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2021-09-26 38:49

2021/09/26:創世記(31)この世に何を残すのか

2021/09/26 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 25:1-11


00:00
おはようございます。
今日も一緒に、主が守ってくださって、送ってくださって、一緒に礼拝できますこと、本当に嬉しく感謝しております。
創世記も31回目、いよいよ今日のところでですね、
アブラハムのこの一生が終わって、
民に加えられ、また神の身元に
帰った、という内容になります。
今日のタイトルは、この世に何を残すのか、です。あるいは、この世に何を残したいのか、でもあります。
私たちは、この創世記を学んでいる途中ですけれども、
今までですね、多くの人が生まれて、生きて、この世から去るという、その人生歴史も見てきたわけです。
それから、彼らはこの世に何かを残した、ということがわかります。
例えば、アダムはすべての人に、罪とその罰を残しました。
あるいは、ノアは箱舟を作り、救いや子孫を残しました。
でも、聖書の人でなくてもですね、人は、この世を去るとき、必ず何かを残しますね。
少なくとも、自分の名前を、あるいは子孫、名声、あるいは作家とかですね、だったら作品を残します。
あるいは、エジソンのような発明家であれば、発明品を残すでしょう。
あるいは、何かの財産を残すこともあるかもしれません。
今日はですね、皆さん、何が何を残せるか残せないのかの、その能力、力の話ではありません。
だいたいね、こんな話をすると、いや私はできないから、できるかできないかを先に皆さん、考えちゃうんですけど、今日はその話じゃないんです。
では、皆さんにお尋ねしたいと思います。
皆さんは、この世に何が残したいんですか。何を残したいんですか。
何を残したいのかという願望、希望についてお尋ねしています。
答えなくていいです。あるいは、ずっと昔から考えておかれたという方もおられるかもしれませんし、
03:04
あるいは一度も考えたことがない方もおられるかもしれません。
今日、このメッセージの終わり頃には、皆さんがこの世に残したい最も価値あるもの、
神様に最も喜ばれるそのものを見つけてほしいんです。
今日の聖書7節8節をご覧くださいますか。
以上がアブラハムの生きた年続きで、175年であった。
アブラハムは幸せな晩年を過ごし、年老いて満ちたり、生き絶えて死んだ。
そして、自分の民に加えられた。
この葬式の中では、分量としては最も長い人がアブラハムですが、いくら長くても終わりが来るんですね。
アブラハムの生涯は175年でした。
神様は許してくださって、彼は175年という一生を全うして、この世から去りました。
では、他の聖書の人のように、アブラハムはこの世に何を残したのでしょうか。
彼は何を残して、神様の身元に帰ったのでしょうか。
2つを残したことがわかります。
こういうふうにまとめることができると思うのですが、1つ目は信仰であり、2つ目は信仰の子孫です。
まず1つ目の信仰について見ていきたいと思います。
もう一度確かめてお話したいことは、今まで学んできたように、また皆さんが聖書を読まれたように、アブラハムは信仰的に完璧な人ではありませんでした。
彼には欠点もあれば失敗もあり、恥ずかしい点もいくつかある、私たちのような普通の人間でした。
なんかアブラハムと見たら、聖書に書かれている人物だから、まるで天使みたいに、イエス様父みたいな神秘的な人物として我々は考えがちですが、
そうではないんですね。
06:00
彼にも隠したい、それぐらいの恥ずかしい点も多くある人でした。
例えば、ウルから離れて、カナンに来たときに、そこにキキンがあったんですね。
神様はカナンに留まりなさいという命令がありましたが、彼はエジプトに下って行ってしまいました。
そこで自分の命を守るために、自分の妻を妹ですると嘘をつきました。
また、神様の約束がちゃんとあったにもかかわらず、彼はその約束を待ちきれなくて、女奴隷のハガルのところに入って、イシュマエルを産んでしまいました。
いろいろと彼の人生にも失敗や欠点や恥があったわけです。
そうですけれども、神様の大きな憐れみと忍耐によって、彼の一生は信仰によって守られ、歩むことができたと言えるでしょう。
彼は失敗もありましたけれども、でもそんな時にまた立ち直って、また起き上がって、心を新しくして神様に信頼し続け、従い続ける一生でした。
これが皆さん大事なところなんです。
失敗がありました。恥ずかしい点がありましたけれども、だからダメだ、諦めるのではなく、主に信頼して、主の憐れみを信じて、主に期待して、立ち上がって、改めて主に従っていく歩み、それが大事なんです。
だからアブラムは、あのモリアの山で祭壇を作って、その上に自分のこの百歳に生まれた遺策を捧げようとしたその行いまでできたという、彼の信仰の絶頂だったんですね。
でもアブラムの生涯が、あの遺策を捧げたことが、ずっと最初からずっとの終わりまで毎日あったわけではないんです。毎年あったわけではないんです。アブラムの人生にもたった一回しかなかったんです。
このように彼は自分の信仰の歩み、行いを通して、この世に確かに信仰というものを残しました。
09:00
それは神の約束を信じること、信頼すること、しかしこの信仰というものは、今申しましたように失敗を絶対しないという意味ではありません。
失敗があっても、欠点があっても、でも立ち上がって、立ち直って、神様に対する信頼を持って、従い続け、歩み続けることです。
倒れてもまた起き上がって歩むことです。失敗をしたらまた立ち直って歩み続けることです。
これが信仰の旅路ですし、アブラムはそのような信仰をこの世に残してくれました。
以前、あまり見ないのですが、たまにチャンネルを変えているときに、テレビで釣り番組を見たことがあるのです。
超ベテランの釣り師が、この投げるやつをルアと呼んで、タイを狙っていました。
ところが一日が経っても二日が経っても、聴覚はゼロです。
小さなイワシすら釣れないのです。全くゼロです。大失敗です。
あの会社で依頼した超ベテランみたいなのですが、ゼロです。
しかし諦めないのです。3日目にまたチャレンジをするのです。
でも3日目も、朝からやっても全然釣れません。
ようやく夕方になって大物が釣れました。 60センチ級ぐらいの立派なタイでした。
私は一つ教えられました。 あんな超ベテランの釣り師だって、
一本投げたらすぐに釣れるわけではない。 3日もチャレンジし続けるのです。
でも釣れないときもあるのです。
皆さん、信仰の歩みもこれと似ていると思うんですね。
倒れてもまた立ち直って、私を愛し救ってくださった主に信頼して、歩み続けることです。
恥ずかしい失敗をしても、慈愛深い神様に信頼して立ち上がって、
また信仰の道を今日歩み続ければいいのです。
昨日失敗しましたか?
神様は翌朝、新しい太陽を昇らせてくださるのです。
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そしてみんなに等しく新しい一日を与えてくださるのです。
だから、主に信頼して、主の御言葉の約束を信頼して、歩み続けていくならば、
いつか私たちは今日のアブラムのように、この地上の障害を終えて、必ず神の身元に着くはずでしょう。
もう一度皆さんにお尋ねしたいと思います。
皆さんはこの世に何を残したいのですか?
どうか、アブラムのような信仰の人に倣って、信仰を残そうではないでしょうか。
全ては消え去ります。
しかし、信仰は残ります。
永遠に残るものは信仰です。
であれば、私たちはこの最も価値あるもの、神様に最も喜ばれるもの、そのものが信仰であれば、
その信仰というものをこの世に残すことのために、励んでいこうではないでしょうか。
では、この信仰を残すためにはどうしたらいいでしょう。
まず御言葉を2箇所読みたいと思います。
前の字幕を出してくださいね。
ガラテア・ビトイの手紙6章9節です。
私がお読みいたします聖書かあるいは前の字幕をご覧ください。
ガラテア6の9。
失望せずに善を行いましょう。
あきらめずに続ければ、時が来て借り取ることになります。
失望しないで善を行うことです。
この善はもちろん善ですね。
でも大きな意味とすれば福音をまくことも善を行うことです。
人を愛することも善を行うことです。
伝道することはもちろん最高の善です。
失望せずに、あきらめずに続ければ必ず神様が働かせてくださって、
神様が身を結ばせてくださるんだから、時が来て借り取ることになります。
もう一か所、第二手もて4の2節です。
御言葉をので伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
忍耐の限りを尽くし絶えず教えながら、せめいましめまた進めなさい。
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ここにもですね、御言葉を私たちはみんな述べ伝えたいんですよ。
家族に、友人、父に、知り合いに、イエス様についてお話したいですし、神様について話したいんですよ。
述べ伝えたくない人は誰一人いません。
クリチャンであればですね、願いはみんな持っているんです。
でも時が良い時もあれば悪い時もあります。
できる時もあればできない時もあります。
だからここに書かれているように、忍耐の限りを尽くす必要があります。
すべての時がうまくいくわけではないんですね。
うまくいかない時もありましょう。
だから忍耐が必要なんです。
だから皆さん、この世に信仰を残すために福音の種を蒔き続けてください。
ご家族に、友人の方々に、知人の方々に、諦めず、失望せず、忍耐の限りを尽くして福音の種、信仰の種を蒔き続けてください。
時が良い時もあるでしょう。でも良くない時もあります。
うまく進む時もありますが、行き詰まる時もあるでしょう。
だから諦めず、失望せず、忍耐の限りを尽くすことが、師から促されているんです。
チャンスがあるたびに、イエス様についてお話ください。
あるいはチャンスを作って、神様についてお話ください。
もしできるなら、訪問していいでしょう。
手紙を送っていいでしょう。
LINEしていいでしょう。
電話をしていいでしょう。
食事を一緒にしていいでしょう。
あるいはお茶を一緒にしていいでしょう。
そこに関心を持つことは大事なんですよ。
皆さん、人は何かに対して関心を持っていたら、まず心が動きますね。
心が動くんですよ。
そうすると自分の体が動きますし、何かの小さな行動でも取るようになります。
そしてそのために時間を使ったり、あるいは、例えばハガキを送るとしましょう。
ハガキを買うでしょう。
64円お金が使われるわけなんです。
その最初の心、関心からすべてが生まれていくわけなんです。
だから皆さん、今日から、今までもそうしてこられたと思いますけれども、
信仰を残すことに関心をまずお持ちください。
18:05
そして何か小さなことでもいいですよ、皆さん。
目に見えないことでもいいですからね。
そこに神様が最も喜ばれることですから、そのために働き続けていこうではないでしょうか。
今の時代はみんな不安を抱えていると思うんです。
人に言わないだけで、みんな不安を感じていて、また本当の平安を求めていると思うんです。
あるいはお年寄りの方であれば、この死というものを恐れている人も多くいるんじゃないかと思います。
すべての答えはイエス・キリストにありますから、その答えを私たちはみんな持っているわけですから、それをお教えしたいんです。
そして大事なことがありますよ。
その結果は神様にお委ねすることです。
諦めず、失望せず、話し続けて、巻き続けていけば、それは確かに神に喜ばれる行いですから、
神様の御心であれば、主が必ず救ってくださいますし、身を結ばせてくださるんです。
それが私たちが生きている時代であるかもしれませんし、あるいは後々の後の時代になるかもしれません。
こうして私たちもやがて、アブラウムのようにこの地上の一生を終えて、神の身元に着くとき、私たちを慕う人たちから、
ああ、この方はこの世に、それから私たちに立派な信仰を残してくれた。
だれだれさん、ありがとうと言ってもらえるクリスチャンになりたいです。
二つ目、信仰の子孫を残すということです。
信仰の子孫を残すことです。
今日の二十五章の一節から見ると、アブラウムはケトラという妻を迎え入れて、他の子供を多く産みました。
最初はイシマエルをはじめ、多くの子孫を残しました。
その中、彼は信仰の子孫としてイサクを残したわけです。
21:00
みなさん、よくこの漱石を、またその後を読んでいくと、アブラハムにイサクのような息子が十人三十人いたんですか。
違いますよ。アブラハムにはイサクのような信仰継承の息子は、たった一人イサクしかありません。
ある意味で、たった一人イサクを残したわけなんですよ、信仰の子孫として。
そうすれば、信仰継承、いわゆる信仰の増殖という観点から見れば、
アブラハムは信仰の多くの子孫をたくさん残したわけではないですから、ある意味で逃亡死因です。
だって、イサク一人しかいないから。
しかしどうですか。だからアブラハムの生涯は失敗でしたか。そうではないんです。
彼は信仰の息子イサクを残しましたが、そのイサクからヤコブが生まれますね。
そしてヤコブから十二人の息子が生まれます。
そしてその中にヨセフが生まれます。
そのヨセフによって、その家族の命が守られるだけではなく、イスラエルの民族の命が守られ、存続できるようになりました。
それだけではありません。ヤコブの息子の中にユダが生まれますね。ユダの子孫から誰が生まれますか。
イエス・キリストがお生まれになります。
このイエス・キリスト様によって人類が救われるんです。
このとんでもないほど大きな結果に至るには、イサクがいないと成り立ちません。
イサクがいるためにはアブラハムがいなければいけません。全部つながっているわけなんですよ。
だから、ある意味でアブラハムは、そんなに息子がたくさんいるのに、
信仰継承はたった一人イサクにしかできなかったのと思うんですか。
あるいは皆さん、自分自身のことを考えて、いやどうしよう、がっかりしてはいないんでしょうか。
確かにアブラハムとイサクだけ、その時代だけを見るならば、信仰的に乏しいえなんです。
神様がせっかくウルから召して、ここまで移してくださったのに、たった一人しか残せなかったのかと思うかもしれません。
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しかし、アブラハムとイサクの時代だけじゃなくて、巨大で遠大な神様の歴史の観点から見れば、
アブラハム、イサク、その子孫からイエス様が生まれになったという、もう豊かな家系だったわけなんです。
飛んでいる家系だったわけなんです。
もちろん、多くの子孫を、ヤコブのように信仰のよくない息子たちもいましたけれども、
多くの信仰の子孫を残すことができるなら、最もいいことでしょう。
もちろん、そのために祈り続け、信仰を飾り続け、励んでいただきたいんです。
しかし、アブラハムのように、もしもたった一人だけであっても、
その子孫を通して神様はいくらでも数え切れないほど多くの信仰の人を残すことが神様にはできるということを信じて、希望をお持ちください。
人には不可能ですが、神様にはすべてができるんです、可能なんです。
だから希望があります。
周りから似たようなお証を皆さん聞かれたことがあるかもしれませんが、
教団のある先生は、そのお母さんから信仰を受け継いだわけですが、
そのお母さんは若いときに工場で働いていたそうです。
ある日、その日も仕事が終わって、会社から帰り道端で、ある人がチラシを配っていたそうです。
チラシを受け取って見たら、近くの天幕で何かの集会が開いていたそうです。
その集会のチラシだったんですね。
普段はそんなことも受け取らないし、そんなところにも行かない彼女でしたけれども、なぜか、これが不思議ですね。
なぜかその日はそのチラシを受け取って、しかも開いて読んで行ってみようかなという思いが生じて、
その天幕でやっているその年度集会に入って、椅子に座って、牧師の説教を聞いているうちに、もう神の霊が働いてくださって。
その日、イエス様を信じて救われて、もうその週から教会に行くようになった。
そして今に至るようになった。
27:02
その信仰継承がその牧師先生に受け継がれた。
最初から牧師を産もうとして牧師を産んだわけではないでしょう。
そういう夢を持って子どもを産むお母さんもいるかもしれませんがね。
この男の子が産まれて、その子がやがて牧師になったわけなんですね。
そしてこの先生を通して多くの人々に福音が述べ伝えられ、魂が救われているんです。
そのお若い人を聞いたときに、また今日の説教を考えてですね、
あの時、結構大昔だと思うんですけど、あの時、あのお母さんにチラシを配ってくれた人は誰なのか知りませんけれども、
その方はね、多く通り過ぎる人々にチラシを配ったと思うんですよ。
どれほど期待を持って配ったかわかりませんが、その配る人がですね、
この女性はこのチラシをもらって、もう将来にこの女性からもう男の子が産まれて、
その男の子が牧師になるんだという見通したから配ったわけではないでしょう。
ただ配ったのに、その日神様が働かせてくださって、
やがてやがて男の子が産まれて、そしてその子がまたやがて牧師になったという不思議な大きな流れの働きを、
その時、その時、その場合、その人を主が用いてくださったということなんです。
そしてその結果は主が生まれさせてくださったということなんです。
皆さん、神奈川区はどうかこの世に信仰の子孫を残してください。
そのために励んでください。
一人でもいいです。いやもちろん、2人、3人、5人、10人、たくさんいればもっといいでしょう。
子どものいない方は、礼的子孫を残せばいいんです。
しかし皆さん、私にも子どもが3人いますけれども、
この信仰継承というものは、ご飯を作って食べてね、それくらい簡単なものではないんです。
私たちはみんな最善を尽くしていると思うんです。
私たちは最善を尽くすだけです。
みんな願っているんでしょう。
願っていても、私たちの思い通りになるときもありますが、
30:02
代々に信仰の子孫を残すことは難しいんです。
もう孫が子どもを産むときくらいには、たぶん誰も、ノアみたいに生きてはいないと思うんです。
孫の孫、祖の孫、見る人もたまにいたりはしますけどね。
見ていたとしても、生きていたとしても、信仰を受け付けることもなかなか難しいです。
教えたり、聖書の話をしたり、電話したり、教会に連れて行ったり、本当にもう涙をもって祈ったりします。
しかし私たちの力では、能力では、思いでは、それをさせることはなかなか難しいんです。
すでにすみませんが、皆さんの子どもさんは、もう私くらい、あるいはもう少し若い、みんな大人になっているでしょう。
だから来週、教会に行こうよと言いにくいですし、行っても来ないし、難しくなっています。
孫ももう皆さんの子どもじゃないですから、皆さんの思い通りにはさせることは難しいでしょう。
また、私が例えば親子の子孫を残したとしても、その人が将来に神様に持ち入れるかどうか、
持ちさせることも私たちの思い通りにすることはできないんですね。
だから失望しかないという話ではありません。
ここで一緒に読みたい言葉があります。
ローマ章5章5節です。
清書を出してくださいね。
ローマ人への手紙5章5節。
前の字幕もあります。
私が読みます。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた精霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
この歌詞を一緒に読みたいですね。
一緒に読みましょう。
3、この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた精霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
アーメン。いかがですか、皆さん。
この希望は、親子を残したい、親子の子孫を残したいという、この希望は失望に終わることがありません。
皆さん、信じますか、アーメンですか。
私たちにはできないんですけれども、真実な方、救いの神様が働いてくださることを信じるなら、信じるから失望に終わることがありません。
33:06
私たちの中で、親子を残したくない人は一人もいません。
親子の子孫を、子供を、息子を、娘を、孫を残したいという、それを願っていない人は誰もいません。
みんなたくさん残したいんでしょう、皆さん。
そしてたくさん残したら最高ですけれども、もしも、たとえそうでなくても、
もしもたった一人しか残せなかったとしても、失望に終わることはありません。
むぜなら、私たちに与えられた生命によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
皆さん、神様には、たった一人でも、その一人を用いて、数百人、数千人、数万人を救い、大きな影響を何代に至るまで、その影響を及ぼせる人を育てることが、神様にはできるからなんです。
だから希望は、私たちの能力や力にあるんじゃないんです。
神様に希望があります。
私だけではないですけれども、少なくない牧師家庭にも、信仰継承の課題が全くないわけではないんだなと思います。
牧師の家庭なんだけれども、子どもさんが洗練を受けていない人もいたりしますし、
小さい時にはわけわからなくて洗練を受けたんだけれども、大人になって教会から離れている子どもさんもいたりするんです。
悲しみであり、痛みであります。
うちも息子はまだ洗練を受けていないですし、また上の娘たちも30年後、50年後、50年後だったら彼女たちも70以上になるんですが、
例えば30年後になって、私は生きているかどうか分かりませんけれども、その時に皆様のような立派な信仰を持っているかどうか、
それは私には強制的にさせることはできないと思うんです。
もちろん教え続けますよ。
時には叱りますし、涙をもって祈ります。
諦めません。
なぜでしょうか。
神様に希望がありますから。
そして神様が救ってくださった魂を、神様が責任を持って見守って、神の人として主が用いてくださるに違いないから、
36:03
神に希望を置いて、委ねていきたいんです。
もう一箇所見ていきましょう。
予告42章2節です。
42章2節。字幕出してくださいね。
私が読み足します。
さっき練習した歌の歌詞の歌詞ですけれども、
あなたには全てのことができること、どのような計画も不可能ではないことを私は知りました。
あなたには全てのことができること、
どのような計画も不可能ではないことを私は知りました。
本当に皆さん、この見言葉は通りです。
もう一度お尋ねしたいと思います。
皆さん、この世に何を残したいんですか。
もしも、たとえ明日が見えなくても、
今を見たら信仰や信仰継承、信仰の子孫を残すことに、まだまだ乏しいという現状であったとしても、
失望に終わることはありません。
神様にある希望、神様の真実を握って、信仰や信仰の人を残すことに励んでいこうではありませんか。
福音を語り続けてください。
イエス・キリストについて語り続けてください。
時が良くても悪くても、祈りとともに涙をもって教え続け、述べ、伝えてください。
息詰まっているんですか。
そしたら、明日またやればいいです。
明日も無理ですが、あさってやればいいです。
今月は難しかったですが、来月すればいいです。
今年は難しかったですが、来年すればいいんじゃないでしょうか。
諦めず、失望せずにやっていこうではないでしょうか。
それが最も価値あるものであって、神様が私たちを通してこの世に残してほしいと思われる最も価値あるものは、信仰と信仰の子孫です。
さて、ここで先のあの賛美、ドリマーと、教区とか教団でチューニアとか青年とか多くの業界で歌われている賛美ですが、
歌詞が本当に我々に希望を与えてくれる賛美だと思います。
では、また先のように音楽を流しますし、前の字幕も出しますので、お願いしたいと思います。
一緒に歌ってみましょう。
38:49

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