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2017-08-20 41:18

2017/08/20:神の御手に動かされる人

2017/08/20 聖日礼拝

斎藤亘師

マルコの福音書 2:1-12

00:01
おはようございます。
ユン先生と家族は、先週の月曜日か火曜日あたりから、今帰郷されて、帰国されて、
昨年もこの時期に、ルスの礼拝を皆さんと一緒に守ったことを思い出しております。
この8月は、どうしてもこの終戦という大きな国のそれがありますから、そういった背景でもって、
美言葉を開いてまいりましたが、今朝は、このマルコニオの副委員長の日曜から、
ご一緒に開いていきたいと願っております。
いつもですとね、ここでお互いご挨拶のために握手をするんですが、今まではだいたい忘れちゃって、
あ、今日してなかったな、今日思い出しましたんでね。
お隣の方とご挨拶しましょうか。
握手できる方は握手をしてください。
それでは一言お祈りをいたします。
恵み深い御財田の地なる神さま、こうして熱い日が続く中で、
私ども一人一人の健康を守り、この礼拝に備えてくださったことを心から感謝します。
どうぞ、今私たちが捧げているこの礼拝を、なお受け止めくださる主がここにともにいまして、
私ども一人一人の所の内なるもの、外なるもののすべてを、
ご点検くださるとともに、必要な恵みをお与えください。
帰国されておりますユン先生とその家族を、どうか短い期間ですけども、
良い時が与えられて、それぞれご両親にもお会いしたり、
友人や知人にもお会いするような、そういう休暇として過ごしださることができるように、
あなたの身手にお託しいたします。主の皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
この歌唱はもう皆さんがよくご存知の歌唱でして、
私は今朝この歌唱から、三つのポイントで主に話を進めていきたい、
また見言葉をいただきたいと願っております。
一つは、ここに見られるこの状況を見てまいりますと、
03:02
一つは奉仕するもののいくつかの、ああいいなという、そういう姿を見るわけですね。
あえてこの美しさを見るというふうな、そんなふうにも理解しておるんですけども、
一つは家庭をもって奉仕するもののこの美しさと申し上げることができようかと思います。
で、そのことは、この一節を見ますと数日経って、
ここにイエスがカペナームにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
それで多くの人々が、人が集まったと書いてあります。
イエス様はご自分の身近い伝統の障害において、
特にこのカペナームというこの町は特に大切にされる、
あるいは非常にこの町を愛された様子がいろんなところにお伺いすることができます。
で、一つは多分このカペナームのこのお家がですね、
ガリア伝道のための一つのベースキャンプのようにして、
イエス様が出かけられるとまたここに戻ってきて、
またここから出かけていって、また戻ってきてというような、
そういう状況をそこで見るわけです。
で、この箇所はそういう中の一つのことをそこに示しているかと思いますね。
で、教えられることは、こういう家庭はどんなに素晴らしいだろうか。
イエス様がおられるということで、いろんな人たちがこの家を目指してそして集まってきたと書いてあります。
それまでは、この一生のですね、参考までにちょっと見ますと、
一生の、ほぼですね、これはペテロのこのオシオトメさんの家だろうと言われておりますが、
実は彼女が一つの病を持っておられた。
で、非常にイエス様はその都度、このペテロのところによりますと、
お母さんどうかな。
で、そうですね。この一生の三十節からちょっと見ましょうか。
06:07
二十九節から見ましょうか。一生の二十九節。
イエスはカイドウを出るとすぐにヤコブとヨハネを連れてシモンとアンデレの家に入られた。
ところがシモンのシオトメが熱病で、とこについていたので、人々は早速彼女のことをイエスに知らせた。
こういう一冊からイエス様は彼女をそこで追いやしなさったということが、この一生の方で出てくるわけですね。
で、そういうこと柄もそうですけれども、私はイエス様がその家に、その家庭におられるっていう、このことがね、やはり良い噂となって、そして人々の間を走って、
それで、ああイエス様がまたおいでになったんだったら私たちも行こうといって、それで集まってきたと想像できようかと思います。
そういうことで、私は改めてね、イエス様のおられる家庭っていうのが、本当にどんなに幸せなことか大切なことか、
いや、うちはまだ全部がクリスチャンじゃないんで、そういうことはもう言えないっていう、そういう思いを持ちなさる方もおられるかと思うんですけれども、それは心配ないんですね。
私自身のうちにイエス様がおいでくださっているっていうことは、その私というこの存在を通して、その家庭の中にいろんなこの祝福をお与えくださる。
ですから、自分がイエス様を信じ、そして歩んでいると、イエス様はその一人の人を通して、その家庭の中にこういう新たな恵みをそこにあらわしてくださるわけですよ。
しもん、このペテロとアンデレと書いてありますから、けれどもしかし、しもんさんの方がね、この家のそのところでお母さんに仕えてやっておったんでしょう。
アンデレさんは、じゃあ一緒にということで、その一緒の方ではアンデレも一緒について来られたようですけれども、ことはこのしもんさんがイエス様を信じました。
それで全部が変わっていったわけじゃなくて、このしもんさんがペテロがまずイエス様を受け止めたときに、彼を通してそのお母さんにイエス様のことが伝えられ、そしてまたその病も癒されるっていうその祝福がそこにあらわされた。
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それが大勢の人々に噂となって伝えられたわけですね。私はそういう良い噂、一人の人から始まったその噂は、その家族を捉えて、近隣を捉えて、その地域を捉えていくっていう、これが初期のこのイエス様が持ちなさった伝道なんだなぁと思ったりもするんですね。
イエス様がおられるっていう噂。これは私どもお互いにとっても、その個人の場合でもそうですし、また公の場合でも非常にあの人に接していると。
何かこう、イエス様に愛してるっていう、それはちょっとね、このオーバーな表現になるかわかりませんけど、しかし私は、ある先生を見たときにですね、イエス様ってこういう方なんかなってふと思った。それは要望を見てそう思ったぐらいで、中身はどうかわかりません。
けれども、しかしその先生のメッセージを読んだり、またその先生にまつわるいろんなエピソードを聞くとですね、いやぁ、それはあの要望だけじゃないんだな。私たちが尊敬してやまないバクソン先生も、この一人の日本人のこの牧師さんにだけは非常にこう敬服して尊敬して、そして私は先生のメッセージを聞くべき立場にありますということをおっしゃったということさえ聞いております。
それぐらい非常に要望だけじゃない中身を育ったんでしょう。そしてまた、私はその先生の説教誌を持っておりますけれども、非常にこう霊的なメッセージを今でもその説教を通して伝わってくるわけですね。
一人の人が捉えられる。そしてその家庭が捉えられる。そしてそれは良い噂となって、そしてイエス様がそこにおられるということだけでみんなが集まってきた。
江戸元先生というね、チーロバという、そういう肉念を持ちなさった先生ですけれども、その先生の説教集でしたかに、この教会はね、一生懸命人を集めようとして頑張っているんだけどね、教会は集めるところじゃなくて集まるところだという。
この先生はだいたいそういう表現の使い方をするんですけれども、非常に頑丈なある、そうだなと思いもすんですね。
12:08
こういう場所を見てまいりますとね、みんな集めようとしてみんなに、イエス様は今日ね、私の家に来てるからみんなどうぞ集まってくださいと。
あとでもってちょっとしたもの出ますからというようなことでもって集めているわけではないわけですね。集めているわけではないんですけれども、しかし人々は集まってくる。これが教会だと。
長く鎌倉の生きのした教会という教会で勃開なさっていました加藤恒之という先生がいらっしゃるんですけれども、この先生のそのお話の中にもね、あるとき礼拝に全く初めての少年の方がお見えなさった。
終わってすぐにその方にご挨拶しようと思ったんですけれども、祝祷終わって、そしてちょっと周りの人と挨拶を受けるんですが、ついついその人たちの挨拶を受けながら、その人はどうしたかなと思ったらもう顔が見えなかった。
それが二回三回あったそうですよ。こんな、せっかく毎週来てるんだから、こんな捕まえようと思って先生をもうかき分けるようにしてね、とうとうその少年の方にお会いして言葉を交わすことができた。
で、言葉を交わしながら、この教会はご存知でしたか、ずっとこうお見えなさっているので、誰かご一緒の方が一緒に見えたのかなと思ったんですけれども、誰も知り知っている人はいないんですよ。
ただ私が時々この教会の窓の外の道を通るので、その時にね、中から皆さんの元気な嬉しそうなそういう声が聞こえるので、教会とは一体どういうところなんだな、そう思いなさった。
そうして思い出すことは、私が子供の頃ですね、私の町内にニコライ派の祖の教会がありましてね、結構な広場があるものですから、またその教会の隣が私の友達の家があったものですから、そこ行くと土俵試しだと言ってね、その教会の中に入るわけですよ。
教会の中にも入れないんですよ。広場は横足地ですけれどもね。土俵試しというのはね、大体みんなショックを受けたんですけれども、あの窓からね、中を覗いた。
そしたらこうなったね。今でこそすぐ分かりますけれども、殺された人が張り付けになっているその姿を見て、私たちはね、それをお化け屋敷だと言ったんです。
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その程度にしかね、その教会のそれを分からなかった。あんなとこ行ったら大変なことになるというのが、まずその教会に対する一つの小学校1年生か2年生ぐらいの時の印象として残っているわけです。あ、2年生じゃない、3年生ですかね、の印象として残っているんですね。教会って怖いとこだなあっていう、そういう思いがありました。
ですから、もう一度だったらね、教会に来る人はいなくなっちゃうんですけれども、申し上げたいことはその加藤先生がね、そこでおっしゃった。もしその時ね、この方が教会の外を通っている、そんなことを知らないでね、もうけんけんがっかく、いろんなことを言い合って争い合っていたならば、あの人は二度と教会には来なかっただろう。
たまたまかどうか知らないけれども、その方が通る時に、もう教会の和やかさが、それがその方に伝わって、やがてそれがね、じゃあ一度教会に行ってみようかというそういう思いを持たれて、そして教会に来られた。教会はこれが大切なんですということを、その説教の中で書いていらっしゃった。
やはりこの周囲にそういう雰囲気と言いましょうか、あるいはそういう噂が広がっていく時に、教会自分に対する誤解や今あれを持っていたそういったものがだんだん薄れていってね、じゃあ私も一回行ってみようというそういう思いになると思う。
だから皆さん方本当に良かったんですよと言って、教会の人たちを励ましなさったことがそこに記されていました。
この家は、もともとのペトロさんのお母さんが病気でもってですね、とこし病気を言ったら、人はあんまりこう言ってこない。
けれども、そのお母さんが癒された、そしてイエス様がおいでなさったというだけで、その噂が広まったというのは、これは教会にとっても、お互いここのクリスチャンとしての在り方にとっても非常な舌がそこにあろうかと思います。
成り場目の点は、この家に大勢の人々が集まって、そしてイエス様の話を聞こうとして、そしてそれこそもう立政の余地がないぐらいというのがここの状況ですね。
で、5人の仲間の1人が中部になってしまったということで、その4人がね、何とか今回だけはもうイエス様にお会いして、そしてイエス様に癒してほしい、もらおうということでね。
それで駆けつけた時には、もう時すでに遅しで、もう玄関までも立政の余地がないという、羨ましい根拠がそこにあるわけですね。
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言ったらもう満杯だったっていう、そういう教会みたいもんだなぁと、そう思ったりもしますが。
ところがこの4人は、彼を連れてきたんですけども、もうこれにはもうイエス様のところにね、お連れすることができないということで、で、誰言うことなくやったこと柄がとんでもないことをやった。
この中部の人を斧に包んで、そして天井に上げてですね、そして天井でこの屋根を段々と剥がしていって、そしてイエス様の前に彼を釣り下ろしたわけですよ。
そういう光景ですよ。
イスラー旅行に行きますと、必ずこのペトロさんのね、ここが今、記念協会か資料館か何かになって、もう頑丈な、そういうコンクリートでできておりますから。
今やろうとされてきませんけども、当時の家屋っていうのは、そういう城の墓何か知りませんけども、そういうものを寄せて、そうしてやった、そういう家だったんでしょう。
ですから何かでこうやっていくうちに、天井のこの辺りでしょうかね、等身大ぐらいに段々大きさの穴が開いてきた。
もうみんなはイエスさんを見たり、この穴を見たり、そしてこの落ちてくる土ぼこりや何かをそれを払いながら、一体誰だこんなことをやるのっていうのは事でもって見とったでしょうが、
そうしたら四人のひげぞらが顔を出して、イエス様よろしくお願いしますと言って、彼らがイエス様のところに従事員を釣り下ろしてきたっていう、そういうこの光景ですよ。
ブルンナーという、立場的には私たちと同じような信仰の理解ではないんですけども、しかしこの先生の説教室の中に、人は大体自分でやるんだけどね、クリシアンになることだけは一人じゃできない、ということをおっしゃっているんですね。
そして併せて思い出しますのは、大阪で教会成長セミナーというのがありましてね、フラワー新学校のそういう立場で教えなさっている方がウィ・アンという方ですが、この方の講演会があった。
そしてこの方の講演が始まりましたときに、このアン先生がね、講演を始める前に一つ皆さんにお聞きしたい。
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この中でね、誰かに誘われて教会に行ったとか、ある教会でコンサートがあった、ある教会で映画会があった、あるいは教会のいろんな行事でもって誘われて、そして教会に行くようになったという方がどのくらいいらっしゃいますかといったら、かなり大勢の人が手を挙げなさった。
最後に先生がおっしゃって、一人で教会に来られた方がおりますかと。先ほどのカルフ先生のお話の場合には一人で教会に来られたわけですけれども、皆さんどうでしょうかと聞いたら、ちらほらと手を挙げしておりましたよ。
けれども最初のね、映画会があったとかコンサートがあったとか、クリスマスだイースターだいろんなことでもって誘われて、そして教会に行った、教会に行くきっかけを持った。そして自分の家族やみんな誘ってくれるものがおったんで、ということで教会に行くようになった。そういう人たちが多かった。
けど一人で来るっていうのは、なかなか勇気がいるんですね。私も友達がおりましたから、その友達が誘ってくれたのでね、教会に行くきっかけを持ちましたよ。だから私にとってはかけがえのない友人だなと、今でもそういうね、友人としてのそれを保っておりますけれども。
もし彼が誘ってくれなかったら、教会なんて行くとこじゃないっていう、そういうことでもって決めつけてね、子供の頃にあったそういう印象でもって教会に行くなんてことはあっていうことで行くことはなかったと思う。
その友達がね、彼の家から教会に行く途中に私の家があるもんですから、寄ってくれて、そして誘ってくれてって、それから教会に行くようにもなった。私にとってはですから、一人の彼の存在っていうのがね、いまだにこれは本当に大切な友人だなと思って感謝しております。
彼が誘ってくれたっていうことが、今の私にあると言ってもいいんじゃないかなと思うぐらいですね。
この4人の人たちの姿を見てまいりますとね、そういう点では、私の場合は一人の友人ですけれども、しかし教会行ってからはね、本当にみんながよくフォローアップしてくれたんで、マジアリーの中にもだんだんと入れるようになっていって、それから信仰のイロハを学ぶようになっていった。
そういう手順って言いましょうか、そんな感じでした。
そしてその一人の友人の存在、ここでは4人の友人が、何とか自分たちの仲間のこの一人をイエス様のとこにお連れして、そして癒してもらおうということで始まったわけですね。
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これがもう2番目のポイントですけれども、4人のここに協力した法師の美しさっていうのがあそこに挙げることができます。
しかもこの4人は自分たちの一人の人、一人の友人、私たちはよく一人が一人よと言うんですけどね、私はそういう点で本当に一人の友人が私を誘ってくれた、そういうケースもありますしまた必要です。
しかしやっぱりチームワークよろしく、4人がいろんな観点でいい人間関係を作って、そしてその人のために一緒に導くっていうことがあると、1対1よりは4対1のほうがよろしいかなと思います。
ただこの時に私たちに必要なのは、何とか自分たちの友人を導こうという思いから、もう私でやりますっていうことで、一人だけがちょっと力みすぎるとちょっとまずくなる。
私もいろんな人に接しましたけどね、一人の人にだけはね、あんた伝道するのやめなさいって言ったんです。
そしたら彼女は、どうしてですか。もう私もみんなと一緒にやりたいんです。
そりゃ分かるけど、いろんな問題がありましてね。
一つはノンクリシャンのご主人がわざわざやってきてね、先生、今日の課題を何とかしてくれって。
あんな言ったんじゃもう、私はもう教会に対して反感を打つだけだっていうことをおっしゃってたぐらいで、私はだから読んではね、
もうあんたね、まずご主人が大切なんだから、他の人も必要だけどもやりなさったらいいって。
他の人なかなか聞いてくれてないから、主人に言ってるんですよって。
その主人から訴えがあったから、もうちょっとあなたね、控えた方がいいって。
分かりましたって言ってね。
そしたら今度、みんなでこうやるんですけどね。
やっぱりそういうね、審査がね、ちょっと過剰になってね。
それでみんなでこうね、せっかく来た人に声をかけてそうしてやってる、言うなら柔らかい魂の人。
彼女がゴーッと入っていくもんですからね。
嫌気がさしてきた。
だからあの人のこの辺り家庭集会に行きますって。
言い出したもんですから。
まあそんなこともあったんで。
あんたね、もう教会行くのやめなさいと言いませんけどもね。
まあ牧師の口から言うのはおかしいけども。
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あんた伝道するのやめたらいい。
あんな先生、私は先生牧師の言葉として受け入れられません。
いろんな反応がありましたけどもね。
そうすることが一人の人を見つけることには大切なんて。
そういうケースもありましたよ。
ただ一つのケースですけどね。
まあしかし、まあそういうところから本当にこうチームワークをもってそうしてやるって。
もう自分がやります、私がやります、何とかしますっていうようなことで、
ちょっと力みすぎた存在がありますと、かえってそれはね、妨げになってしまうというケースもある。
この人にも読んだんですけどもね。
ローマ人の手紙の十二章の三節に、
誰でも思うべきことを超えて思い上がってはいけません。
いやむしろ、神が各々に分け与えてくださった信仰の計りに応じて、
慎み深い考え方をしなさい。
このローマ人の手紙の十二章の三節。
これは主に役員へのお言葉として共に開いたりするんですけども。
だから大切なことは、本当に一人の人に対して一生懸命やるっていうこともそうですけども、
聖書はこういういくつかの箇所からね、
本当にこのバランスの取れた熱心さを持って、そして伝導するということを教えています。
もう一つはね、やっぱり失敗したらっていう思いっていうのも実際あるんですね。
牧師なんか、牧師なんか言ったらあれですけども、
私なんかちょっとそういうところが強かったんじゃないかなと。
仲間先生笑ってますけども。
慎むかと思いながら、一生懸命やらんとならんなと思いながら。
っていうのはですね、やはりそういう中でね、
やっぱりこう失敗、つますかしたらどうなんだろうかっていうそういう恐れもある。
だけどこの場面を見てまいりますとね、
この四人のやってることっていうのは、ちょっと常識を超えてますよね。
自分の家だったらそりゃあ、やったらいいんですよ。
けれどもその人さんの家に来てね、屋根剥がして屋根壊して、
そしていくら家様に言ってやってることならはね、
ちょっと私たちの一般の常識から考えると、ちょっとこれは超えてますよ。
で私はあるときね、ここの話を教会学校の子どもたちにしたことがあるんです。
でその子どもが家に帰って、お母さんから今日は教会学校に行ってどんな話を聞いたのか。
30:03
このお母さんノンクリシャンなんですけどね、どんな話を聞いたって言って、
いやいや、ここここだと。
それで友達の一人が家様によって治ったんだっていう。
そういう話をしたら、その母親がね、えーっていう渋い顔をしてね、
なんで家様ってそんな人の家でやってるそこに、
家様ってそこをお借りしてるのに、
そんなことをやる人を育ったん?って言ってね。
そんなことを家様に許しなさんのか?っていうことを言ったそうですよ。
そしたら彼が言うのにはね、その子どもが言うのには、
お母さん、家様大工さんだから、後ちゃんと治してくれるから大丈夫なんだっていうことを言ったっていうその話に、
その母親がね、えーっとこう思いついた。
そして家庭集会に来たした。
でとうとうクリシャンになってね、ちょっと時間かかりますけども、
クリシャンになって、そして役員さんにまでなったりもしましたけども、
きっかけは、その息子の何気ない、しかし非常に単純な、
けども非常に信頼をついた、あとイエス様が治してくれるっていう。
私もその時初めて、あ、そういえばイエス様は大工さんだからな、
そういうことの答えはなさったかもしれない。
だから、ああときちっとなさったんじゃないかなと、そんな想像もしてもいいんじゃないかと思います。
失敗を恐れたら私たちは何もこう、
あのー、リビングバイブルそこにあるかなと思ってちょっと探したんですけども、
あのー、私覚えております、リビングバイブルのこの本役の中に、
これは伝統の章ですけどもね、この11章の4節に、
条件が良くなるまで待っていたら、何一つ仕上げることはできません、っていうね。
これリビングバイブルですから、あのー、やる聖書っていうよりも、
その聖書をわかりやすくね、子供にもわかりやすくっていうことでもって、
改めて出されたこの書物ですけども、非常に下に飛んだ役がそこにあるんですね。
で、私はこの歌詞をリビングバイブルで読んだときに、今の役ですとね、
今日は風が強いからやめたとか、今日は雨だからやめたとかって言って伸ばしちゃう。
そんなことをやったら、一向に種をまくことができない、みたいなそういう役なんですけども、
そこをね、リビングバイブルは失敗を恐れて失礼しました。
条件が良くなるまで待っていたら、何一つ仕上げることはできない。
33:04
あのー、そういうところがあるわけですよ、自分の中にね。
いやどうしよう、いやもうちょっとしたら、って言って自分のはかりでもってこうやるもんですから、なかなかことは進まない。
あのー、有名なイエス様の、たとえばなしに有名なこのマタヤの25章の3人の人に、
オーナーがそれぞれタラントをまかせとして旅に出て、で帰ってきて報告を受けた。
問題は1タラントの人も、1タラントって大変な金額ですよね。
この人はご主人のしほりのことを知っているから、これを失ったら大変だということで。
あの5タラントの人はね、1タラントぐらい亡くなったって、あと4タラントの中は大丈夫だろうと。
けど私はもう、この1タラントしかないということで、彼は何を考えたかというと、
それはもう盗まれないように、誰も知らないところに隠し持って、そしてご主人が帰ってきたときに、
はい、お借りしたものをお返しします、って返した、っていう、そういう例え話ですね。
で、その時にイエス様は、5タラントの人にも2タラントの人にも、あなたは本当によくやってくれた、
そして場合のそれをまかせた。
ところが1タラントの人に対しては、あなたはね、与えられたものを失ってしまった。
もうあなたに任せるものはしない、と言って、それで断られてしまった、という有名な例え話があります。
これはもう、失敗を恐れてしまってね、失ったら大変だ、ということで持ってガードしてしまったために、
自分のタラントすらも、これも奪われてしまった、という、そういうこの例えですよ。
私たちは本当にそういう点でね、バランスの取れた、そして失敗を恐れない熱心さでもって、
この1人の人を導く。
で、同時に私はこの光景から、もう時間がありませんけれども、
このイエス様と、そしてイエス様に、自分たちの友人を連れてきた、そういう熱心さ、
それをこの、見ていた、この6節に、その場に立法学者が数人座っていて、
ここの中で、理屈を言っていた、と書いてあります。
あの、残念なことに、必ずこういうタイプの人もおるんですね。
4人のようなタイプもおるんですけれども、しかしまた反面、こういうタイプもおる。
言っていることは正しいんですよ。
この7節に、彼らが言っているその理屈というのは、この人はなぜあんなことを言うのか、神を怪我しているのだ。
36:05
神一人のほか、誰が罪を許すことができようか、本当にそうです。
しかし彼らはね、イエス様によって自分のけがれが、自分の罪が許されたという、
そういう恵みを知らないために、ただ外側だけの、あるいは世間体だけのことでもって、
このイエス様を見ているだけですからね。
ですから、イエス様がなさったことでも、そういうふうに変するわけですよ。
だからおそらくこの立法学者たちはね、その4人がこうやったということに対しても、もう腹立ちとったと思いますよ。
それをあえて受け止めているこのイエス様を見て、よけこの腹が立つ。
しかもその上、その彼に向かって、病ある人に対してね、あなたの罪は許されたということを言ったのですから、
これはもう、やはり人間の領域を超えた、これは神様の世界だ。
神様しかこれを成すことはできない。知っていることには間違いがない。
彼らは自分に救いの経験、許しの経験がないために、人が許されるということについてね、そういう違反しか知らなかった。
けれども本当に自分が罪許されたという、そういう感謝の思いがそこに与えられているとね、やはりこう受け止めていけるわけですね。
私は彼らのその行動の中に、3番目に申し上げたい。
イエス様という方は、お粗末すぎるかも分かりませんけれども、その4人の法師をお持ちになさった、そういう美しさというのでしょうかね。
それがそこに描かれています。
イエス様という方は、私たちのその働きを、私たちの存在を通してね、
本当にこういう素晴らしい陽気恵みを表しなさる方なのを、ルターの言葉の中の一つですけれどもね。
神様は、神様が私たちを用いて何事かをなさろうとしているんだというその信仰をね、私たちは放棄してはならない。
それを彼は、ウィーティン・ベグルーの、今は新学校になっているようですけれども、当時のその新学校のゲートのところに、彼の言葉が記されているということを伝え聞いたことがあります。
39:04
神が私の時ものをも、用いなさって、何事かを何かをなさろうとしているんだという、そういう信仰を私たちは放棄してはならない。
素晴らしい言葉だなと思いますよ。
彼は修正、そういう信仰と、そしてどんなに人から迫害されても、けれどもそのことも含めてイエス様は、こんな私を用いなさろうとしているんだという、そして何かをそこに表そうとされているんだということを、彼は大切にして、
そしてそれが彼の生涯を決定付けたと言ってもいい言葉なんでしょう。
また同じように、やることは少ない、足りないところがたくさんあります。
けれどもそれは人の目から見た、あるいは自分の目から見たところなんだんだよって。
けれどもそんな自分も、イエス様はこんな私を用いて、さらに何かをなさろうとしているんだという、この信仰をね、しっかりと持っていきたい。
これを願わされます。お祈りいたしましょう。
ベグミフ会長よ、どうぞ私も一人一人が、よく読み慣れてきた箇所の一つでありますけれども、あなたがどういう思いを持ってこの出来事を私たちにお示しくださっているか。
この四人の中の講師者のこの一人を、あなたがお持ちいただけではないこの四人をお持ちなさって、そして彼らの信仰を見て、彼らの持っている問題に共に入り込んで癒してくださっているその姿を見ました。
何卒の週間、これから後においても、私も一人一人をどうぞお持ちください。
また、お持ちくださろうとしているあなたの身頃を拒絶することがありませんように、主が助けてくださるようお願いいたします。
皆によってお祈りをいたします。ご一緒に密かくお祈りいたしましょう。
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