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2021-03-07 31:56

2021/03/07:創世記(10)人間関係と罪の結果

2021/03/07 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 4:1-8


00:00
皆さん、おはようございます。
今日もみんなで一緒に礼拝できますことを、心から一緒に感謝いたします。
礼拝堂が一般になっていますね。感謝いたします。
メッセージの前にですね、皆さんに祈っていただいて、
ユン先生の病気はどうなっているんだろうが、皆さん心配なさっていらっしゃると思いますので、少し報告をさせていただきたいと思います。
先週の水曜日、大きいリサイクル目の抗がん剤の治療が始まりました。
今は入院しなくて、通院になっています。水曜日に行ってですね。
それで、今回も水曜日の点滴を打つ前に、レントゲン検査をしましたところ、
本当に幸いに、最初よりまた前回よりですね、だいぶ右の肺の加減もだいぶ薄くなってですね、
その主治医の先生も薬がよく効いているようなので、嬉しいですとね。
私は見てもですね、前回より最初よりだいぶ見えるようになって、
この右の方のレントゲンをとったら、アバラ骨の下のラインが見えるんじゃないですか。
最初は全然見えなかったんですけど、今回は半分ぐらいは線が見えるようになってですね、効いているようなんです。
その薬というものも同じ薬を使っても、それが効く人もいますし、効かない人もいますし、いろいろありますけれども、
本当に皆さんが祈ってくださって、神様薬を使ってくださってですね、癒してくださっていること、本当に主に感謝いたします。
また皆さんも朝晩、本当にこの足りないけど、牧師のために祈ってくださって、本当に心から感謝いたします。
一言短くお祈りします。
神様、主の皆をあがめて賛美いたします。
私たちが生きることも死ぬことも主の御手にあります。
主よ、しかし私たちは神様を信じて、イエス・キリストの十字架の父親によって救われた者として、古き者は死に、キリストにあって新しい者として生かされております。
主の力によって、神の命によって生きる者としてください。
今日も神様御自身が私たち一人一人にお語りくださいますように。
聴くべき神のメッセージを、神の御声を聴くことができますように。
そして神様を面と向かってお会いするこの朝となりますように。
主をどうぞ満たして、導いてください。イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
03:03
今日、漱石10回目です。
タイトルは、人間関係と罪の結果。
人間関係と罪の結果です。
この漱石を読むときに、3章4章読むときに、大事な一つの観点、ポイントがありますね。
それは、罪というものが、まず神様と人の関係にどんな結果をもたらすのか。それが1点ですね。
もう1点は、罪というものが、人と人の間、いわゆる人間関係ですね。
人間関係にどんな悪い影響をもたらすのか。
この2点を持って読んでいけば、先週2回に分けて渡ってお話したところ、
それはやはり、神様とアダム・ヘバのこの関係が壊されてしまったということを話をしましたね。
愛して愛されて、従って信頼する、その関係、美しい関係が、もう壊れてしまった。
そしてそれが、恐怖、避ける、逃げる、隠す、そういった関係になってしまった。
そしてそれは、究極的には、死という関係になってしまったこと。
それが、先週と先々週のメッセージのポイントです。
今日は、その罪というものが、人と人の関係にどんな悪い影響をもたらすのかを見ていきたいと思うんですね。
アダムとヘバは、神様の一般的な恩徴によって、エデンの園から追い出されましたけれども、
でも彼らがね、食べていけるように神様は助けてくださったわけなんですよ。
普通に夫婦として家庭を持って、何かの働きをして、そして食べていけるように。
その中で子供が生まれましたね。
アダムとヘバの子供の名前は、長男がカイン、次男がアベルですね。
そういうふうにですね、普通に家庭を持てるように神様が一般恩徴を恵んでくださった。
子供も生まれた、子供も育てられてですね、大きくなってですね、
今日の2節、3節、4節ぐらいになります。
2節を読むとですね、アベルは羊を飼うものとなった。
いわゆる牧畜をするわけですね。
06:03
カインは大地を耕すもの、農夫と言っていいじゃないですか。
長男のカイン様は農夫、農業をする、農事をする人。
そして仕事ができて、食べていけるようになった。
アベルはね、牧畜をするわけ、放牧なのか分かりませんけど、羊を飼うものとなったわけです。
さあ、そこで一つのストーリーが展開していくんですね。
きっとカインとアベルは、お父さんやお母さんから神様に捧げ物を捧げて、
神様を礼拝することを学んだと思うんですよね。
それでカインもアベルも、それぞれ自分がやっている仕事からの修学物を持って、
神様に捧げ物を捧げた。
当然、アベルは羊を飼うものだから、羊の中でそれを捧げ物を捧げた。
カインは農事をするものだから、自分の畑のそこでの穀物でしょうね。
それを捧げたわけなんです。
ところが、今日の4節、5節ご覧ください。
4節、一緒に読みましょうかね。
アベルもまた、
アベルを捧げました。カインも捧げました。
ところが、今日はそのポイントは触れていないんですけど、
神様はアベルとアベルの捧げ物には目を止めてくださったんですね。
目を止めてくださったのは、受け入れたという意味も一緒なんですね。
受け入れてくださったんです。
しかし5節、カインとその捧げ物には目を止められなかった。
カインは農事をするものだから、畑のものを神様に捧げたのに、
それが受け入れられなかったんですね。
残念なことが起きてしまったわけなんです。
そして、その後のことなんです。
それでカインは激しく怒り、顔を伏せたとあります。
ここでこの4章のストーリーは、平和の方向ではなく、
至福の方向ではなく、不幸の方向に、悪の方向に展開していってしまいました。
09:00
もしですね、カインがこういう結果を見てですね、
私の捧げ物には何か足りないことがあったんだろうか。
自分の心が神に受け入れられない、目を止めていただけない何かの日があるんだろうか。
自分自身を顧みて、反省して、悔い改めて、
そして次回からはさらに良いものを捧げるようになったら、
この4章のストーリーは、美しいハッピーアンドのストーリーに変わったかもしれません。
しかし、カインはそうしなかったんですね。
簡単に言ってですね、カインは腹が立ったわけなんですよ。
なんで神様は俺のものは受け入れてくれなくて、目を止めてくれなくて、
あのあいつのハビルのものだけに目を止めてくれるんだろう。
なんで?どこが間違っているの?俺の何が悪いの?みたいに、
そう思ってしまって激しく怒ってしまって顔を伏せた。
もう神様を見たくない顔を伏せてしまったんですね。
そしてその結果はどうなったんでしょうか?私たちはよく知っています。
神様はカインがその弟アビルを殺す前に警告がなかったわけなんですよ。
罪があなたを増し伏せている。
あなたは7節の後半を見てですね、あなたはそれを罪を治めなければならない。
治めなさいと、負けてはいけないと神様が警鐘を鳴らしてくださいました。
弟を殺すことがないようにですね、しかしカインはその神の見声も聞こうとしなかった。
激しく怒ったその怒りは燃えて燃えて燃えてしまって、
そしてその感情は結局的に行動に移されてしまって、
そして弟を野に誘い出して襲いかかって殺してしまいました。
罪が人と人の間に人間関係にもたらした結果、
その中から今日はですね、このカインとアビルだけではなく、
今日の私たちの人間関係にも起き得ること、
様々なことの中でですね、それは網羅することができないので、
その中で多くの人が、私自身もあるいは皆さんも、
心に傷を持っているかもしれない、苦い根を持っているかもしれない、
何かの嫌な気持ちをずっと抱いているかもしれないところの一つ、
それはいわゆる、自分と人を比べることですね。
12:05
いわゆる比較意識というもの、比較意識。
もちろんね、この人と自分を比べること、比較というものは、
とても複雑なものだと思うんですよ。
この社会がですね、特に産極革命が始まって、世界の歴史が変わっていく中で、
何もかも比較したり、比較されたりする社会で、私たちはここまで生きてきたわけなんですよ。
例えば能力があるかどうかが比べられる。
どこの大学を卒業したのかが比べられる。
お金があるかないかが比べられる。
かっこいいかかっこよくないかが比べられる。
いろんな仕事を持っているかどうかが比べられる。
言うのなのかどうなのかが比べられる。
うまく仕事ができるかできないかが比べられる。
いろんな比較される、比較する、そういう社会の中で私たちは生きているわけなんですね、実は。
でも、だからしょうがないんですよ。
死ぬ方法しか解決方法はありません、みたいにね、そう思ったら悲しくなる。
でもそうではない。
今日、そこで私たちが、神様が備えてくださる脱出道。
本当の意味ですべての腐れから解放されるための神様が備えてくださった3つの解決方法をお話したいと思います。
その一つは、まず自分自身の心の内側、内面がどれだけ罪深いものなのか。
まず自分自身の心の実態を向き合って知ること。
それが一番目ですね。
二番目は、二分は変わらず神様は私たちをたっというものとしてくださる。
ミクオやイエス・ギリストを十字架で死なせるほど認めて愛して尊重してたっというものだよとしておられることを知ること。
それが二つ。
三番目は、人と比べて比べされて、そして心に引っかかる誰かがいるかもしれない。
いなかったら幸いですけど、いるかもしれない。
あの人のことでも比べられても、そういう人がもしもいるならば、その人をイエス様の愛で抱きしめることができるまで、
15:05
私の心の中に不安やネタ意味やそっしりやそういったものは消えて、喜びと平安で満たされるまで祈り続けること。
この3つの話を今日させていただきたいと思います。
まず一つ目は、カインのことをもう一度皆さん考えてみましょう。
カインは最初は神様が自分と自分の捧げ物に目を止めてくださらなかったことに対して激しく怒り顔を伏せたと。
最初の彼の感情は怒りでした。激しい怒り。
なんで?なんで俺のことが受け入れられないの?なんであいつのことだけ目を止めてくださるんだろう?
神様、不公平じゃないですか。悔しいですよ。
弟アベルは神に認められているように、私は認められていないんじゃないですか。
神様、アベルのことだけ愛してくださって、私のこと愛してくれないんですか?みたいな。
その中でカインは比べた。
こっちだ、これは不公平だ。神様、私のことを認めてくれない。
見てくれない。目を止めてくれない。愛してくれない。
その感情が怒りになってしまった。
そしてその怒りはエスカレートして弟を殺す、殺人に移されてしまった。
皆さん、罪は私たちの心に悪をもたらします。
そして神様がくださる愛、喜び、平和、平安、寛容、忍耐、あるいは善意を取り上げてしまう。
そしてその代わりに、三魂の三とは正反対の感情が心の中にいっぱいになってしまうわけだ。
私たちはそういった弱いものであること。
時にはそしり、時にはねたんだり、時には恨んだり、時には憎しんだり、激しく怒ったり、もうあいつは弓なくなってほしいみたいに。
そこまで考えたりする私たちの心の中がどれだけ汚れているのか。
それを神の目で自分自身をまず見ること、そこから始めなければならないんですよ、皆さん。
18:03
私自身の話をちょっとさせていただきましょう。
今日のメッセージとつながる部分ですけれども、最初2月に入院しているうちに10日短い時間でしたけれども、
本当にその10日間、たくさんのことを神様から悟らされ教えられました。
その中で、私自分自身の心の中を神によって照らされて、
自分自身がどれだけみっとまない、罪深いものなのかを、神様に、セキララに、もう裸にされて、主に示されました。
聖書読む中で、ガラテアビトユム手紙5章に、ミタワノミがあるんですよね、皆さんご存知だと思います。
私の中に愛のどころか、愛がないこと、喜びはなく、悲しみ、憂いでいっぱいになっていたこと、平安より不安でいっぱいであったこと、
寛容しなければならないのに寛容するどころか、許さない、許せない、受け入れ、受け入れない、
そういった自分の聞かれた心、親切じゃなくて冷たさを持っている自分自身、
無関心だった自分自身、善意ではなく悪意を抱いていた自分自身、誠実ではなく怠けて怠けていた自分自身、
入和のどころか高慢で高慢で一般になっていた自分自身、自制ではなく無切育った自分自身、
本当に私自分自身がどれだけテカレの多いものなのか、主がセキララに私を裸にして自分自身の実態を見させてくださいました。
そして私は食い改めました。主は本当にそうです。
私は愛のないもの、喜びのないものでした、平安のないものでした、悪意の多いものであって寛容が全くないものでした、
怠け者でしたと忍び前に食い改めました。
皆さん、福音というものは、福音は私たちを全ての鎖から解放して釈放して自由にしてくださるのが福音なんですね。
21:00
イエス様を信じる、神様を信じる、神のイエス・キュリスの福音によって私たちの全ての鎖、その中のこういった人間関係で複雑に絡まっている、
そこからも自由にされること、解放されることこそ福音の力である。
そして私たちはみんなそうから本当に自由にされなければならないんですし、
神様は自由にしてくださる神様なんです。信じますか皆さん。自由にしてくださるんです。
どんな鎖からも、その第一のステップは自分自身がどれだけ穢れの多いものなのか、それをまず知ることなんです。
そして二つ目は、そんな穢れの多いものである、比べられたくないし、たとえ比べられても、
マシな方、いい方にそういうように言われたいみたいな、本当にいろんなこの人間的な欲求、ニーズが我々心の中にあるわけなんですよね。
そうなんですよ。みんなあるんです。しかし、その人からの認められることや褒められること、それもあったらいいと思うんだけど、
それは満足しきれません、皆さん。満足しきれないんです。絶対に満足しきれない。
私は本当に、どれだけ人が認めて褒めてくれても、自分の命を捨てるほど私をたっ飛んでくれる人は世の中にないんですよ。ありますか。ないんですよ。
どれだけ私を認めて褒めて褒めて褒めてしても、自分の命を捨てるほど私をたっ飛んでくださる人は世の中にいないわけです。
しかし、どうですか。神様は、ミコイ・エース・キリストを十字架で死なせるほど、命を捨てるほど、私たちをたっ飛ぶものとしてくださいました。
私はあなたを愛する。私はこれをたっ飛ぶ。あなたはつまらないものではないよ。私にとってあなたは宝なんだ。尊い存在なんだ。
そのために私は、私の息子を十字架で、あの罵られ恥かしめられる中で、私は命を捨てさせた。それほど私はあなたをたっ飛んでいる。
そういうふうに、私を尊いものにしてくださる神の愛を、神の眼差しを、私を認めてくださるし、私をたっ飛ぶことを掲げてくださる神様に出会わなければならない。
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その愛を、本当の愛を知らなければならない。知るときに、私たちは全ての鎖から自由にされるということなんです。
私も皆さんも、神の本当の愛に触れて、その愛にどっぷりと使って歩んでいきたいんです。
ところがみなさん、どうでしょうか。
私たち、皆さんが下院のようなものなんですよ。
愛と喜びと平安、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈悲で満たされて、本当にその身をたくさん結ぶように、生きるように、主は我々を選んで救ってくださったんだけれども、
時々私たちはどうですか。
下院のようにですね。
そういったものがあるんじゃないですか、皆さん。
そのように私たちは弱いものであること、自分自身では自分自身はどうしようもないものであることを認めて、主よ私を助けてください。
この鎖から私を自由にしてくださいと、人を見るんじゃない、自分を見るんじゃない、イエス・キリストを見上げて歩く道しかないんですよ、私たちは。
覚えてください、皆さん。世界の誰よりも、皆さんの周りの誰よりも、全能の神様が、ミクを十字架にかけ上げてくださった神様が、皆さんを認めて愛して立ったんだ。
その愛に十分に使って歩いていきたいんです。
3番目、生きていく中でですね、心に引っかかる人がいたりするんですよ。
比べられたくないし、比べられて負けたら悔しいしね、そんな気持ちが人には罪の結果としてあるんですね。
私自身、小さい時から教会で育ったものですけれども、高校生、青年の時に、ライバルみたいな一人の男の子がいてですね、例えば学生会の役員を選挙するでしょう。
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そしたら、私が会長したら彼が副会長、彼が会長になったら私が副会長みたいにですね、2人でライバルになってね、今いい関係になっていますが、そんな時にですね、たまに私が2年連続負けて副会長になったら悔しいなと思ったりしたことも昔あったわけなんです。
なんで?みたいにね。そういったね、心に引っかかる誰かいるかもしれない。
そして、それで心の中に平安が消えてしまうならば、それをほっといたらいけないんですよ。
もう神様に祈ってですね、その人を本当に十字架の間で抱きしめることができるまで、受け入れることができるまで、その人を愛する、憐れむことができるまで、解決できるまで、祈っていかなければならないんです。
そうするとですね、不思議な不思議な神の癒しが、主が私の心を引き上げて変えてくださるか、その人を変えてくださるか、不思議な平和の形で神様が必ず平和にしてくださるんです。
だから皆さん、イエス様を見上げてください。
人を見るなら、イエス様を見上げて、祈り続けてください。
心に引っかかる人がいるでしょうか?
あの人の顔を見るだけで辛い人がいるでしょうか?
あるいは、人と比べて、いろいろパターンがね、現れるんですね。
人と比べて他人を責める、そういうパターンの人もいるんです。
悪口をする、阻止する、抽象する、引きずり下ろす、そういうパターンも、比べて罪がもたらす美しくない結果なんですね。
逆の方向に、自分を責める方向に出てくる人もいるんです。
比べられて、私はダメ、私もあれもできないし、これもできないし、それは謙遜じゃないんですね。
もう自分を責めるわけない。私はつまらない、ダメな人間だ、できないんだ、自分を責めてばかりいく。
両方になってくる。自分を責めるか、相手を責めるか、どっちも美しくない。
神の御心ではない。解決方法は、神の目で自分自身を正しく、
自分の心の中の弱い、脆い、罪深いところを向き合って、それを知ること。
30:03
神様からそういう風に示されて、逃げたいんですよ。
私も入院している時に、そういう風に神様に示されて、つらかった、認めたくなかった。
もう祈ることをやめて、聖書を読むことをやめようとした。しかし、できなかった。
避けるんじゃない、逃げるんじゃない。
神と面と向かって、自分自身を正しく知ること、見ること。
そして、こんな私のために、主は私をたっ飛んでくださるんだ、と。
その神の愛に使って生きること。
3番目は実際に、その人を私が抱きしめて、受け入れて、愛することができるまで、
本当にね、イエス様は十字架で、全ての人を許してくださったじゃないですか。
そういう愛が、私の内側に満ちるまで、祈り続けて。
そうすると、主は必ず、私たちを平和の関係に。
何より神様は、私たちが、それが人間関係であろうが、何であろうが、
苦しんで苦しんで病んで生きることを、主は望んでおられないんですよね。
癒やしたいんですよ。
回復したいんですよ。自由を与え、平和を与えたいんです。
それが神の見心である。
そして、主は私たちを変えることができる方ですし、変えてくださる方なんです。
このことを覚えて、皆さん。
主の愛と、主の目によって、この我々に与えられている身近な人生をね、
主の愛を表し、
主の力によって、喜びのうちに歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りします。
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