1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/08/12:聖日礼拝(旧音源)
2012-08-12 41:35

2012/08/12:聖日礼拝(旧音源)

2012/08/12 聖日礼拝(旧音源)


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本日の聖書の箇所は、マルコによる福音書7章1節から8節までです。新約聖書の78ページです。
マルコの福音書7章1節。さて、パデスタイ人たちと幾人かの立法学者が、エルサメカから来て、イエスの周りに集まった。
イエスとデスタのうち、汚れた手で、すなわち洗わない、手でパンを食べている者があるのを見て、パリサエビとはじめ、ウダヤ人は皆、昔の人たちの言い伝えを固く守って、
手をよく洗わないで食事をせず、また、市場から帰った時には、体を清めてからでないと食事をしない。
まだ、この他にも、杯、水差し、動機を洗うことなど、固く守るように伝えられていた。
しきたりがたくさんある。パデスタ人と立法学者たちは、イエスに尋ねた。
なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。
イエスは、カエラに言われた。イザヤは、あなたが偽善者について予言をして、こう書いているが、まさにこの通りです。
この民は口先で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。カエラが私を拝んでも無駄なことである。
人間の教えを教えとして教えるだけだから。あなた方は、神の見ましを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。
それでは、聖火隊の方に、新聖火の289番をお賛美していただいた後に、内田牧師より、イエスは偽善者を裁くと題してメッセージをしていただきます。
聖火の289番
03:07
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
聖火の289番
おはようございますきょうも見 言葉のときを迎えましたそれでは
一言お祈りをしてきょうの見言葉 をいただきます
06:04
あなたの下ベラを憐れんでください どうか朝にはあなたの恵みで私
たちを満ちたらせ私たちのすべて の日に喜び謳い楽しむようにして
ください めぐみ深い天の父なる神様きょう
このようにして安息の日を迎え また誠実を主に捧げるときを迎
えて皆をあがめます 一週間の歩みそれぞれ異なりました
がこの暑い中も守っていただき きょうは精霊の導きによりこの
宮に上って礼拝を捧げています プログラムの一つ一つを祝福して
くださり皆さんがお捧げなさる その礼拝のそれを全てをあなたが
清めてお受け取りくださるように お願いいたします そしてまたこの
ところで主のお言葉をいただき また新しい礼と恵みに満たされて
ここを出ていくことができるように 助けてくださいそれぞれにあった
その全てがこの朝許されまた新 たに神様の御愛に満たされてそして
私たちが喜び歌いとありますように あなたに賛美を捧げるこの特権
を覚えて皆をあがめます またこの 礼拝を通して福音宣教のその思い
を新たにしてくださって教会の 尊い働きである福音を伝えるその
働きにもどうぞ力を与えてくださる ようにお願いいたします 備えられた
御言葉のときを神様がどうぞ祝福 してくださるように主よお言葉
をくださいそうすれば私のしもべ は癒されるのですどうぞきょう
もその思いを持って私たちにも 同じように主のお言葉をください
そしてそのお言葉に力があります からそのお言葉をただ信じてしっかり
握りしめてこれからの日々を歩ん でいけるように今からのときただ
主のお言葉だけが心にとどまります ように今からのとき全てを委ねて
宗キリストの皆によってお祈り をいたします アーメン 宗法の
詳速報告で一つ書くのを忘れました この夏帰省される方がおられる
と思うんですがその旅の安全と そしてそこでの御家族との交わり
それが祝福されるようにそのことを 祈っていますということであります
さて日々熱戦を繰り広げられて きましたロンドンオリンピック
もきょうで終わりますまた明日 からゆっくり寝れるときが来た
09:08
ということでありますがきょうの テーマにも関連するオリンピック
の話題から入らせていただきたいん ですが一つは女子のバドミントン
の皆さんも御存じだと思うんですが 無気力試合をしたということで
八人の選手が失格になったというん ですねここに書かれてある記事
を読みますと彼女たちはトーナメント で有利な相手と対戦するため意図
的にネットに引っ掛けるなどの 負けるためのプレーをしたという
わけですねこれはスポーツ精神 を痛く傷つけオリンピック精神
にも反するものであるということ なんです
もう一つは南アフリカ共和国の オスカーピストリウスさんこれは
偽則のランナーと言われて四百 メートルの準決勝あるいはリレー
でも走られたんですがもちろん もちろんというのもおかしいですけ
れども最下位でしたしかしスタジアム はその拍手で彼の健闘を称えた
彼は本来ならパラリンピックで 出るんですけれどもパラリンピック
大会では彼にかなう敵がいない わけですから願わくは健常者と
一緒に走りたいというそういう 思いが叶えられてそして今回出場
に前回も出たのかなそういうふう になったわけですけれどもこれは
いわば自分の可能性にチャレンジ するというこれは尊い精神ですね
それこそスポーツ精神オリンピック 精神に則って彼は走りをしたという
どちらのことにも共通するのは やはり精神ということですね同じ
スポーツをするにしてもそこに 心がこもっているのか精神がある
のかあるいは魂があるのかという そこにあるんだと思うんですね
精神がなければその行為は非難 の対象にもなりますしそこに心
精神がこもっておれば多くの人々 がそれに感動するというそのことを
私たちは改めて覚えたわけであります 今日の見言葉の中にイエス様が
12:01
イザヤの書を通してこのように 言われたと書いてありますイザヤ
はあなた方が偽善者について予言 をしてこう書いてあるがまさに
そのとおりであるこの民は口先 では私を敬うがその心は私から
遠く離れているここにその心は 遠く離れている心のないその信仰
あるいは礼拝そのことを戒めそして 裁かれたわけであります今日の
テーマは裁きということなんですが 一つの裁きということこの歌手
からも覚えたいと思うんですが イエス様はこの偽善者のその行為
をあるいは心魂を裁きなさった わけですそれは神は裁き主である
からということであります神すなわち イエスキリストは儀なるお方であります
から人の不義やあるいは悪い行い に対してそしてそれを常に善あるいは
正義をもってそれを裁きになさる ということでありますそれは神
が裁く権威を持っておられるという ところから来ているわけであります
人が犯すその犯罪の行為これも 罪なんですがそれはもともとや
はり私たちの心の中にある憎しみ や妬みや怒り傲慢そういう心の
罪から起こってくるんだということ も私たちは知っておりますそして
神に背きそして神から離れて自分 勝手に生きるこれは不信仰の罪
と言われますがそういう罪を裁 かれるお方それが神御自身であり
神だけであるということそのことを 私たちは聖書から教えられている
わけでありますその裁き主なる お方がこのイスラエルの民を裁
くということに当たってその裁き を立法に委ねられたわけです神
に忠実かどうかその判断基準を 立法とその行いに基づくように
したわけであります立法を正しく 行う者だけが正しいのだあるいは
立派なのだ神に忠実なのだそして 見国の約束をいただくのだと勝手
15:00
にそう解釈した人たちそれが当時 のパリ裁人立法学者裁士デビビ
トという人たちそういう人たち であったわけですそういう人たち
がイエス様の弟子たちの行為を 見て彼らは裁いたわけです弟子
たちにどうして手を洗わないで 食べるのか教えにはこうしなさい
と書いてあるではないかなぜその とおりしないのか食器を洗わない
でどうして食べるのか昔からの 言い伝えとしてこういうふうに
決められているではないかなぜ 守らないのか立法に決められている
ことを守らないのかということ を責めてそして裁いたということであります
それに対してイエス様がこのイザヤ の言葉を通して彼らを今度はお
裁きになったわけですあなたたち は口先では私を敬うが神を敬っている
がその心は神から遠く離れている このことは十分おわかりのように
彼らは立法を守るということにおいて は落ち度がないでしょうあるいは
昔からの言い伝えを守るあるいは 儀式や形式というものをきちっと
守ってそして日々過ごしている それにおいては落ち度がない人たち
なのかもしれないしかしイエス 様が言いたいのは口では神を敬
っているが形ではあるいは見栄 ではそのように見えるけれども
そこには心がない精神がない既に 書かれているようにあなたたちは
心を尽くし精神を尽くし思いを尽 くして主なるあなたの神を愛し
なさい心を尽くし精神を尽くし 思いを尽くして主なるあなたの
神を礼拝しなさいそのようにして 主とお交わりをしなさいあなた
たちはそうではない口先と形ば かりでそこには心も精神も伴って
はいないそういうことをイエス 様はここで彼らをおさばきになった
ということこのことは私たち信仰者 としてもこのメッセージをきょう
いただいてそしてもう一度私たち 自身も改めるべきは改めていかなければ
18:03
いけないそう思うわけであります 私たちはもちろん儀式とかその
形式それを過論じるわけではありません けれども礼拝をはじめあるいは
生産式あるいは先礼式クリスマス イースターさまざまな行事があった
りその度ごとにこのプログラム をつくってそして主に礼拝を捧げ
またその儀式を行いますしかし その形式ばかりを重んじてそこに
心が備わっていなければ本当に 真心がそこに伴っていなければ
それはイエス様がおっしゃった ようなことになってしまうそこに
やはり御霊の働き御霊の自由あるいは 私たちが真心を込めてその主を
拝している主に捧げたいあるいは 悔い改めをしているというその
思いが伴っていなければ意味がない 私たち人間同士にはそれはわかり
ませんそれは主御自身だけがわかって おられることでありますですから
偽善というのはそういうことであります 人々にはそれが見えないものですから
つくろうことができる善を装って そう見せることができる口先で形
で見せることができるしかし全て を御存じの主はそれを知っておられる
偽善が悪ならば偽悪というのも あると思うんですね本当は自分は
心優しい良い人間愛のある人間 なのにわざと悪ぶってそしていわゆる
こう突っ張って見たりそういう ふうにして悪をそういうふうに
よそってしまうそういうことも 人間の弱さの中にあるのではないか
しかし全てを御存じの神はそれぞれ を素晴らしく導いてくださるに
違いないその人の本当の姿その 姿を神様は願っておられますし
そういう偽善も偽悪も取り除いて 本来のその人のありをそしてその
21:01
人の素晴らしいものを神様は明 らかにしてくださるそれが私たちは
神の作品ですというところに行き つくんだと思います私たちもきょう
もう一度このイエス様の戒めと その裁きをもう一度覚えて私たち
ももう一度自らを点検したいと そう思うわけであります二十一世紀
に生きる私たち信仰者立法に縛 られることなくもちろん立法を
守り法律を守り形式を重んじ儀式 を重んじるそれは尊いことであります
がただそれだけに縛られてそれ だけを重んじてそして形だけになって
しまわないように二十一世紀の パリ裁備と立法学者とならない
ように常に種のお水浴をいただ いていくということを忘れてはいけ
ませんこのイエス様がこのパリ 裁備と立法学者たちを裁きなさった
そういう箇所がマタイの二十三 章にも記されていますイエス様
もこういう激しい言葉を持って 今指名なさるんだということも
覚えるわけでありますマタイの 副印書二十三章の四十ごめんなさい
二十三章の二十五節あたりから 見たいと思うんですが新約聖書
の四十八ページですが例えば災い だ偽善の立法学者パリ裁備とお
前たちは酒漬や皿の外側は清める がその中は豪奪と宝珠でいっぱい
です酒漬の内側を清めなさい そうすれば外側も清くなります
災いだ偽善の立法学者パリ裁備 とお前たちは白く塗った墓のような
ものです墓はその外側は美しく 見えても内側は死人の骨やあらゆる
穢れたものがいっぱいですその ようにお前たちも外側は人に正しく
見えても内側は偽善と不法でいっぱい ですここに繰り返されている外側
と内側神様は常にそのことに身 をとめて私たちは外側しか見る
ことはできませんそれによって 判断してしまう弱さがあるんですけ
れども内側を見ておられる神様 はそれをしっかりと見極めてとき
24:04
には注意し今しめお裁きなさる お方ですから私たちの内側は主
に対して決して嘘偽りはできない ありのまま全て見過ごされている
ということこのことを覚えて主 を恐れたいとそう思うんです
イエス様のそのお言葉イエス様 がイザヤの書を通して私たちにも
語っておられる口先では私を敬う がその心は私から遠く離れている
きょうのテーマのもう一つはこの 裁きということのもう一つなんですけ
れどもこのことを語るのにマ タイの副印書の七章を見てみたい
と思います マタイの副印書の七章 裁いてはいけません裁かれない
ためですあなた方が裁くとおり にあなた方も裁かれあなた方が
計るとおりにあなた方も計られる からですまたなぜあなたは兄弟
の目の中の塵に目をつけるが自分の 目の中の針には気がつかないのですか
兄弟に向かってあなたの目の塵 をとらせてくださいなどとどうして
言うのですか見なさい自分の目 には針があるではありませんか
偽善者よまず自分の目から針を とりのけなさいそうすればはっきり
見えて兄弟の目からも塵をとり のぞくことができます一つはイエス
様がこの立法学者パリスサイビ 党をあなた方は災いだ偽善者だ
とお裁きになさったそのイエス 様が裁いてはいけません裁かれない
ためですこれは一体どういうこと でしょうかという質問があって
もいいと思うんですね このイエス 様がパリサイビと立法学者をお
裁きになったのはこれは神様の 権威によって裁きをなさる主は
儀なるお方でそれをしっかりと 戒めのためにこれはいけない
ということをおっしゃったそういう 意味の主の裁きであります しかし
この七章で言われている裁いては いけません裁かれないためです
これはイエス様が群衆にあるいは 私たちに語っておられる言葉私たち
27:06
人間が人間を裁くということに おいて考えてみなさいということ
そのことを言ったわけであります 裁いてはいけません裁かれない
ためですあなたが裁くとおりに あなた方も裁かれあなた方が図る
とおりにあなた方も図られるから です ヨハネの福音書の中にこういう
記事があります会員の罪を犯した 婦人を人々が捕まえてきまして
イエス様の前に突き出しました そして立法に基づいてこの女を
石打ちの刑にするがイエスよあなた は愛と憐れみを説く者だそうだ
があなたはこの女をどうすると 問い詰めたわけです要するに彼ら
はこの婦人を石打ちの刑にする かどうかよりもイエスを試そう
としたそのように福音書は言って おります石打ちの刑に処せよと
言えばそれじゃあなたの説く愛 とか憐れみというのは一体何なのか
と言われますし憐れみによって この女を石打ちの刑にはしないと
言えばそれじゃあなたは立法を 守らないのかと言われてしまいます
このときイエス様はただこのように 言ったわけですもしあなた方の
中で自分に罪がないという者が いたらその者がまずこの婦人に
石を投げなさいそうするとしばらく すると一人一人石を置いてそこから
立ち去っていった本当に不思議な 光景でありますなぜでしょうかそれは
イエス様が言われたあなた方は 裁いてはいけない裁かれないため
ですあなた方が裁くそのとおり にあなた方も裁かれあなた方が
図るそのとおりにあなた方も図 られるからですこのことを一人
一人が気づかされたということ になるわけですイエス様がおっしゃ
りたいことはなるほどこの婦人 は罪を犯したしかしあなた方罪
ある者が人の罪を指摘してそれを 嘲笑ったり軽蔑したり裁いたり
するときにそれではあなたはどう なんですかと問われたときにその
30:05
者はもうそこに立ち尽くすことが できないそれはやはり自分にも
罪があるんだということに気づ いたということですから私たちは
もう一度このイエス様のお言葉 を裁いてはいけません裁かれない
ためですというこのことを改めて 覚えることをしたいと思うんですね
もちろん忠告とか警告とか戒め それは必要なことでありますしかし
それは愛によっての忠告であり 愛が備わった警告であったり愛
から出た戒めそれは尊いものであります しイエス様がここで言う裁いて
はいけないということとは違います ただ自分に罪があるのに人の罪
を見てそして裁いてしまうそれは 自分が何か傲慢な思いとかあるいは
人を上から見下ろすようなそういう 思いがあってそして人を裁いて
しまう不要意に裁いてしまうすると 立場が逆転したときに裁くもの
が裁かれるものになってしまう 計っていたものが計られるもの
になるんですよとイエス様はおっしゃ ったわけです人の目にある塵には
よく気づくのに自分の目の中にある 針には気づかないそれが人間であり
私たちの弱さであります人の ことをとやかく言う前に自分は
どうなのかということをもう一度 問い直してみなさいお互いに裁
かれるというのは心地よいもの ではありませんでも忠告とか警告
いましめこれは相によってアガ ペへの伴ったそういうものはして
いかなければなりませんそうでない と世の中が乱れていくのは当たり前
のことでありますが不要意に裁 くということそれはお互い気持ち
のよいものではありませんしそして それはしてはいけないのだその
ことを私たちに気づかせてくださって いるわけであります人を裁くという
そういうことはこれは一つの誘惑 と言えると思います自分が立派
33:01
なんだ自分は正しいのだ自分の 方が上なのだとかそういう思い
が自分の中に起こるときにそれが 傲慢傲慢そして人を上からの目線
で見てついつい裁きたくなるそういう 誘惑が誰しもくるわけですそれは
人に対してもそうだしあるいは 民族と民族のことあるいは国と
国とそういうようなことでもある わけですそういうときにも私たちは
もう一度裁いてはいけない裁かれない ためですクリスチャンのところ
に迫ってくる一つの誘惑それも あろうかと思うんですねその裁き
の誘惑クリスチャン主を信じて こうして主に従っている私たち
そのものは正しいのだそして真 事の神様を知って神様を信じている
のだそしてきちんと礼拝を守って いるんだだから私たちクリスチャン
は立派なのだと思ってしまいそう でない人たちを知らず知らずに
上からの目線で見て裁くような ことはないだろうか裁いてきた
ことはないだろうかそんなことも 覚えさせられるわけですそれは
誘惑であって私たちの弱さがそれに 負けるときにそういうことが起こ
ってしまいますしかし私たちが キリスト社であるということ私たち
というより私自身少なくとも私 自身は決して正しくもないし立派
でもないし愛もないし一人の罪人 に過ぎないということその罪人が
見出されて救われてそれは立派 だからではない正しいからではない
何か良いことをしたからではない ただ神の憐れみによってでしかない
信じさせていただいている神様 を真ことの神を知ることができた
その真ことの神を礼拝させていただ いているこれも何も立派だから
ではない正しいからではない神様 の憐れみによるほか何ものでもない
私たちはその神様の憐れみのゆえ に今ここにこうして置かせていただ
36:03
いているなのにどうしてそうでない 人たちを裁いたり何か上からの
目線で見ることなどをできましょう か私たちこのキリスト社の群れ
でない人たちの中にも立派な人 がたくさんいます尊敬する人が
たくさんいますそういう人たち に私たちは学ばないといけない
しそういう人たちのお世話にも ならないといけないただ裁くという
誘惑が来たときにはどうぞもう 一度私たちは主の前にひれ伏さ
なければならないこうして私たち がキリストを信じて歩ませていただ
いているのは神様の憐れみの ほか何ものでもない講談の前で
こうして二言葉を取り継がせて いただいている立派なものでもない
正しいものでもない愛のない罪 人に過ぎないそんなものが立た
せていただいているこれは神様 の憐れみのほか何ものでもない
そんなことを私たちはもう一度 肝に銘じておかなければなりません
ですから私たちが福音を伝える とき伝道するときもこのことを
決して忘れてはいけないそのように 思うんですどちらが立派でどちら
が立派でないとかどちらが上で どちらが下だとかそんなことも
決して思ってはいけませんし子供 に対してもそうですねあるいは
何か強引にあるいは無理やりに そうさせようというそういう思い
も誘惑としてくるんですけれども それも死の前にもう一度私たちは
比例をする必要があろうかと思 うんですねお互い一人の人間と
一人の人間の中でのこのやりとり たとえ子供であっても一人の人格
としての私たちのその交わりそういう ものをしっかりと覚えておかなければ
ならないもしキリスト社がそう でない人よりよく知っているという
ものがあるとするならばそれは 自分の方がより自分は罪深いもの
だということを知っている自分の 方が人を裁けるようなものではない
んだということをよりよく知っている それがキリスト社としての歩み
であるしまたそのように神様は 私たちを救ってくださったそんな
自分を神様は見放さずにそして 愛して常に哀れみを持って支えて
39:06
いてくださるんだということこの ことを私たちは忘れてはいけません
ですからこの神様の哀れみということ 神様のご自愛ということを常に
覚えてそれを感謝しそして聖書 が言われるようにただこの福音
を伝えていく神様の謙遜キリスト の示されたアガペそういうもの
を持って私たちはその生き様を 証していく決して傲慢になって
はいけない人を裁けるようなもの ではないんだこんな私をもう神
様は今日ここに置いていてくだ さるんだそしてまたそれを世に
使わせて人々との交わりの中に 入らせていただけるんだという
そのことを覚えたいと思います お祈りをいたします
恵み深い天の父なる神様あなたの ご愛を覚えて皆を崇めます
今日も御言葉を通じて裁きについて 教えられたことをありがとうございます
既に知っていましたことも再確認 できたことを感謝をいたします
私たちが口先では神を敬うがその 心は神様から離れているという
ようなことのないようにどうぞ 魂を守ってください裁いてはいけない
裁かれないためですこんな罪深い 私が神様に本来は裁かれるべき
ものであるのに裁くことなく神 の憐れみによって許されている
ことを覚えてもう一度十字架を 崇めて感謝をいたします常に自分
の目の中にある塵に気づく者として いただき悔い改めをもって主の
前に跪く者として日々支えてお 導きくださるようにイエス様の
尊い皆によってお祈りをいたします アーメン
41:35

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