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2020-08-23 29:45

2020/08/23:イエス様のたとえ話~私たちへの問いかけ(12)新しいぶどう酒は新しい皮袋に

2020/08/23 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 -39


00:02
皆さん、おはようございます。
今日からこのように、朝9時、第1礼拝は朝9時、第2礼拝は朝11時と、2回に分散していただいて、礼拝を守ります。
今、大体、15、6、7人集まっておられますが、私たちは大体半分、分かれたような気がします。
どうしても、今の状況の中で、空腹しながら、お互いに助け合いながら、コロナに負けず信仰を持って、神様を礼拝していきたいと思います。
今日も暑い中、皆さん、よくいらっしゃいました。ありがとうございます。
今、イエス様のたとえ、私たちへの問いかけ、シリーズメッセージを続けております。
今日が12回目。
聖書は、マタイの福音書は、ほとんどのたとえ話は見てきました。
そして、他の福音書、マルコ、ルカ、ヨハネがありますが、
私が研究して調べたところ、マルコは大体、マタイの福音書にあったものがほとんどですし、
マルコの福音書には、イエス様のたとえ話が少ないんですね。
そして、ルカの福音書に入りまして、マタイの福音書となるべく、かぶっていないたとえを選ばせていただきまして、
そこからまた、言葉の目の見を一緒にお受けしたいと思います。
そこで今日は、このルカの福音書第5章の36節から39節、
新しい武道士は新しい川袋に、という題を持ってですね、一緒に恵みをお受けしたいと思います。
一言、短くお祈りします。
神様、感謝します。
今日も、ここに集まっている、本当にあなたを求めて、あなたの御言葉を求めて集まっている一人一人に、
10日、神様御自身が御言葉をお与え下さいますように。
神様御自身の栄光、命を、平安を満たして下さいますように、お願いいたします。
イエス様の皆によってお祈りします。
アーメン。
すぐにですね、入りたいと思います。
10時半礼拝は、その後の礼拝がないので、たまにはメッセージがですね、1時間にもなったりするんですけれども、
10時に終わらないと、11時に礼拝の準備がバタバタしてくることもありますので、
03:02
多分メッセージが短くなるかなと思いますが、
でも、エキスだけで集約してですね、させていきたいと思います。
さあ、今日のこのたとえ話。
おそらく皆さん今までですね、この聖書本文をもってのメッセージをお聞きになったことが、
多分あると思うんですけれども、
まず一つだけですね、背景としてお話を少ししましょう。
この新しい武道手を新しい革袋に入れなければならないということがありますが、
当時のこの武道手を作る人、彼らのこの習慣と言いますとですね、
だいたい革袋は、ヤギの革で袋を作ったそうですね。
丈夫に作ってですね、小さなもの、例えば1リットルものもあれば2リットルものもあったりですね、
そういった革袋を作って、本物の革であればまた上手にですね、
丈夫に作れば結構ね、長く使えるんじゃないですか。
今も本革のカバンとかバックポしたら、何十年も使えたりするでしょう。
そしてこの新しい武道手ということが一つ鍵ですけれども、
それはもうすでに発酵が終わって出来上がって、
そして飲めばいい、そういう武道手よりは、
もう作り立てて、今から発酵が始まる、そういう武道手を意味するだろうと。
なぜでしょうか。
発酵植物はですね、もうブクブクしてですね、量も膨張するですし、またガスも出るんじゃないですか。
だからこの作り立ての武道手はガスが出る、そしてもうブクブクして膨張するので、
必ずのようにですね、新しく作った、宮城の革で作った新しい革袋に入れるのが当たり前だったそうです。
なぜなら、新しい革袋は柔らかいので伸びるわけなんですよね。
だからある程度のガスが出ても、ある程度この武道手が発酵して量が増えても、
この武道手は破れない、守られるそうなんです。
06:02
でも古い革袋は、古い革は硬いじゃないですか。
硬いからもう破れてしまうわけなんです。
だからもう本当に普通に武道手を作る人であれば、
新しい武道手、作り立ての武道手は新しい革袋に入れるのが当時の風習としては当たり前のことである。
という一つの聖書、知識としての背景を覚えてほしいと思います。
では今日はこの二つの言葉に注目したいと思います。
イエス様がここで例えで話をしましたから、
新しい武道手は何を意味させるのかということと、
また古い革袋は何を意味するのかということが問題になると思います。
もう結論からお話ししましょう。
新しい武道手はイエス・キリストです。
そしてその方によってこの地上に来る天の御国です。
イエス・キリストが新しい武道手である。
そしてイエス・キリストが来られたことによって、
この地上に来た神の御国、天の御国はまるで新しい武道手のように拡大していく。
そこには力がある。
そしてそこには何より命があるということなんです。
大の福音書を見ますとですね、
イエス様が天の御国は、例えばたくさん出る中で、
天の御国はカラシ種が巻かれて、
そしてそれが伸びて鳥が巣を作るほどの大きく伸びるという、
伸びる、拡大する、命がある、生命力がある、力があるというそのイメージがあるんですね。
天の御国はイエス・キリストによる福音は、
私たちが信じるこの信仰は福音はそこには生きているものですから、
生き物ですからそこには力がある、生命力があるということなんです。
しかし、ここに意味する古い川袋、古い川袋は、
当時のいわゆるユダヤ教という宗教人たちのこと。
09:02
例えばね、大の福音書でも何回お話ししましたように、
パリサイ人たち、サドカイ人たち、立法学者たちの、
彼らの固定観念というか、ただの宗教性というか、
あるいは彼らが作っておいた守ろうとする伝統というか、
あるいは何かの形式というか、あるいは制度という、
そういったことを総括的にイエス様は、今その話をしてそこに触れているわけなんです。
当時のですね、パリサイ人たち、サドカイ人たち、立法学者たちは、
何かのルールがある形式、制度があれば、それを必死に守るんです。
制度、形式、伝統、それ自体が悪いものではないんですね。
必要なものなんですけれども。
でも彼らには、その生命力はない、力はない、
ただの形式、空、制度ばかり残っていてですね、
その中の経験の力がない、イエス・キリストの福音がない、
神の力を持っていないという、本当に枯れてしまった、
古い硬い革袋になっていたということであります。
だからある意味でですね、そういった彼らの古い硬い革袋としては、
そこにイエス・キリストという、拡張していて伸びていく、
このイエス・キリスト、神の御国を、イエス・キリストの命を、
その福音をですね、そこに入れることができないわけなんです。
ところが皆さん、私たちがだいたいこのメッセージを聞くときに、
だから私たちは古い硬い革袋じゃなくて、
新しい硬い革袋になりましょうというね、
そういうメッセージを聞いたことがあるかもしれません。
それは全く間違いではないんだけれども、よく考えるとですね、
大事なのは、新しい仏宗、つまりイエス・キリスト、
その方の福音を、命を、力を、天皇御国を、
私がそれを持っているのか、それを味わっているのか、
それを経験しているのか、
そっちの方がもっと大事であるということであります。
イエス・キリスト様はですね、福音書を読んでいきますと、
あるいは、人たちの歴史である、人の働きとかね、読んでいきますと、
12:01
何もかも古いものを全部ですね、もう潰して、破壊して、
全部捨てて、もう社会を転覆してですね、
クーデターを起こして、神の御国を来たらせようとしたわけではないんじゃないですか。
イエス・キリストは、福音を伝えた、天皇御国を伝えた、
神の力を伝えたわけなんです。
そして、そのイエス・キリストを受けた人、イエス・キリストに出会った人、
神の御国の力を持っている人、神の御国を味わっている人、
イエス・キリストの光を、命を持って、それを味わったその人、
その人によって社会が変えられる。
国が変えられる。そこに御国が来るという、不思議な変革と言いましょうか、
改革をイエス様はね、残す弟子たち。
そして、人たちによって変えられていったわけなんです。
それが、ペテロであったり、ステパノだったり、パオロだったり、そうしたわけなんです。
だから皆さん、大事なのは、今日の私たち一人一人が、私のうちに、
イエス・キリストの臨在に満ちあうれること。
日々イエス・キリストに出会って、その方を愛して、その方と深く交わって、
本当にイエス・キリストが生きている、私を満たしていてくださるという、
イエス・キリストを味わって、体験して生きること。
皆さん、一番簡単な例で話をしましょう。
ヨハネの勲章の一番最初に出てくる見言葉でありますが、
ここが真っ暗だとしましょう。
そうしたら、その真っ暗、闇を、暗闇を消すためにはどうしたらいいですか。
この闇をどうしても捨てることができませんし、
またその闇を消すこともできない。
簡単な方法がある。何でしょうか。
光があればいいんですよね。
光があればいいんです。同じなんですよ。
もし私たちが堅い、枯れた川枕だったりしましょう。
そうしたら、それを直すよりは、
自分自身が新しい武道師をイエス・キリストによって生まれ変わること、
変えられることによって、自分も変えられ、周りも変えられるということであります。
だから皆さん、逆に言いますと、
イエス・キリストの民罪を、その命を、その恵みを、あまり経験していない人がいるとしましょう。
15:08
精霊の恵みを、力を、あまり経験したことがない人がいるとしましょう。
その人に、新しい川ぶる子になってください、なってください、なってください、
言っても、いくら聞いてもできないわけなんです。
意味がわからないわけなんです。
例えば、バイク免許を持っている人に、子供の自転車に乗って、
200キロで走りなさい、走りなさい、言っても、走れないんですよ。
なんで走れませんか?と、叱られても仕方がないんです。
でも、その人に、でっかい大きな200キロ、300キロ走れるバイクを、
その人に与えれば、200キロ、300キロ走れるんじゃないですか。
大事なのは、私たちが何かの習慣というか、形式というか、制度というか、
その周り、外のものを変えようと必死になるんじゃなくて、
我々の自分自身の霊が、内面が、内側が、イエスキリスト、
新しい武道士のイエスキリストによって満ちあふれて、
その方にお会いして、その臨済が回復されれば、人生は変えられるということであります。
制度も必要でしょう、形式も必要でしょう、伝統も必要でしょう。
それを整備するためにですね、会議をすることも必要でしょう。
それがいらないわけではありません。
しかし、最も大事なものは、イエスキリストの臨済であり、
その方の命であり、力であるということ。
そして自分自身が、その方を経験しながら歩んでいくことが大事なんです。
皆さん、使徒の働きを何度も読まれたことがあると思いますけれども、
そこを見るとですね、あのペテルの時代、あるいはパウロの時代、
ある程度の組織もあったわけなんですよ。
長老さんもいましたしね、またエルサレム、ソウカイもあったりね、
ある程度の組織や制度、形式が全くなかったわけではありませんが、
今の時代の様々な組織、制度、形式、あるいは会議、
もうそんなものはですね、そこまでなかったはずなんですよ。
でも彼らは選挙をすることに困ったんですよ。
あまり困ってなかったんですよ。
18:01
もちろんね、同じくですね、対等に比べることは難しいかもしれませんが、
私がお話ししたいことは、大事なのは本質が何であるかということなんです。
私たちが本当にもう一つだけ握りしめるならば、何を掴むのかという話なんですね。
それはイエス・キリストじゃないでしょうか。
その方の福音であり、命であり、力でありということなんです。
しかし当時の人々は、宗教性のある彼らはですね、もう中身がないんですよ。
形式ばかり残っているんですよ。
こういう出来事があったんですね。
イエス様が安息日に病人を癒したんです。
そしてその人に自分の徳を担いで歩きなさいとね。
その人がね、安息日に癒されて、自分の徳を担いでですね、歩いてね、行ったんですよ。
そしたら、それを知った当時のいわゆる宗教家たち、
サドカイ人とかパリサイ人たちがですね、イエス様をですね、もう腹が立って、
なんであなたは安息日に何もしてはいけないのに、なんで伝統を犯して、立法を犯して、そんなことをするんですか?とね。
その時にイエス様がね、そのルールを、制度を守ることと、病人を癒すこと、命を癒すこと、どっちが大事なのか、
あなた方が考えなさいと言ったわけなんです。
皆さん、大事なのは中身なんですよね。
命なんです。信仰も同じなんです。
当時の人々はですね、多くの人々は、もう堅苦しくて、形式と制度ばかり残っていて、命がない。
経験の模様はあるんだけれども、経験の力がない。
そういった社会にある意味でですね、イエス様は叫んだわけなんですよ。
皆さん、新しい仏教、イエスキリストに、福音に、天皇、御国によって、新しく生まれ変わってほしいんですよ、と。
皆さん、イエスキリストは、福音は、経験の力はですね、
全てを乗り越える、何にも縛られない、素晴らしい新しい命であります。
21:00
一箇所、聖書を開けたいと思います。
ガラテア・ビトへの手紙、第5章、1節、開きましょうか。
ガラテア・ビトへの手紙、第5章、1節、聖書は369ページです。
それではですね、1節を私がお読みいたします。ご覧ください。
キリストは自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。
ですから、あなた方は、しっかり立って、またと奴隷のくびきを終わらせられないようにしなさい。
ここにですね、イエスキリストの福音は何でしょうか。
それはですね、またと二度とバックして奴隷のくびきを終わってしまうことじゃなくて、
全ての者から解放して下さった、自由を得させて下さった、それが何ですか。
それが福音である、それが信仰である、それが天皇御国の力であるということなんです。
皆さん、イエス様を救いの主として信じて救われた、新しい命を得た、光を得たというものは、
全てのものを超越して何にも縛られない、自由の霊を我々はいただいたということなんです。
だから、古いものは過ぎ去って、身を全ては新しくなりましたという、第2コリント5章17節の御言葉があるんじゃないでしょうか。
誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく作られたものです。
古いものは過ぎ去って、もう過ぎ去ってですね、行っちゃってですね、ここにないわけなんです。
身を全てが新しくなりました。
第2コリントこの17節ですけど、実はこれが福音であって、イエス様が私たちに語ってくださるメッセージなんです。
皆さん、私は皆さんを自由にしました。
解放しました。
だから何かに拘束されて、何をしなきゃならないんだから、
いや、これはしないと何か悪いことが起こるんじゃないかと、
いや、ちょっと気まずいな、
いや、そんな意味として信仰を持つじゃなくて、自由の霊を支えられたわけですから、
新しく作られたものとして、古いものは過ぎ去ったんだから、
新しい時代に新しい命を持って、御霊の自由の中に歩んでほしいと、それが福音なんです。
24:11
だから皆さん、信仰生活をしていく中で、この恵みを、この命を、この自由を味わいながら、
ある意味で楽しみながら、喜びながら、主を礼拝して、また普段の生活もしていきたいわけなんです。
ある意味で、私も小さい時にそういうふうな信仰に教えられたかもしれませんが、
ある意味で、あまりにも堅苦しい立法的な生き方に、自分で自分を占めてしまう。
そしてまた、人も死に送ってしまう。
そういうところが、我々にあるかもしれないなと思いました。
例えば、何かをしてはいけないことをしてしまったら、
すぐに神の方から、もうサタンの子供になってしまうかのように不安を感じる。
あるいは、何かをしなければ、神様から捨てられてしまうかのような不安を感じる。
皆さん、よく考えてみたら、神様が私たちを守るのに、そんなに力のない方なんでしょうか。
神様が毎回、もうサタンに負けてしまう、そんなに弱い神様なんでしょうか。
そうではないんじゃないでしょうか。
ある意味で、私たちを誘惑するサタンの力より、私たちを守ってくださる神の力がもっと強いということを信じてほしいんです。
神様が願う我々の信仰、新しい武道士によって生きる信仰は、
何かをしなければならないんだからする、そういう生き方ではなく、
進んで喜んでする、その生き方を私は求めるんです。
例えば、礼拝を守らなければならないんだから、献金をしなければならないから、
奉仕をしなければならないんだから、あれをしなければならないんだから、
だからするんじゃなくてですね、
もう礼拝がしたくて、礼拝が喜びだから、捧げるのが喜びだから、奉仕が喜びだから、
もう喜びにあふれて、命にあふれて、新しい武道士によって主にお仕えする、生きる、礼拝する、
そういうものであるためです。
親子の関係を見たら、よくわかると思うんです。
例えば、私が子供に、あるいは花が掃除機をあけて掃除してくれると言ったら、
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いや、もう嫌な顔をしてですね、もうぶつぶつしながら掃除機をあちらこちらに当てて、
適当に掃除している子供を見たら、嬉しい親は誰もいないでしょう。
親も嬉しくない、やる子供も嬉しくないんです。
逆もそうなんですね。
たまに雨の日とか暑い日ですね、子供がですね、
誰かとは名前は言いませんが、お父さん、学校に送ってくれるって、朝電話が来るんですね。
おなかが痛くて、文字がギリギリ。
そしたらですね、私が、そんなことはしないんですよ。
いや、もう嫌な顔をしてですね、ギリギリ行ってですね、
車を何も運転しですね、学校に送ることはしないわけなんです。
神様も同じなんですね。
私たちは新しく作られたものとして、もう神様が大好きなんだから、
神を恋愛することが喜びで嬉しくて感謝にあふれて、
御言葉を聞きたくて賛美したくて、
そして主の日に、主の教会に集まって礼拝する。
それこそ皆さん、新しい武道士をいただいた、新しい命のある礼拝者ではないでしょうか。
メッセージを終わりたいと思います。
古い川袋、それはある意味で奴隷の生き方でしょう。
義務や形式、しなければならない義務感だけがそこにあると思うんです。
喜びもありません。感謝もありません。
恵みも命もないでしょう。
しかし本当に神様を愛する人には、神を礼拝する自由がある。
感謝がある。喜びがある。
進んで、喜んで、礼拝し、奉仕し、あるいは捧げ、あるいは愛し、あるいは使える。
そういうものでありたい。
そういう礼拝者、そういった生徒でありたいと願っております。
何より大事なのは、自分自身の礼がイエス・キリストによって満たされれば、
私たちは自然とそのキリストの命によって、その光によって変えられ、日々新しくされること、
また主御自身がそういうふうにしてくださることを待ち望みつつ、喜びを持って主にお使いしてまいりましょう。
お祈りします。
29:45

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