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2020-08-09 43:44

2020/08/09:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(11)財産を預けて旅に出て行く人

2020/08/09 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 -30

00:01
ありがとうございました。
改めて皆さん、おはようございます。
朝から蒸し暑い一日ですけれども、
このように信仰を持って、
例外にいらっしゃった皆さんの主が喜ばれると、
そういうふうに信じております。
私たちはですね、今年、今だかつてなかった、
未曾有のような一年を過ごしております。
コロナというウイルスの感染、
それが私たちに恐れとか心配をもたらしているかと思います。
確かなことはいつなのか分かりませんが、
どんどんどんどん、イエス様の再臨の日が近づいてきているのかもしれません。
このような時に、私たちは目を覚まして、
主を礼拝し、神を愛し、兄弟姉妹たちを愛する、
そして全身全霊で主に従っていく、
私たちでありたいと願っております。
今日は、シリーズメッセージの11回目になります。
イエス様の例え話、私たちへの問いかけ、11番目。
財産を預けて旅に出て行く人。
財産を預けて旅に出て行く人が、今日のタイトルです。
ずっと、この田江の訓書から、天皇御国は何なのか、
11回目の話を聞いて学んでおります。
少し皆さん、天皇御国はこういうものだなと、
少しでもつかめていらっしゃるのでしょうか。
この14節をよく読むと、天皇御国は、
何なのか、何の用なのか、
下辺たちを呼んで、自分の財産を預け、
旅に出て行く人のようです、と始めます。
だから、この話は、実は、
25書、この田江の訓書の25書には、
大きな3つのイエス様のパトヤ話が語られているんですね。
先週は、10人の娘、花向こうで迎える10人の娘の話がありました。
そして今日は、自分の財産を預けて旅に出て行く人の話。
よく、タランドのパトヤと言われていますが、
それについては、また後で詳しく話したいと思います。
そして、この25書の最後に、
今日30節まで読みましたけれども、
03:01
31節からは、もう1つのパトヤ話が出てくるんです。
それは、人の子が来られて、つまりイエス様ですね、人の子は。
イエス様が再び来られて、
その時、羊と焼きとして分けられる。
それが、この大きな3つのパトヤ話が、25書にここに書かれているんです。
この3つのパトヤ話を、今日は全体像から学んでいきたいと思います。
10人の娘、財産を預けて旅に出て行って、帰ってくる主人の話。
そして、人の子が来られて、羊と焼きに分けられるパトヤ話。
3つには、大事な共通の教訓がありますね。
今日はその3つの話をしたいと思います。
まず第一、それは、この3つのパトヤ話には、全部、そこには主人、主人公がいるという話であります。
最初の10人の娘の話では、そこで主役、主人公は娘たちではなく、花婿なんですね。
花婿が主役なんです。主人公であって主なんですね。
そして今日のパトヤ話の主役、主人公は、タラントを預かった3人の師妹ではなく、
その財産を預けて旅に出て行くその人、その主人が主人公であって主役なんです。
3つのパトヤ話も、人の子であるイエス・キリストが主役であって、いわゆる主人公なんです。
何の話でしょうか。
だから今日のこの14節から30節の、よくタラントのパトヤ話として話をして、
一生懸命に働きましょう。熱心に奉仕しましょう。怠けたらいけません。
そういった例えば倫理とか道徳、モラルの話、勤勉になりましょう、真面目になりましょうという話は、
このパトヤ話の全体像から見れば、第一の目的ではないということがわかります。
特にイエス様この話、3つのパトヤ話を25章にされて、そして26章から何の話が始まると思いますか、皆さん。
十字架の話が始まるんです。話ではなく実質ですけどね。十字架の出来事が始まるんですよ。
だからこの3つのパトヤ話、天皇御国の話は、どこに繋がるものなのか、イエス様の十字架、死、そこに繋がるという話になりますね。
06:12
だから今日の話は、タラントの話と言われますが、
実はその下目たちが主役ではない、主人公ではない、そこにポイントがあるんじゃなくて、
ここの話の主人公は、自分の財産を預け、旅に出ていく人、この人なんですね。
その主人公は誰でしょう。神様であって、イエス・キリストでしょう。
そしてその方は私たちの人生の主人公でもあり、私たちの人生の王でもあるということを覚えてほしいんです。
さあ、皆さんここで立ち止まって、自ら自分自身に尋ねてみてほしいです。
私の人生の本当の主役、主人公はイエス様なんだろうか。
私の人生の主は、もしかしたら私ではないんだろうか。いかがでしょうか。
人が必ず知っておくべき、とても大事な本文があります。
それは、私は下目にすぎない。私は主人公ではないということです。
主はイエス様。その方だけが主役、主人公であります。
これを告白して、その告白を通りに生きる人が幸いな人です。
世界を支配しておられるその方は誰でしょう。神様です。
私たちはこの方を愛して、礼拝の中でその愛を告白します。
また、聖書の御言葉を聞いて、そこから神様の御言葉をより深く知ります。
私たちは皆、そのような主役ではなく脇役なんです。主演じゃなくて助演なんですね。
主人公は神様であってイエス・キリストなんです。
私たちは脇役の仲間である兄弟姉妹たちと共に祈り合い、愛し合うことを学んでいきたいと思います。
ところで、人に、またこの世界に、不幸はなぜ、どこから始まるんでしょうか。
あるいは今、なぜ不幸が起こるんでしょうか。
それは根本的にそれを突き詰めて考えていくならば、
09:00
それは脇役である私たちが人生の主人公になろうとするところから、罪による不幸が始まるんです。
例えば皆さん、荘石を見ると、アダムとエヴァがね、
神のようになりたくて、賢くなりたくて、全部が知りたくて、
あの善悪の知識のあの実を食べてしまったんですね。
それはアダムとエヴァが神のようになろうとするところから、
自分は脇役であるしもべに過ぎないものが主となろうとする、主人公となるとする、
そこに不幸が始まるということであります。
今日のですね、ひとえ話、よく皆さん読まれてご存知の話だと思いますけれども、
主人がいました。その人が長い遠い旅に出かけました。
それでね、自分の財産をその能力に応じて、
一人には一たらんと、一人には二たらんと、一人には五たらんと、
それぞれ預けてね、旅に出たわけなんです。
そしてその主人はどうですか。行ったきりじゃなくてですね、帰ってくるんですよ。
帰ってきて何をしますか。生産をする。
さあ、そこでですね、よくこれを理解が間違ってですね、
差別があるんじゃないかと。みんな五たらんと預けるか、
みんなに一たらんと預けるか。
なんでこの人には一たらんと、この人には二たらんと、この人には五たらんとなのか。
不満を持ったりね、差別の話のようにこれを理解しやすいかなと思いますね。
あるいはさっきお話ししましたように、この二たらんとと五たらんと預けられた下人のように、
熱心に働かなくてはならないのに、この一たらんと預けられた下人は怠けたとか、
そういう話として理解しやすいと思いますけれども、
この全体像から、そしてこの又井の福音書の流れから、そしてこの十四節に書かれているように、
この話のポイントはここに差別があったり、そういう話ではなく、
これは主が、主人公である神様が、主がその思いのままに、
御心のままに主権を持って、この人には一たらんと、この人には二たらんと、この人には五たらんとを主が預ける。
それは主なる神様の御心のままであるということなんです。
12:06
私たちはそれを認めるところから信仰をスタートしなければならないんですね。
人生の主人公は神様である、イエス・キリストであると告白する者はいつも、
へり下って、しもべの姿勢として、神に仕え、あるいは教会に仕え、人々に仕える人だと思うんです。
その人はいつも、もう主は神様である、王は神様である。
私は王でも主人でも主役でも何者でもない、ただのしもべにすぎない者である。
そういう謙遜をまとって仕える者が、神に喜ばれる聖徒ではないでしょうか。
先ほども話をしましたように、人生に何でトラブル、問題が起きるのでしょうか。
それは人が神になろうとするからです。
人々が塔を作って、バビル塔になって、神に至そうとするから、
あるいは、聖徒が先生になろうとするから、妻が夫になろうとするから、
そこから罪が、不幸が始まるのではないでしょうか。
そこにあるものはですね、人が神になろうとするところにあるものは、
争いであったり、憎しみであったり、不満であったり、悪であったり、罪であったりするということです。
しかし、幸いな人は、主曲される人はどうでしょうか。
天の御国は、王である神様、主である神様を礼拝して、
その方を愛して、その方にお仕えする国が、天の御国であります。
そして、私たちは助言である、エキストラである、脇役である、
お互いに愛し合って、誓い合って、
そして共に天の御国を建て上げていくそこが、本当に天の御国ではないでしょうか。
私はいつも皆さんに感謝していることがあります。
私のような足りなくて、過ちや失敗だらけのとこしのために、
皆さんが本当に心から祈ってくださったり、支えてくださっておられること、
それを本当に心から感謝しております。
また、この明太の教会だけではなく、選挙史として韓国にも、
15:03
幾人かの友人の牧師とか、あるいはサポートの教会が覚えて、
祈ってくれていること、本当に感謝しております。
先週も、今、日本は梅雨が終わって、こういう猛暑になっていますが、
韓国は、洪水がものすごい豪雨で、全国的に大きな被害があって、
私のテゴというところにいる、小さな教会の担任牧師をしているリュウジットに連絡をしたところ、
教会は無事であると、日本でコロナの中で選挙をしていて、
困ったことはありませんか、みたいに話をしているうちに、
彼が毎週金曜日の深夜鬼と会で、我が家のために、明太の教会のために、
祈っていますよ、と一言をもらって、本当に大きな力になって、本当に感謝いたしました。
みなさん、天皇三国は、主なる神様を愛して、その方だけを礼拝して、
しもめである兄弟姉妹たちが互いに愛し合って、互いに減り下って、
そして、ただ、御国のために働いていく、そこが天皇御国である。
そして、私たちはその天皇御国の民であるということを覚えてほしいんです。
2番目、今日、天皇御国の例え話、それから先週の10人の娘の話、
それから、再来週になると思いますけれども、31節から始まる、
人の子が来られて、羊とヤギに分けるという話の、この3つの例え話から、
教えられる共通の点がある。
それは、誰かは入れられる、誰かは追い出される、
誰かは祝福され、誰かは呪われるということであります。
先週の10人の娘はどうでしたか?賢い灯火と油を用意していた5人は、
新郎の婚姻の宴会に入れてもらいましたね。しかし、愚かな5人はどうでしたか?
入ることができなかったんですね。入れないものが異常形なんです。
今日の3人の娘の中にも、1タラントを預けられた者は、
この今日の例え話のイエス様の最後に30節に、こう言われました。
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役に立たぬ娘は、外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて吐きしりするのです。
そういう娘が3人のうちに1人がいるという話になります。
そして、31節から始まる人の子が来られる、そして羊とヤギに分けられるという話の、
最後の41節のところを皆さん、ほっとご覧くださいますか。
21節、二十五章の41節を見るとですね、
それから王はまた、その左にいる者たちに言います。
呪われた者ども、あたしから離れて、悪魔とその使い立ちのために用意された永遠の日に入れ、
とですね、恐ろしい見言葉が語られました。
つまり、簡単に話をしましょう。分かりやすく。
最後の日には必ず分けられるという話になります。
入る人、入れない人、神様に祝福される人、呪われる人として必ず分けられる。
ところがどうですか、皆さん。
私たちはこういう結論はあまり好きじゃないんですね。
全部みんながハッピーアンドニーで終わってほしいんです。
みんなが幸せになって、みんなが救われて、みんなが愛されて、みんながいいよとね、
そんな結論になってほしいんです。
その方が嬉しいんですよね。そうかもしれません。
教会でもですね、あなた方は罪人ですよ、悔い改めましょう。
十字架の実用に思ってですね、悔い改めましょう。
そういったメッセージは、現代の教会は人々あまり聞きたくないんです。
ただ、希望、あなたはできますよ。
アメリカの教会のみたいにね、ポジティブ・シンキングですね、
肯定的なですね、希望の話、祝福の話、そうしないと教会が集まらない。
罪や悔い改め、十字架の話をしたら、人々はあまり好まない。
現代の風潮なんですよ、皆さん。
ところが、この25章皆さん、ぜひですね、じっくりと読んでほしいですけど、
3つの例え話の結論には、必ず分けられるんですよ、結論。
そうでしょ?
入れる人がいる、入れない人がいる。
褒められて、称賛される、報えられるしもべがいて、
一方では、泣いて、はぎしりするしもべがいる。
21:00
辻として右に立てられて、本当に多くの祝福をいただく者がある一方で、
もう悪魔のために用意した永遠の刑罰に落とされる者がいると。
分けられる話なんです。
ところが、今日の話を少しだけ掘り下げて話をすると、
この1タラントを預かったしもべは、なぜこんなにもこの主人に呪われたんでしょうか。
非難されたんでしょうか。
この理由は何だと思いますか、皆さん。
彼が怠けたからでしょうか。熱心がなかったからでしょうか。
あるいは頭が悪くて、これで何とか異則でもつけるようにしたらよかったのに、
それができなかったからでしょうか。
それは決定的な理由ではないんですよ。
このしもべが祝福されなかった理由、呪われた決定的な理由は、
24節から見ていきたいと思います。
24節からご覧ください。
この主人としもべの話をよくご覧ください。
ところが、24節です。
ところが、1タラントを預かっていた者も来ていった。
彼が自分のご主人をどのように理解して考えているのか、
何と言っているのかを注目してご覧ください。
ご主人様、あなたはまかないところから狩り取り、
散らさないところから集めるひどい方だとわかっていました。
私は怖くなり出て行って、あなたの1タラントを地の中に隠しておきました。
さあ、どうぞ、これがあなたのものです。
皆さん、どうですか。
同じ家に3人のしもべが一緒に仕事をしていたわけなんですよ。
ところが、5タラントと2タラントを預かったしもべは、
こんな思いを持っていますか、持っていないんですか。
持っていないんですよ。
すぐに出て行って働いて儲けたわけなんですよ、5タラントと2タラント。
同じ家で同じ仕事をしていても、2人は5タラントと2タラントを預かった者は、
自分の主人がどういう方なのか正しい理解を持っていた。
よく知っていたわけなんですよね。
しかし、この1タラントを預かったしもべは、
一緒に仕事をして、一緒の家に行って、一緒に食事をして、
同じ主人に仕えていても、全く間違った理解を、
もう勝手な思いで、私の主人はこんな怖いもので、頑固なもので、
だからこれは働くよりは地に埋めて、後でこのまま返した方がよかろうと、
24:06
もう自分勝手なイメージで、主人を間違って知っていたということであります。
だから、主人がこのように言っています。26節ご覧ください。
ところが主人は彼に答えて言った。
悪い怠け者のしもべだ。
私がまかないところから借り取り、散らさないところから集めることを知っていたというのか。
だったら、お前はその私の金を銀行に預けておくべきだった。
そうすれば、私は帰ってきたときに利息がついて返してもらえたのだとあります。
皆さん、このしもべの根本的な問題は何でしょうか。
怠けかもしれません。しかしもっと根本的なものは、
自分の主人がどんな人なのかを、全く間違った理解を持っていたんです。
いや、知らなかったんですね。知らなかったんです。
他のお二人はよく知っていました。
しかし、このしもべはもう自分勝手に、
この主人はもう頑固で、もうケチな人だからねと、
勝手にイメージを描いて、そういうふうに考えを思い込んでいた結果、
そこが決定的な問題なんです。
皆さん、この話は私たちにも適応できる話だと思うんです。
もし私たちが神様を知っているようで知らないであれば、
あるいは自分は知っていると正しく知っていると思うんだけれども、
実はそれが間違った、この一太郎とのしもべのように間違ったイメージを持っているとすれば、
それは大きな問題になると思うんです。
皆さん、私たちは神様が本当にどのようなお方であるか、
正しく知ること、正しく理解して、正しく信じることは非常に大事なことなんです。
ところが、私たちは忘れてはいけないこと。
私たちには罪の性質があるんです。
犯行心があり、罪の誘惑に弱い、
自己中庸心的な自分の性質が我々にあるんだから、
私たちは自分が知りたいことだけ知って、聞きたいことばかり聞いて、
自分が思いたいことばかり思いたくなる、そういう稽古が我々にあるということを否めないと思うんです。
だから、私たちは神様に対しても聖書的に正しく知らなければならないのに、
27:06
それができない場合もあるんです。
もちろん、本当によくよく聖書を読んで、よくよく学んで、よく聞いて、
そして正しく神様を知る人もたくさんいらっしゃいます。
しかし、そうでない人もいます。
教会の中、外は別として。
私が知りたい神様だけ知って、私が描きたい神様のイメージだけ持って、
そして私が聞きたい話ばかり聞こうとする、
そういう時代の話は、聖書の歴史書だけ読んでも、
もう人間の根本的な問題なんです。
みなさん、サムエル記1-2、列王記1-2を読まれたことありますでしょうか。
ぜひですね、歴史を学んで読んでほしいんですけれども、
どの時代もですね、神の御言葉が語られて、聞くものがあり、聞かないものがあります。
それはイザヤであろうが、エリアであろうが、語って聞き従うものがいれば、
聞きたいものがないものがいるんです。
神様の理解が間違っているんです。
さっきも話をしたように、同じ家に3人の下人がいたわけなんです。
別の家から集まった下人じゃないでしょう。
ところが、ゴタラントの人はどうですか、みなさん。
16節ご覧ください。
ゴタラントを預かった者は、その次の言葉に注目してくださいね。
すぐに一定とあります。すぐに一定。
それで商売して、さらにゴタラントを設けた。
17節、同様に似たらんと預かった者も、さらに似たらんと設けた。
この2人は、主人は自分たちを信頼して、こんなにも多くの金を預けてくれた。
嬉しい。私をこんなにも信頼してくれるご主人様、感謝しようとね。
それで応答、答えたくて。
それですぐに一定、商売して儲けることができた。
自分は主人に信頼されて、愛されていて、
だからそれに応答しようという、この2人の下人はなんと素晴らしいでしょう。
でも同じ下人の仲間なのに、この似たらんと預かった者は、
自分勝手な妄想を持つわけなんですよ。
俺の主人はケチなものだから、もうおめいておく。
30:04
怖いものだから、頑固なものだから。
間違った理解が彼の結末を分けさせてしまったということになりますね。
皆さんいかがでしょうか。
神様は正しく理解して知ってわかっていらっしゃるでしょうか。
もしも私が描きたい神様、私が思うままの神様のイメージを持ってはいないんでしょうか。
よくですね、聖書の勉強とかするときに、初心者はあまり知らないから、
教えられる通りにそれをそのまま受け入れるんだけれども、
信仰を長くされた方々の中ではですね、神様はこういう神様でありませんか。
こういう神様でしょうと話しても、いや今はね、神様はそんな神様じゃないですよみたいな。
今は難しいでしょうみたいなね。
そういうふうに私が思っている神様の神か神官と言いましたか、それを持っている。
そうからそれが脱皮できない。
そこから本当に自由に正しい理解にできない場合もあるので、非常に悲しいところもあります。
皆さん、信仰生活において本当に大事なことは、神様を聖書的に正しく知ることなんです。
聖書的が大事なんです。
そして私たちは自分の思いや欲や経験やすべてをゼロにして白紙にして神様を知ること、それが大事なんです。
そしてその通りに信じて告白してその方に仕えることが大事なんです。
だからある時にはね、自分の過去の経験が、自分の過去の知心が本当に役立つ場合もありますが、
むしろそれが邪魔になって遮られていて、神様を正しく知ることができなくしてしまうこともあり得るのだなと思います。
そういった意味として皆さん、そのためには、神の御言葉、聖書をよく読んで、聞いて、学んで、知って、目指していただきたいです。
何よりここに専念してほしいんです。
神の御言葉だけが私たちを神様を正しく知る知識に導いてくれます。
3つ目の話をしたいと思います。
この10人の娘の話、それからこの財産を預けた子の主人の話、そして31節から始まる人の子の話、
33:08
この3つの話の3つ目の共通点は、必ず最後の日が来るという話ですね。
来るんですよ。三久には来る。
12の娘の話ではどうでしょうか。
花向子新郎が来ます。
今日の14から30節の中では、このお金を預けた主人がどうですか。帰ってきます。
31節から始まる例え話では、人の子、イエス・キリストが来られます。
だからどうですか。最後の日、終わりの日が全部あるんですよ。
花向子が来るでしょ。それでそこで終わりなんです。
この主人が帰ってきて、生産をする生産の日、終わりの日が来るんですね。
31節からどうでしょうか。
人の子、その栄光を帯びて、すべての見つかりたちを伴って、来るときっとありますね。
どっちも来る、来る、来る。
花向子が来て、主人が帰ってきて、人の子が来ます。
だから皆さん、神に喜ばれる、麗しい信仰を生活する生徒はいつも、いわゆる終末論的信仰を持って生きる人です。
つまり、例えば、いつも今日という子の日をあるで、今日が私の人生の中で最後の日なんだ。
もう明日は、今晩はイエス様にお会いするんだ。
そのような、終末論的信仰を持って生きる人なんです。
しかし、そうでない人はどうでしょうか。
愚かな五人の娘のようにですね、いやもうね、進路はまだまだなんだよ。
もう元寝ようね。油は後で用意していいんだからね、みたいになる。
あるいは、この一打乱打の者のように、まあ主人は遠くへ出たから、いつ帰ってくるかわからないしね。
怠けてね、ちょっとモードと遊ぼうみたい。
最後の日が来ないように思う。いや、来てほしくないかもしれない。
神に喜ばれる信仰者は、今日という日が最後の日だという信仰を持っています。
例えば、今日我々はここにですね、こんなコロナの中でもね、皆さん本当に信仰を持ってですね、
恐れずに、幅変わらずに大胆に教会に来て恋愛しておられる。
そこで私たちはこういう心、姿勢を持ちたい。
36:03
今日のこの礼拝が2020年8月9日の今日の礼拝が、もう私の人生で最後の誠実礼拝だと。
そういった信仰を持って、神を礼拝し、賛美し、祈り、御言葉を聞き、感謝して、悔い改めて捧げる礼拝になるんじゃないでしょうか。
そう思いません?
例えば皆さん、来週の礼拝が、もうこの地球での最後の礼拝ですよ。
よく聞いてくださいね。
稲森知事って聞いたら、来週が最後なんて、
ユン先生がイエス様がサイレンするんだって話をしたとね、
それがね、広まったら大変ですからね。
そういう話、例えですよ。
だから皆さん信仰を持って、教会に集まりましょう。
そういう話をしたとしましょう。
そしたら皆さん、来週どうなるんでしょうか。
もう土曜日から寝れないんです。
もうね、心も体も清くして、全てを片付けて、最高の心を持って、最高の献金を用意して、
もうおそらくですね、何時間前からここに来てですね、
祈って賛美して、イエス様をお会いする備えをするんじゃないでしょうか。
するでしょう。
そういった心を持って、毎回の毎回の礼拝を、一日一日を過ごしていきたいんですよ。
しかし、このように備えて準備する人は、本当に大丈夫なんです。
祝福された人です。
その人々は、もう備えているから。
今日イエス様が来られても大丈夫なんです。
明日礼拝、イエス様が来られても大丈夫。
この朝、もう夜に来られても大丈夫なんですね。
喜びを持って、足らないところはありますけれども、備えて迎える準備ができているから、大丈夫なんです。
そういった意味として大丈夫なんです。
しかしですね、愚かな5人の娘のような人、市田ランドの下辺のような人、
焼きのような人々は、違った意味として、いや大丈夫ですよ、と思うわけなんです。
いつ来るかわからないしね、そんな焦る必要はないんですよ。
来週もありし、再来週もありますし、来年もありますし、もう10年後もありますから、もう大丈夫、大丈夫。
ゆっくりやりましょうね。
それは錯覚、間違いなんです。
それは神様が正しく知らないからですね、この市田ランドの下辺のように、
あるいは自分も羊と一緒にいるから、私は大丈夫なんだよ、と思う焼きのように、
自分は焼きなのに、自分が羊だと勘違いしている焼きのようです。
39:04
あるいは自分たちは油も用意していないのに、
同じ賢い娘たちと一緒にいるから大丈夫なんだよ、分けてもらえたらいいんだよ、と思う愚かな5人の娘のようです。
どうか皆さん、願わくは賢い5人の娘のようでありたいです。
そして市田ランドの下辺じゃなくて、
市田ランド、小田ランドのように、主を正しく知って、愛して、そして愛されて働く者でありたいです。
ヤギではなく、羊のような下辺でありたいです。
花婿であるイエス・キリスト、主人であるイエス・キリスト、人の子であるイエス・キリストは必ず来られます。
そしてその日になると、婚姻の宴会に入る人と入れない人、主人に褒められ報われる下辺と呪われる下辺、羊とヤギとして分けられるということを覚えて、そして進行の道を歩んでいこうではないでしょうか。
最後に一箇所だけ開きたいと思います。
新約聖書の第二ペテロ三章八節から十四節です。
第二ペテロ三章八節から十四節、新約の四百六十三ページです。
ある意味で今日のメッセージの根本は、私の考えや私の話、よんぼくしがしたい話ではなく、聖書に書かれている通りでありますから、私たちは聖書の御言葉、神の御言葉としてそれを受け止めて、聞き従ってほしいんです。
八節からしばらく読みますので、よくご覧ください。
第二ペテロ三の八節。
しかし愛する人たち、あなた方はこの一時を見落としてはいけません。
すなわち、主の御前では一日は千年のようであり、千年は一日ようです。
九節、主はある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。
かえって、あなた方に対して忍耐深くあられるのであって、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
42:13
十節、しかし主の火は盗人のようにやって来ます。
その火には天は大きな響きをたてて消え失せ、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地のいろいろな業は焼き尽くされます。
十一節、十二節、一緒に読みたいと思います。
このようにこれらのものはみな崩れ落ちるものだとすれば、あなた方はどれほど清い生き方をする経験な人でなければならないことでしょう。
そのようにして、神の火の来る火を待ち望み、その火の来るのを早めなければなりません。
その火が来れば、そのために天は燃えて崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
十三、十四、私は読みします。
しかし、私たちは神の約束に従って、正義の棲む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
そういうわけで、愛する人たち、このようなことを待ち望んでいるあなた方ですから、
死身も傷もないものとして、平安をもって御前に出られるように励みなさい。
アーメン。
では、お祈りします。
43:44

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