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皆さん、おはようございます。今日も皆さんの健康が守られて、また一緒にですね、出会いできることを本当に感謝いたします。
それでは、一言、短くお祈りしたいと思います。
天皇父の神様、この朝も、主御自身が私たち一人一人にお語りくださいますように、あなたの御臨在を、あなたの御言葉を待ち望んでおります。
主体を求めております、主をどうぞお語りくださいますように。
語る者も、聞く者も、主にあって心を清められて、我々の内側、主の霊で満たして、主の御言葉で満たし、また悟る者、それを行う者とさせてください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
今日は創世紀の29回目です。
タイトルはちょっと重たいでしょうか、皆さん。
どう生きるか、どう死ぬか、です。
更の、死について見ていきたいと思いますけれども。
今まで皆さんの熱い祈りによって、私の病気はとても良い治療経過を見ています。
5月末ごろ肺炎が起きましたけれども、薬物性なのですぐには治らない、少し軽く残り続けるような状態でありますが、ほとんどなくなっていますし、
がんもですね、だいたい3ヶ月間、今、抗がん剤の治療をストップしておりますけれども、大きくならず小さくなったままですね、転移もなしで今過ごしております。
本当に多くの方々の祈りに支えられて、神様が治めて、癒しておられることを感謝して信じております。
先週の、正日の夕方ですね、私の派遣協会の旬の協会のある地区の神戸さんとですね、オンラインでいわゆる明石集会を持たせていただきました。
オンラインで40人ぐらい参加したから、多くの神戸さんが画面で見えたわけですけれども、
そこでですね、向こうは大きい協会ですから、私が全ての信者さんの名前とかを知っているわけではありませんが、ある婦人の方がですね、私は知らない方なんです。
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でも、もう10年以上、ユン先生の家族のために祈ってますよという話を聞いてですね、びっくりするとともにですね、本当に感謝いたしました。
見えないところで、この小さき、物慣れない、この選挙したために、僕たちのために、本当にもう祈り続けている方々がおられるんだなと思ってですね、本当に感謝しております。
ところでですね、今年の1月にですね、このがんを告知された時から今まで、生きることと死ぬことに対して深く考えるようになりましたね。
ある意味で考えさせられたと言えると思うんですね。
人は愚かなものであって、元気なとき、物事がうまくいくときはですね、生きることしか考えないと思うんですね。
しかし、病気のときとか、物事がうまくいかないようになってから始めて、死というものに対して考えるようになるんじゃないかなと思います。
なぜなら、人は死を恐れるからです。避けたいからです。考えたくないんです。みんなそうなんです。
ところが、人は一度生まれて、一度生涯を送って、一度死にます。例外の人は誰もいません。
ヘブロイビタの手紙9章27節には、こういう見言葉があります。
そして、人間には一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっているようにと書かれている通りです。
今日は、サラの死を見ていきたいと思います。
アブラムが愛していた妻サラは、127歳の生涯を終えて、ヘブロンのコロナで葬られました。
アブラムより10歳年下のサラが、先に死んだわけです。
生まれる順番はありますが、去る順番はないという、そういう言葉もあったりしますけれども、
このアブラムサラ夫婦は、その通りでした。
今日の一節を見ると、サラの生涯、サラが生きた年数は127年であった。
彼女は120年を生きました。決して少ない年ではありません。
十分なアブラムの時代も、今の時代も十分な寿命ではないかと思います。
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しかし皆さん、どれくらい長く生きたかより、どう生きたかの方が、最も重要ではないでしょうか。
ところが、どう生きたか、それを評価したり判断したりする、その価値観というものを少し触れて考えていきたいと思います。
つまり、私たちは何に価値を置くのかによって、その人はそれぞれの価値観を持って、人生観を持って生きるということなんです。
例えば、成功や実績業績に価値を置く人は、他の人が、あるいは自分がとても成功して、すごい業績を残って亡くなった人の人生を高く評価すると思うんですね。
素晴らしい、すごい人なんだみたい。
また逆に、そういった人は、あまり成功もなく、これとした実績や業績も残さない人に対しては褒めないでしょう。
あるいは親子の関係を見ていきましょう。親の方が子どもの存在を、その価値を、成績を一番の価値だと思う親がいるとしましょう。
そしたら、成績のいい子どもは、立派な子、すごいと褒めまくると思うんです。
でも、成績の悪い子は、だめだなと決めつけるかもしれません。
だから、私たちはどんな価値観を持っているか、どんな目を持って自分自身を見たり、周りの人々を見ているかが、普段の私たちの言葉や生きざまに、それが知らずのうちに現れていると思うんですね。
もし、この成功、業績みたいな価値観を持って、この皿の人生を見ていきましょう。皿はどうですか。人類歴史に残るほどの偉大なことができたのでしょうか。
たとえば、ノアのように箱舟を作りましたか。あるいは、ヨセフのように家族の命を守ることができたのでしょうか。
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エジプトの第二の権力者までポストまで上がったのでしょうか。あるいは、聖書のモーセのようにイスラエルの人たちを救出してアラナを通り抜けるように導く指導者になったのでしょうか。
どれに対しても、答えは、いいえ、なんですね。
そしたら皆さん、皿の人生は失敗なんでしょうか。彼女の人生はダメなんでしょうか。これとしたすごいこともできなかったですし。決してそうではありません。
皿の生涯は、一人の男性と結婚して、九十歳に息子を産んで、彼を育てて、旦那さんの世話をして、そして死んだ。
実はこれが全てなんですよ。細かいことはあるんですけれども、聖書はそこまで触れていないんですけれども。
さあ、だから彼女の人生は一生は無駄なものだったのでしょうか。そうではないんですよ。
彼女は自分のやるべき使命を果たした神の人でした。神様は彼女を通して、神様の計画をなされたわけです。
婦人の女性、サラは、九十歳という年齢には変わらず、神の特別な恵みに預かって身ごもるようになって、やがて遺作を産みました。
神様が彼女を持ち入られたということなんです。
みなさん、ちょっと計算してみましょう。サラが九十歳で遺作を産んだんですね。そして百二十歳で死にました。
そうすると遺作が何歳のときにサラは死んだのでしょうか。引き算してみてください。三十七歳ですよ。
息子遺作が三十七歳、結構な成人じゃないですか。三十七歳のときにサラが死んだわけです。遺作は十分な成人になったわけです。
きっとサラはそのときまで遺作の世話をしたと思うんです。
サラの一生はアブラームと結婚したこと、遺作を産んだこと、遺作を育てたこと、この三つくらいが彼女の生涯の中で特筆すべきことかなと思います。
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でもみなさん、ここに女性の方も多くいらっしゃいますけれども、結婚、出産、育児というものはほとんどの女性がするものなんですね。
とても大事なことなんですが、歴史に残る業績とは考えにくいかもしれません。
サラは結婚、出産、育児のほかに、世界史に残るほどのスペシャルなことをできていなかったかもしれません。
だから彼女の人生は神様に喜ばれない人生だったのでしょうか。
そうではありません。
サラが遺作を産んだのは、神の救いの永遠なる計画の中で、そのためにこの時代に神様はアブラームだけではなく、このサラも選んで定めて用いられたスペシャルな人物なんです。
サラの息子遺作は、神の約束の子供なんです。
遺作の子孫はヤコブです。ヤコブの子孫からイスラエルの十二部族が生まれます。
そして、やがてそこから誰がお生まれになるんですか。イエス・キリストがお生まれになるわけなんですよ、皆さん。
皆さん、よく聞いていてほしいんですけれども、どれだけ偉大なことをしたのか、どれだけのすごい業績を残したのかなどは、神様にあって決して重要なものではありません。
大事なのは、神様に喜ばれる一生だったのか、神様に従う一生だったのか、神様を愛する一生だったのかが、最も重要なんです。
ところが、今の時代の、いわゆる成功主義、実績業績主義の価値観が、すでに我々をある意味で支配しているんですね。
それで社会はできているんですよね。
しかし、神様は、聖書が語る世界は、それとある意味で全く違うんですね。
皆さん、イエス様の母マリアのことを、少しまた考えていきましょう。
この皿と似ていると思うんですね。
イエス様の母マリアは、イエス様を産んで育てました。
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イエス様が公正症患を始めるまで、その後もイエス様の世話をしたわけなんです。
実は、それが全部なんです。
見た目によって見ごもった、素晴らしい過ごしさがありますけれども、それを除いたら、ごく普通の女性の一生なんです。
そうでしょう、皆さん。
彼女の生涯は、母親の役割だけなんです。
マリアが、シト・パウロのように、世界を行き巡って、たくさんの教会を建てたり、選挙をしたわけでもないんです。
あるいは、ペティロのようでもありませんでした。
たぶん、彼女の一生は、ほとんどがナザレ。
年に何回エルサレも、ナザレはイスラエルの田舎の町だから、そこで一生が終わったと思うんです。
しかし、どうですか。彼女は、最も栄光に輝く一生を送った神の人なんです。
だから、皆さん、私たちの生涯が、神様の計画や主見に従って生きるとき、
そこに最も大事な意味や価値があります。
もう一度繰り返して申しますが、どれだけすごいことをしたかでもなく、どんな業績を残したかでもなく、
神の主見によって歩む生涯、そこに神の意味と神の価値があるんです。他ではありません。
何をしたか、何ができたか、何を残したかによって、人の一生の価値が決まるわけではないんです。
皆さん、どうですか。もし、何をしたか、何ができたか、何を残したか、
その結果、あるいはそのプロセスを見て、人を評価したり、判断したり、褒めたり、見下したりしてはいないのでしょうか。
そうしやすいんですよ、私たちは。正直にですね。
人に対してだけではなく、自分自身に対してもそう思いがちな、ある意味で愚かさ、弱さが我々にあるんですね。
人と自分自身を比べて、私は何もできていない、乏しい、貧しい、能力がない、
これとしたこともできないし、達弁でもないし、みたいなね。
今の若者は、いやもう、イケメンじゃないし、美人でもないし、みたいな。
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様々なものを比べてですね、高ぶるか、うのぼれるか、しょんぼりするか、どっちかになりがちの我々がある。
そこには、この成功主義といった価値観によって、我々はそこに支配されて、物事を、人を見ているということを、
そこから目が開かれて欲しいんですよ、皆さん。
大事なのは、神の主権に従う生涯なのか、神の御心に従っているかどうか。
それが最も大事なことであって、そこに価値がありますよ、皆さん。
ちょっと話しにくいですけれども、私は言い訳するわけではありませんよ。
すごく自分自身が考えておりますが、皆さん、そんな思いを持っていらっしゃらないかと思いますが、
長い間信仰生活をして、特に一つの教団とか教派の中でいると、例えば、たくさんの開拓ができた先生、
大きい教会が育てた先生、そこの信徒さんは、わぁ、すごい偉い先生、みたいな。
あらゆる生涯に、あらゆる習慣に用いられて、こうしていかれた先生は、わぁ、すごい先生、みたいに皆さん、おっしゃるでしょう。
おっしゃっていますよ、私は聞いていますから。尊敬しますよ、本を出版されたら。いや、尊敬しますよ、おっしゃっているんですよ。
それは罪でも悪でもありませんが、そうおっしゃっていいと思うんですが、逆に、どこか田舎の小さな教会で苦労して、
例えばですよ、10人ぐらいの信徒さんの群れを、本当に何十年も勃起化している先生がいらっしゃるとしましょう。
父親の新学校しか出ていない、どこか海外に留学したこともない。
その先生に対しても皆さんは、すごい先生だ、私は尊敬しますと言ったことありますか、皆さん。
あるかもしれませんか。
私たちは信仰を持っているにもかかわらず、教会の中にもかかわらず、そのような価値基準を持って、知らずのうちにそういうふうに思ったり、言ったりしているんですよ、実は。
どう生きるか、このクエスチョンに対する答えを、神様からいただきたい。
その答えを家様の御言葉から見出すことができます。
マタイの訓書22章37から40節を見ていきましょう。
ここに家様は、神を信じる人にとって最も重要な二つの忌ましめを教えておられます。
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これがどう生きるかの、その結論に対するイエス様からの答えなんです。
22章の37から40節、私がお読みします。
イエスは彼に言われた、あなたは心を尽くし、命を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
これが重要な第一の忌ましめです。
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさいという第二の忌ましめも、それと同じように重要です。
この二つの忌ましめに、立法と現者の全体がかかっているのです。
どうですか、皆さん。
イエス様は何と言いましたか。
何が重要な第一の忌ましめですか。
何が重要な第二の忌ましめですか。
成功ですか。
業績ですか。
実績ですか。
違いますね。
イエス様がおっしゃられる重要な第一の忌ましめは、心を尽くして、知性を尽くして、神様を愛することなんです。
第二の忌ましめは第一と同じくらいで、それは隣人を自分自身のように愛することなんです。
第一は神様を愛すること、第二は隣人を愛すること、それが全てなんですね。
これをイエス様のイエスキリストのGreat Commandment、日本語で言うならば、一番大切な忌ましめなんです。
皆さん、イエス様がこれが一番大切だよと言ったら、それが一番大切なんです。
そういうふうに私たちはしなければならないんです。
イエス様が私たちにどう生きるかに対して、すでに答えをくださっています。
答えはシンプルです。
しかし、これほど難しいことはないのではないかと思います。
それほど重要なものなんですね。
心を尽くして、命を尽くして、知性を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。
これが重要な第一の忌ましめです。
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。
これが第二の忌ましめで、それと同じように重要です。
だから、私たちは一生をかけて、命をかけて、力を尽くして、神を愛すれば、隣人を自分自身を愛するように愛すれば、
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その人の人生は最も価値ある人生なんです。
たとえ人類歴史に残る成功実績を残せなくても、この御言葉を今朝、私たちが神様に語っていただくメッセージにしていただきたいのです。
どうか皆さん、一生の間、心を尽くして、命を尽くして、知性を尽くして、主なる神様を愛して下さい。
また、あなたの隣人を自分自身を愛するように愛して下さい。
そこに一生をかけて下さい。
命をかけて下さい。
なぜでしょうか。
イエス様が、これが一番大事ですよとおっしゃったからなんです。
大命令なんですね。
だから皆さん、誰の一生が神の目に美しくて、光に輝いて、最も価値ある立派な一生と言えるのでしょうか。
それは、心を尽くし、命を尽くして、知性を尽くして、神を愛する人の生涯。
また、自分自身を愛するように、隣人を愛する人の生涯が、神の目に美しくて、神に喜ばれる、最も光に輝く一生なんです。
それを覚えていて下さい。
神がわくば、私たちの一生がこのようなものになりたい、さしていただきたいと願います。
皆さんいかがでしょうか。
ここに、10代から80代までの方がおられますけれども、皆さんの生涯が今までどんなものだったのか、私にはそんなに詳しくわかりませんが、
そこにはきっと、神の目に意味あり、価値あるものがいっぱいあっただろうと思います。
そしてさらに、これから残りの生涯を、最も重要なもの、神様を本当に愛する生涯、隣人を愛する生涯として送って全うしようではないでしょうか。
ところで、先生、何が神様を愛して生きる生涯ですか、と思われるかもしれませんが、実は既に私たちはそれぞれわかっています。
何が心を尽くして、知性を尽くして、命を尽くして愛することなのか、何が自分自身を愛するように隣人を愛するなのか、
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それは私が実例を、適用をいちいち言わなくても、我々は既にわかっています。
なぜでしょうか。自分が愛する人にどのようにしているか、自分が大好きな人や物のために何をしているか、
時間や様々なものをどういうふうに費やしているかを、自分自身を見ればわかっています。
いちいち私が説明しなくても、皆さんは自分で既にもうわかっています。
心を尽くして、命を尽くして、愛することが何であるか、
自分自身が愛しているように隣人を愛するものがどんなものなのか、皆さんはわかっています。
それで心を尽くして、命を尽くして、知性を尽くして、あなたの神を愛してください。
自分自身を大切にするように、自分自身を愛するように、自分のためにこれもする、あれもする、みたいにするように、隣人を愛してください。
それがイエス様が教えられた最も重要な今しめなんです。
次はどうしなのかについて考えていきたいと思います。
人間の死というものは、古代から今に至るまで、多くの人々がそれに感があるんですね。
小説家、哲学者、心学者、いろいろな人がことわざやら、名言がたくさんありますけれども、
一ついいことを見つけました。
これが信仰性上的にも、私はこちらにもつながると思ったのですけれども、
皆さん、レオナルド・ダ・ヴィンチ、皆さんご存知でしょう。
最後の晩餐を書いた、彼がこんな話を残しました。
あなたが思うよく過ごした一日が、安らかな眠りをもたらすように、よく生きられた一生は安らかな死をもたらす。
この後半の、よく生きられた一生は安らかな死をもたらす。
とても、彼はいわゆるパトリックの信者だったわけですけれども、
精神的な考えがここにあるんだなと感じました。
皆さん、死は生とつながっていますね。
死は生の結果であって、それは別ではないんですね。
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それでは、神様を信じる私たちは、どのように死を考え、死を備えればいいのでしょうか。
聖書からその答えを箱にしたいと思います。
ローマ人への手紙14章8節から9節に、大事な生きることと死ぬことに対する答えがすでに与えられています。
そこを見ていきましょう。
ローマ人への手紙14章8節から9節です。
私がお読みします。
私たちは、生きるとすれば死のために生き、死ぬとすれば死のために死にます。
ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも主となるためです。
この御言葉を皆さん、今日覚えてほしいのですが、神様は死んだ人にも生きている人にも主であるということです。
私たちの神様は、死んだ人にも生きている人にも主となられるお方なんです。
これが、生と死に対する聖書の教えであり、答えであります。
皆さん、だから、神様のご支配外の世界はありません。
神様が治めておられない世界はありません。
我々の生も死も死後の世界も、全て神様は治めておられ、そこにもおられます。
神様は天上にだけおられる方ではないのです。ここにもおられるのです。
私たちが生まれる前にもおられ、生まれた時もおられ、今もおられ、そして私たちが亡くなった後にもおられるお方であります。
そして、その死の世界にも主はおられるのです。
詩編の139編の8節に、ダビデはこういうふうに言いました。
詩編139編の8節。
私がお呼びします前の字幕か聖書をご覧ください。
たとえ私が天に登ってもそこにあなたはおられ、
私が読み、読みは詩です。読みに徳を設けてもそこにあなたはおられます。
だから神様がおられない場所はありません。
天に登ってもそこに神様はおられ、読みに行ってもそこには神様はおられるということです。
神様の臨在、主権の領域でない場所はない。
33:00
神様はだから皆さん見えるところも見えないところも収めておられ、
共にいてくださる、支配しておられるということなんです。
ですから皆さん、私たちの死というもの、
死後の世界も神の御手にあります。神の御手にあります。
だからこの生も死も収めておられるお方、
読みに徳を設けてもそこに主はおられる、私のお父さんがそこにおられるんだから、
もちろん私たちはよみがえりを信じますね。
だから主を恐れない。
同時に死というものは私たちにいろいろなことを学ばせます。
考えさせて促したり教えることがたくさんあると思うんです。
少しまとめさせていただきました。
神様を信じる私たち、全知全能の神様、生も死も収めておられる神様を信じる私たちは、
死に対してこのように受け止めさせていただきたいです。一番。
死というものは、罪の体が滅ぼされて、もはや罪の奴隷で亡くなるということが、
死を通して我々に起こるものなんです。
生きているうちには私たちは、どうしても弱くて愚かなものであって、罪を犯し得るものなんですね。
しかし、この体が死んだら、もはや罪の奴隷で亡くなるんですよ。
それを死がもたらす恵みと言えるんじゃないでしょうか。二番。
まさに私がそうだったんですけれども、
何か死を目の当たりにしている人は、死にあって清く生きるように促すすごい力が、
死にはありますね。
三番。
我々は、よみがえりを信じますね。だから、地上のすべての苦しみから解放されるんですよ。
死というものは。
生きているうちは病気があります。事故があります。悲しみがあります。悔しさがあります。
もどかしさがあります。むがきがあります。もちろん、うれしいこともたくさんありますが、
死というものは、その地上で私たちが経験しているすべての鎖から解放するんですね、死というものは。
だから、読みませんが、ヨハネの目白く、あの21章のあたりを見ますと、
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私たちが死んだ後は、涙もない、嘆きもないという見事があるんじゃないでしょうか。
四番。
日本は火葬するんですね。法律的に埋葬はできないでしょう。火葬する。
そうすると、白い粉が、もうこれくらいじゃないですかね。
うちの父も12年前、亡くなって火葬したんですけどね。これくらいの壺。
それでもいっぱいでもないんですね。
だから、死というものを学んだ時に私たちは、人は葬石の御言葉通りに土に変えるものなんだ、
ということを改めて気づかせて減り下らせる力が死にあります。
どんなに偉い人であっても、どんなにすごい人であっても、
焼いたらこれくらいの粉に変えられますね。
五番。死というものは、朽ちない永遠の命を慕わせる力。
栗ちゃんは、良い人生を送ることも大事ですけれども、良い死を遂げることも大事なのではないでしょうか。
先ほどのローマ人の手紙。私たちは生きるとすれば死のために生き、死ぬとすれば死のために死にます。
ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは死のものです。
キリストが死んで蘇られたのは、死んだ人にも生きている人にも主となるためです。
人生をよく考えてみますと、生まれた人は自分自身が生まれることを備えることはできます。
みんな既に生まれているからですね。
皆さんの中で自分が生まれることを備えて生まれた方いらっしゃいますか。誰もいないんですね。
親は備えるかもしれませんけど、生まれ出生を、誕生を備えることはできないんですね、私たちは。
もう既にできちゃっているから。
しかしどうですか。ある意味で、信仰を持って神様になって、死を備えることはできるでしょう。
コントロールはできませんが、備えることはできますね。
それに私たちは、強い味方のお方がおられるんです。
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生も死も治めておられるお方。私たちを救い、永遠の命を与えになった命と死の主なる神様を信じてお父さんとしているものだから、備えることができますし、備えなければなりません。
先ほどお見せしました、ダーヴィンチが言った言葉が心に残っていますね。
時にはもう聖書の見事部がいる、誰かの名言みたいなものがですね、残ったりしますけれどもね。
よく生きられた一生は、安らかな死を。
皆さん、幸いなクリチャン、誰が幸いなクリチャンでしょうか。
誰が幸いな一生を送って、幸いな死を遂げる人なんでしょうか。
生きるとすれば、死を愛して、死のために生きる人です。
生きるとすれば、隣人を自分自身のように愛する人です。
死ぬとすれば、永遠を信じ、神様の主権を信じて、死のために死ぬ人です。
その人は、生きるにしても死ぬにしても、主のものだと信じる人です。
メッセージを終わりたいと思います。
イエス様の最も重要な今しめを覚えておいてください。
心を尽くして、命を尽くして、知性を尽くして、あなたの神主を愛しながら生きていってください。
同時に、あなたの隣人、自分自身のように愛しながら歩んでいってください。
そして、そういうふうに清い人生を送って、清い死を備える人であってほしいです。
どうか、神が愛し、隣人を愛する生涯を皆さん、全うしてください。
それこそ、よく生きられた一生であって、一緒にやって、安らかな死をもたらします。
お祈りしましょう。