実会の重要性
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、
あなたが一人一人を恵みによって立たせようとこの場所にいてくださることを感謝いたします。
主よ、私たちは一人一人があなたの御前から離れていたものですが、
あなたが私たちが主を愛するよりも、主が私たちを愛してくださったがゆえに、
私たちのために、イエス様があの十字架へと身を捧げてくださり、神は御子を捧げてくださり、
その流された血潮によって私たちの罪が赦され、神のことされ、永遠の命をいただき、
永遠なる人と共に死を越えてまでも生き続ける、そのような命を与えてくださったことを心からありがとうございます。
そして何よりも主よ、あなたは私たちと共に居ながら、私たちを癒し、
私たちを御国を築くものとして召し出してくださっていることを感謝いたします。
神様、本当に祈られたように私たちができることは小さくて、そしてこの世界の悪は本当に大きいものです。
私たちの内にも、私たちの周りにも、それはあふれていますが、
しかし主は私たちを救い出し、救いきってくださる主です。
あなたは力があり、あなたは生きておられる主です。どうかあなたを仰ぎます。
どうか私たちに今日も命の言葉を語りかけ、私たちがここから立ち上がることができますように勇気と力を与えてください。
お願いをいたします。
ここに来たくても来れない一人一人がいらっしゃることがありますし、またご自宅で礼拝を守っておられる方、
今日は体調不良で来られない方もいらっしゃいます。
また本当に春が来ましたが、しかし本当に心が痛んでこの春の彩りを感じれない方々もいらっしゃいます。
神様どうかお一人一人に臨んでください。あなたが癒しの御手を延べ、慰めてくださいますように。
共に主のもとへと集うことができますようにお導きください。
お願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます。
主が御言葉を開き、私たちに精霊様によって悟りを与えてください。
これからの時を余談にして、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
この春から実会を順に一つずつ見ていきたいと思う、願っております。
教会はなぜ実会を読むのか、先週そのことを少し確認をさせていただきました。
キリスト教会は長らくこの実会の言葉を大切にしてきました。
私たちは一体何を信じるのかは、使徒信条が。
私たちは一体どう祈るべきかは、主の祈りが。
そして私たちは一体どう生きるべきなのかを示している、その言葉は実会であると信じてきました。
どう生きるのか、私たちの生き様、それはもしかしたら私たちはどういう存在なのか、
どういう目的を持って生きているのか、どういう目的を持って創造されたのか、
そのような深いところにまで関わる重要なテーマですよね。
そして実会というのは、先週も申し上げましたが、
それは一つでも破れば神様からムチがペーンと飛んでくるような戒律ではありません。
旧約聖書はそんな幻覚すぎる神様を描いてはいません。
先週見ましたが、20章の2節というところには、この実会の前文としてこういう前提があります。
エジプトの地、あなたをエジプトの地奴隷の家から導き出したあなたの神、主があなた方へと語るのである。
実会の言葉は、この民がこの実会の基準に合わないと救わないとかそういう話ではなくて、
実会とは救い出された民に向けて語られた言葉。
救い出した民を整えて、この世界の祝福とするために与えてくださった神様の大切な言葉です。
何度もこれは確認をいたしますが、私たちが救われるのは自分の行いによってではありません。
私たちが神のことをされているのは、完全にイエス・キリストの十字架の地中によってです。
イエス様によって私たちは救われます。
そしてこのイエス様の死と告白したときに、私たちは神の子供とされています。
神様の目にはそれで十分愛しい存在です。この立場は変わりません。
私たちは実会の学びをしていくときにちょっとだけ、本当にこれは何度も注意しますけれども、
あ、これが守れていないから私は救われていないんだ。これが守れていないから私は神様の子じゃないんだ。
絶対にそう思わないでください。そうではない。
救われた神の子をどう整えるか、そのことのためにこの言葉が語られているということを覚えてください。
これはこういうことだと思うんです。神様は神の子を愛している。
ただ神様は私たち神の子を愛しておられるがゆえに、私たちが罪によって歪み続けられることを心配なさるんです。
油断かもしれませんが、私はおそらくと言ったら失礼ですが、綾名先生に大事にされていると思うんですね。
ただ、それはきっと私自身がこのままブクブク太っていっても、きっと綾名先生は私のことを大事にしてくれるはずなんですよ。
でも、私の体が太っていくことは心配ですよ。であるならば、たぶん先生はこう言うんですよ。
あなたラーメンばっかり食べてないで。野菜食べなさい。そうですよね。
それ以上あなたラーメンを食べたら危なくなるという注意は、別にあなたとその付き合いをやめるかどうかの話のレベルの言葉ではない。
私たちのこと、私のことを暗示で言ってくれている注意ですよね。
実際にそれに似ていると思っていただいたらいいです。
これを超えていったら、愛するあなたがこれをこのまま続けていったら、いろいろな痛みが、いろいろな歪みが深まってしまう。
いや、それではない。救われた、神のことをされたあなただからこそ、あなたは本来の自由な姿に、本来の癒された姿に行ってほしいんだ。
これは神様からの願いですね。なかなかそう謝れないかもしれないので、だからそんなに自分を責めないでいただきたいということですが、
私たちは、聖書は語ります。神様は人間をこのようにデザインされました。
神を愛し、自分自身のように隣人を愛するように、私たちを神様は作られました。
しかし私たちは、罪の中で様々な歪みを抱えています。
神のことをされた今も、私たちは様々な歪みを抱えています。
その私たちに、実戒というのはまさに、神と共に生きていく上で、隣人と共に生きていく上で、ここが本当に大事なんだよということを気づかせてくれる言葉です。
ある先生は実戒を教えるときに、実戒というのはよく生きるための秘訣なんですって言い換える先生がいらっしゃるそうです。
実戒というのは、よく生きるための秘訣なんです。
神様と共に、隣人と共に、これまで以上に深く、これまで以上に豊かに、そして癒されながら、神と隣人とよく生きる秘訣、これが実戒です。
その中で、今朝の第一回というのは、その最も基礎的なところであると思います。
神との関係
実戒の前半というのはまさに、神様との関係について語られている言葉ですが、
今日ご一緒に注目したいのは、三節の言葉第一回ですね。
あなたには私以外に他の神があってはならない。
あなたには私以外に他の神があってはならない。
この言葉を少しゴツゴツした直訳に直しますと、こういう言葉です。
あなたにとって私の顔の前に他の神々があってはならない。
あなたにとって私の顔の前に他の神々があってはならない。
ここには二つのポイントがあるように思います。
私の顔の前にと主は言われました。
そしてもう一つは、他の神々があってはならない。
このことを順に見ていきたいと願っています。
まず目に留まるのは、私の顔の前にとこの言葉が言っているのです。
顔という言葉が元の言葉には混ざっています。
ヘブル語でこの顔という言葉は比喩的にですけれども、
それは顔というのはその存在の全人格であったり、全存在という意味合いがあります。
顔というのは全人格や全存在を意味する、そういう言葉だと言われますけれども、
ただこの歌詞は言葉通りにその光景を想像してみてもいいと思うんです。
それは神様が見顔を私に向けておられる。
神様が見顔を私に向けておられる。
そして私たち、神に愛され、神を愛する存在としてデザインし想像された私たちは、
その神様の見顔に向き合うように想像されているものだということです。
これがとても基本的なことですね。そう言えると思うんです。
神様が私たちに顔を向け、私たちはその神様の見顔を避けずに見つめるように想像されている。
ただ少し立ち止まってどうでしょうか。
皆さんがもしも神様に顔を向けられると思って想像していただきたいのですけれども、
神様の見顔というのは皆さんにとってはどういう表情をされているでしょうか。
神様がもしもあなたを見つめているとするならば、どのような表情をされているでしょうか。
想像してみていいと思うんです。
神様は怖い方、厳しいお方でしょうか。
いえ、もしかしたら無表情で無関心な顔をしている。
そういう神様の顔が思い浮かぶ方もいらっしゃるかもしれません。
実戒をはじめ特に旧約聖書を読む中でよく受け止められやすいことは、
神様は愛だと言われているけれども、いや、そうは言っても怖い方なんでしょう。
そうは言っても厳しいお方なんでしょう。
神様は愛であったとしても、それには私たちがちゃんと守らなきゃいけない条件って絶対にあるんでしょう。
そう思ってしまう人は少なくないと思うんですね。
ただ、今朝の箇所を見ていくならば、少なくとも神様のこの表情というのは厳しい顔でも無表情でもありません。
この第3節というのは第1回ですけれども、2個目の4節、5節、6節以降に続く第2回に続いていく、
つながっている言葉ですけれども、第2回は偶像を作るなという教えで来週見ますが、
5節の後半、20章の5節の後半を見ていただきますと、
5節の、ごめんなさい、中心ですね。
それらを拝んではない、それらに仕えてはならない。
あなたの神、主である私は、妬みの神と言われるのです。
妬みの神であると、なぜ他の神々を作らないのか、なぜ偶像を作ってはならないのか、神が妬まれるからです。
妬まれるのはなぜなのか、神がイスラエルの民を激しく愛しているからです。
妬みというのは激しい愛情の表現です。激しく愛している。
そして前回見ましたけれども、この10回の全文の2節の言葉にももう一度注目するならば、
この言葉は、私はあなたをエジプトの地奴隷の家から導き出したあなたの神、主であると言われます。
私はあなたをと言われるのです。私あなたなんですね。
ある先生が、これは神様と民の一対一、民というのは複数なんですが、しかしそれは10回というのはあなた、一対一、
神様と顔を合わせている私とあなたの関係、難しいことで言うと排他的な関係、他の誰でもないあなたが私に対して、
私はあなたに対して、その一対一の神様と私の関係の中で激しい愛の口調で言われているのがこの1回なんです。
あなたにとって私の顔の前に他の神々があってはならない。
神様の見顔というのはこの表情は激しい愛情の表情をしているんです。そのような中で語られているんです。
そして顔ですよね。神と私が顔、それは言い換えるならば、全人格、全存在を向き合わせながら、
まさにその全ての存在を向き合わせながら、私は激しくあなたを愛している。
その全存在、全人格を向き合わせて、私たちに、イスラエルの民に語っている神がおられる。
その愛を疑わずに、言葉のまま受け入れている姿、まさに神様の愛をそのように言われる、全存在で言われるときに、
私たちの存在、全存在で、隅から隅まで喜んで感動して安心してそこに生きている姿、実はそれが人間の本来の姿です。
人間というのはそういうふうにデザインされているんです。神様のその全存在に向けられた愛に。
最近有名になりましたが、トヨタ信之先生という、もともと日本イエスのトヨタ先生という、山の中でお祈りをされて召された、
その先生の息子先生が今、違う教団で牧師をされていますが、最近色々な本を出しています。
トヨタ先生が、もともと自分が清め派の出身ですからね、清めについて色々とお話をされていた機会があるんですが、
その時にこういうことをおっしゃられていました。
私たちにとっての清め、聖火の信仰というのは大事です。
ただ、聖火というのは、自分を打ち叩いて地獄秘芸の極みに達することで到達するのではありません。
本当に聖なるものというのは、神様の愛に完全に憩い切る人のことを言うんです、とある講演でおっしゃられていました。
私はすごく素晴らしい表現だなと思いました。
本当に聖なるもの、神の形として回復させられているものは、存在の隅から隅までで、神様の愛を疑わずに受け止められる。
ああ、そうなんだ、そこまで激しい愛を持って私は想像され、生かされている存在なんだということを受け止められる。
素晴らしい表現だなと思います。
これが神の形、難しい表現を使いましたが、でも聖書の中にある神の形として作られた人間の本来の姿です。
これが本来の姿ですね。
神様はまさに色々なある種罪によって歪んでしまっている、私たちの神様の愛への認識、神様ご自身への認識。
それが癒されて、神様はその神様の愛に、その愛の見顔の前に、その交わりの前に生きて帰ってきてほしい。
そのような交わりに帰ってきてほしいというのが、実は神様の願いですね。
それが本来の私たちの姿であり、神様が私たちに願うことなのですけれども、しかしながら、この神様の愛の見顔から私たちを引き離すものがあるというのです。
じゃあそれは一体何なのでしょうか。言い換えればそれは、どのような歪みがこの神様の愛の見顔を避けさせようとするのでしょうか。
イスラエルの民と他の神々
この実会の第一回が語っているのは、他の神々があってはならないです。他の神々。他の神々によってですね。
この出エジプトの出来事の直後、このイスラエルの民というのは、長年エジプトに住んでいました。
エジプトというのは多神教の国家なんです。そしてこれからの地に、カナンの地を目指しますが、カナンの地も多神教の国家なんですね。
多くの神々がいる。多神教の神々というのは、イスラエルの民にとってとても誘惑的だったわけです。
なぜなら、多神教の神々というのは、実に姿形があるんです。目に見えて像になっているとか。
そして性格も明確です。あいつは雷の神様。これは空の神様。これは川の神様とか。性格もはっきりしている。
そして供物を備えたら、ご利益が返してくれる。実に分かりやすい神様なんです。
ですから、このイスラエルの民もご存知の通り、すぐ目に見える像を求めました。
執エジプト記の32章あたりに書いていますが、金の格子事件がイスラエルの民にはありましたね。
イスラエルの民は金の格子を作る時に、アロンにこう言いました。
我々に先立っていく神々を作ってほしいとお願いしたんです。
我々に先立っていく、このアレノデ、我々を先立って導いてくれる神々を作ってほしい。
でも不思議な話なんです。だってイスラエルの民には、昼は雲の柱、夜は火の柱となって先んじて導いている神様が目に見えて先んじて歩んでいたんですよ。
彼らは目にして、この神が私たちを救い導いているって、彼らは知っていたのに違う神々を求めました。
なぜなのでしょうか。
それは、目には見えない、自分よりも大きい神様の愛にとどまるよりも、目に見える偶像の方が彼らにとってはより良い問題解決策だったからです。
目に見えてより良い解決策だった。
そう見えたからではないでしょうか。
イスラエルの民の周りにも多くの問題がありました。パンがない、水がない、周りが月だらけ、そういう問題がありました。
そしてこの私たちを先んじて導くこの偉大な神様、私たちには捉え切ることのできないほど大きな偉大な神様が本当に私のことを守ってくれるのだろうか。
まだわからない。そしてまだわからない神様よりも、私たちの願望を形にした神様の方が欲しいわけです。
わかりやすいから。
私たちは神明記を見てきましたね。神明記の立法の中で何度も語られていた言葉がありました。
この神様の愛にとどまってさえいるならば、パンもあるし水もあるし、世界的から守られるんです。
でも彼らはそれが信じられない。本当に神は守ってくれるのか。
ただこれは私たち人間の根本的なところにある深い欲求ではないかなと思うんです。
こういうことだと思うんですね。
それは神様の愛を信頼し、三河王の交わりに生きるよりも、もっと素晴らしいより良い生き方があるのではないかと私たちはどこかで信じているんです。
神様の愛によって、神様の三河王の交わりに生きるよりも、もっとより良い生き方があるのではないかと私たちはどこかで思っている。
わかりやすいのは皇棟息子の弟でしたよね。
父の家にいながら彼は遠くの国を仰ぎ望んでいました。
あなたには私以外に他の神があってはならない。そんな言葉は窮屈で窮屈で。
それよりも自分を喜ばせてくれる、自分にとってわかりやすく、私を励ましてくれる。
あれこれがある世界に行きたい。正直な本音を言えば、堅苦しい父親から離れたい。
私たちはこの神様の愛を信頼し三河王の前に行くより、それ以上に正直に言えば私をよりよく生かしてくれるものがこの世界にあると信じている。
けれども、このような確信、そのような認識こそが、厳しい言い方をするならば、そのような認識こそが罪がもたらしている歪みなのではないでしょうか。
第一回、あなたには私以外に他の神があってはならない。
もしもこの言葉が私たちの持っている歪みを修正するならば、おそらくこういう表現になると思うんです。
神様の愛の見顔
私たちの世界には私をよりよく生かしてくれるものがたくさんあるのだけれど、本当の愛、命、喜びというのは、神の愛の三河王の前でしか知ることができない。
そう信じるかどうかではないでしょう。
誤解をしないでいただきたいんですけれども、趣味は楽しんでくださいね。
私も散歩したりだとか、カメラはしませんけど、そういうことを楽しんだらいいと思うんです。
この世界をとことん楽しめばいいです。
春になって季節もきれいになったので、お花を見てきれいだなあだとか、新学校に行って鴨野先生と一番よくしゃべるのはアニメの話ですよ。
先生もドラマとかアニメをたくさん見ててね。
そういう話をよくしますけれども。
病気になったら薬も飲んでください。これは決して禁じられるべきではありません。
薬は絶対に飲んでください。
ただ、ここで語られているのは、もっと根本的な話だということです。
もっと根本的な話。
私たち人間の本質的なところ、私たち人間の本質的な渇きとでも言いましょうか。
それは、神の愛の見顔の前でしか満たされないものがあるということです。
この交わりを抜いては満たされないものがあるということです。
神のデザイン
なぜなら、私たちは神の形に創造され、神の息吹によって命を得て、
神様が全人格、全存在を向けて愛を語られ、その愛に応えるものとしてデザインされているからです。
人間というのはそういうデザインをされているからです。
今日読んで、もう一箇所読んでいただいた箇所に、四辺の四辺の六節八節という言葉がございます。
読んでいきますと、四辺の四辺の六節から八節というところです。
読みいたしますと、こういう言葉です。
多くの者は言っています。
誰が我々に良い目を見させてくれるのかと。
主よどうか、あなたの見顔の光を私の上に照らしてください。
あなたは喜びを私の心に下さいます。
それは、彼らに穀物と新しい葡萄酒が豊かにある時にも混ざっています。
平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。
主よ、ただあなただけが安らかに私を住ませてくださいます。と語られています。
見顔の光、これはまさに主の見顔に向き合っているという、そういう光景でしょうね。
愛の三顔を仰ぐ
まさにモーセが顔と顔を合わせて、モーセの顔が輝いたように。
主と顔と顔を合わせながら交わっていく、その交わりの姿、その交わりの中に。
喜びを主は与えてくれし、それは何がある時よりも豊かに勝っていると主人は告白をするんです。
そして身を横たえて眠れる平安は、主をあなただけが与えてくれる。
それはまさにこういう形でしょう。本来の私たちの形であったり、本来のいるべき場所に私たちが帰れたという平安なんです。
ここにこそ私の本来の見るべきお方、いるべき場所がある。
それを知ることができた深い喜び、根本って存在根本を支えるような平安。
平安、私たちの教団では三顔の輝きといった大島先生が、大島先生第2コリントでよく話されましたが、
先生がこういうことをおっしゃいました。
常に神の三顔を求めよ。神を尋ね求める者の心は喜ぶべし。常に神の三顔を求めよ。
三顔を尋ね求めるというのは具体的にどういうことでしょうか。
それは私は先日めて、シンプルに言えば、火の中でやはり死を仰ぐことだと思います。
私が神様を利用するのではなくて、主がこの場を治めておられて、私はその主のもとにいるんだ。
主が私に今も三顔、愛の三顔を向けてくださっているのだ。その主の三顔を仰ぐ。
神様との愛の関係をよく生きる秘訣としては、そこに怖い顔であったり、無関心の神様の顔を絶対に想像しないということです。
激しい愛を持って、いや、あの十字架の上で人間のどこまでも深い罪を見つめながらも、
父よ、彼らをお許しくださいと祈った、あの憐れみの愛の眼差しが、父の三顔にはあふれているんですね。
そこに温かな眼差しがあります。
私たちはその愛の三顔を見つめながら、本当の喜び、愛、平安をいただきながら、主を愛して生きていくんです。
それが本来の私たちの姿ですね。
偉そうに語りながら、じゃあお前はどうなんだと、私自身もいつも問われます。
ああ、本当に主を仰いでいるのか。
私自身も発展途上の中にあります。やりきれて語っているわけではない。
だからこそ、ご一緒にこの御言葉の前に整えられていきたいんです。
私たちは主の愛の三顔の前に生きるものとして作られている。
三顔を避けるのではなくて、ご一緒にこのお方を仰ぎながら、一言ずつ形を整えられていきたいと願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。