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2020-08-16 41:15

2020/08/16:心に留めて聞きなさい

2020/08/16 聖日礼拝

斎藤亘師

ヘブル人への手紙 2:1-9


00:02
今朝は、斉藤渡先生に、心に留めて聞きなさいと題しまして、メッセージをしていただきます。
おはようございます。
今朝ご一緒に、この礼拝をもって、お言葉をともにいただくことができ、大変感謝しております。
今朝は、黒津さんの方から、こういうものを準備していただきました。
最初、マスクをしてやっていたら、ただでさえだんだんと声が出なくなっているところにマスクをしたら聞きにくいだろうなぁと、
また私も話をしにくいんじゃなかろうかなと思いながら、ちょっと相談してみようと思って黒津さんに電話しましたら、
早速こういうものを準備していただきました。
テレビでは見るんですけどね、そういうのは初めてで、大変空気の出し入れも良くて、
調子に乗って長い話にならないようにと、そう思ったりもしております。
一言、短くお祈りを捧げてします。
恵み深い御在天の地なる神様、暑さの続く最中で、
今朝もこうして私たちをこの一つの場所にお集めくださり、
共にあなたを礼拝する中にお加えいただいておりますことをありがとうございます。
昨日は、私たちのこの国にとっては、記念の大切な日でありますが、
しかし今の平和を得るために、どれだけ大勢の方々が犠牲になったか、
そのことを深く見舞いに覚えております。
こうして先人たちがここに築き上げてくださったこの平和を、
イエス様、あなたの平和にしっかりと結びつけ、
また、あなたこそが私たちに誠の平和を与えくださる、
そういう方であることを心に覚えていくことができるように、
また私たち一人ひとりを平和をもたらすあなたの子供たちとして、
これからもついて守りください。
教会を留守にしております、祇園先生、家族を、
あなたがどうぞその土地全てを守ってくださるように、
主の皆によってお祈りいたします。
アレン。
今朝は、このヘブル人への手紙のこの2章のお言葉を、
ご一緒に開いていきたいと願ってまいりました。
ここに、ますますしっかり心にとめて、
押し流されないようにしなければなりませんという、
この言葉を中心にして見ていきたいのですが、
03:06
この心にとめて、押し流されないようにしなければならないという、
どうすると私たちは、この押し流されてしまうという、
そういう中に時に置かれます、置かされます。
今年はどういう年になるんだろうかなと、
新たな思いで新年を迎えて、
まもなく今のコロナの問題が起きましてね、
そしてそれは一国だけではない、
今やもう全世界に勢いをもって、
そして大勢の人々を死に至らせ、あるいは苦しみに追いやっている。
そういうニュースを新聞やあるいはテレビで見てまいりますとね、
これは決して他人事ではなく、
自分自身がいつどういうことで感染者としてそこになってしまうかわからないという、
そういう不安というのが最初のうち私も持ちまして、
特に高齢者は、名指しされているような感じがします。
その上に疾患をある人、
夫婦ともどもそういう面においてはお互いにあるものですから、
買い物に行ったり抱えたりすることがないようにということで、
それでどちらか一人が、ほとんど私が言われたとおり、
メールでやりとりしながらですね、
なんで一回で覚えないのと言われたらですね、
そういうことで買い物に行って今に至っているわけでありますが、
そういう思いもしないような中で私たちは今日あるわけですね。
押し流されるというのは多分こういうことなのかなと。
せっかく与えられたこの救いというものが、
そういう思いもしないような事柄の中で、
ついその信仰というものがですね、
イエス様に向かうべきその思いというのが押し流されてしまうということです。
図家による福音書の発祥でしたが、
そこにはイエス様が一つの有名な例え話をなさいました。
それは四つの種がそれぞれのこの地に落ちたという。
そこを読んでいきますとね、せっかく撒かれたその種、
私がここを読んだときに、
なんでそんな意志地に落ちるような撒き方をするんだろうかな。
我々に恩人の感覚としてはこうしてね、
06:00
一つ一つ土の中に埋め込んでいきますよね。
バーってやるというようなことはない。
ただ、聖画というんですか、あれを見てみますとね、
なんか袋からバーってやっている。
日本で言えば鬼は外、福は内みたいな、
そんな感じでこうやっているので、
あんなやり方をしたら、それは収穫薄いわなというような、
しがれみたいなことを考えたり言ったりも、
とにかく聖書を開くとそういう批判できるようなことが
時に出てきますのでね、
そうやってややこしくしたりすることもあったんですが、
しかし今の岩井さんの例え話を読んでいきますと、
それぞれ撒かれたその種によって悪魔がやってきてね、
だからこうつまんでしまうとか、
あるいは石々に落ちた種に鳥が飛んできてでしたかね、
つまんでしまうとか、あるいは根が張らない、
そのために途中まではうまくいくんですけれども、
あとはダメになってしまうとかっていう、
そういう見通りの種の、それをそこに書いてあります。
それで4粒目がですね、から落ちてこう落ちて、
そしてそこからやがて100倍以上のその実を結ぶんだ、
という岩井様がお話しなさった、
そのことを思いますとね、
押し流されるというのはこういう例えの中にもあるのかなと、
つまりせっかく撒かれたその種が、
そういう余分な、あるいは思いもしないようなこと柄が実に起きて、
そしてそれでですね、その実を寄せ、
あるいはこのつままれて、
あるいはこういうひでりの火が続くと、
しっかり根がついていないものですから枯れたりして、
ダメになってしまう。
私たちはそういう関係でこの岩井様の話を
今日いただいているんですけれども、
せっかく撒かれた種をね、私たちのうちに、
それこそこの言葉でいうと、
しっかりと心に留めなさい。
押し流されてはならないということを言います。
あまりにも私たちの周りには、
そういうせっかくの種を押し流されてしまうようなこと柄に直面する。
申し上げたこのコロナの問題もですね、
日頃は安らかって言っているのが、
実際、2週間目私はどこに行ったんだろうかな、
このちょっと熱感がとかいう余分なことをふっと考えたりですね、
しっかりしっかり持っているのはどうしたらいいの、
と言われたりもするような不安な気持ちに追いやられたりする。
そういうことも起こりるわけですね。
だから今のときこど、しっかりと心に、
09:00
その種の言葉を心に留めておきなさいよというのが、
最初に進めているところのこの言葉です。
実際、聖書を見ておきますとね、
旧約聖書なんかはいくつかの例を挙げておりますけれども、
心に留める一つは、
ダビネが王様として、
その働きを、その結果をイスラエルの繁栄にもたらしていく。
戦えばもういつも勝利ということで、
彼はそれこそ、
そういう将軍であり、王であり、また大きな働きをした。
そして、いまだにイスラエルの建国者として、
尊敬され、崇められているわけです。
ところが、このダビネがね、
その戦いでもって勝利を収めて、
もう自分に向かう敵はないだろう。
しかしそういう示しがあるならば、
全軍をそこに向かっていく。
もうここでは自分が出る幕でもないだろうということで、
これはサムエル記の下の方ですね、
2の方の何章でしたか、
6章、7章あたりでしたでしょうか、
見ていきますとそういうことになります。
記されている。
ところがですね、
ダビネはここの聖書の言葉を言うように、
押し流されるという、
思いもしないところで、
彼はそこに直面するわけです。
敵に対して勝利を得るであろう、
全軍をこの第一線に送った。
その中にウリアという将軍もいた。
その留守を守っておりました夫人のバテシバという、
彼女との間にね、
そういう今で言うならば、
分身法というんですが、
なんかそういうものがあったならば、
もうすぐに指摘されて、
社会的な問題になるんでしょうけれども、
しかし神様はナタンという一人の預言者を通して、
ダビネの過ちをそこで指摘する。
その指摘されるまではね、
彼は何とか彼女との間違いを合法的にしようということで、
その前線に向かっているウリアを戦死させる。
それで未亡人となった彼女を自分が優しく迎える。
いかにもそれは社会主義のように映りますし、
さすがダビデ王だというような、
そういう光景でもそういう一幕でもあるわけです。
それをね、ダビデはうまく使おうとしたんですけれども、
12:02
しかしその心は、
この言葉のように、
主の言葉をしっかりと止めておったはずなのに、
つい夕方起きて、
そして外を見たら、
一人の女性がですね、
今のようなこの暑い時だったのでしょうか、
水を浴びていたというところから、
彼の心に隙ができて、
そして彼は大きな過ちを犯していく。
予言者に指摘されるまでは、
何とかこれを作ろうということで、
一応一面上、この表的にはそれができたんですけれども、
しかし内心はそうではなかった。
押し流されちゃった。
そういう出来事がですね、
このルカにお知らせしました、
サム駅のラインの方にお記されております。
このヘブル賞は、
この3節を見ますと、
1節からちょっと見ますとね、
私たちが聞いたことをますますしっかり心に止めて、
押し流されないようにしなければなりません。
3節、私たちがこんなに素晴らしい救いを
ないがしろにした場合、
どうして逃れることができましょう?
ないがしろにするという、
無視するとかね、
あるいは軽視してしまうとか、
そういう意味合いを込めた、
この警告的な言葉です。
こんなに素晴らしい救いという、
私たちはそういう救いを、
今日いただいているわけですよ。
だから余計ね、
周囲のことでもって、
この真理を、主の言葉を、
ないがしろにするようなことになってはならない。
私たちに与えられたこの救いについて見てまいりますと、
これは、この3節の今読んだところの次に、
この救いは、最初主によって語られたと書いてあります。
イエス様が私たちに教え、
そしてまたそこに大きな大きな技をなし、
そして私たちはそれによって、
今日のこの救いに預かっている。
パオロという人は、
私はこれはね、
15:01
パオロは意識して、
まあ無意識で書くことはないんですけどね、
意識して私たちに語られた、
主の言葉ということを、
本当に置きながらこれを書いていると思う。
と言いますのは、
当時パオロを苦しめた一つの事情は、
そのペテロとかヨハネはね、
直接イエス様にお従いしてね、
そして直にイエス様の話を聞き、
そして直にその目でもって、
イエス様の名をなさる噂を見てきた。
けどパオロはね、
そういう弟子たちに比べるならば、
非常にランク落ちしている。
彼はイエス様にお会いしたこともないし、
直接聞いたこともないんじゃないかな、
そういうこと柄でもってね、
パオロが伝道すると、
言うならばパオロの働きに妬みを持った、
当時のユダヤ教の教師たちがですね、
ありえないこと柄、
ありもしないこと柄をそこに、
あたかもあったかのように、
この不一致をして、
そしてパオロの信護を貶めようとした。
つまり直接の弟子でない彼が教えたところで、
ペテロはヨハネの教えならば私のことを、
しかしパオロが語っているそれは、
そうではないんだ。
ですからそういう事情のもとでもって一つは、
ガラテア人の手紙が書かれたとも言われておりますよね。
パオロはそこで自分の証としてね、
これは人によってではなく、
私は精霊によって、
主が私に語ってくださったことが何よって、
今の私があるんだということを、
そこで証ししております。
実際パオロはそのように、
人が誤解するようなことを自分に向けて、
そうしてやったんですけれども、
彼はそういう中でもね、
ひたすら主の言葉を信じて、
そして主が私に語った言葉として、
彼は固くこのことに立って、
その信仰生活、
彼は主とパオロとしての使命を成していった。
ですからパオロはここで、
あなた方も私も、
主が私たちにそれぞれに語ってくださった、
そのことを通してこの救いを知ったのではないか。
18:02
パオロの言葉によると、
これはコリント大使の手紙の15章、
ちょっとそこだけ開きましょうか。
コリント大使の手紙の15章、
これはパオロの復活論がそこに記されているところですが、
この15章の3節でも、
ページ数で言いますと340ページになりますが、
私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは、
私も受けたことであって、
次のことです。
キリストは聖書の示す通りに、
私たちの罪のために死なれたこと、
また葬られたこと、
また聖書の示す通りに、
3日目に蘇られたこと、
またケパに現れ、
それから十二弟子に現れたことです。
さらに6節。
その後、
キリスト500人以上の兄弟たちに同時に現れました。
その中の大多数の者は今もなお生き残っていますが、
すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストは役に現れ、
それから人たち全部に現れました。
そして最後に、
付き足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださいました。
あらこれ、私にも主が語られた。
そしてそれは聖書の中でも最も大切なこととして、
このお方が私たちの罪のために死なれたこと、
葬られたこと、
そして聖書に書いてある通り、
蘇られたこと。
これが私たちに向けられた、また成し遂げられたこの救いだ。
もし、ヨハネやペトロのように、
直接イエス様のことを聞き、
そしてまたイエス様がなさったことを見ているならば、
そしてそれだけがクリスチャンになれる、
あるいは人としての資格だというのであれば、
そういうことに接していない、
21:01
これはパーロも含めてですよね。
私たちは、
ヨダラは偽教師たちが言うような、
そういう枠の中には入れない、
そして私たちはそのイエス様の救いを知らなくなってしまう。
しかし、ペトロたち、ヨハネたちに現れたように、
イエス様は、
今日私たちにもその救いを明らかにしてくださった。
つきたらずで生まれたようなこんな私にも、
イエス様はこれほど大きな救いを成し遂げてくださったんだ。
パーロにとっての根拠はここなんですね。
見たからではなくして、
主が語られた言葉を、
直接ではないけれども、
しかし主が語られたこのお言葉を、
今私たちは信じたことによって、
今日の救いに預かっている。
私たちに与えられたこの救いは、
こんなにも大きな、
尊い救いだということを、そこで言うのです。
そして同時に、パーロは、
主がもちろん語ってくださったんですけれども、
もう一つの点は、その後に続くのですが、
3節の後半。
最初に主によって語られ、
それを聞いた人たちが、
確かなものとして、これを私たちに示し、
私たちに証してくれた。
当時の人だけではない、
そのパーロをはじめ、
当時のクリシアンたちから伝え聞いた、
この福音というものを、
私たちが今日、聞いて、
信じて、救いに預かっているのが、
この大きな救いなんだ。
信じた人々が私たちに伝えなかったならば、
今日の私たちはない、と言ってもいいぐらいの
力強さを持ってパーロを語るんですね。
限定された十二弟子、
またパーロもその人に加えようかというような、
そこで加えられたような、
限定された人々だけではない。
神様は、そういう人々を通して私たちに、
今日、与えてくださったこの救い。
だいぶ前になりますが、
私がまだ平方におりました頃に、
当時、アメリカのフラージン学校でね、
境界成長ということを中心に教えておられた
ウィーン・アーンという教授が来られて、
境界成長に関わるセミナーを開かれたんです。
私はその時のことが忘れられないんですが、
24:00
その先生が講演を始める時に、
実は私はこういう実験をしたのかね、
こういうことをしてみました。
境界の人たちにそれぞれね、
自分が境界に行く、
あるいは神様を信ずるきっかけは、
どういうことでしたか。
一つは、境界で行われたコンサートに
誘われて行ったとかね、
あるいは境界のバザーに行ったとか、
何かそういう境界が表に向けてなさっているコンサートや
いろんなそういう映画会とか、
そういうことでもってそこに行って、
それで境界に行くようになった、
きっかけになった人はどうぞ手を挙げてくださいと言ったら、
結構手を挙げましてね。
それから自分の方から境界に行った人は
どれだけおりますかと言ったら、
100人ほどの僕ですけれども、
パラパラと2,3人おったかなという、
そんな印象でした。
一番多かったのは、
では改めて聞きますけれども、
音楽界にしろ何しろ境界にですね、
誰かが誘ってくれた、
友達であるとか、
親であるとか、
あるいは兄弟であるとか、
誰かがそういう機会を知って、
そして自分を誘ってくれた。
それがきっかけになって境界に行くようになった人。
そしたらほとんどの人たちが手を挙げました。
私もその一人なんですけどね。
友達に誘われて、
じゃあ一回行ってみようかということで行き出した。
そういうきっかけは、やはりそういう友達がおった。
ただ私の場合は、
彼もまだイエスさんも信じたわけじゃないんですよ。
ごさごさやってるような、
行ったり来たりするような、
そういう二人だったんですけどね。
それでもやっぱり彼が誘ってくれた。
それが後にイエス様を信じるきっかけになったのは事実なんです。
こうして見てまいりますとね、
大切なことは、私が直接聞いた。
直接聞いたそういう人たちもいるでしょう。
でもやはり教会に行ってみようかという思いの中にはね、
そこに誰かが自分に明かしてくれたという、
そういう仲介する人がいるわけですよ。
このウィン・アーム先生は、
これが大切なんです。
直接求めていく人も大切ですけどね。
何気なく誘ったその人が、
後にこの教会に行くようになって、
そしてイエス様を信じますという、
その人の隣人になるというのは、
これが教会がそこでもって成長していく大切な要因だということを話されたんですね。
そうしていきますと、私も当時平方時代でしたけどね、
27:02
ちょうど使わされたのが開拓時代でしたから、
20名で入る目標にしようと言って、
15名で集まったらいい方だなと言ってね、
お互い励まし合ってたんですよ。
でもその教会がね、不思議と人が加わり、
しかも離れる人がいなかったものですからね。
ですから加わるだけだったから、
割合早いうちに20人が30人になったとか、
そういう時がありました。
それはね、一つは、やっぱりよく誘うんですね。
誘ってくるんで、それでっていうきっかけを作られて、
教会にそしてまた最終的なイエス様を信じて、
そしてその人自身も友達にイエス様のことを伝える。
それでその小さな教会がね、割合早い時間で、
20名から30名、30名から40名ぐらいになって、
途中で無理なことをやりましたけども、
街道建築しようと言ってですね、
それまでは公民館であるとか何とかというところを借りては、
クリスマスやいろんなことをやってたんですけどね、
まあそういうところを通りながらね、しかし守られて。
じゃあ何で割合短い時間でそういう風に教会になったのかって言われたら、
その原因はよくわかんないですね。
ただ聞いた人自身が友達を誘ってきたっていうのが、
まあ強いてあげればそういうことでしょうかね。
しかしそれはこうして見てまいりますとね、
聞いた人自身がイエス様のことを伝えるということにおいて、
大きな働きを進めるきっかけにはなったようです。
ヨガネニョル福音書の4章は、
イエス様がサマリアで伝道したっていうのではないんですけどね、
その思いもしないコースを弟子たちにすればですよ、
たどってこう行くもんですからついていった。
もうこんなところ通ったら自分が怪我されてしまうみたいな、
そんな思いで持ってペトロたちがイエス様にぶしょぶしょついていったんですけども、
あるところに来たらイエス様はそこでお休みになった。
その間に彼らは食べ物を探しに町へ出かけていった。
そして行くうちに一人の女性が水亀をこうして持っているでしょうか、
結構大きな水亀ですよ、本物を見せてもらいましたけどね。
これに汲んでと思いましたけども、
彼女がこういう日の背中の暑い時にやってきて、
そして水を汲んで立ち去ろうとしましたが、
ユダヤ人であるイエス様が私に水をいっぱいくださいと言って求められた。
それがきっかけで彼女はイエス様から話を聞く。
30:00
そしてそのことを通して彼女の心の中にね、
私は今ね、それこそイエス様に出会った、メシアに出会った。
そう言って、サマリアの町の人々にそのことを伝えた。
それを聞いた町の人々は、え、そんなところにイエス様が、
と言ってもですね、サマリア人から言うならユダヤ人ですからね、
そんな心安く、じゃあ行ってみようというわけにはいかなかったんでしょうけども、
そう言った。
そして彼らはそこでイエス様を信じた。
思いもしないようなサマリアにおいてのですね、
大きな神様の働きがそこで展開した。
聞いた人々は言いました。
あのせっかくだけど、私はあなたが確かに聞いたのは聞いた。
けども本当に信じたのは私たちも直接ね、イエス様から聞いたからね。
あなたが誘ってくれた、あなたが言ってくれたからじゃないよというね、
まあそこまでこの女性は一般のサマリアの人々からは
軽視されとった、軽蔑されとったんですね。
しかし事実は事実ですよ。
イエス様が聞いた、このサマリアの女性が、
そのことをサマリアの人々に伝えた。
それでもって半信半疑に、そのスカルの井戸に行ってみたら、
そのイダヤ人がおった。
そして彼らのそこでイエス様のお話を聞き、そこで信じたと書いてあります。
この女性はね、私が紹介したんだからもっと私を大切にしてとかね、
なんか私のそれは責任範囲だからあまり立ち入らないでというような、
そんなことを彼女は言ってもいませんしまた、
私たちはそういう思いを持っちゃいけない。
中にはね、一生懸命私が祈って祈ってそうして誘ってきたんだから、
あんまり周りの人から誘いかけないでくださいみたいなことをね、
実際に言う人もおったんですよ。
これは人はちょっと伝道ということが、イエス様の見込みがどういうことか、
分かってないんだなあと思ってね、改めてその人に伝えましたけれどもね、
中には私がやったんだっていう、私が導いたんだっていう。
だからこの人の責任は私が持ちますって言って、
そりゃ最後まで責任持ってくれたらいいですけども、
後にはですね、そういうやり方をするもんですから、
その人もせっかく来た人もつまずいちゃったね、教会から去りましたけどね。
教会ってのはそういうところじゃない。
自分に与えられた恵みをいかに人々に与えるか。
パウロはここでそのことを言ってるんですね。
聞いた人たちが、その確かなものとしてこれを明かしした。
そして最後にもう一点ですけども、
この次を読んでいきますと、また、
33:03
四節、その上神も、
知るしと不思議と様々な、様々な力ある技により、
また見心に従って聖霊が分け与えてくださる賜物によって明かしされた。
ここではね、私たちが明かしたっていう、それも素晴らしいんです。
しかしこの事実をね、神が聖霊を通して、
そして私たちによってそれが明かしされていた。
この救いは、神ご自身が私たちに示されたところの救い。
だからパウロは、こんなにも尊い救いを、こんなにも素晴らしい大きな救いを、
私たちはね、せっかくのこの真理を何かによって押し逃されないように心しなければなりませんという、
それをここで持ってくの言うのですね。
注目すべきは、とんで、この旧説ですが、
ただ見つかりよりもしばらくの間ひくされた方であるイエスの御党は見えています。
イエスはここに、死の苦しみのゆえに、栄光とおまれの冠をお受けになりました。
その死は神の恵みによってすべての人のために味わわれたものです。
神がなさった恵みある業、神が私たちに明かしなさったその業、
それはここでは神の恵みというふうに書いています。
パウロはまたよくこの言葉を間違い深くいろんなところに書き送っています。
しかし、この神の恵みというこの言葉の中には、
私も本当に神様の恵みがなかったら、
今日まで信仰を生活を歩んでくることはなかっただろうな、
神様の恵みだな、神様の憐れみだなといつもこう思う。
ところが、ある集会書を読んできましたら、
この恵みって書いてあるこの恵みの中には、
神抜きでとかね、神なしでとか、そういう意味もある。
しかしこれはもちろんやる無神論とかね、
そういう信仰を否定するようなそういう意味での言葉ではなくて、
36:01
その神抜きとか、あるいは神なしというのはね、
これは神に捨てられたという意味がそこにあるということをそこで書いておられた。
ああ、ここにはそういう意味なんだな、
神の恵みによって、私たちは、
死後私たちに向けられたその恵みの数々を覚えておりますけれども、
しかしその恵みのそれはどこにあるかというと、
このお方が捨てられるはずの私ごときもののために、
私に代わって神に捨てられた、これが恵みだ。
ここでいうこの恵みは、そういう意味合いを込めた、
そういうこの恵みなんですね。
事実私たちは、本来ならば自分の犯してきた罪のために、
捨てられるべきはずのものが、捨てられないままで、
そして今あるというのは、
私に代わって捨てられた方がおられではこその、
今日のこの救い。
これはね、こんなに素晴らしい救いはそこなんだということを、
そこで力説しているかのように見える言葉なんですね。
誰もがやがて神様の前に立てられる。
しかしそこで取り成すイエス様は、
私は斎藤というこの人間のために、
このものに代わって私自身が十字架に捨てられたんです。
そしてこのイエス様は、
その十字架で持っていけられた身傷の一つ一つを示されて、
そして私たちのために弁護してくださる。
それが横根大臣の手紙の一章二章に言われているところの言葉です。
捨てられるはずのない方が、
私たちに代わって捨てられたればこそ、
捨てられて当然のものが当然でなく、
今日この救いに預かって、
これが神様の恵みだとここで言われている。
それより私たちはこんなにまでも素晴らしい救いをいただいて、
今日あるわけですね。
イエス様の十字架の最後の場面を見てまいりますとね、
別のこの宗教家たちは、
キリストが生きているときはかっこよくみんなを引きつけてそうしてやっただろう。
39:03
しかし最後にはあんな風にしてリンチを受けて十字架で殺されたではないか。
しかも十字架につけられたときに彼は、
どうして私がお店になったんですかと悲鳴を上げた。
そういう風にしかあの場面は映らないんでしょうね。
本来は私があの場面で神様に言うならば、
なんで私をしているんだったんですかと、
お前は言えるかということを尋ねられたことがあります。
自分の犯してきたこれまでの罪を考えれば、
そんなね、もうここから先までもどうして私をこんな目に合わせるんですかと、
言えないはずだと。
結構私たちはね、辛い目にあったりすると、
なんで私だけがこんな目に合うんですかという、
そういうことを不満をね、言うことがある。
しかしイエス様のあの十字架はね、
それこそここから先一言もイエス様は、
ご自分をお世辞になった方に対して、
そこでもって不栄不満を言っているんじゃない。
しかし親しくしてこられた父との関係がそこで、
私たちの罪を背負ったがゆえに捨てられるという、
この関係が断たれるという、このことによってイエス様はね、
これほど大きな団長の思いをするのではない。
それは我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。
捨てられた、この方が捨てられた場合こそ、
今私たちが捨てられるはずの私たちが、
今こうして捨てられないままに今日ある。
これがこの救いだ。
こんなに大きなたっとり救いを、
私たちは何かでもって押し流されないように。
お祈りしましょう。
41:15

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