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改めて、みなさんおはようございます。2時間ぶりでございます。
みなさんに祈っていただいて、その休暇も韓国に戻られて、また家族や、あるいは友人、知人の信徒や先生方にお会いして、またいろいろね、うれしい時を過ごさせていただきました。
先週は教育の講談交換で、私は神戸中央教会で講師をさせていただきました。みなさんのお祈りと、またご愛に、ここから感謝いたします。
それでは、メッセージの前に隣の方々と挨拶しましょうか。はい、よろしくお願いいたします。
はい、それではお祈りいたします。
一人のサマリアの女が水を汲みに来たイエスは、私に水を飲ませてくださいと言われた。
アーメン、主よ、この朝もあなたを愛して、あなたの御言葉を期待して、また兄弟姉妹たちのお交わりに、その恵みに預かりたくて、ここに集まっております。
この群れの上に主をどうぞ、豊かな主の恵みと、また悟りと、また主の不思議を、我らに主があらわして与えて下さいますように、お願いいたします。
徒労に足りないこの者が来して下さって、神様御自身が、精霊様が一人一人の魂の中に語りかけて下さいますように。
そして、我らは気づいて悟って、目が開かれて、恵みに恵みに満たされて、主よ、あなたのために生きる者とならして下さい。
感謝して、弟子様の皆によってお祈り致します。アーメン。
福をためなら、一人の魂を福をためならでございます。
ヨハネイの福音書は、以前も最初の頃に申し上げましたように、家様に出会った人々、そして彼らの人生がどんなふうに変えられるのか、それをヨハネイの福音書は不思議に語っている。
その観点をもってヨハネイの福音書を見たら、ヨハネイの福音書のキーワードは、出会いと変化、出会いと変化と言えるだろうと思うんですね。
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家様に出会ったパプテスマのヨハネ、あるいはアンデレ、ペテロ、ピリポ、マファナエル、ニコデモ、彼らはですね、みんな変えられましたね。
世のために、自分のために生きてきた彼らが、もはや人生の方向が変えられて、自分ではなく、この世ではなく、主のための生きるものに変えられました。
今日もですね、今まで劇的な人生を歩んできた一人の女性が、まるで映画の一つのシーンのように、家様に出会いますね。
そして、彼女は真っ暗の闇の中から一筋の光に出会ったように、喜んで変えられるようになります。
その感動的な出会いのストーリーが、今日から今から始まりますけれども、今日はその最初の部分だけですね、見ていきたいと思います。
今日、三節を見たら、家様は今まではユダヤを中心にして、つまりですね、イスラエルの南南部のエルサレムとか、そこの地域を中心にして働きをしておられました。
そして、今度はですね、北の方のガリダヤへ行こうとしておられました。
当時ですね、家様の前の時代からもそうですけれども、イスラエルは細長く縦にするんだったら、南のエルサレムとかベツレムとかからですね、北の方のガリダヤとかマザレとかに行くためには、大きな三つの道路があるんです。
一つは、西の方の海岸線みたいになって行く道路がある。
そして、真ん中の族長の王子といって、山地を通ってまっすぐにサマリアを通って北の方に行く道路がある。
そしてもう一つの道路は、ヨルダン川を渡って、今のヨルダンという国のところを通って行って、また川を渡って行く三つの道路が普通にありました。
一番、近道はもちろん真ん中なんですね。
ところが、真ん中を通って行くためには、今日も書かれているように、サマリアという街を通って行かなければならないんです。
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ところが、ほとんどのイスラエルの人々は、北から南に行っても南から北に行っても、あのサマリアは通らないんです。
もう行かないんです。相手にしないんです。
それはですね、イスラエルの人々は、あのサマリアの人々を罪人のように扱って、もう相手にしない。付き合いをしない。
そういう、接することもしない、そういう風習がありました。
それはですね、歴史的な理由があるわけなんですね。
しかのもって、B.C.8世紀頃、あのイスラエルとかエジプトとか、いわゆる今、中東地域の覇権を取っていたのは、アシリアという国だったんですね。
このアシリアもいよいよですね、イスラエルはアフリカに行くにも、またヨーロッパに行くにも、とても交通の中心的なところにありますから、
みんなから狙われていたわけなんですね。
で、アシリアはいよいよ、あのイスラエルが南と南のユタと、北のイスラエルに分かれていたときに、まず北イスラエルを侵略して、そして植民地にしてしまいました。
そして、当時のアシリアだけではなく、大体同じ政策を持っていてですね、その植民地の人々の中で偉い人々、賢い人々、金持ち、そういったものは、みんな自分の国に連れて行きます。
そして自分の国、国民化します。そして残されたものは、大体貧しい人、奴隷請求、もう賢民のような人々だけ残すわけなんですね。
残して、アシリアはもう一つの政策がありました。アシリアの住民の中では、また同じく貧しい人とか、賢民とか、またいわゆる地筋もわからない、困窮のような周辺の脱俗のような人々を強制移住させて、あの北イスラエルに残っている人々と結婚させる。いわゆる困窮がそこに起こるわけなんです。
だからイスラエルの人々から見たら、出筋を重視して、信仰を大事にしているイスラエルの人々から見たら、あのサマリアはもうダメな人間が住んでいる街になってしまう。
罪人扱いをする。相手にしない。商売とかそんなものも全然しない。だから遠くても東の方に行くか西の方に行くかして、北へ南へ行くわけなんです。
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ところが、みんなそういうふうにしていても、イエス様だけは、今日も4節にあるように、しかしサマリアを通って行かなければならなかったとあるんです。
そしてそこで、シカールという街でイエス様は一人の女性にお会いになりました。今日この出会いの最初から3つのイエス様の心から教えをお受けしたいと思います。
第一、イエス様の感心はいつも神の御心を行い、それを成就するところにありました。イエス様の感心はいつも神の思いを行うこと、それを成就することにいつも感心がそこにあったんです。
サマリアを通って行かなければならなかったということは、この言葉のもともとの意味にはイエス様の意思がここに含まれているんです。何があっても、どうしてもサマリアに行かなければならない。
そこで一人の女性に会わなければならない。私を待っているあの女性、あの女性に会わなければならない。会いたいというイエス様の意思が、尊い御意思がここに含まれているんです。その御意思はどんなものなんでしょうか。それは救いと哀れみの重い意思でございます。
そしてサマリアを通って行かなければならなかったという、そう思っておられることは、ただのイエス様の御自分の思いじゃなくて、それは神の思いであって、その神の思いを行おうとしておられるイエス様を私たちはここで見ることができます。
今日の4章の34節を見たら、こういう言葉があります。イエスは彼らに言われた、私を使わせた方の御心を行い、その御業を成し遂げることが私の植物ですとあります。
これこそイエス様が普段何を考えて、何をしたいと思っておられるのかがはっきりとわかるんですね。
つまりサマリアを通って行かれること、そこで一人の女性に会うことこそ神の御心である。私はそれを行いたい。御業を成し遂げたいということなんです。
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つまり簡単に申し上げまして、イエス様の関心はいつも神の思いを、神の御心を行うことでした。
今日のこの第4章においての神の思い、神の御心、イエス様が成し遂げようとしておられたその神の御心は何でしょうか。
それはこのスカールの女性の救いであります。そしてまたその女性を通して、あのスカール、あのサマリアに福音が広がることではないでしょうか。これが神の御心です。
そしてイエス様はそれを成し遂げようとしておられました。そのためなら人々が行かない道であっても、サマリアを通って行かなければならないんだというイエス様の思いがここに含まれているんですね。
皆さん願わくは、このイエス様のこの思いを、イエス様のようなこの関心を私たちも習いたいですね。
何をするにしても、いつも神の御心を先に考える。優先にしてですね。そして神の御心を成し遂げようとする。
いつもそれを考え、そのために祈る、そのために励んでいくこと、それがイエス様の尊い習慣でした。イエス様のライフでした。人間であれるイエス様の清い習慣でした。
この時は神様は何を願っておられるんだろうか。お父さんは何をしたら喜ばれるんだろうか。何が神の心にかなったものなんだろうか。どの道が神に喜ばれる道なんだろうか。
今ここで、この時に私が何をすれば神様に喜ばれるんだろうか。神を喜ばすことができるんだろうかということをいつも考え、教えていただいて、それを行い、その道を歩むことがイエス様の歩みでした。
皆さん、私たちはいかがでしょうか。毎日の生活の中でこのような清い習慣をお持ちになっていただきたいんですね。今、天皇と様は私に、今の私に何を願っておられるんだろうか。
今何をもって主を喜ばすことができるんだろうか。何が神の心にかなった道なんだろうか。それをいつも考えていらっしゃいますか、皆さん。そしてそれをキャッチして行っていらっしゃいますか。その道を歩んでいらっしゃいますか。これが大事なんです。
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信仰生活をしていく中で、いつも自分の思いで、自分の今までのやってきた道理で何もかもやるんじゃなくて、あるいはこの世的な条件を見て、まあ仕方がないねって言ってやってしまうんじゃなくて。
第一に何が神の御心なんだろうか。それを考え、それを教えていただいて、それを行うこと、助けいただくこと、これこそイエス様の心であって清い習慣でした。
その思いを持ってイエス様はね、サマリを通らなければならないんですよ、とおっしゃったんですね。
第二番目、もうちょっと視野を広げて考えていきますと、イエス様は出会いを大切にしておられました。
我々人はですね、誰に出会って、あるいは誰と結婚して、誰と一緒にいていくのかによって自分の人生がくると変わると思うんですね。
私は特にですね、青年のとき、結婚の前ですね、軍隊終わって教会に戻ってきたときに、あのときの青年の、同じ青年、ハンナも同じ青年でしたけれども、同じ教会で。
あのとき指導してくださった牧師先生は、今中国でですね、選挙主として、ものすごく熱心に長い間ですね、働いておられますけれども、
あの先生に出会って、私のこの日本選挙の思いがですね、強くなったというか、熱くなったというか、もう定まったんですね。
とても私の人生においては大事なお出会いでありました。
ところがイエス様は、一人の魂一人の魂と出会うことを、とても大切にしておられました。
イエス様はですね、金持ちとか、あるいはですね、偉い人との出会いを大切にして、貧しい人とか病の人は無視してですね、会おうとしなかった、ではありません。
イエス様は、このヨハネの福祉書を見たらお分かりになるように、一人一人と人と出会うことを大切にしておられました。
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あのヨルダン川でパプテスマのヨハネに出会ったこと、またタナヘルに出会ったこと、この前の参照でのニコデモに出会ったこと、
どこを見てもですね、イエス様は適当に出会ってね、適当にお話してですね、もう疲れて、もう帰ってほしいなとか、そう思っておられないんですね。
話が長いねとかね、そんなふうにですね、思っておられない。
一人一人の出会いを本当に大切にしておられる。
今日この人に会わなければならない人、今日この人に会わないと一生会えないかもと、そういうふうに思うぐらいで、大切な時を過ごして、
彼の心を呼んでくださって、慰めてくださって、時を一緒にしてくださった。
そしてその人々は帰られたわけなんですよね。
いわゆる寄り添ってくださるイエス様、付き添ってくださる心の温かいイエス様のそのお姿がここに書かれているんです。
皆さん、イエス様のこのような心の温かいこの姿から、教会の真の姿を私たちは知ることができるんじゃないでしょうか。
教会とは何でしょうか。いろいろですね、話せると思いますけれども。
その中でこのポイントから申しますと、教会はお出会いを大切にするところだと思います。
もちろん神様とのお出会いが第一ですよ。それは当たり前のことですから、横に置いておいて。
それほど大事なことは、兄弟と姉妹とのお出会いなんです。
兄弟と姉妹との出会いを大切にするところ、そこが実は教会なんです。
皆さ、適当にあってもいいようなそういう人はいません。
もし今日、明太に教会のこの礼拝に初めて来た方がいらっしゃるならば、
もう本当にですね、心を込めて話し合って、交わって、温かく接して、
お話を聞いてあげて、耳を傾けて、寄り添うところ、喜んで受け入れるところ、そこが教会ではないでしょうか。
明太に使わされてですね、毎年洋教区の高段高官で回られてですね、いくつかの教会を回らさせていただいてですね、
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普段、礼拝にはいけないでしょう。礼拝に当然ここにおるわけですから、他の教会の礼拝には招いてくれない限りはいけないんですけれども、
いくつかの教会に回られて、だいたい雰囲気がわかってくるんですね。
講師ではないんですけれども、メッセージにしに行った僕にすることだけ見てもですね、
この教会だいたい新しい人とか、あるいは教徒さんにどういうふうに迎えるか、こう見たらですね、だいたいわかってくるんですね。
ある教会はですね、本当にですね、誰もがですね、もう本当に温かくですね、もう挨拶して話をかけて、そういう教会がある反面、
ある教会はですね、もう礼拝が終わったら煙が一瞬消えてですね、もう見えなくなる、なんだろうと思う。
教会名は言いませんがね、そういうところがあるんです。さあ皆さん、今から例えですよ、考えてみてください。
皆さんがクリスチャンじゃないです。全く初めて、生まれて初めてある教会に行きます。
自分を育ってくれた一人しかいない。心に不安もあるでしょう。教会がどんなところだろうと思ってですね、教会に行きました。
ところがですね、行ってみたらですね、もうみんな自分たちで忙しく、自分たちで喋っていてですね、挨拶をしてくれる人もなかなかほとんどいない。
ある人はですね、険しい顔をしていない。無口でですね、座っている。礼拝が終わってもですね、声をかけてくれる人もいないし、お茶をいっぱいくれる人もいないしですね。
そういう教会に皆さんが行ったとしならば、次回に、次にまた行きたいでしょう。
たぶん人間的には行きたくないかもしれない。もちろんイエス様に出会うことが一番大事ですよ。
でもそのイエス様に出会うまでのその入り口は私たちなんです。皆さんが一人追い取り追い取りが入り口なんです。教会なんです。
実は皆さん追い取り追い取りが妙谷教会なんです。皆さんが普段人に接しているその姿が妙谷教会です。
皆さんが普段兄弟姉妹と交わっているその交わり方が、言葉の近い方が、顔の表情が妙谷教会なんです。
それが一つになって妙谷教会になるわけなんです。
クリスチャーミサーチ機関の統計によりますと、初めて教会に来た人がその教会に魅力を感じて惹かれて、
二回、三回、四回続いて行きたいと思う要因の一つは、温かさ、親切さ。
また言葉では表しにくいんだけど、何かの心に惹かれる何かがあの教会にはあるということ。
もちろんそれが霊的なものでしょうけれども、そのまでには我々人間の愛と親切さ、温かさがあるんです。
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それですね、自動的に自然に生まれる育つものではありません。
イエス様のように、私たちは一人一人その魂と出会うことを大切にする、より親切にしてあげる。
関心を持って話し合って、我々の言葉遣いに顔の表情に愛に満たされて、喜びに満たされていって、愛を持って接すること。
もちろんそのためにはですね、我々がまず、神の愛によって満たされることがまず。
イエス様は、詳しくはですね、来週に続きますけれども、わざわざ様に問うて行かれたんですよ。
そこで、この名も知らない家に、本当にこのようなみんなから嫌がられる女性に出会ってくださった。
そのお出会いを大切にしてくださった。それがイエス様の思いであって、教会の姿ではないでしょうか。
三つ目、イエス様は一人の魂を救うために止まらない、諦めないイエス様のパッション、情熱が実はここにある。
さまりを通って行かなければならなかったんですね、イエス様と弟子たち。
暑いでしょう。歩道は乾いています。歩きですからね。何十キロも歩いて歩いて行くんですよ。
そして町が近くになりました。このヤコブが掘ったあの井戸は町から離れているところにありました。
そして井戸を見つけてですね、ちょうど12時ごろ、昼の12時ごろ、一番暑い時でした。
井戸の傍らに腰を下ろして休憩しておられました。喉も乾いていて、多分疲れていらっしゃるでしょう。
ところがですね、よく考えてここに注目したことがあります。
イエス様と弟子たちはたまたま偶然、このスカールの町を通って、たまたまこの井戸があって、そこにたどり着いたと思いますか、皆さん。
そうではないでしょう。さまりは結構広い地域ですよ。
その中の町、村があって、その一つの村がこのスカールという村なんです。
これは偶然だと思いますか、皆さん。決してそうではないと思います。
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イエス様は神なんだから、ちょうどこの日、ちょうど12時ごろ、他の人ではなく、またちょうどその女性お一人だけで水を汲みにここに来ることを神なるイエス様はご存知でした。
神様なんだから。だからこの女性に会うために、他の村ではなく、このスカールの村に、そして他の井戸ではなく、この井戸に、またこの時間に、ここにイエス様がおいでになったわけなんです。
皆さんここにですね、まるで失われた一匹の羊を探し歩かれるイエス様、見つけるまで探し求められるイエス様の姿がここに描かれているんじゃないでしょうか。
この女の人に、もう必ず会わなきゃならない、会いたいと、そう願うイエス様のパッションが、愛がここにあるんですね。
本当に素晴らしいイエス様の愛ではないでしょうか。
七節を見ますと、十二時ごろ、主に第六時はユダヤルの時間ですね。今の我々には昼十二時になります。
七節、一人のサマリアの女が水を汲みに来た。イエスは私に水を飲ませてくださいと言われた。
ちょうどイエス様が会いたいと思っていた、会うつもりだったその女の人が水を汲みに来ました。
しかも一人で来ました。偶然ではないんです。イエス様はご存知でした。
イエス様は神様だからですね、この女性が水を汲みに来る曜日も時間も合わせてここに来られたわけなんです。
善のなる神であるイエス様がですね、一人の女性に会うために、これまでに準備をして心を込めてここにおいでになりました。
済みだけではないんですよね。あのユダヤから中部のサマリアまで歩いて行かれた。
疲れるでしょう。暑いでしょう。喉乾いてるでしょう。お腹すくでしょう。でも行くのです。
サマリアのこのスカルの胸に行くんです。この女の人に会うために。
でもイエス様は善のなる神様だから、時間に会おうとするならば会えるでしょう。
でもそうなさらなかった。この日、会わなければならなかったんですね。
皆さんここにですね、このスカルのこの女の人に会うために苦労も厭わないイエス様。
暑さも汗も上乾きもですね、厭わなくてイエス様の止まらない、諦められないイエス様のパッションがここに書かれているんじゃないでしょうか。
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これまでにして会おうとするイエス様の愛。一人の女性を救うために諦めないイエス様の情熱、パッションがここにあるんです。
ここまでにして一人の女の人に会おうとしておられるイエス様。
そしてその女性に誠の光と解放と望みを与えようとしておられるイエス様。
一人の魂を救うためなら何でもすると。そのイエス様。イエス様はここにおられます。
どうか皆さん、まずは私たち自分自身がこのイエス様にお会いしたいです。
このイエス様にお出会いさえすれば、我々の人生もですね、このスカルの女性のように変えられると信じます。
私が求めればイエス様は出会ってくださるんです。
そして私たちもこのイエス様の姿を見習いたいですね。
一人の魂の救いのためなら、そんなこのイエス様のような情熱、パッションを見習いたい。
ところが我々の姿を見ますと、時にはできたらいいんだけど、できなかったら仕方がないと諦めている姿が、我々のそんな気持ちがあるんじゃないでしょうか。
魂の救うために派遣で働いて奉仕していて、もしも小さな山に峠に出会ったら座り込んでしまって、諦めてしまって、泣いている私たちがあるんじゃないでしょうか。
イエス様は、一人の魂の救いのためなら何でもする、どんな苦労も厭わない、みんながしおこをしないこともする、サマリアも通っていくというイエス様の愛によるパッションがここにある。
諦めない、粘りじゅう、イエス様のパッションがここにあるんですね。
これを学びたいんですね、皆さん。見習いたいです。
メッセージを終わりたいと思いますが、皆さんが、私たちが出会うべきスカルの女性のような方は誰なんでしょうか。
その方は、きっと皆さんを待っておられるでしょう。
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その人に出会うために、イエス様のように苦労も厭わなくて、粘りじゅうくあきらめずに探していって、会って、愛と福いを伝えようではありませんか。
そして、まず私たち自分自身がそのイエス様に日々お出会いして、イエス様によって満たされるものでありたいと願っております。
続きはまた来週にしましょう。お祈りいたします。