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おはようございます。
今日も皆さん、元気な様子でお見えになって、一緒に礼拝できることを感謝いたします。
まだ残暑がありますが、このように元気な姿で、主に守られて、コロナに負けず、一緒に集まって礼拝できることを本当に感謝いたします。
今日は創世記の27回目になります。タイトルは、試練です。
人は生きていくとき、嬉しいこともたくさんありますが、辛いこともたくさんあろうかと思います。
フランスのことわざに、こういうことがあります。
苦難は人間を生み、幸運は怪物を生む。
まだ有名なロシアの作家、トロストイは、こう言いました。試練についてですね。
試練は悟りを与える。試練がなければ人は成長できない。
もし今あなたが試練にあっているなら、それを喜んで迎え入れ、心の中で学びをする準備をしてほしい。
そうすると、いつの間にか試練は喜びに変わり、苦しみは楽しみに変わっているだろうとあります。
古代の人たちも、現代の私たちも、人間の最大の悩みは、試練とか苦難ではないかと。
また、それがなぜ来るのかという課題ではないかと思いますね。
だから、多くの文学作品などに、試練、苦難、悲しみなどをその材料で使っていると思います。
今日の聖書箇所1節は、私たちに大きなチャレンジを与えている見言葉だと思います。
もう一度、みなさん1節をご覧ください。
これらの出来事の後、神がアブラハムを試練に合わせられたと始まっています。
神様がアブラハムを試練に合わせられました。
その試練の内容は何でしょうか。2節をご覧ください。
あなたの子、あなたの愛している一人子イサクを連れて、モリアの地に来なさい。
そして私があなたにつける一つの山の上で、彼を前生の捧げ者として捧げなさい。
という神の呼びかけでした。
どういうことですか。
イサクを、その息子を前生の捧げ者として捧げるという神の命令ですね。
これが試練なんです。
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みなさん、イサクは誰ですか。
神様の約束の子供で、アブラハムが100歳に、サラが90歳に奇跡的に与えられた子供なんですよ。
しかも25年も待ちに待って生まれた子供なんです。
こんな最愛の息子イサクを前生の生贄として捧げなさいという神様の命令でした。
みなさん、前生の捧げ者が何なのかお分かりになるんですよね。
前生の捧げ者は、丸ごと焼いて捧げるということなんです。
羊だったら、羊を殺して、脂肪や肉と骨、皮を全部さばいて、蒸気などをさばいて、全部を焼くことが前生の捧げ者なんです。
だから、今神様がアブラハムにその愛している最愛の息子イサクを殺して、さばいて、焼いて捧げなさいという命令なのです。
びっくりすることなんですね。
これが実は神様がアブラハムにあわせられた試練なんです。
過酷な試練です。受け入れがたい試練です。荒れないような試練です。
こんな形で息子を取られるなら、初めからくださらなかったらよかったかもしれません。
なぜ神様はこんなひどい試練をアブラハムにあわせられたのでしょうか。
今日私たちは、神様はなぜ人を試練にあわせられるのか。
神様が許される試練の目的は一体何なのか。
それと試練にあうときに、私たちはどのようにしたらいいのか。
どのような態度をとればいいのかを学んで、正所通りの信仰を持ちたいと願います。
まず、神様が人を試練にあわせられる目的その1。
それは、神様を第一に愛するためです。
彼を前生の捧げ者として捧げなさい。これは全く想定外の試練です。
例えば、皆さんの子供、お孫さんを捧げなさい。
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イサクは今やアブラハムやサラにとって全ての存在です。
もう全てなんですね。この2節にその意味が明らかにされていると思います。
神様はイサクを指すときに、その子を単にイサクと呼ばずに、
あなたの子、あなたの愛している一人子とあえて言っているような気がします。
アブラハムの息子への愛情は、その域を超えて崇拝に近いものになっていると思うんです。
考えてみてください、皆さん。100歳に得た宝のような息子なんです。
自分の愛を注ぎつくしても惜しいと思わないほどの宝のような息子です。
たぶんアブラハムとサラは起きていても寝ていても、イサクイサクも胸いっぱいになっていると思うんです。
イサクの名前が笑いでしょう。だからイサクを見ているだけでも、1日中微笑んでいたと思うんです。
そんなイサクです。
だから皆さん、その関係をよく考えてみてください。
以前はアブラハムにとって彼の人生は、神とその神の言葉により頼むことにこそ意味がありました。
しかし今は、イサクへの愛情と彼の健やかな成長が、アブラハムとサラにとってのよりどころ、いや全てになっているんです。
神様の存在がどんどん薄くなっているんです。
そしてイサクの存在が大きなものになっているんです。
でも聖書をどこを読んでも、神様がイサクを愛するなと言っているわけではありません。
しかし大事なことは、愛するものを偽りの神、つまり偶像に変わらせてはいけないという神のメッセージなんです。
皆さん、誰でもその子供であろうが何であろうが、神の代わりにその王座につかせるなら、その愛は偶像を愛する愛情へと変わってしまうことを今日知っていただきたいんです。
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息子への愛情が神様への愛より勝っているようです。
自分の王座に神様がついておられるはずなのに、アブラームは今、その王座にイサクをつかせようとしているんですよ、実は。
神様が私たちに求められるのはシンプルです、単純です。
何よりも神様を第一に愛することです。
神様を第一に、そして第二に家族を愛すればいいんです。
この順番を変えてはいけません。
神様は実界の第一の言いましめとして定められたほどでした。
ツツエジプトキ二十章三節四節をご覧ください。字幕が出ますね。
あなたには私以外に他の神があってはならない。
四節、あなたは自分のために偶像をつくってはならない。
上の天にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をもつくってはならない。
今ですね、アブラハムにとってイサクが他の神になりかけているところなんです。
神様は人の心をご存知の方だから、今アブラハムにとってイサクが偽りの神、偶像になりかけていることを神様はご存知です。
実は息子が生まれた幸運はむしろアブラハムの信仰を危うくするもとになっているんです。
だから神様がこのようなイサクを捧げなさいと彼を試練に合わせられた目的は、実はそこに深い憐れみと愛があるんです。
何でしょうか。どんな話でしょう。
それは偶像をつくってしまうアブラハム、神の存在を薄くしてしまう、そして盲目になりかけている彼を、
その彼の信仰を守るため、神様への彼の愛に火をつけるために、神様は今彼を試練に合わせられたのです。
果たしてイサクを捧げることができるだろうか、その命令に従うことができるだろうか、ということなんですね。
皆さん、では今度は私たちのことについて考えてみてほしいんです。
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もし私たちにはイサクのような存在はないのでしょうか。
もしも一番愛しているものが神様他のものであるなら、今私たちの信仰は黄色い信号か赤い信号になっているかもしれません。
誰でも私も人とか何かもの、あるいは目に見えない何かを神の代わりに、我々の人生の王座につかせやすいのです。
もしその王座につかせるなら、その愛は偶像を愛する愛情へ変わってしまうからなんです。
実は皆さん、私たちにはそのような弱い罪の傾向性質があるんですよ。
ついついと神の代わりに何かを誰かを愛して、好んで好んで愛して、王座につかせようとする傾向があるんです。
だから皆さん、自分にはそういった罪の傾向があるんだと、それを認めるところから信仰の清めが始まるんです。
例えばどんなものがあるんでしょうか。
子供かもしれません。健康かもしれません。
あるいは病気の人はその病気が偶像になっているかもしれません。
お金かもしれません。自分の将来かもしれません。あるいは学歴かもしれません。
職業、何らかの信念、あるいは何かのプライドかもしれません。
実は何でも偶像になり得るんです。私たちが好きなものだからなんです。
子供も健康もお金も将来も学歴も職業も信念もプライドも、
もう全部好きなものじゃないですか。好きなものなんです。
だから皆さん、神様の願いは他の何よりも、誰よりも神様を第一に愛することなんです。
お尋ねしたいと思います。皆さんは神様を第一に愛しているでしょうか。
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他のものを王座につかせてはいないでしょうか。
自分自身を代わりに見ていただきたいと願います。
神様が司令に合わせられる目的その2、それは成熟した完全なものとなるためです。成熟した完全なものとなるため。
神様はアブラハムをカルデア・ウルで呼びかけられた以来、
彼の信仰を成熟させ、神への愛を深めさせ、汚れを取り除いて清いものに変えてくださっているんです。
それが今もなお信仰中なんですね。
皆さん、遺作が生まれたからといってアブラハムの信仰が完成したんでしょうか。そうではありません。
まだまだ信仰中なんです。
そういった意味で神様は今もこの22章にきて、アブラハムをテストされているんですね。
そのテストとしての、誘惑としての試練じゃないですよ。
テスト、試験としての試練にはどういう意味があるのか。
ヤコブの手紙に行きましょう。
本の箇所が、今日のこの22章の出来事の解釈のような大事な見言葉ですね。
ヤコブの手紙、まず1章3節から4節を見ていきましょう。前の画面もご覧ください。
これは一緒に読みたいと思います。3節と4節、一緒に読みましょう。
あなた方が知っている通り、信仰が試されると忍耐が奪われます。
その忍耐を完全に働かせなさい。
そうすれば、あなた方は何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なものとなります。
皆さん、この4節をよくご覧くださいね。
そうすれば、あなた方は何一つ欠けたところのない、傷のない、汚れのない、そういう意味ですね。
その次ですよ。成熟した、完全なものとなります。
信仰が試されるとき、忍耐を働かせるならば、私たちは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なものとなるんですよ。
そのために試練を神様が許される、合わせられるということなんです。
よろしいですか、皆さん。
だから、神様が遺作を捧げなさいという、このひどいような試練に合わせられた目的は何ですか。
アブラハムを、いや、私たちを何一つ欠けたところのない、傷のない、汚れのない、成熟した、完全なものとならせるためなんです。
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そのために試練に合わせられるんです。
そこにはですね、2つのパターンがあると思います。
1つのパターンは、人があるいは私たちが罪の中にいるときです。
罪を犯しています。
しかし、一向に悔い改めようとしない。
何度も神様からのサインがありました。悔い改めなさいと。
神の促しがありましたけれども、それでもなお一向に悔い改めようとしない人には、
神様がその罪を悟らせるために、悔い改めさせるために、清めるために、
神様がやむを得ず、神様心を痛めながら無知を打たれることです。
無知の試練です。
神様は、人が悔い改めようとしないなら、無知を打たれることもあります。
それをヘブルビテの手紙にちゃんと書かれています。
ヘブルビテの手紙12章6節7節です。私がお読みします。前の画面をご覧ください。
主はその愛する者を訓練し、受け入れる全ての子に無知を加えられるのだから。
ここの訓練という言葉が、懲らしめ、試練という意味と同じ意味です。
7節、訓練として耐え忍びなさい。その次ですよ。
ハミはあなた方を子として扱っておられるのです。
父が訓練しない子がいるでしょうか?とあります。
父が訓練しない、無知を打たないその子がいるでしょうか?と言います。
皆さん、自分の子どもがもうめちゃくちゃ悪いことをたくさんやっている。
それをやめようとしない。
それを親が打った、ただ傍観している親がいるのでしょうか?
危ないのに、そんな親はいないでしょう。
するな、やめろと怒るはずなんです。
それでもやめなかったら、無知を打ってでもやめさせるのが親なんです。
愛するからなんです。
もう一つのパターンがあります。それは今言った話と逆のパターンです。
人が善を行っています。
教会でもいろいろな方針を熱心に一生懸命やっています。
いいことをたくさんしています。
人々から本当に素晴らしい人ですとほんとに褒められています。
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ところが皆さん、人が善を行っているときに、神様が試練に合わせられるときがあるんです。
なぜなら、人は善を行っていたら、我々には罪の性質があるわけですから、ついついとうのぼれてしまうんですね。
自分は善人だとか、私はこんなに偉い人なんだとか、高ぶりやすくなるんです。
その弱い罪の深さが我々の心の中にあるんです。
特に悪いことをしていない、普通の人、普通に生きているときに、
私は良い人なんだ、大丈夫なんだ、高ぶりやすくなるのが私たちではないでしょうか。
その高ぶらないように、へり下らせるために試練に合わせられるんです。
その高ぶり、余計なプライドを取り除いて、神と人との前にへり下らせるために、
神様は試練に合わせる、持ちを打たれることもあります。
そうすると、人はぱっと気がつくんです。
そして、私はこんなに高ぶっていたんだ、気づかされて、
そして、罪を繰り広げるため、高ぶりが取り除かれて、謙遜なものに変えられるんです。
今お話ししたことの両方とも、そこには愛がありますよ。
私たちは、神は愛なりと言いながら、私たちが何をしてもどうであっても、
ただ見ているだけの神であってほしいと思ったりするんです。
無知は嫌なんです。試練は嫌なんです。病気は嫌なんです。
だから、ちょっと私が悪いことをしても、神様はただ哀れんで、見ているだけでいいんだから、
無知は嫌ですよ、神様。あなたは愛の神なんだからね。
そんなふうに甘い思いを持ちやすいんですね、私たちは。
でもどうですか。本当の愛はどんな愛でしょうか、皆さん。
私たちにとって最もいいことをすることが、本当の愛なんです。
甘い飴ばかりあげるんじゃなくて、時には叱りも怒りの無知も必要なんです。
こうして私たちは何一つ欠けたところのない、成熟した完全なものとなるんです。
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よく試練のない人生、苦しみのない人生はないと言われます。
でも、受け入れがたいかもしれませんが、むしろ試練や苦しみがあるからこそ、幸いだと言えるのではないでしょうか。
他の方のことはよくわかりませんが、私は自分のことをそう言えると思います。
今の肺がんというこの病気、私は神様が許された試練であり、同時に無知であり、
そしてそれは私を成熟した完全なものとなるためのものだと、
私はそういうふうに受け入れて信じています。
だから幸いと言えるんです。
これを悟るのが一番重要だと思います。
結構前ですけど、「試練のない人生はない」というある牧師の本を読んだことがあります。
そこにこう書かれていました。
試練がないというのは、その人が試練を耐えられるほどの信仰がないからです。
一方で試練があるというのは、その人が試練を耐えられるほどの信仰があるからです。
私はこう教えられました。
最初は、「神様、私になぜこんな試練を許されたんですか?」と神様にお尋ねしました。
今年の1月に。
そのときに、「あなたがこの試練を耐えられるほどの信仰があるからなんだ。
この試練はあなたを何一つ欠けたところのない成熟した完全なものとするためだ。」という答えをいただいています。
皆さんいかがでしょうか。
もし今、小さなあるいは大きな、軽いあるいは重い試練の中にいるでしょうか。
試練に合っているんでしょうか。
神様が私を試練に合わせられたというふうに受け入れているんでしょうか。
それは皆さん、そこには私たちには知り尽くすことのできない神の愛があるからなんです。
そしてそれは究極的に、私たちを何一つ欠けたところのない成熟した完全なものとするためなんです。
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それを悟って喜ぶことが恵みなんです。
最後に、では様々な試練にあったとき、私たちはどうしたらいいんでしょうか。
答えは、喜びと思うことです。喜びと思うこと。
ヤコブの手紙1章2節を見ていきましょう。
字幕に出ます。ヤコブの手紙1章2節。
一緒に読みましょうか、皆さん。せーの。
私の兄弟たち、様々な試練に遭うときは、いつでもこの上もない喜びと思いなさい。
アメン。
素晴らしい見言葉ですね。
試練に合っていますでしょうか、皆さん。
そしたら、いつでもこの上もない喜びと思いなさいと見言葉は語っています。
この上もない喜びと思いなさい。
もう一箇所、第一ペテロ4の13節です。
これは私がお読みします。
むしろキリストの苦難に預かるほど、一層喜びなさい。
キリストの英語が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。
一層喜びなさいという見言葉があります。
試練や苦難に遭ったときは、いつでもこの上もない喜びと思いなさいとあります。
一層喜びなさいとあります。
その試練が到底耐え難いものだったり、死ぬほど苦しかったりすることもあるでしょう。
あるんですよ。
人にはそれがわからないんですよ。
夫婦だってわからないんです。
その悲しみを、苦しみを。
確かにつらいと思うんですよ。
しかもその試練が、あるいは病気が、あるいは何かの悲しみが何年も何十年も続いているならば、
それは本当につらいと思います。
喜びと思うことは難しいかもしれません。
しかし皆さん、神様が私たちにできないことをしなさいと言われるのでしょうか。
神様ではないんですよ。
神様は試練とともに苦難とともに耐えることのできる力も知恵も信仰も助ける人もお与えになる神様なんです。
アメンでしょうか。
この信仰に立ちたいんですよ。
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何より試練にあった時、喜びと思う人は神様を避けません。逃げません。
むしろ試練の中で以前より神様ともっと深い交わりを持ちます。
その中で祈りが深まります。
神の前に比例をして祈りに祈りに祈ります。
だから試練の苦しみが深ければ深いほど祈りの深みも重みも増すんですよ。
それで試練の以前と比べるならばもう違って、
試練の中にいても試練の通り抜けた後は、その人は本当に神様への愛、
神様を知る知恵も知識も信仰も溢れるように成熟した完全なものに変えられているんですね。
皆さん、試練に合わせられているでしょうか。
そうしたならば、やがて私たちがあるいはこの教会が何一つかけたところのない
一人一人群れ成熟した完全な一人一人生徒教会になっていることを見ていきたいんです。
その信仰を持ってそういうふうに私を変えてくださる主を期待して、
この試練の中を通って歩んでいこうではないでしょうか。
神様がアブラームに試練を与え、彼の愛が神様の目にまさに
牢の中で精錬された純金のようになるためでした。
遺作がその手段として使われたのもそのためでした。
もし神様の介入がなかったならば、アブラームは遅かれ早かれ、
息子をこの世界の何よりも出来合いすることになっているでしょう。
それは立派な偶像崇拝で、また人生に破滅をもたらすこともできました。
だから遺作を捧げなさいと試練は、実はアブラハムへの神様の深い憐れみによる試練でした。
私たちにも同じです。
深い憐れみによる試練が今、我々に合わせられているのではないでしょうか。
私たちの人生に起きる様々な試練や苦しみ、
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それが神様の許しの中で起きるものであれば、
そこから神の御心を知るものになりたいです。
そして神様を第一に愛し、さらに清められ、さらに神様との深い交わりに入り、
さらに成熟した完全なものとならせていただきましょう。
お祈りします。