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2013-06-02 44:47

2013/06/02:教会・共に奉仕する美

2013/06/02 聖日礼拝

斎藤亘師

マルコの福音書 2:1-12

00:02
おはようございます。
6月、今年も何かあっという間の、あんまり半年でしょうかね、最後の月という、こんなに早く一年が経ってしまう、年がいけばいくほど、それを大変最近は特に痛感しております。
若い時代は、もうちょっと時間に余裕があったんではないか、あと何年先のことはどうどうこうなっているような、そういうようなことも話し合うことができたかと思うんですが、今朝、私は、読んでいただきましたこのマルコニュースクリストの2章と、ご一緒にお言葉を開いていきたいと願っております。
この辺りは、もう皆さん、ベテランのクリスタンの方々ですから、ほとんどよく知っていらっしゃるところの、この箇所の一つであろうと思います。
私も何回もここからお話を、教会学校でもしたことがありますし、家庭集会でもしましたし、礼拝、あるいはよそに招かれていたときの伝道説教の中でもって、この箇所をご一緒に開いてお言葉をいただきました。
聖書の言葉というのは、皆さん方もお読みになって既にご承知のことですけれども、何度読んでもそこで新しい光と言いましょうかね、教えられるところが必ずあるものなんですね。
そういうところに気がついてみて、何で前に読んだときにこのことがわからなかったんだろうか、そういうようなことがさいさいあります。
ですから皆さん方も、ああ、あそこは前にも読んだことがある、聞いたことがある、そういうことで理解されている方々は、また神様がどういうところから、精霊を通して私たちに大切な見事を示しなさるか、
そのことに説教への関心を向けて、そして一緒にこの箇所を開いてくださったら幸いかと思います。
私は二回ほどカフェナームというガジア沿岸の町にそこに参りました。
初めて行ったときは、聖書にしばしば出て参りますから、この大きな町として今もそこにあるんだろうと。
そう思いまして行きましたが、え、ここがカフェナームというような感じで、あんまりこの聖書に出てくるようなイメージをしていた町の様子ではないんですね。
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やはり聖書は、一度はその背景となっているところに行くことも必要だなと思いまして、二度目に参りました。
そのカフェナームで私が興味を持ち出したのは、今は何か資料館のようになっているのでしょうかね。
多分ここが、あの、イエス様がこのお家においでになったときに、ここに出てくる四人の仲間がですね、
一人の病を持つ人を連れてきて、そして屋根に穴を開けて、そしてイエス様に許していただく、この直していただくという、そういう大きな技が出されたところ。
しかし今はもうコンクリートでもってしっかりできておりますから、まあね、ハンマー持っても、あるいはドリルを剥けても、なかなか屋根に穴を開けるなんてことができないだろうなと思いながら、
2000年前と今日のその建築の構造の違いというものを言いました。
2000年前に当時の家屋は、現在私たちが考えているような、こういう家屋ではもちろんありません。
しかし、読んでみて想像するのは、やはりこう、陸屋根式っていうんでしょうかね。
まあ私たちは大体こう山形の家ですけれども、屋上のあるような、そういうこの家。
そうしてみると、今のエルサレムでもそうですが、大体そういう構造の家が多いんですね。
ですから、昔はただ材料が違うだけで、きっとこういうような屋根で、そしてこのマルコンの認証に出てくるような事柄もあり得たんだなというようなことを、この想像もするわけです。
私はこの箇所を読んで、まず思いましたことは、この2章の最初にですね、こういう言葉ですね。
私は今、公文薬製書と新解薬製書と両方投稿を持っておりますが、明石一丸教会に来るまではずっと長いこと、新解薬をずっとやっていました。
そういうのを明かしてきましたら、まあ今、教団は公用製書としては公文薬製書ですから、ステモル教会はそれに則って、そして公文薬を使う。
ですから私は何十年ぶりかにもって公文薬を開いて、やっと慣れたと思ったら、また改めて新解薬ということですね。
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その間に新教薬製書というのもありますから、新教薬製書を読んだり、あるいはリビングバイブルを読んだりして、日本語薬に訳された製書がありますからね。それなりにこの教えられるところがありますから。
しかし、慣れた製書というのはなかなか、いつも読み慣れていないと、そうはいかない。
ですから、新解薬製書から公文薬製書に切り替えるときに、慣れてはいるんですけれども、ここを長いこと使っていないものですから、公文薬製書を下絵に開いてまいりました。
そうすると、頭の中では公文薬製書の言葉と新解薬製書が、これが今の流行りの言葉で言うならば、ハイブリッド化しましてね。
両方で適当に頭の中でもってこんがらがるということがあるんですが、それでどちらが参考になるかわかりませんが、この1節を見ますと、
数日経ってイエスがカペナームにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
この公文薬製書では、イエスがまたカペナームにお帰りになったとき、家におられるという噂が立ったというふうに訳されております。
カペナームとイエス様の関係と申しますとね、イエス様の前導を見てまいりますと、初期の前導はこのガリジャー湖を中心としたその沿岸を前導されました。
そのときにイエス様はしばしばこの家をお持ちなかったようです。
ですから、帰られたという言葉の方があるいは、むしろ意味としてはそのあたりをよく表しているのかもわかりません。
どこかに行きます、しかしまたここに戻ってくる。またこのところからさらに新しいところにお迎えなさい。
そういう点においては、新科学製書よりも、このイエス様がお帰りになったときというこの古語学製書の方のお言葉が何か馴染んでまいります。
ただここで申し上げたいことは、このイエス様がその家におられるという噂が一体に広まったということですよね。
知れ渡ったというふうに新科学製書はそこに伝えております。
なんと幸いなこの家庭だろうかなと思いますね。
イエス様がおられるという噂が、あるいはそういう事柄がある家庭から周辺にそれが伝えられていくという、
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これは私たちの願うところの一つのこの家庭としての姿ではないだろうかな。
そういうようなところを教えられますとね、改めて牧師家庭として私の家はどうだろうかな。
そんなこの我が身を振り返ることもありますが、大切なことは、やはり私たちが家庭においてもイエス様がそこにおられるという、
そういう事柄が自分の家だけの満足じゃなくて、その周囲にそういうことが噂になる。
噂でもこんだけもしがんだなと思いますね。
週刊誌など新聞の見出しなんかを見てまいりますとね、とんでもない噂がどんどん広がってまいりますよ。
単なるそれは噂というよりも、もうそこにさらに新たな事柄が加えられて、そしてとんでもない目に新たな事があるんでしょうけども、
しかし聖書はよろしく、私たちそれぞれの家庭を通してね、そこにイエス様がおられると引き付ける言葉ですよね。
ですから、それで多くの人が集まったと書いてあります。
榎本先生という、一日一章というね、あの冊子を書いてらっしゃる先生が、テープの中だったんでしょうか、何かに書かれたんでしょうか。
教会というところは、集めるところではなくして、集まるところなんだ。
それなのに私たちは、なぜか集めることに一生懸命、
あれやこれや、こういう宣伝もしなくてはいけない、こんなこともしなくてはいけないというようなことを持って、集めることにこの新生。
しかし聖書はそうじゃないんだ。
聖書は、当然のようにそこに集まってくるんです。
問題はここに書いてあるように、イエス様がそこにおられるというこのことだけでね、
集める苦労をずっと続けるということもあれば、そういうこともせずに人々は怠けた人間になっちゃうか分かりませんけれども、しかしイエス様がおられるという、それだけで人々は集まってくる。
教会は、そうじゃないなんやろうかという意味のことをおっしゃっておりましたんでね、なるほどと思いました。
私は未だに、と言いましても今は引退しましたからなんですけれども、
全席にあって、そしてやっているときは、いかにして今年のこの特年をどれだけの人を集めるか、何枚この手書きを配るか、どういう宣伝広報をやるか、
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いうことで私たちは集めることに屈心散々するわけですが、最近はポスターを見ても、いや、むしろポスターを貼ることすらできない。
貼してや立て看板というわけでもいかない。そうするとどうしても人から人へという、そういうことになってくるわけですけれども、
ですから余計にね、この集めることに屈心するよりも、みんなが本当に集まってくるという、そういう教会形成というのが私たちの祈りであり、またはお互いの念願ではなかろうか。
そしてそれはイエス様がその家庭に、イエス様がその教会におられるという、これでいいんですよね。そうすると人は集まってくる。
日本キリスト教団の、今ちょっと名前が度忘れしておりますが、加藤先生という方が、鎌倉野一の下教会で勃開なさっておられたときに、
丸々言うならば私らの年なんでしょうか、そういう年代の方が教会に珍しく来られた。何があって教会行事になりましたかということで聞きましたらね、
よく教会のそのところ近くを通って、そして行ってみる。そうするとね、教会からその青年たちの、若い人たちの笑い声が聞こえてくる。
教会というのは私が運命している教会とはだいぶ違うな。何がそんなに若い人たちが集まって楽しげにしているだろうかな。
それがきっかけだったそうですよ。そしてその方は一例行ってみようということで教会に来られて、
そして後にイエス様を信じなかったという、一人の方のこの証を加藤先生がなさっておられました。
この場合でもね、その方がその教会の近くを通ったらもうけんけんガクガク、とんでもない声が聞こえたんです。
教会もこの世のそれと一緒だなという、そういう印象を伝えたら、人は改めて教会に行きましょうというのは思いにはならない。
哀愁するところがありますね。教会にイエス様がおられるというところには、そこには感謝があり喜びがあり賛美があり、
そして楽しげなそういう会話もそこに光っている。それを旗から聞いているだけでという。
ですから、人行伝の最初を見てまいりますとね、精霊が下って、そこに集まっている120人の人たち、そしてさらに3000人の人たちが加わってきた。
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その人たちのほかに、まだ潜在的な、じゃあ教会に行ってみようかなという思う人でしょうか。
今は身をもって教会に行かないまでも、ああ、なるほど、教会というのはそういうところか。いいとこだな。
教会の人たちはなんて素晴らしい人だろうかという、そういう好感を持ったと書いてありますよね。
ですからその初代教会においても、その教会の人たちのその雰囲気というものがよく伝わってきます。
そこにイエス様がおられるということによって、そこからかもしれる、それはやはりイエス様がおられるという、それじゃないでしょうかね。
皆さん方もお感じになっていると思うんですけれども、教会に行きますと、初めて行ったときのことをそれぞれ思い出していただけたらと思いますが、
何かこう細かな、他の場所では感じることができなかったようなものが、中須賀の教会に行ってみたら感じます。
今、日本にもたくさん教会があります。やる言うならば、あえて言うならば、教会道ですよね。
随分以前に、まだ私が大阪におりますときに、韓国の教会になって、そして一つの集会を持ちました。町を案内しました。
先生の教会のほかに、教会どこなんですか。周り見渡しても、ないですね。
私はそれまでは、韓国に行くこともなかったものですから、いや、こんなもんじゃないんですかと聞いた。
いや、そうじゃないですよ。教会がもっとあったらいい。教会がもっとあったらいいと言っても、あんまりあったら信者さんがあっち行きこっち行き、
いや、こっちがいいからこっちに行かせたらいいなんていうようなことをするんじゃないだろうかなと、馬鹿げたことを言ったことがあります。
そしてそれから何年か経って、総理へ行きました。
そしてその総理へ行きますと、飛行機がちょうどその頃、陰境じゃなくて、
キンポ空港に降りるとき、教会がいくつも見えているんですね。これみんな教会なんだろうか、結婚式場なんだろうか、どっちなのか。
私の頭の中では、ただ表側を見ただけじゃなくて、結婚式場というのもありますからね。
むしろ結婚式場の方がいかにも教会らしい建物されておりますから、どっちなのかなと思いながら参りましたが、みんな教会なんですよ。
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そしてもう写真を撮りますとね、必ずどこにも教会が映ってくる。それぐらい教会が多い。
ですからそういう環境の中におられた先生が日本に来て、教会どこにあるんですかっていう、それもそれも当たり前のことだなと思いました。
それぐらい教会の数が多い。
あるときは、前に校長代行がされていました。
足立先生が行きましたとき、先生が左側の窓から教会の数々。私は右側から教会の数々。
そしてですね、夕方になってもいいですから、十字架が赤くついてやってみようと。
それから私も一生懸命数えましてね。
二つ三つ行ったぐらいで、えいきなり行ったぐらいで、もうやめまして。
足立先生ももう言い忘れてきりがないわ。
それぐらい、もう教会がですね、そういう風に多い。
日本の場合にはそうではない教会も、結婚式場としてもそれもありますから。
ですからそういうところに行ったならば、心は受けきってくるでしょうけども、
いや、いわゆるイエス様のおられる教会に行ったときの感じは、そういうところはどうなんだろうかな。
私は思いましたのはね、やっぱり結婚式場は結婚式場なんです。
そこにはこれから華やかな一つのセレモニーがずっと進んでいくという点において、
みんながそこに新郎新婦に関心を持ってきます。
それは教会じゃないからですよ。
しかし教会は、そういうことがなくても、初めて誰もいないようなところであっても、
礼拝堂に入りますときに、何かそこにおごそかさを感じさせるものがあるんですね。
私はその人が、この市内と関係なしにですね、
その人自身の霊的なところに、その教会の持つその雰囲気というのではなく、
本当にイエス様がおられるという、精霊の臨済というのが、
そういう人の心をとらえるのかなと思います。
だから初めて教会に行ったときの、あのおごそかな感じ、
真面目に賛美歌を歌って、そして大きな話を聞いているからという、
それ以前のこととして、そういう印象を与えなさい。
私もそういう感じを持ちました。
ですから私の場合は、どう思うですから、ちょっと私の来るところじゃないなという、
そんな反発するような、そういう思いを持ったのは、最初なんですね。
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何かこう清さがあり、おごそかさがあり、
そこへ何にも知らない俗人の疑問が来ていいものなのかという、
そういう何かに圧倒されるような思い。
私はここで言う、イエスラーのおられるという、この言葉がね、一般の人にも、
そしてまたクリスチャンにとっても、そういう意識を与えるのではないか。
そのためにね、この戸口までも隙間がないほどになったと書いてあるんです。
羨ましい光景ですね。
まあそれなりの人が集まったと思うんですけども、
まだ前の方に椅子がありますし、間にスードがありますから、
この教会、街道からするならば、そこをやっぱり開けて、
そしてもう向こうまで、いや向こう入れない人はもう道路にまでというような感じになるでしょうか。
韓国においてのその教会の様子もそうですが、
私が関東のある地下教会という教会に行きました。
地下教会ですからね、アングラ地下地ですから、しっかりやるんだろうなと思っておりました。
そしたら案内されていったら、ロングハウスって言うんでしょうかね、
まあ日本で言うならば長屋でしょ。
4階建てか5階建ての長屋。
それでね、ずっとこの人が一人通れるぐらいの底をずっと上がっていくんですね。
で、行ってみてびっくりしましたのは、もうびっしり入っているんですね。
そして永遠と最初にこの賛美が1時間です。
当時ですからこういうテープで巻き戻してはやるんですけれども、
その肝心の歌につくまでがなかなか当たらないというような感じで、
戻してはまたやり、また戻してはやりというような、そういうところで1時間賛美。
そしてその後さらに1時間お祈りですよ。
長い長いお祈りがそこで捧げられていました。
そしてそれが終わってから1時間のメッセージですね。
私はまあ言葉が分かりませんから、途中でも後ろを見たり横を見たり、
時にはこの写真を撮ったらまずかったんですけれども、そんな写真を撮るようなこともいたしました。
びっしりなんですね。
あの皆さんこうして椅子なんでしょう。
その椅子の下にまた一段低くなった長い椅子があって、それが出てくるんですね。
そして通路がいっぱいになるとそれが出てきて、そしてずっと座っていく。
その教会は座る順番があって、前のこういうところから座るんです。
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そしてそういう状態でもって、途中でもって立って帰ろうなんていうことができないぐらいに、
まあそれが手なのか分かりませんけれども、とにかくもうびっしり。
そして3時間。やったし、もう初めての経験ですけれども、話が分からないもんだから余計なんです。
そしてお話が終わってから、それからその牧師さんのところに行って、
今日のメッセージなさった先生を紹介してくださいと言ったら、いやもう彼はいません。
特別な礼拝として来られたのかなと思っておりましたから、そう尋ねたら、いやおりません。
私も彼がこの後どこへ行ったかは知りません。
つまりそういうことでないと、それこそその牧師自身も何年も、
ヤルシン工場のことでもってこの刑務所に入るというところが、
自分が入るときにその協会は400人だったそうです。
そういう状態で何回か礼拝をやった。
帰ってきたら倍近くになった。
なんでそうなったんですかと聞いたんです。牧師さんは分かりません。
分からないと言って、何かそこにあったんじゃないですかと必要に聞きますと、いや分からない。
私はそのときに思いましたのは、今も中国はやる。
信教の自由ということでもってそれは言われておりますけれども、
中国独特のそういうのがありますから、伝道説を集めることはできない。
まじでそこは牧師が捉えられて、そして行ってしまった。
しかもこの教会の名簿が全部取られて、そして行ってしまう。
そしてその後、今度は若い人たちに、いつまでも教会に行ったら出席できないとか、結婚できないとか、いろんな嫌がらせがそこに向けられるんです。
ですから行こうと思っても、もう行くのやめてしまおうというようなことが当然なんですけれども、
その当然なことがむしろ逆になって、私がいない間にこの世に倍近くなりました。
私はそこに、この一説二説に見られるような一つの教会のスタイルと言いましょうか、私たちの求めるものがあるんじゃないだろうか。
集めるっていうんじゃなくて、集まってくんだなと思いましたよ。
イエス様がそこにおられると。
ですから困ったことは、この仲の良い五人組だったんでしょうか、その一人が病気になってしまったんで、
この四人が何とかして、ということで持ってイエス様のところへ連れてきたときはもうすでに時を阻止で、もう玄関から入るスペースすらもない。
この四人が考えたことはですね、二階からとにかく上がって、そして当時のこの家の構造からそれができたんでしょうけれども、
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その屋根をですね、少しずつ少しずつこの廃墟に通して、この四人が炭火に乗せて、そしてイエス様の前にその十分な人をこの下ろしてきた。
途中から集会ができなくなったんだと、そう思うんですがね。
イエス様がこの話をなさる、みんなイエス様に集中している。
何か頭にかかるのは何だろうな。
みんながこうしてやっているうちに、ふっと見たら天井の一角が明るくなって、そうして見ているうちにボロボロやってきて、そうしてかなりの空間がそこに生まれた。
そうしたら、なんと人間が一人ですね、上から下ろされてくるっていう。
こんな想像、これはもう想像できない様子ですよね。
私はこの四人の人たちのその思いっていうんでしょうか、その嬉しさっていうのは、自分たちの仲間の一人なのかも分かりませんが、
何としてでもイエス様がおいでになっている時に彼を癒してほしい。
それがね、ちょっとこの常識を超えたような事柄を彼らにさせてしまったんだろうなと思います。
多分この家は、この一章の二十九節を見ますとね、一章の二十九節、そこを見ますとね、こういう言葉になってますね。
イエスはカイドウを出るとすぐにヤコブとヨカネを連れてシモンとアンデレの家に入られた。
ところがシモンのシオトネが熱病でとこについていたので、人々は早速彼女のことをイエスに知らせた。
イエスは彼女に近寄り、その手を取って起こされたすると熱が引き、彼女は彼らをもてなした。
こういうところから、おそらくこの二章に出てくるこの家は、このシオトネさん、ペトロの爺のお母さんのこの家だろうと言われております。
かつてそういうことがありましたし、ですからその家にまたイエス様が戻ってこられているという噂が噂を呼んで、そうしてこういうふうに実質の余地がないぐらいの状態になったんでしょう。
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四人はその家をちょっと屋根を壊してまで、そういうようなことをしたわけですよ。
けども人々の期待は、ここはペトロさんのお母さんが直されたところだ。
あるいはイエス様がここで私たちの前でこういう大きな技を行いなさるのかもしれないなということで、現在我慢しながら様子を見とったと思いますが、
そこに一人の人が下されてきたとき、イエス様はその中の人に対して同時にその四人の彼のこの信仰を裏になって、そしてまずおっしゃったことは、この人の罪は許されたとおっしゃったんですね。
意外なことに、このお母さんの場合はそうではなかった。
ところが今度は病を癒すんじゃなくて、あなたの罪は許されたということをおっしゃっている。
何とおっしゃっているのか、不思議なことだろうなと。
ただそれに対して日本学者たちは彼らもそこにおったわけですから、何かどっかにこの徳かかりがないだろうか、イエス様を切り落とすような、殺すような、それがしたわけですよ。
罪の許しをそこでも知っている。このイエスは何という男だと。
罪を許すのは神以外に誰もできるはずはない。
彼の言っていることは正しいんです。
けれども、近々その心の中は氷のようにせめたい。
そしてまた人がやっていること、言っていることも一日にそれを自分たちに持ち合わせた立法に晒し合わせて、あんな間違いをした、こんな間違いをした。
そういうことで持ってくれれば、日常生活を送っているような、そういうことですから。
ですからイエス様がおっしゃったその言葉に、非常に心の中でですね、「見つけた!」と言わんばかりの、そういう思いだったでしょう。
イエス様は。そういう彼の心中を見ました。
たしかこの四人の人たちと、この立法学者、この人たちのこの大きな違い。
四人は何とか一人の人を助けたいという思い。
ところがこの立法学者たちは、その一人の人なんかとはもうどうでもいい。
むしろその言葉尻を捕まえて、そうやってイエス・キリストを斬罪しようというような、そういう思いばかりだ。
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ですから集まっている中にはね、イエス様に対して期待を持っている人もおれれば、そうではない反発的なそういう人もおる。
いろいろ人がイエス様の周りにおられたんだな、というようなことがそこにわかります。
しかしイエス様は、あなたは立法学者はだめですよ、ここに入っちゃだめでしょ、そうおっしゃっていなかったようですね。
むしろそんな人よりも、今この四人の人が自分たちの仲間を連れてくる、その人に席をこの席を掲げた方がむしろいいんじゃないかと、そう思ったりもするんですけれども、
イエス様は別にそのことに対してね、あなたは私を何か行進直すために来ているんだったら、まあ来ないでいいですよ、というようなことをおっしゃっていない。
そういう人も全部自分のところに向かえ、その人がどう思うと、イエス様はその人たちを受け止めながら、しかし間違ったことをそこで思っているならばそれを指摘します。
残念なことに彼らは立法には詳しいんですけれども、己の罪に対して誠に鈍感でしょうかね。
立法を読んで自分がスウィートであると言うと知って、そして神様の前に出るならば私ものこと、しかしこの時の立法学者たちはそうではないんですね。
同じ立法学者でもタオルが違いました、やっぱりね。
そこに光が射した時に自分がどういうものかということがわかって、そして彼は立法の前に自分は何と大きな罪をおかしつけてきたことか、
私は立法を教える立場におりながら、しかしながら自分はその罪の奴隷の中にあって、正しいことすらもできない、悪いことをやめようと思ってもそういう気性でもないと言って、
かやら自分自身に絶望している、その告白をローマ人の手紙の7章にしております。
立法学者だった彼にも、神様の光がイエス様の光が届くと、自分の罪がわかり、そして求めてくる。
この人にも立法学者にもそのチャンスはあるんですよ。
ですからイエス様は分け引かせなく迎えてます。
問題は、そこでどういう自分を見出すかという、そこですよね。
私は礼拝に来て、そして御言葉の前に、自分自身がどういうものかということが、そこでさらに深く知らされるという、これはやはり精霊のお働きであり、
また私たちはそれによって、自分自身がよくわかってきて、なおイエス様に近づいていくというところに向かうわけです。
誰にしても思うことはね、イエス様という方は、この4人のなさった言葉に対して、
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あんたね、終わってから連れてきたらよかったのにとか、そんなことを申し上げないですね。
彼のやっていることをそのまま受け止めているんですね。
私はそこにね、憐れみがあるなぁと思いますよ。
私たちは一生懸命なんですけどね、時々違うことをやってしまう。
あの屋根を開けたときの誇りはね、イエス様のその頭にもかかったんじゃないかなと思うんですよ、物理的には。
かなりのものですから。しかもイエス様のまんまに功労していくんですから、もうね、こうなっちゃうと思うんですね。
けれども、イエス様はそんなことをしやらずに、それをちゃんと受け止めて、
そして彼らの信仰をご覧になって、この病める人をお癒やしなさっている。
こういう方が教会の中心におられるということは、何と大きな憐れみでありまた力になるかということですね。
少々似たことをやっているかもわかりませんけれども、しかしイエス様はそれを咎めたりしない。
しかもこれは、四人でなければできない仕事。私はこれが教会だと思うんですよ。
一人の人が用いられるところの、それもいいと思いましたね。
ちょっと余裕の話ですけれども、前にアムセルダムでも世界伝道者会議というのがありましてね。
それで私もそこに初めて参加いたしました。
一万人のいろんな国からの伝道者が集まって、そしてそこで大きな集会がありました。
最後の日曜日に、皆さんもご存知の四つの法則。
ビルグラムライトという人も来られておりましたから、改めてそれを我々みんなに教えてもらって。
そしてパンフレットと四つの法則を持って出かけるわけですよ。
もうバスが何十台と、いろんなところに行くわけですね。
そしてそこでもって、私は日本語オンリーですから、ただ一生懸命知らし配るだけですよね。
そして後でもってそのいろんな話が出ました。
その時にビルグラムがですね、こういうことをしちゃった。
私は一万人、二万人、三万人の人に話すことができる、神様素晴らしい賜物を与え下さった。
ところが私は、そこで四つの法則を持って一人の人を見つけようと思ってもなかなかできなかった。
ところが平田から来た若い伝道者は、そこでもって同じことをやりながら、三人、四人と悔やらせぬ祈りまでしているのに、私はもうびっくりして見ていました。
というね、まあ正直な、しかしまた本当にこのビルグラム先生らしい謙遜なお若い人というのでしょうか、
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ナサトラが、ビルグラムはもう一人の人に凸るんだなと。
あれだけの人に悔やらせぬのに迫っていると言って、この皆さんが前に出て結婚して、本当に大きな働きをなさる方ですが、
神様はね、私はそういう大勢の人にメッセージをする賜物をお与えなさっている、本当に不思議なことで感謝のことだ。
けれどもしかしまたある人には、一人の人をしっかりと導く賜物をお与えなさっていらっしゃる。
大勢を導いたから、あるいは一人しか導けなかったから、そういう世界じゃない。
神様は一人の人のためにご自分の御子をお与えなさるから、といって大勢の人を放置することはできません。
大勢は知らない。
私はそういうグラム先生のメッセージを聞いたときに、本当に教えられて、やはり牧師ですから、
今年は何人優先者を求めていこうといろんな数を通され通して上げていったりもするんですね。
あるいは礼拝主席の人数を見て、ああ大手役になった、いやだめだった、こんなことでもって浮き上がったり沈んでいったりするようなところがあるわけですよ。
しかしイエス様というこの方からの目線は、そういう安易なことでもって謳歌をするような私の目線じゃない。
イエス様は一人の人を捉えるために、この四人がどんな思いを持って、そして自分の前に下ろしてきた。
エミル・ブルーナという人が来ておりますが、この人にとってはめさしくて大変傲慢な言い方ですけれども、
この方はね、人は大体自分で周りの答えをおろすことができる。
けれども、一人の人をイエス様のことを導くということは、これは一人ではなかなか難しい。
そういうことをおっしゃった。書いておられたんですね。確かにそうだ。四人が一人という。
今年、私たちの教団は再び一人が一人をというこれを上げております。
パリ記念館として何とか私が祈っているこの人のために導こう、導きたいという一人が一人をという。
それをこの教団が持って、そして今年の伝道のこの一つのレースとしてしているということなのを読みましたけれども。
前世よ、一人が一人を、あるいは四人が一人をでもこの場合ですといいんだなとおっしゃいました。
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ただ私たちがそこで自覚したいことは、これはルタの言葉ですけれどもね、
私たちは神様が私を通して何事かをなさろうとしているというこの信仰性ではならない。
彼はそれをね、オイテムブリックの教文に彼のその言葉として書いてあるそうですよ。
必要な言葉であり、また神様の私たちに対する期待がどんなに大きいものか。
神様がね、私たちを通して何事かをなさろうとしているんだというその信仰。
いつも私たちはその信仰に立つべきだ。それを放棄してはならない。
僕はこの一つの出来事を読みましたけれども、
私たちはこのことを通してね、本当に一人の人に神様の愛のメッセージを伝えながら、
その人のために自分が今用いられるように祈ったらいいと思いますよ。
そして神様が用い方をどういう用い方でそう思ってそれをなさるかそれはわかりません。
しかし神様が私を通して何事かをなさろうとしているということは、これは確かだ。
この信仰をしっかりと私たちは受け止めていきたい。お祈りいたしましょう。
礼議会主よ、何卒このような、誰から見ても本当にいろんなところに欠点の多いものでありますけれども、
けれどもそういうものをもあなたはあえて、あなたが相当意味付けには疲れたのにならず、
その私たちを通してあなたはあなたの働きをさらにこのところから進めようとされております。
主よどうぞ、その働きを私たちが受け止めて、本当にキリストに仕え、教会に仕える喜びを主よどうぞ私たちにさらに増し加えてください。
今から預かる聖三式を通して本当にキリスト様と一つとされているこの災害を、
またそのもとに教会が一つであることをさらに深く知ることができるように、
主よキリストの皆によってお祈りいたします。
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