祈りの中に 黙想の中にはその救い主の姿が
45:03
鮮やかに目に浮かんでいた それを彼は記したわけであります
彼には私たちが見とれるような姿もなく 輝きもなく私たちが慕うような見栄えもない
イザヤ書の53章
彼は下げすまれ人々からのけものにされ 悲しみの人で病を知っていた
人が顔を背けるほど下げすまれ 私たちも彼をたっ飛ばなかった
私たちの背きの罪のために差し通され 私たちの罪のために砕かれた
彼は痛めつけられ 彼は苦しんだが口を開かない
ほふり場に引かれていく羊のように 毛をかる者の前で黙っている芽羊のように
彼は口を開かなかった
しかしそれは 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし
彼の打ち傷によって私たちは癒された
イザヤ様が十字架にかかることによって 私たちが心に平安をいただき罪許され
そして癒されるためなのだ
イザヤは鮮やかにその姿をすでに見ておった
このお方こそ誠の救い主
十字架の上で身を裂かれ そして体中血まみれになって
生き絶えなさったそのイザヤ様のお姿
それは人の目には ただただ無惨としか言いようのない
そういうお姿であります
しかし父なる神様の目には これほどの栄光に満ちた姿はない
全人類の罪を一心に受けて 背負って
そしてそのすべての罰を 身代わりに受けなさったイザヤ様
これは人間には到底できない 神にしかできないまさに神の技を
イザヤ様はそこで全うなさったということ
そこで神様の愛を イザヤ様は一心に表されたということ
十字架にかかることによって イザヤ様は身をもって
その神の愛を全人類に お示しになさった
その姿こそが 神の栄光そのものである
私たちはこのお姿を常に思いながら 十字架を仰いでいきたいと
そのように思うわけであります
お祈りをいたします
48:05
天の神様 御言葉を通して もう一度イザヤ様を仰ぎ見て
そして私たちが今ここに 許されておかれていることの
恵みを覚えて皆をあがめます
山に登ってイザヤ様のお姿が変わられ
この世では表すことのできない 真っ白な衣を着た
イザヤ様のお姿を思い浮かべることが できたことを感謝をいたします
それこそイザヤ様の 積み穢れのない神のお姿でありました
ここに神の栄光が表されています
と同時に十字架の上で 生き絶えなさったそのお姿
頭に茨の冠をかぶせられ
そこから吹き出る血によって 顔は血まみれであり
そして両手両足には太い釘が打ち込まれて
鞭で打たれたその傷で
みるもみざんむざんな その体は引き裂かれています
血まみれになって そして父よ彼らを許してください
彼らは何をしているのか わからないのですからと
一心に私たちの罪を許すために 祈ってくださったそのイエス様
常に私たちは思い浮かべながら また十字架を仰ぎながら
これからも会いませていただけるように
どうぞ私たちを哀れみ導いてくださるように
イエス様の尊い皆によって お祈りをいたします
アーメン
50:04

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