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みなさん、おはようございます。
今日も第一礼拝、朝9時に来ることはですね、
そういう用意ではないかもしれませんけれども、
今日もみなさん、この礼拝を求めてですね、
ここに集っておりますこと、
その神様の導きに感謝いたします。
今日も、主の御言葉を期待しつつ、
また心を悲曲してですね、お聞きしてまいりたいと思います。
今日は、イエス様のたとえ、私たちへの問いかけ、18回目です。
祈りのためのたとえ、という題でございます。
今日の18章のたとえはですね、
よく祈りのために読まれる、あるいはメッセージされる、
割とよく知られている箇所かと思います。
そこでですね、今日はこのイエス様が、
なぜこのたとえを話されたのか、
その深い意味を共に学んでいきたいと思います。
早速、1節を一緒に読みたいと思います。
2017でも、来3番でも、ぼっちでもいいですのでね、
一緒に読みましょう。
あるいは、前の字幕をご覧ください。
1節を一緒に読みます。
いつでも祈るべきで、
失望してはいけないことを教えるために、
イエスは、でしたまに。
アーメン。
1節だけですね。
さあ、そこを見ると、
いつでも祈るべきで、
失望してはいけないことを教えるために、
イエス様は、でしたちにこのたとえを話されたんですね。
ですから、このルカの福音書の著者、ルカはですね、
イエス様がこのたとえ話をなぜ話されたのか、
それが何のためなのか、その理由、目的をですね、
はっきりと書いているんですよ。
今まで、ルカの福音書とか、
他の福音書を見ると、
何々のために、という目的、理由が書かれているのは、
ある意味で珍しいんですよ。
だから、このルカはですね、
特に4つの福音書があるんですよね。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書がありますけれども、
それぞれの人間の著者がいるんですね。
マタイ、マルコ、マルコは十二の弟子の一人ではなく、
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ペテロの著者、ペテロの弟子みたいなものですね。
それから、このルカ、そしてヨハネがいるわけです。
この4人のうちに、特にこのルカはですね、
イエス様の祈り、そのイエス様のこの
経験なき良い祈りの習慣、
あるいはイエス様が祈られる様子を、
他の福音書、3つの福音書よりですね、
とても詳しく、そして文量も多くですね、書いているんです。
ルカはですね、おそらくペンテコステを経験して、
そして使徒の働きもルカが書いたんですね。
だからその中でも、これも神の感動によるものですが、
この祈り、またイエス様の祈りの姿勢と言いましょうか、
姿と、それを強調する、そういう特徴があるんです。
それですね、今日の一節を見ると、
もうはっきりとですね、このたとえの目的は何なのか、
はっきりと書かれているんですね。
文字を読める人であれば誰でもわかるんです。
目的は何でしょうか。
いつでも祈るべきであること。
いつでも祈るべきであること。
そして失望してはいけないこと。
この2つは、2つとより1つなんだけどね。
いつでも祈る、そして祈るものは失望してはいけないこと。
それが今日のたとえの第一の目的なんです。
さあ、どんな話でしょうか。
そのね、たとえの話をしてまいりましょう。
ある町に裁判官が一人いました。
ところがこの裁判官はですね、神を恐れないんですよ。
そして、しかも人を人とも思わない悪い裁判官でした。
人を人と思わないから、いろんな裁判の仕事があっても、
多分ですね、よくしてくれないという意味でしょう。
ところがですね、その町に一人の山目がいたんですね。
それでこの女の人が、この神を恐れない、人を人と思わない裁判官のところに来てですね、
このようにお願いするんですよ。
私を訴える人を裁いて、私を守ってください。
何かのことで自分を訴える人がいる。
ところがこれが正しく裁かれていないから、裁判官さん、誰々さんこれを正しく裁いてくれて、
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私を守ってくださいとですね、言っていました。
ところがですね、人を人と思わない裁判官ですから、しばらく取り合わない。
もう会ってくれないしね。
ところがですね、この裁判官が後々になって、こう考えたんですね。
私は神をも恐れず、人を人とも思わないが、
誤説、ごらんなさいね、この山目はうるさくて仕方がないから、
彼女のために裁判をしてやることにしよう。
そうしないと、もうひっきりなしにやってきて、私は疲れ果ててしまう。
もう面倒くさくなる。うるさい。もう何度も何度もやってくるから、
あの人はもう諦めないね。
いやもう、早く裁判をしてやることにしよう。
さあ、このたとえを話されて、その後、六説、七説、八説が大事ですね。
たまに皆さん、ちょっと寄り道ですけど、
聖書のたとえもそうですし、
説教の中で令和とか、何かのわかりやすく引用するお話をするじゃないですか。
そうすると、不思議に人は全部忘れて、
あのたとえ話の一部分だけ頭に残ったりするんですよ。
あるいは、私がその日の説教の中で何か面白いダジャレをしたでしょう。
説教終わったら、みんな先生のダジャレは面白いな、みたいにね。
それしか頭に残らなかったりする不思議なことがあるんですね。
さあ、だから今日はこのたとえのストーリーより、その後の家様の解説、六、七、八説が大事ですね。
さあ、六説をご覧ください。
主は言われた不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。
七説、一緒に読みましょうかね、七説。
七説、一緒に読みますよ。
せーの、まして神は昼も夜も神に叫び求めている。
選ばれた者たちのために。
アーメン。ありがとうございます。
まず、イエス様が、そしてルカは必ずこれを書きたいと思ったこと。
霊感が与えられたことは何でしょうか。
こんな不正な悪い、神を恐れない、人を人と思わない、こんな悪い裁判官でさえも、
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ひっきりなしにやってきて訴える人のあの声を聞いて裁判をしてやるとすれば、
まして私たちのよきお父さん神様は、
昼も夜も神に叫び求めている。私たちのもとですね。
昼も夜も神に行って祈り叫ぶ者。
しかも彼らは選ばれた者ですね。神に選ばれた者なんですよ、私たちは。
この世界、日本だとしたら1億2千7万。
その中にもう選ばれた神の民がいる。
その選ばれた者のために裁きを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。
あんな悪い裁判官でさえも聞いてくれるならば、
まして天皇父さんの神様が選ばれた民のために、
昼も夜も神に祈り求める者のために、主が裁きを行わないで、
その祈りを聞き入れくれないでいるでしょうか。そんなことはありませんよ。
確かに今日のこの例えは一節に書かれているように、いつでも祈るべきであること。
そして祈る者は失望しないこと。
失望するとは心配、恐れる、心を騒がすという意味になると思うんです。
まず第一の意味として、
イエス様は私たちにいつでも祈りなさい。そして絶えず祈りなさい。
このやもめの人のように諦めないで、主の真実さを信じて祈って歩んでいきなさいと、
この祈りの教えを教えてくださいました。
そして今日の話をよく読んでいきますと、
いつまでも祈ること、粘りじょく祈ること、もちろんそれが第一の目的としたら、
そこよりもう一段深い意味があると思うんです。皆さん一緒に考えてみましょう。
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どんな人がいつでも祈る人でしょうか。
どんな人が祈っていて、失望しないで祈る人でしょうか。
それは、私が祈れば神は聞いてくださるというふうに神様を信頼する人なんです。
いいですか皆さん。神様を信頼する人、その人はいつでも祈ります。
失望しません。諦めません。なぜでしょうか皆さん。
それは、私が祈れば神様は必ず答えてくださるんだ。
私の父なる神様は良きお父さんなんだ。私の声を聞いてくださる。帰り見てくださる。
私のこの叫び声を答えてくださる神様であるという信頼を持っているから、
いつでも祈れるし、失望しないわけなんです。
そう思いませんでしょうか皆さん。
私たちの人間関係を考えても、先生を信頼する学生が先生に期待をするわけなんです。
あるいは知らないことを聞いたりします。それで関係が深くなるでしょう。
親子関係も同じですね。
友人関係も同じなんですよ。
お互いに信頼し合っていれば、何かを頼まれて、そしたら嬉しくそれを助ける。
そしたら二人の関係はまた、その信頼関係がさらに深く固くなるということなんです。
ですから皆さん、祈りのこの問題は、結局のところ、
私たちが自分が神様をどれだけ信頼しているか、この問題と直結していることなんです。
自分が神様をどれだけ信頼しているんだろうか。
皆さん、自問自答してみてください。
私は果たして神様をどれだけ信頼しているだろうか。
私は神様に全てをかけるほど信頼しているだろうか。
自分自身に聞いてみてください。神様を信頼しているから。
その人はいつも祈るんですよ。
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そして祈れば、神様が答えてくださることを、先取りの信仰のように、それを見ることができる人なんです。
一箇所、聖書を開けたいと思います。
創世紀の24章を開きましょう。
創世紀24章、7節。
この創世紀24章は、アブラームが年を重ねて老人になって、
そろそろ自分の息子・遺作の妻を迎える話です。
今、カナンに住んでいるから、そこは日本の民であるから、
アブラームの故郷・ウル、あるいは少なくともハランに行って、
同じ道族の人から、その娘・嫁を迎え入れる。
そのために、アブラームが信頼している最年長の下辺を、そこに送る。
その時の話なんです。
まだそこに行っていないんですよ。
手紙を送って、下辺が行くから娘をくださいと連絡を何もしていないんです。
何も起きていないんです。
これから先のことに対するアブラームの信仰がどんなものなのか、
その信仰の話を最年長の下辺に言っているんだけれども、
それがどんなものなのか、7節をご覧ください。
私は読みますね。
天の神主は、私の父の家、私の親族の地から私を連れ出し、私に約束して、
あなたの子孫にこの地を与えると誓われた。
その方が、あなたの前に御使いを使わされるのだ。
今、下辺が行くんですよ。
これから出発するところなんですね。
アブラームは神様を信頼して確信しているんです。
神様がこの下辺、あなたより御使いを使わせてくださるんだよ。
そして最後に、あなたはそこから私の息子に妻を迎えなさい。
これができないからこう言っているわけじゃないんです。
できるかどうか分からない。迎えるかもしれませんね。
できたらやりなさいね。見つけたら迎えてきて欲しいんですよ。
もしなかったら諦めていいよ。そういうところじゃない。
アブラームは見ているんです。
この下辺が行ったら、必ず神様が御使いを送って備えられたその嫁を迎えることができるんだ。
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神様が迎えているその場面を見ているかのように。
ところが不思議に、この話を聞いている下辺もアブラームと全く同じ信仰を持っているんです。
戻りますね。
皆さん、これが神様を信頼することのひとつのいい話だと思うんです。
私たちも同じですね。
私が祈れば、私が神の御言葉に従えば、
神様はどんな状況の中でも必ず応えてくださるんだ。
というこの堅い、強い信頼を持っているものでありたい。
そこには、今日の、全部読んでないんだけどね、
アブラームのあの記事を読むとですね、
アブラームにも行くしもべにも、
失望はありません。不安もありません。心配もありません。恐れもないんです。
全くない。平安なんです。シャロームなんです。不思議なんですね。
なぜでしょうか。
あるいは逆に、なぜ私たちは失望したり、不安であったり、恐れたり、心騒がしたりするのでしょうか。
神様を信じていないわけではないんだけれども、祈っていないわけではないんだけれども、
時には、たまには、なんででしょうか。
それはある意味で、神様に対する信頼が欠けているからではないでしょうか。
信頼しているかどうか。
この全く信頼を持つこと。
今日のたとえの、イエス様のたとえの深い意味はですね、ここにあるんです。
祈りだけではなく、実際の私たちの信仰生活だけなく人生も丸々ですね、
私たちが神様をどれだけ信頼して、そして私が神様をどのような方として正しく知っているか、
全てを本当に明け渡し切っているかどうか、そこにかかっているんですね、皆さん。
私が祈れば神様は助けてください。
私が祈れば神様は応えてくださるよきお父さんだ。
必ずそうしてくださるんだ。
そういう、祈って応えられる、そういう信仰の体験を一緒にしようではないでしょうか。
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それを重ねて重ねてね、それをたくさんしていくクリスチャンでありたいんですよ。
それは人の力によるものではない。
神の恵みによるものであって、精霊様の力によるものであります。
それを信頼するものが、失望しない、恐れない、ということではないでしょうか。
さらに私たちが求めなくても、私たちに何が必要なのか、
全てを御存じの神様が、よきもので満たしてくださる、
与えてくださる、その神様を信頼していこうではないでしょうか。
最後に、イエス様は今日の例えの話をされて、最後の8節にこう言われました。
8節を一緒に読みたいと思います。
8節を一緒に読みますね。
あなた方に言いますが、神は彼らのため、速やかに裁きを行ってくださいます。
アーメン。
イエス様は不思議に、いつでも祈るべきで失望してはいけない話をされて、
それで7節で終わるのかと思ったら、そうではなかったんですね。
ルカはそれをちゃんと記録しているんですよ、8節。
あなた方に言います。
イエス様が弟子たちに言われました。
神は彼らのため、速やかに裁きを行ってくださいます。
つまり、祈る者のために主が助けてくださいます。
今までお話ししました、その部分ですね。
しかし最後にもう一つの話がついているんですね。
だが、人の子が、人の子はイエス様でしょう。
人の子が来る時、それはもう言うまでもなく、再臨の時ですね。
終わりの時なんです。
あるいは私たちが地上の生涯を終わって、もう亡くなって天に行くその時ですね。
どうでしょうか。
イエス様は、神様は何を見るんでしょうか。
他の神教徒役は、これを見出すという言葉を使っています。
だから、神様はイエス様を何かを探して、求めて、見出そうとしておられるんですよね。
何を?信仰。
果たして地上に信仰が見られるでしょうか。
もう疑問で終わっているんですね。
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見られますよ、でもなく、見られないだろう、でもないですね。
見られるでしょうか。
このイエス様の最後の8節をですね、
今日のたとえとつなげて、結び合わせて考えるならば、
結局のところ、イエス様は私たちの何を見られるんでしょうか。
信仰を見られるということなんです。
能力ではない。
その人の信仰を主は見られる。
それを探しておられるということなんです。
ですから皆さん、私たちの祈り、あるいは信頼、あるいは礼拝、あるいは奉仕、
全ては結局、信仰の問題なんです。
信仰があるから信頼できるわけですし、
信仰があるから祈るわけですし、
信仰があるから心を騒がさないということなんです。
一箇所ね、聖書を開きましょう。
ヨハネの福音書14章1節、開いてください。
ヨハネの福音書14章1節です。
ヨハネの福音書14章1節。
よろしいですか。
一緒に読みたいと思います。
あなた方は心を騒がせてはなりません。
神を信じ、また私を信じなさい。
どういうことですか。
なぜ心を騒がせるのでしょうか。
なぜ心配するのでしょうか。
なぜ失望するのでしょうか。
神を信じていないから。
信じきっていないから。
信頼していないから。
そこなんですね。
ですから、私たちのすべての礼拝、祈祷、奉仕、あるいは捧げ物。
このすべての本当の土台は、信仰でなければならないんです。
信仰の上に、信仰の土台の上に、
祈祷もする、礼拝も捧げる、奉仕もする、捧げ物もする、教会生活もする。
いや、その信仰の上に教会を建て上げる。
信仰の上に自分の信仰生活を建て上げていかなければならないんです。
だからすべてがですね、この信仰の上で行われるとき、
祈りも礼拝も奉仕もすべてが美しくて、主の目にかなうものであるということなんです。
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ただの年数、ただの経験でやるものではないんです。
すべての土台は信仰でなければならない。
ただ自分、自己熱心でもいけません。
果たして地上で信仰が見られるでしょうか。
今もしは私たちの信仰を見ておられるでしょう。
だから皆さん、私たちがいくら素晴らしいことができても、
信仰によるものでなければ、それが人からいくら称賛されて素晴らしいと言われて、
成功してとかっこよく見えてもですね、
信仰によらないと神には受け入れられない。
虚しいものにすぎない。
しかし私たちが信仰によってするすべての行いは、
いくら小さなものであっても、見素晴らしいものであっても、
信仰によるものであれば、主は喜んで受け入れてくださるということなんです。
人と皆さん、比べることはないんですよ。
あの人のように私はできないんだけれど、
あの人のように祈れないんだけれど、
あの人に捧げられる、あの人のように報酬ができないんだけれど、
いつまでそういうふうに比較して生きるつもりなんでしょうか。
比較する必要はないんですよ。
神は私の能力を見るんじゃなくて、私の信仰を見られるんです。
私のお金を見るんじゃない。
主は今も信仰者を探しておられるんです。
メッセージを終わりたいと思います。
人の子なるイエス様が来られる時に、私たちから信仰を見出されるでしょう。
そしてその日に、私たちに本当の信仰があって、
人の人に見せるための信仰ではない。
本当の信仰があって、イエス様からですね、
いや、私が探していた信仰の人はあなただったよね、というふうにイエス様におめがれて、
そして主とともに、あの天国で永遠に主とともに生きるものでありたいと、
そういうふうに信仰をマットして歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りします。