1. 名谷教会 podcast
  2. 2020/02/16:わたしたちが信じ..
2020-02-16 43:21

2020/02/16:わたしたちが信じて、告白すること(1)信仰告白とは

2020/02/16 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 -19

00:01
みなさん、おはようございまーす。
おはようございまーす。
雨の日ですか、よく屋外にゆっくりいらっしゃいました。
2月、3月、4月は、学校の卒業があったり、入学があったりするんですけれども、
教会的にも、昨日は、西園さんが高校卒業して、
また3月は、うちの登場が大学卒業したり、
4月は、さえちゃんが中学校に入学したりするお祝いのことが続きますけれども、
また、それぞれ若い世代が、主にあって、生徒して、
また、信仰も身体もつくつくと成長するように、
みなさん、応援、また、祈りをよろしくお願いいたします。
では、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。
では、ひとつお祈りします。
心を合わせてお祈りください。
シモン・ペテロが答えて言った、
あなたは生ける神の巫女、キリシオです。
アーメン、シオン。
私も、シモン・ペテロの同じ信仰を告白して、
ここに集って、シオンを礼拝しています。
だから、神様ご自身が私たちに、
私たちが何を信じて告白しているのか、
そこを改めて見事ばかり学び、
不道の信仰を持って、
イエス・キリストを見上げて、
愛のものとさせて、
信者の方々、あるいは救助の方々、
さまざまな状況にいるわけですが、
どうか主が帰り見て下さり、
その心の中に、霊の中に、
聖霊様がお語り下さいましょう。
奇跡を、あるいは悟りを、
どうか主を知る信仰へと、
どうか聖霊様が導いて、
教えて下さいましょう。
お願いいたします。
感謝して、
イエス様の皆によって、
お祈りいたします。
アーメン。
アーメン、感謝します。
先週でですね、
21回のシリーズ、
説教が終わりまして、
その前から、その次のことをね、
03:00
考えて、祈って、悩んでいたところ、
すぐ明日、
イエス様が来られるかどうかは、
わかりませんけれども、
今の世の終わりのさまざまなこと、
またイサンやカルト、
あるいは、
政党的なキリスト教ではない、
ルイチキリスト教みたいなね、
そういう教えが、
世の中に回っていたりすること、
あるいは信仰を持っていても、
信仰がないわけではないですが、
何を信じているんだろうかと、
あるいは悩んだりする我々、
その中でですね、
今日から何回にわたるかは、
まだ決まっていないんですが、
私たちが信じて告白することが、
大きなタイトルでして、
主に、
日本エスピリスト教団の
信仰告白を土台にして、
私たちが信じて告白することを、
学んでいきたいと思います。
既にですね、
5年前だと思いますが、
基礎信仰のチリで説教させていただくことがあるんですね。
だいぶ前ですし、
またそのあたりで、
キリスト教のエッセンスといって、
また教理のメッセージも、
それもチリでさせていただきましたが、
この私たちが何を信じて、
また何を告白しているのか、
その土台がどこから来て、
どういうふうにしているのか、
そのことを学んでいきたいと思います。
今日はその序論的な学びでして、
こういう基礎信仰とか、
あるいは大昔の様々な信仰、
あるいは他のところでは神経といいますが、
そういう心がどういうふうにして、
なぜそれが形成されてできたのか、
今日はその序論的な話をしていきたいと思います。
それで今日は、
信仰、告白とはどういう土台になります。
さっきも言いましたように、
20年、30年、50年前と違って、
今はもちろんいろんな異端の、
教会への攻撃も、
昔もありましたが、
今の時代もとても激しく、
彼らも働いている。
実は1ヶ月前で、
教会に表紙がきれいな本を郵便で送られたんですよ。
それで何だろうと言ったら、
06:00
創価学会が作った、
教祖といいますか、
彼が作った本が、
教会に送られたんですよ。
たぶん全国の日本の教会に送られたのではないかと思って、
それは私は読んだわけではないんですけれども、
ネットで調べたら、
なんと日本では2018年から2019年のベストセラーになって、
その他にも時々、
異端的な、ちょっと変なキリスト教ではないような本が、
年に結構来ているんですよ。
それほど異端は、
教会を本当にひどく激しく、
攻めて攻めて来ていて、
教会のキリスト教を、
また皆さんもね、
教会から神の名も引っ張り出そうとして、
強く激しく働いている状態なんです。
また他にもですね、
その本だけではなく、
教会に不満を持っている人、
あるいは、
いや何か福祉は正直に教えてくれないなと、
そう思っている人々が、
引っ張り出されるような、
ラジオなりに、
YouTubeなりに、
ネットなりに、
そういう教えで人々を集めて、
また何かの団体を作る。
そして、
既成の教会を責める。
それがまた、
カルトカになる場合もある。
まあ今はね、
仲間の横を見ているYouTubeに、
いろんなね、
あの教え、
あるいは、
もう本当に何が本当なのか、
よく自分が信じていることを、
土台をはっきりと分かっていないと、
えーそうかも、
あーそうなんだ、
えーそうなんだ、
そういううちにですね、
自分が何を信じているか、
分からなくなってしまうことも、
結構あるんです。
それが、
土台をね、
離れてしまう。
こういう、
本当に、
もう洪水のような誘惑、
潜伏したキリスト教の、
キリスト教でもないんですけど、
そういう教えに、
振り回されないために、
正しい信仰を持つために、
そしてこの正しい信仰をね、
次の世代に、
それを継承するために、
この学びを、
シリーズメッセージを、
させていただくことになりました。
また、
それだけではなく、
願っていることではないですが、
世界がですね、
どんどんどんどん、
教会が、
難しくなってきているんですね。
アメリカもそうですし、
09:00
日本も既に、
キリスト教はね、
もう、
下がっている状況になっています。
近くの韓国もですね、
大型の教会は、
それほど進んでいますが、
小さな教会が、
どんどんどんどん、
難しくなっている。
日本の教会も、
高齢化が進んでいて、
もしも、
願っているわけではありませんが、
もしも、
僕しかいない教会になるならば、
神との伝道者、
神との説教者がですね、
称えられなければならない事態が、
来るかもしれない。
まあ、来てほしくないですけどね。
そういう事態が来る前に、
みなさんが、
ちゃんと自分たちが何を信じているのか、
その訓練のためにもね、
昔もそうでしたけれども、
そのためにも、
このシリーズを、
させていただきたいと、
願っております。
ここで、
このシリーズの中で、
最も大事な質問が一つあります。
それは、
私たちは何を信じるか、
私は何を信じるか、
という事です。
みなさんは何を信じていますか?
みなさんの身近なご親の方々が、
あるいは家族の方々が、
あなたは許可日で何を信じているの?
さあ、力だとしましょう。
10分、20分、30分、1時間、2時間、3時間、
話できそうですか?
あるいは、
そうですね、何を信じているんですかね、
よく分かりませんね、でしょうか。
あるいは、
それは神様だよ、
そうしたら神様は、
その後は続かないでしょうか。
私たちが何を信じているか、
これをきっちり言っておかないといけないです。
今日はですね、
この歴史の中で、
人信条、またその後の続く信条、
そして教団の信仰告白が、
どういうような背景で作られたのか、
それがなぜ作られたのか、
その目的は何なのか、
お話をしていきたいと思います。
この信仰告白は、
宗教聖書に現れていないわけではありませんが、
宗教まで行くと、
あまり時間がかかるので、
早くしぼってお話ししていきましょう。
家様の時代になり、
家様の弟子、
フェテロとかヨハネイトとか、
弟子たちが住民にいたわけです。
そして家様は、
県に引き上げられるわけですけれども、
その家様の3年の働きの中で、
今日一緒に読んだ、
このマサイの福音書で、
12:02
ある日、家様が弟子たちに、
住民の弟子たちに、
お聞きになりました。
今日の15節をご覧ください。
イエスは彼らに言われた、
あなた方は私を誰だと言いますか?
つまり、これは言い換えると、
あなた方は私を誰だと信じますか?
という問いなんです。
とても大事なシステムだったんですね。
そしたら、その時にフェテロが、
こう答えました。
あなたは生きる神の巫女キリストです。
あなたは生きる神の巫女キリストです。
キリスト教歴史の中で、
とても素晴らしい、
短いですけれども、
ここにフェテロの、
また他の弟子たちの、
同じ告白だったと思いますが、
素晴らしい告白が、
ここに言われたわけなんです。
でもどうですか?
時は流れていくわけなんです。
イエス様も地上で、
天に仕上げられて、
いらっしゃらなくなった。
フェテロたちも、あるいはマルコも、
マタイも、年を取って、
80、90、その前に準拠して、
弟子たちも亡くなるわけなんです。
それまで流れてきたのは、
ヨハネなんだけれども、
ヨハネも80代まで、
生き延びてはいました。
でもそのうちは、
弟子たちが生きているうちは、
イエス様のお話を、
直接聞いた証人たち、
イエス様がなされたことを、
自分の目で見た、
目撃者がいたわけなんですよね。
フェテロとか、あるいはヨハネとかね。
だから彼らから、
イエス様のお話を、
イエス様がなされたことを、
よく聞けるわけなんですよ。
証人が、目撃者たちが、
生きているからですね。
例えば、50年前でしょうか、
明太に教会がね、
西武教会からどういうふうに開拓されたのか、
その時の精神はどんなものだったのか、
その開拓のために、
どれだけ多くの方々の、
労苦や奉仕や、
祈りが捧げられたのか、
さらにまだ、
まだというか、
目撃者たちがみなさん、
ここにいらっしゃるんじゃないですか。
だから十分にリアルにね、
それを聞けるわけなんですよ。
でも、しきれいな話ですが、
30年後だったら、
ほとんどの証人の方々は、
たぶんいらっしゃらないと思うんですね。
もちろん長い時期って、
過去20代までね、
おられる方もおられるかもしれません。
そうすると、
どんどんどんどん、
明大具体の、
15:00
あの時の、
どんなふうにして開拓したんだっけ、
みたいなね、
精神が、スピリットが、
受け継ぐのが難しくなることも、
あり得ることなんです。
弟子たちの時も、
同じなんです。
弟子たちは、
どんどん一人ずつ、
殉居してなくなる。
弟子の弟子たちが、
起こされる。
そのうちに、
教会はものすごくね、
大勢に、
あちらこちら、
教会が建てられました。
今のトルコの、
ペソに、
テサロに、
ケニーに、
コリントニーに、
ローマに、
イスラエに、
エルサレムに、
シリアに、
教会がたくさん建てられて、
そして、
弟子の、
セテロの弟子の弟子の弟子、
みたいにね、
どんどんどんどん、
彼らが教えていく中で、
またそこには、
大昔から、
異談のものが、
また同時に、
起きていたわけなんです。
ここで、
信仰を持っている、
弟子たち、
あるいはその、
弟子の弟子の弟子の弟子の、
彼らから、
大事なこの、
危機感を、
感じたわけなんです。
まず一つは、
異談の攻撃が、
激しかったわけです。
例えば、
私たちがね、
礼拝に復活している人、
信条がね、
形成されるには、
時間が長くかかったんですけど、
そのうちに、
特に、
イエス様は、
身体を持って、
生まれたことはないと、
人として生まれたことを、
認めない異談が、
起きていたわけなんです。
そのために、
彼らと戦わなくならないんです。
まあ、
何とか、
打ち掛け、
礼拝したら、
教会を守れるんじゃないんです。
昔から、
異談は激しく、
教会を攻撃する、
そして、
教会の中に、
忍び込んで入ってきて、
ネズミがかじるように、
教会の神道の真骨を、
かじって、
かじって、
そして、
落として、
捨てまうことが、
2000年前から、
あったわけです。
その異談との戦いから、
教会を守るために、
私たちが何を信じているかを、
分にして、
報しましょう、
ということになったわけですね。
今の世の中は、
2000年前だから、
もう、
分にするしかないんです。
文字にするしかない。
また、あるいは、
ヨハネの手紙、
第一、第二、三を書くときには、
ギリシャ、ローマの、
二元論ということが、
キリスト教と混ざって、
この精神的、
霊的なものは、
全てあって、
目に見える世界は、
全て悪だという、
18:00
善悪論みたいな、
二文論みたいなものが、
教会の中に入って、
そして、
皆さんがもう、
何が何なのか、
分からなくなってしまったわけです。
そのために、
異談と戦うために、
信条が、
信仰、
告白がつく。
また同時に、
時代は変わるんですよね。
今の話は、
ペテロも、
ヨムキョしてなくなる。
ヨハネも、
ヨムキョしてなくなる。
その弟子も、
またヨムキョしてなくなる。
そうすると、
教会に、
新しい人々が、
今のようにですね、
神様を信じて、
イエス様を信じるんだけれども、
信仰、告白をして、
はっきりと、
土台をつくらなくならないんですね。
そのために、
私たちが何を信じているのか、
それを、
くくりつけ、
そして、
次の世代を育てるために、
養うために、
そして、
この正しい信仰が、
ぽつで消えることがないために、
継承して、
百年も、
一千年も、
三千年も、
ずっと、
イエス様の日まで続くために、
その、
信仰、告白をくくりつけていった。
だから、
信仰、告白は、
まとめますと、
こういう話になります。
信仰、告白は、
神様に向かって、
心からの信仰と喜びをもって、
自分から告白するものであって、
その結果として、
私たちは、
救いに預かることができる。
そして、これは当然、
この世に向かって、
自分の信仰を公に告白することでもあります。
だから、皆さん、
人賃料とか、
教団の信仰、告白とか、
様々な世界に、
教団、教派に、
いろんなね、
種の告白がありますが、
それは大事な、
二つの方向に向かって、
告白するわけですね。
一つは、
神様に向かって、
主よ、
私は、
あなたを信じます。
あなたが作り主であることを信じます。
イエス様が神の子であることを信じます。
聖霊様を信じます。
イエス様復活を信じます。
というように、
神様に向かって、
自分のはっきりした心からの信仰を、
表明することであります。
もう一つの方向があります。
それはどこにですか。
この世に向かってなんです。
この世に向かって、
もちろんね、
種の告白は、
教会の中で、
礼拝の中でしていますが、
でも、
告白だけではなく、
礼拝の中でだけではなく、
日頃、
私たちは、
この世に向かって、
私は神様を信じている。
キリストが、
吸い抜いてあることを信じています。
人は信じて、
救われること、
21:00
信じないと、
さばかれることを信じますと、
公に信仰を証明するのが、
信仰の道であります。
どうですか。
皆さん、
皆さん、
おうちで、
皆さんの知り合いに、
友達に、
皆さん自分自身の信仰を、
表明しているんでしょうか。
表わっているんでしょうか。
あるいは、
教会をしているんでしょうか。
積極的に進んで、
伝導しているんでしょうか。
皆さん、
どこかに行っている、
クラブや、
あるいは趣味団体や、
皆さんの周りの人々、
同所会の人々が、
皆さんが作りたいであることを、
知っていますか。
教会は、
また、
遺産と戦うため、
また、
信仰を、
正しい信仰、
あ、
信道を、
正しい信仰に導いて、
また、
生徒を訓練するために、
信仰の土台となる、
聖書の教えを、
ね、
まあね、
これ、
分厚くて長いですから、
簡潔に、
ようやくして、
また、
ね、
生産式とか、
洗練式とかにも、
用いられるように、
分にいって、
これらが、
歴史に残っている、
様々な貴重な、
信条や、
信仰、
告白になったわけです。
ですから、
皆さん、
私たちが今、
使徒信条を告白しています。
あるいは、
教徒信条を告白していますが、
皆さん、
これは、
キリスト教の2000年の歴史の中に、
誰かは、
誰かが、
異端と戦ってくださった。
誰かが、
教会とその信仰を守るために、
血を流して、
戦って、
涙の祈りを捧げて、
この信仰のために、
命をかけた。
そして、
守ってくれたから、
今の、
使徒信条があり、
様々な、
信仰、
告白が、
我々に、
受け継がれているわけです。
ですから、
皆さん、
私たちが告白している、
使徒信条、
教団の信仰、
告白、
他教団、
他教会のことも、
一緒、
同じですけれども、
その、
信仰の先輩たちの、
涙と、
祈りと、
血を流すほどの戦いがあったこと、
その歴史があったから、
今があるということを、
覚えております。
そして、
その中でも、
もう絶対に、
聖徒的、
聖徒信仰から、
譲らない、
妥協しない、
今後しないように、
妥協しないで、
もう決して、
妥協しないために、
24:01
また、
神に向かって、
この世に向かって、
この世に向かって、
大胆に、
信仰を告白した、
先人たちがいたから、
今の、
私たちの信仰がある、
ということです。
これは大事なことです。
なぜでしょうか。
この信仰は、
私たちの世代で、
途切れて、
終わってはいけないのです。
明太の教会の信仰も、
教団の信仰も、
いや、
こうやって、
キリスト教の信仰が、
私たちの世代で、
途切れて、
終わりを告げてはいけない。
それを狭く見るならば、
明太に教会、
この教会の、
未来にも、
かかっていることで、
そして、
確かな信仰を、
次の世代に、
教えて、
受け付かせて、
それを続けて、
やってもらわないと、
いけないのです。
今は、
いろんな遺体や、
キリスト教でもないような、
宗教団体の攻撃が、
とても激しいのです。
気づいていないから、
穏やかであるわけではないのです。
それは、
ただ私たちは、
気づいていないだけなんです。
世の中では、
他の国々では、
その信仰を守るために、
命を懸けなければならない国も、
たくさんあります。
あるところでは、
教会が、
もう遺憾に、
他の宗教に飲み込まれて、
教会がなくなることも、
あるいは、
信仰の提供ができなくても、
教会を閉鎖することも、
よくあります。
私の後輩が、
私と同じく、
資本の教会から派遣されて、
下の席にある、
ある団体は言いませんが、
ある団体の教会に、
赴任されて、
2年目になっているのです。
彼の前の先生が、
開拓された教会なのですが、
歴史は、
60年か50年になっているのですが、
この先生は、
ほぼ90代になっておられて、
アリス・ハイマーも、
少し働いていました。
教会は、
70から80の方が、
27:01
10人ほど集まっている教会です。
それは教会が悪いという話ではないのです。
それで彼は、
私より7、8歳、
若いのですが、
何とかして、
神の教会が、
国家からリバイバルが起こるように、
若い人が救われるように、
必死に働いて、
去年、あるいは昨年、
高校生が1人、
心霊を受けたり、
また、
お地呑みさんみたいに、
若いお母さんが来たりして、
何とか教会を、
本当にこの地上から、
神の教会がなくならないように、
必死に、
彼らはもがいている中で、
ある日、
先生と話をしていたら、
その先生が、
教会がなくなって、
全部手に召されたら、
それで教会を通せたらいいんじゃないか、
みたいな話を聞いて、
彼は、
悲しかったと話して、
私としたことがあるのです。
皆さん、
そのためにまずは、
人を増やそう。
それは神様の働きであり、
大事なのは、
私たちが何を信じているか、
この信仰を、
確かに知って、
そしてそれを教えて、
いかなければならない。
そういうふうにして、
守られて、
教会があり、
我々の信仰がある、
ということであります。
これですね、
ちょっと、
見ていきましょう。
神助というものね、
神父国家族が、
どういうふうに形成されたのか、
ちょっとその、
半端な歴史ですけどね、
こんなふうに大体ですよ。
だから、
人神助は2世紀、3世紀から、
いきなりある日、
パンとこれが作られたわけではないんですね。
もう寝て寝て、
作って、
教義をして、
エルサレム講義のように、
その会議を持って、
作られて作られて、
今の人神助の形ができたのは、
2世紀、3世紀を経て、
400年頃に、
ほぼ、
今と同じ人神助が
作られた。
その後にね、
その間にですね、
ニカイヤ神助というものが、
キリスト教の中では、
とても大事な神助でありまして、
人神助とほぼ同じなんだけれども、
それが、
381年頃、
作られています。
その後で、
またそれと同じく、
カルテボンという神助があります。
だいぶ時代が変わって、
1000年経ってですね、
ルターあるんですよね、
皆さん。
ルターのアブスブルクで
30:01
神獲得したものが、
1530年頃ありました。
そしてその後は、
ヨーロッパは普通に、
長老派が王政でしているんですし、
彼らは神公、
これをとても緻密に
作られたから、
長老派の神獲得学が、
多くあるわけなんですけれども、
ハイデル・ベルクとか、
ウェスト・ミンスター神公とかが
ありました。
ウェスレの神助も、
1784年にあって、
日本ユスキリスト教団の神公は、
教団創立の
1951年でしょうかね、
神父のシステムの
そこに書かれていましたが、
そういうふうにいって、
多くのクリエイチャンの
神獲得学の遺産があって、
それが受け継がれて、
その中で、
今の我々の
人信条と
教団の神獲得学が
作られた。
素晴らしい2000年のキリスト教の
先人たちの祈りと、
殉教と、涙と、
それを分離するために、
どれだけ多くのね、
悲しみや祈りがそこに
なされたのでしょうか。
それで、我々の神獲得学が
できたということであります。
さあ、ここでですね、
今の人信条と、
また教団の神獲得学を
理解するために、
このニカイア
コンスタンティノポリス
信条の話をちょっとしたいと思います。
これもね、
308年頃、
あの時に、
混乱した異端が
たくさんありまして、
そこで、こういったね、
信条が作られました。
じゃあ、これ私は読んでみますね。
今もね、
あの時は
381年だから、
プロセスタントが
作られる前なんですよね。
今もカトリックでは、
これをね、こっからこっしかりは
するみたいですけれどもね。
こういうふうにね、
私は唯一の神、天皇の父、
天と人、見えるものと見えないものを、
すべての作りの神を信じます。
私は唯一の神の一人を
イエスキリストを信じます。
主はすべての国に
先立って主より生まれ、
光より光、誠の神よりの誠の神、
作られずに生まれ、
父と同室であり、
すべてのものは、
この方によって作られました。
主は私たち人間のため、
また私たちの救いのために、
天より生まれ、
聖霊によって乙女の前より
肉体を掘って、
そこに肉体を掘ってという文を
強調して入れたわけなんですね。
人となり私たちのために、
ポンテオキロトの下で
十字架につけられ、苦しみを受け、
葬られ、聖書に従って
肉体によみがえり、
天に登られました。
そして天皇の父の身に出し、
生きているものと死んだものとを
裁くために栄光をもって
33:01
再び来られます。
その肉には終わることがありません。
私たちは死であり、命を与える
聖霊を信じます。
聖霊は父族から出て、
父族とともに礼拝され、
あだめられ、無限者を通して
語って来られました。
私たちは唯一の聖なる行動の
基礎的教会を信じます。
私たちは死人の
よみがえりと
来るべき世の命を
待ち望みます。
信仰とはほぼ同じではないでしょうか。
よく似ているでしょうか。
こういった信仰の告白、
依然との戦い、
次の世代へ信仰を
継承していこうと、
それでも必死に
この神信仰を守ろうと、
それで、
ああいうようなミカイヤ信条、
カルケドン信条、
他の信条が作られて、
戦って、
それで、
この歴史の中に、
日本エスキリスト教団は、
斉藤先生も、
中川先生も
おられるわけですが、
1951年、
教団結成にあたって、
バクトン先生から
受け継がれた、
聖徒的信仰、
当時の先生方々が、
本当に結構な時間が
かかるかと思うんですね。
祈って、祈って、
そして、何より、
聖書にかなったものという、
信仰を確立して、
指導されて、
今の教団の
信仰学があるわけです。
もう一度申しますが、
信仰は、
リンゴの木の下で口を開けて、
いつかリンゴが
落ちてくるだろう、
食べようとして、
ぼーっとしていて、
教会が守られるわけでは
ないです。
あるいは、
私だけでいいや、みたいに、
あるいは、
こんなことがしたいんだけれども、
そういう
趣味の団体でも、
ないわけです。
悪魔異端との戦いがある。
信仰を守るためには、
ここには必死に、
命を捨てた、捧げた、
人々が、
いるようなものが、
たくさんいます。
最も大事な、
神髄のような、
信仰を守ろうとした、
その一人、二人、何人かがいて、
今の我々の
信仰があるわけです。
そうするならば、
私たちは、
この信仰、この告白を、
次の世界、
それを継承して、
いかなければならない、
36:01
というのが、我々にあるわけです。
この世に向かって、
神に向かって、大胆に、
信仰を告白する人々を、
養わなければならない。
それは私たちは、
毎週、毎日、
毎日、毎日、これを考えて、
祈って、働いて、
教会生活を、
しなくてはならないのではないでしょう。
いかがですか、私たちは、
この信仰を継承する、
受け継がせる、
準備ができているのでしょうか。
日本谷教会の、
10年後、20年後、
30年後の準備ができているのでしょうか。
あるいは、
今、私はこれを楽しみたい。
それでいいや、と思っては。
あるいは、10年後、
20年後の、私たちの信仰の
後輩たちが、
我々の今の信仰を見て、
ああ、素晴らしい、
麗しい、本当に、
神のために命懸けて、
信仰を守ってきて、
これを教えてくれた先輩たちがいたと、
そういうような、
評価を受ける、
私たち、
一人ひとりで、
こうしないと、
教会は、クリスタンは、
集まったら、
あの昔はね、こんなことよかったね、
それも悪くはないですし、
罪ではありませんが、
昔話ばかりしていて、
自己満足の教会、
自己満足のイベントをする教会、
自己理由の教会、
自己慰めの教会、
自分の好みの、
イベントをする教会、
になってしまいます。
すでにこういう風にして、
ヨーロッパ、欧米の教会、
そういう風になってしまっているんじゃないでしょうか。
その結果が、
キリスト教2000年の歴史の中で、
もう明らかに、
彼らがね、
それを、証拠を見せて、
見せているんです。
そういう自己理由の教会、
自己満足の教会の
欧米の教会は、
もう全部ではないですが、
閉じています。
教会はなくなっています。
信仰すらなくなっています。
あのローマの、
あるいはあのね、ウェスレがあったり、
あのイギリス、
あるいはオランダとかね、
あるいはスイスとかですね、
もうフランスとかですね、
カルバンガ、あるいはツリングリが、
いろんなですね、ゾンモスとかね、
素晴らしいね、
1600、700、800の素晴らしい、
信者たちがいた、
もう受け継がせたわけなんだけれども、
ね、1900年代、
2000年代に入って、
みんな、もう楽しみさやかに、
教会に行って、あ、こんなイベントしてほしい、
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あんなことがしたい、
自分を慰めてほしい、
もうね、自分がしたいことをして、
もう楽しみの教会になり、
そしたらそこに、
命は無くなる、
力は無くなる、
信仰は無くなる、
もう教会は平和になる。
じゃあ、欧米がね、そうなっている。
三方で教会、私たちは、
両端に教会を、
10年後、20年後、
30年後、
私たちのみなさん、
本当に真剣に祈っていらっしゃると思いますけれども、
この信仰を正しく受け、
その道を私たちは、
歩まなければならない。
そして何より、
私たちは、
いろんなことが、
できるわけではないのです。
できることは、
かけられている。
健康もそうでしょう、
お金もそうでしょう、
体力もそうなる、
人数的にもそうなる。
そうしたならば、
本当に大事な部分だけ残して、
他は、
もう、
枝を切るように、
切って、切って、切って、
本当に教会の命のために、
教会の未来のために、
何をすべきか、
それだけ、
掴んで、
それをしなければならない。
でも、それが、
福音伝道だったり、
宣教だったり、
信仰の継承だったり、
教会に若い世代が
起こされるように、
働くことではないでしょうか。
それをするにも、
私たちは、
時間が足りません。
体力が足りません。
財政が足りません。
だから、最も大事なことは、
一つ、二つ、
そのために私たちは、
吸収して、力を絞って、
合わせて、
行かなければならない。
そこに、教会の未来が
架かっているのではないでしょうか。
メッセージを送りたいと思います。
二つ、信仰告白は、
一つ、
生きてきた信仰をもたらします。
二つ目、
信仰を継承します。
三つ目、信仰を守るために、
大事なことであります。
しかし最後に、これだけ
お話をしたいと思います。
どの信仰告白であっても、
信徒であっても、
聖書の基因より上に
立つものはありません。
常に、
聖書にしかかうもの、
従属するものであります。
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絶対的なものは、
聖書だけなんです。
信仰告白というものは、
ある意味で不完全なものであって、
その時代によって
作られたものであります。
たぶん、おそらく、5年後、10年後、
教団の信仰告白も、
変わるような、
今、作業していらっしゃるみたいなんですけど、
変わると思うんです。
そういうふうに変わるんです。
50年の前は、
こういう先生方が集まっていたから、
ここを共通して、
こういう文を入れましょう。
それが変わるわけなんです。
またその後、変わるかもしれません。
だから、そういう意味でいうと、
いろんな教団、教派が、
日本に世界にいるわけ、あるわけなんですよね。
そうすると、私たちは、
それぞれが強調する部分が違うだけなんだから、
もう完全に極端的にね、
異談でなければね、
私たちは、
多教団、多教派の
教理であろうが、教えであろうが、
信仰告白であろうが、
それを大らかに認めて、受け入れて、
キリストの体を
共に立て上げて
いかなければ、
そして私たちが何をすべきか、
そこから始まります。
また来週に会いましょう。
さようなら。
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