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ご着席ください。聖書朗読を盛り分けをやりにしていただきます。
聖書の箇所は、人の働き1章、14章の8節から12節まで、新約聖書の256ページです。
聖書の箇所は、人の働き1章、14章の8節から12節まで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで、新約聖書の256ページまで
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新約聖書の256ページまで、
03:04
すくい虫の形をくらえ、
敵を打ち破り、よぎり立ちて、
命のスパルを、世界に示せる、
痛みの光を、知らずに生きえず、
知らずは、蹴りに消えず、
不死に躊躇い、目を見ずして、
炎の猿とも、などを縛らう、
穴をはずさえて、神の前にいて、
猛虎とも喜ぶ、
ハリエマジカシ、
ハリエベリマジカシ。
皆さん、おはようございます。
一週間ぶりにお会いする方もいますし、
毎日のようにお顔を見せてくださる方もいて、
幸いであります。
今日は、こうしてまた、
時と場所を一つにして、
この場で礼拝を捧げる特権を感謝いたします。
今日もまた、御言葉をいただきます。
お祈りをして、
今日の御言葉を開かせていただきます。
罪をことごと許す神は、
我を仰げとのたも。
天の神様、
今日こうして私たちを、
この御堂へと導いてくださり、
ありがとうございます。
安息日の主であられるお方が、
06:02
今ここにともにいてくださることを覚えて、
皆を崇めます。
この誠実の主であり、
また私たちと伴って、
今日まで歩んでくださった主を、
心からありがとうございます。
何よりも私たちの罪を許すために、
御子をお送りくださり、
その御子が十字架にかかって、
死んで私たちを生きるものとしてくださったことを覚えて、
皆を崇めます。
日ごと私たちはそれを忘れがちですが、
こうして日曜ごとに、
あなたを覚え、
また御子の贖いを感謝して、
そしてまた御霊を注いで送り出す主を感謝いたします。
どうぞ今日も御言葉を通して、
あなたの御胸を教えてください。
鈍き愚かな者でありますから、
どうぞ精霊が私たち一人一人に働いてくださって、
この御言葉に託されたあなたの奥義と、
そしてまたメッセージを十分に汲み取ることができるように、
どうぞ悟してくださいますようお願いいたします。
今日もこうしてあなたの御前にあります、
お一人お一人を今御手の中に育み、
そして御言葉で養っていてくださいますようにお願いをいたします。
今日もいろんな事情のゆえに、
また弱さを覚えてここに来れない兄弟姉妹方も覚えますが、
どうぞ主が行き巡ってくださって、
その場で主との交わりの時、賛美と礼拝を捧げ、
祈りをもって主との交わりを得させてくださいますように、
どうぞこれから歩む一周の上にも、
どうぞあなたがこれまでと変わらず、
私たちの主でいてくださることをありがとうございます。
子供たちの上にもあなたの豊かな守りと祝福がありますように、
こうしてあなたの御前に集うこの特権を心から感謝し、
また御言葉をいただきますこの特権を感謝をいたします。
取り継ぐ者、乏しい者でありますから、主が最後までお支えくださいますよう、
御言葉が私たちの内に宿ることができるように、
どうぞ御霊が導いてください。
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は使徒の働きの十四章を開いていただきました。
その数節を読んでいただきました。
使徒行伝、これは別名、精霊行伝と言われますように、
精霊なる神が人に働いて、特にこの場合、
イエス様の弟子たちに働いて、そして神様が業をなされた。
そういうことで、決して使徒が何か、使徒たちが立派な働きをしたというよりも、
09:05
神様が使徒を用いて業をなさったということ。
ですから精霊行伝というわけです。
その精霊が、今日のこの二十一世紀にも変わらず働いていてくださり、
教会に、そしてそこに集うクリスチャンたちに技をなすわけであります。
そのことを私たちは覚えて、今日のこの十四章を見ていきたいと思っております。
まず一つ目に、一節から七節のところでありますが、
お読みいたします。
イコニオムでも二人は連れ立ってユダヤ人の街道に入り話をすると、
ユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が信仰に入った。
しかし信じようとしないユダヤ人たちは、
違法人たちをそそのかして、兄弟たちに対し悪意を抱かせた。
それでも二人は長らく滞在し、主によって大胆に語った。
主は彼らの手に印と不思議な技を行わせ、みめぐみの言葉の証明をされた。
ところが街の人々は二派に分かれ、あるものはユダヤ人の側につき、あるものは使徒たちの側についた。
違法人とユダヤ人が彼らの指導者たちと一緒になって、使徒たちを恥ずかしめて石打ちにしようと企てた時、
二人はそれを知って、ルカオニアの街であるルステラトデルベ及びその付近の地方に難を避け、
そこで福音の宣教を続けた。
私たちがこの歌詞を読んでおりますときに、一つはイコニオムというところで起こった出来事であるということがわかります。
そしてこのイコニオムというのは、この神の国運動がパレスチナのあたりで起こされて、
そして少しずつそこにできた教会が、神を信じる人たちの群れが少しずつその群れを増やしていった。
いろんな地方に群れが一つ二つ三つとできてきたわけですね。
さらにそれが広がって、今やそこから東アジアの方ですが、今のトルコのあのあたりまで来たという、そういう状況であります。
至ってはそれがローマに、そしてヨーロッパに、そして全世界にこの教会が建てられている。
それが今日のこの二十一世紀であります。
さかのぼること約二千年前のその状況でありますが、
そこにはこの今のトルコにあたるその東アジアのあのあたりですね。そこの世界にいわば二つの人種と言っていいのでしょうか。
12:06
二つのそのグループがあったということがわかります。
一つは神の民と言われるイスラエル、主にユダヤ人ですが、彼らは自分たちは神から選ばれた先民であるという、そういう人たちですね。
それと自分たちと違う異郷の人たち、違法人とも言いますが、イスラエルの民と違法人という、そういう二つの種類ができてきたわけですね。
神様はこのイスラエルの民に御言葉を述べ伝え、そして神の子として、そしてその祝福が全人類に及ぶように、そういうふうに計画なさっていたわけです。
ところがイスラエルの民はカタクナになり、そして神様から離れていくような、そういう魂になっておったわけですね。
ですから神様はいずれは全世界にその祝福と復印が述べ伝えられるという、その御計画は変わらないんですけれども、こちらの違法人の方に、それじゃあその復印と御言葉を述べ伝えよう、そういうふうに少し方向転換をなさったわけですね。
それに従って使徒たちは今や東アジアの、そして違法人の方にこの復印の選挙がなされていたという、そのことがこの使徒の働き、使徒行伝で書かれてあるわけです。
使徒たちがその違法人に御言葉を伝え、そして復印を伝えていきました。
そうするとその違法人の中にまた二つの種類に分かれていくんです。
一つは一節にありました。
彼らが話をすると、復印、神の御言葉を語ると、ユダヤ人もギリシャ人も大勢の人々が信仰に入った。
違法人の中にも信仰に入って信仰を持つ人たちというそのグループと、そしてもう一つは二節、信じようとしない主にユダヤ人たち、信じようとしないユダヤ人たち。
ここに二つのまたグループができているということであります。
そしてその二つが分かれてしまい、四節、町の人々は二派に分かれて、あるものはユダヤ人の側につき、これは信じようとしない側の人たち。
あるものは使徒たちの側、これは神の言葉を信じる側の人たちとに分かれたということですね。
考えてみますときに、この神の言葉が語られるところに、それじゃ分裂ができるのかということですね。
15:06
神の言葉さえなければ、彼らは一つの、いわば群れであったり一つの種類の人たちであった。
そこに神の言葉、福音が入ってくることによって、こちらの側、あちらの側というふうに分かれてしまう。
そうすることによって私たちが疑問に思うのは、神の言葉というのは人々を分裂させるのか。そうではありません。
神様は、あるいは神の言葉は、分裂をもたらすようなものではありません。
私たちは、コリントビテの手紙の中に、こういう言葉を知っております。
十字架の言葉は、滅びゆく者には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。
十字架の言葉、神の言葉、福音というものは、人々に対して、滅びか、それとも救いかということを私たちに問いかけてくるわけです。
御言葉は、それを私たちに迫ってくるわけですね。
その中で、それを信じる側と信じない側、そういうふうに分かれてしまう。
神様は決して分裂を望んでいるわけではありません。
神の言葉、それは絶対真理であります。
その真理の光が差し込むときに、それは鋭く、または厳格なものでありますから、
それを受けたときに、迫りを受けたときに、それを受けて信じる者と信じない者、御言葉はそれを滅びか、それとも救いかということを迫ってくるわけです。
それを認め、そしてそれを受け、そして信じる者は救いに預かる。
それを拒む者は滅びに向かうのだ、そういうふうに言うわけであります。
その中には中間とか中立というものはない。
いや、どちらもいいです。私はでもその中間を行きます。
どちらも私は受け入れません。だから中間を行きますという、そういうものはない。
十字架の言葉は滅びに至る者には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です。
信じるか信じないか、そういうことを迫ってくる、それが神の言葉であります。
例えば私たちがこうして明かり、夜ですよ、夜明かりをつけて暮らしています。
そういうときに停電になります。そして明かりが消えると真っ暗になるわけですね。
そしてしばらくすると復旧してパッと電気がつきます。まるでそのようなことですね。
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明かりが灯されるときは本当に明るい中で私たちは暮らすことができる。
しかし一旦その明かりが閉ざされると闇であります。
そしてそのところにまた光が差し込んでくる。
そのときに停電が復旧したときにじわじわと明るくなっていくということではありません。
もう光が差し込んだときには一瞬にしてパッと明かりが灯され、そのあたりは明かりに満たされるわけですね。
神の御言葉というのはそういうものであります。私たちにその光が差し込んでくるとき。
滅びか救いかという迫りを私たちは受けるわけです。
決して神様は分裂とか分破とかそういうものを望んでおられるわけではありません。
ある家庭に例えばお父さんお母さんあるいは兄弟二人、例えば四人暮らし、みんな仲良くそれこそ幸いに暮らしておった。
そこに神の言葉が入ってきた、福音が入ってきた。
私たちの誰か、例えばお母さんでもあるいはお姉ちゃんでも何かの導きで教会に行くようになった。
あるいは誰かの誘いで教会に行くようになった。
そこで福音に触れた、御言葉に触れた、そしてそれをお家に持って帰る。
そして私はこのお言葉を信じたい。家の人にそのように話します。
そこでみんな四人がそうだな、それは素晴らしい。
私たちみんなでこのお言葉を信じよう。
そういう今までの仲の良かった家族、その家族はさらに仲良く幸いになっていく。
それが神様のお言葉であり、神の御胸であるわけです。
しかしその神の言葉がその家庭に入ってきたときに、もしその中の誰かが、いや私はそれを信じません。
私はそれを拒否します。
そのときにこの異行二音で起こったようなことが、その小さな社会、家庭の中にも起こり得るわけですね。
かたや信じるもの、かたや信じようとしないもの、そういうふうにして分かれてしまう。
そのことに対して家の人たちが心を痛めることがあります。
そういう中で私たちは祈るわけですが、中には今まで仲の良かった4人が、
どうして神様の言葉、福音が入ったばかりに、この世に背を向き合わなければならないのか。
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そしてまた今まで日曜日はいつも家族でショッピングに行ったり、公園に行ったり、遊園地に行ったり、楽しいときを過ごしていたのに、
神の言葉が入ってきたばかりに、誰それと誰それは日曜日の朝教会に行ってしまう。
誰それさんは特にお父さんは家におってつまらないということが起こり得るわけですね。
何を隠そうそれは私の家のことであります。
神の言葉さえ入らなければ私たちは今までのように仲良く、そして日曜日一緒に楽しく暮らせていたのに、
神の言葉を誰かが持ち込んできたばかりに、私たちはバラバラになってしまった。
でも神様の身むねはそうじゃないんです。
もちろんそういうところを通されることもあるかもしれませんが、神様のお心というのはもっともっと深い広いものであります。
ただ家族が仲良く過ごす、そういうことだけではないもっと広いもっと深い、
そういう中からこの家族が本当の幸運を得るように、本当の祝福をいただけるように、
神様はその御言葉をある人を通してその家庭に注がれたわけですね。
導かれてそのお言葉がその家庭に及ぶようになった。
これは本当に祝福であります。
もちろんその受け取り方によってそれを受け入れる、あるいは拒む、そういうことも確かにあるかもしれません。
それはほんの一時のことであります。
しかし祈りと、またお互いの理解と、そして支え合いを通して、
今まで以上にもっともっと豊かな祝福に満ちた、それこそ仲のいい本当の家族としての家族、
本当の家族の幸いは何であるか、祝福は何であるか、そしてそれは一時的なものではない、
永遠に続く幸いと祝福としてその家庭が祝福されていく。
そのことを神様は望んでおられるわけです。
そのことのためにそこに御言葉が入ってきた。
もちろん御言葉がそこで語られない、あるいは御言葉が入ってこない福音がなければ互いもすることはなかった。
しかし何にも起こらないということも確かであります。
何も起こらないということは、そこに光もなければ希望もなければ救いもないということ。
しかし神の言葉がそこに語られ、そこに神が介入してくださるということは、
24:05
そこに望みと祝福とそして幸いと、何よりも魂の救いという、
私たち人間にとってなくてはならないものを神様はそこにもたらそうとしてくださっているわけです。
ですからどんな形にせよ、そこに神のお言葉が入ってきたということは、
これは祝福であります。
ただ私たちの側にまだそれを受け入れきれない何か、それを隠そうとするそういうものがあるとするならば、
それさえ取り除かれれば、その人とその家庭、その社会、その世界は神様の祝福に満たされるわけです。
手も手の第2の手紙の3章の15節から少し読んでいただきます。
神のお言葉ですね。
聖書はあなたに知恵を与えて、キリストイエスに対する信仰による救いを得させることができるのです。
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えといましめと教制と義の訓練とのために有益です。
それは神の人がすべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられたものとなるためです。
私たちは御言葉を感謝し、そしてこの神のお言葉を通して私たちが救いに預かるのだ。
そのためにまず自らがそれを信じて救われ、そして隣人、自分の愛する人たちにそれを伝え、そして社会全体が、世界全体がこの救いに預かっていくということ。
これが神様の本当のお心であります。
決して先ほどの御言葉にありました、私たちはユダヤ人の側だとか、私たちは使徒の側だとか、町の人々が二派に分かれたとか、これは一時的な現象であり、これが神の御胸ではありません。
そのことを知って、さらにこのパウロ、またバルナバはますますそこでその福音の必要性を感じて、そして宣教の働きを続けたと書かれてあるわけです。
彼らはまたイコニウムから、今度はルステラというところに行きました。
そこにある足の不自由な人がいて、その人は歩いたことがなかったということが書かれてありました。
そしてこの人に対してパウロが自分の足でまっすぐに立ちなさいと言ったわけですね。
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そうすると彼はその足が直って歩き出したということ、これはパウロがそのようにしたのではなく、パウロを通してなされた神の技がこの人に及んで、その人は歩くことができるようになった、そういうことであります。
11節からが問題であります。
パウロのしたことを、人々はまだ神様がおられる、神様が生きて働いてこのパウロを通してなさったということがまだわかっていません。
ですからパウロがしたと思っているわけですね、当然。
パウロのしたことを見た群衆は声を張り上げ、ルカオニア語で、神々が人間の姿をとって私たちのところにおくだりになったのだと言った。
神々が人間の姿をとって私たちのところにおくだりになったのだ。
このイコニオム、ルステラ、あるいは今の東アジア、トルコ、やがてギリシャに行きますが、当時はそのギリシャ文明がその地を追っておったわけですね。
当然、当時このギリシャ神話と言われるように神々がたくさんいたということ。
これは皆さんも世界史などで学んでおられると思うんですね。
例えばここにあるギリシャ神話という本を見ましても、この地方にたくさんの神々がいたということが書かれています。
ここにありますゼウスもそうですが、ヘルメスもそうですね。
あるいはポセイドンとか、アポロンとか、アルテミス、あるいはアテナ、ニケ、ヘルメス、アレス、ディオ、ニソス、ハデス、カリス、アレーク、レピオス、
そういう風の神、海の神、何々の神、いろんな神があったということですね。
ですから、この文集にとっては、このパウロがそういう技をしたということを見たときに、たくさんいる神々の中のそういう足を直す神様が降りてきて、そしてその技をなさった。
まさにこのパウロがひょっとしたらゼウスではないだろうか。
そしてもう一人のバルナバ、彼は話をするのが得意であったのでとありました。
ですから彼はヘルメスではないかというふうに言ったわけであります。
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パウロが主に話す人であったので、パウロをヘルメスと呼んだ。
バルナバをゼウスと呼んだ。
このように十二節で書かれてあるわけですね。
ですから当時のこの地方の人たちにはたくさんの神々がいて、その神々が降りてきて、この技をなさったんだということですね。
そしてこの神殿にいた祭司たちも、この神々を粗末に扱ってはいけないということで、お牛を捧げたり、花飾りをしたり、そして生贄を捧げたりしたわけです。
これは当時のその人たちが、そのような神々を崇めていたということがわかります。
このギリシャの地方に、東アジアの地方に、この神の福音が述べ伝えられた、神の言葉がその地方に及んだということは、それは必要があって神様はそうなさったわけです。
この地方には間違った神々を崇め、そしてその信仰に入っている。
だから本当のことを真理を彼らに知らさなければいけないという神様の愛と、そしてその身むねがそのようにして、そこに神のお言葉がもたらされたわけです。
そう考えてみますときに、私たちの愛する日本、日本人が今どういう状況に置かれているか、それはここ何百年何千年変わってないんですが、この当時の彼らに本当によく似ている。
日本がまさにたくさんの神々を祀り、そして崇めている。
だから神様も当時のこのギリシャの地方に神の言葉が必要であったと思われたように、この日本にもやはり神の言葉が必要だ、真理が必要だということで、
およそ四百数十年前、この時から千数百年後に、この日本にも神の言葉がもたらされて今日に至っているわけですね。これは何よりの神様の身むねであり、神様の憐れみであるわけです。
私たちがもう一度この箇所を通して整理しておかなければならないこと、それは私たちの聖書信仰、教会で教え、そして立っている聖書信仰というのは、
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神が天と地を創造なさった、そして人間をつくったというところに立っているわけです。これは創世紀の第一章の一節のこと。
まず神が天と地を創造し、そして人間をつくられた。しかしこのギリシャの地方、そして私たちの日本、日本人、それは人間が神々をつくってあがめたてまつるということなんです。
私たち本当にこの歴史、あるいはその文化、あるいはその偶像崇拝のそういう中に今置かれていますが、当時のこのギリシャの地方と本当によく似ている。
パウロがこのことを語り、そしてその技を神様によってなされたことによって、彼らの偶像崇拝の中に真理の光が射してきたわけです。
そういう中で私たちは、神が天と地とそして人間をつくって、その被造物である人間が神をあがめる。その真理の光と、彼らが今まで信じて、そしてそれにのっとって生きてきた人間が人間の都合のよいように神々をつくって、それを神としてあがめたてまつるという、その世界。
それをもう一度考え直すように神様は迫られたわけです。私たち日本人にもそのことを迫られたわけであります。
偶像崇拝という、そういう呼び名は別にしましても、私たちの人間というそのものの弱さの中に、例えば人であっても、あるいは何かのものであっても、
それが何か特別な能力とか、そういうものを発揮したり、あるいは何か記録とか、そういうものをつくっていったり、行跡をつくっていくときに、そのものをまるで神のごとくにたてまつり、あがめてしまうという、そういう人間の本来の弱さというのでしょうか。
そういうものを持ってしまうわけですね。そしてそれをいわゆる偶像として崇拝してしまう。もうそこには神が天と地を創造なさって、私たち人間もおつくりになった。
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人間が神をあがめるのだということから逆転してしまって、人間が神をつくってしまう。そしてそのつくった神をあがめ、そしてその神が、あがめたてまつっているときはいいんですが、その神が自分の思うどおりにいかない。
あるいは自分の思うどおりに動いてくれない。あるいはもう行跡も記録もつくらない。そういう神々はどんどん切り捨てられていって、やがてなくなってしまう。新しい神をそこに据える。そういうことが偶像崇拝の特色であろうと思います。
それともう一つの特色は、その神々はある分野では得意だけれども、この分野は苦手である。苦手であるという言い方はしませんが、この分野は得意です。ですからこの神は何々の神です。商売が得意ならこの神は商売の神です。
あるいは学問の司る神様は学問の神様。暗算の神ではある。暗算の神。他のことはなさらないんですかと聞いても、いやそちらはちょっと私の得意分野ではないので、そちらのことは何々の神様にお任せしますという。
そういう神々は全知全能ではない。絶対唯一そういうものではない。ですから私たちのこの聖書を通して語られ信じている神とは違う。
私たちはあくまで人間は非造物であり、その人間が創造主なる神を神としてあがめたてまつり、そのお方にお従いするという。それが聖書を通して語られている神様のお言葉であるわけです。
それを信じる者と信じない者、それを認め受け入れる者と受け入れない者に残念ながら一時的に世を分かれてしまうという現象がここでも起こっているということですね。
十四節。これを聞いた使徒たち。いやあなたこそゼウス、あなたこそヘルメスだ。そういうふうに言った人たちがいました。
それを聞いて使徒たちはバルナワとサウロ、衣を裂いて軍手の中に駆け込み叫びながら言った。皆さんどうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。
ゼウスでもなければヘルメスでもありません。皆さんがあがめたてまつるような神様ではありません。誠の神というのは別におられるのです。
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そしてあなた方のこのような虚しいことを捨てて、ここでいう虚しいというのは偶像のことですね。偶像崇拝を捨てて、そして天と地と海とその中にある全てのものをお作りになったお方を仰ぎみなさい。
このお方こそ全てをつくられ、私たち人間をもつくってくださった神であるということ、そのことをパウロとバルナワはさらに力を込めて語ったんです。
しかし彼らがこの偶像崇拝をしておって、本当のことは見えない状態でありましたが、そのことにゆえにパウロとバルナワをゼウス、ヘルメス、神々が人間の姿をとって私たちのところにお下りくださったのだという、このことを聞いたときに
これは彼らは間違っていると同時に、この人たちは真理のほとんどわかっている、もう少しのところ、もうちょっとのことがわかっていないんだということを思ったときに、パウロとバルナワは励まされたと思うんですね。
なぜかと言いますと、彼らはなるほど偶像崇拝をしていました。ですから、たくさんの自分たちのつくった神々がいて、その神々が人間の姿をとって、それがパウロでありバルナワ、そしてこの技をなさったのだ。神が降りてきてくださった人間の姿をとって、そしてその技をなさった。
この言葉の中に、もう本当の真理の99%があるわけです。私たちはすでに知っております。
キリストは神の形であられたお方であるにもかかわらず、人間の姿をとって、そして私たちのところに来てくださった。そして下辺の姿をとり、十字架の死に至るまで従順であられた。
神が人間の姿をとって、この地上に、この人間の醜い罪の世界に来てくださった。このメッセージはクリスマスに語られますし、クリスマスに限らず、私たちは聖書を通していつでもそのことを知っております。
神であられたお方が、人間の姿をとってこの世に来てくださった。それは人間の罪からの救いのために。
彼らがわかっていなかった、目が開かれていなかったのはその神々であります。その神々が自分たちの作った神々ではなく、天地創造の神、私たちの愛の神、救いの神、そして私たちを本当の幸いと恵みの中に入れようとしてくださっているその神。
42:21
その神さえわかれば、彼らは本当の救いに預かるのだということ。パウルド・バルナバはこの言葉に励まされて、もう少しだ、もう少しで彼らはその真理に到達する。
そのことを思って、そしてさらにこの説教に力が入ったと思うんですね。皆さん、私たちもあなた方と同じ人間です。ゼウスでもなければヘルメスでもない、神様によって作られた人間なんです。
あなたたちも私もみんな神様の作品なんです。人間が神を作るなどということはありえないんです。そういうことを彼らは言ったわけです。
ですから、この十五説から以降は、パウルドの説教、説教を通してこの誠の神という方がどういう方であるのかを、パウルドはもう一度整理して彼らに語ったわけです。
誠の神、それは第一に十五説。天と地と海とその中にある全てのものをお作りになった方です。創造主なるお方。これが私たちの信ずる誠の神であります。
二つ目にその次に書かれてある、生ける神に立ち帰るように。このお方は生きておられるお方です。偶像と言われるように木や石や何か紙とかそういうもので作られた、死んでいる神ではない。
私たちの目には見えませんけれども、今も私たちと共にいて、私たちに語りかけ、私たちと共にいて、私たちと共に歩んでくださる、生きておられる神様。これが誠の神であるということをパウルドは彼らに語ったわけです。
偶像崇拝のもう一つの特色、それは私たちがそこに行かなければその神様に会えないということです。ですからどこそこに何々の神様がおられる。
ですからバスに乗って電車に乗って、そして乗り継いで、そして時には一泊二泊して、そこに行かなければそのお方に会えないわけですよね。
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もしゼウスやヘルメスとしたら、ギリシャまで行かないといけないわけですね。そんなことできる人はいいですが、できない人は大変であります。
でもそれは偶像だからそうなんですね。生ける誠の神は、私たちがそこに行かなくても、いつも共にいてくださる。私たちが父なる神様、主よ、イエス様、聖霊なる神様と呼びさえすれば、いつも応えてくださる。
共にいてくださる。内にいてくださる。生きておられる神である。もう一つの神は恵みの神である。十七節。
すなわち、このお方は恵みをもって天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなた方の心を満たしてくださったのです。この神は恵みの神です。
私たちが正しいものであっても、正しくないものであっても、同じように恵みを注ぎ、天から雨を降らせ、日を昇らせ、秋にはこのような素晴らしい天候を与え、そして実りを与えて、私たちが生きるように全てを整えてくださる。
そして私たちの心に喜びを与えてくださる。そういう恵みの神である。そのことをパウロはこのギリシャの人たち、そして偶像、崇拝をしている人たちに語られたわけであります。
この言葉は今日の私たち、日本、そこにいる日本人の私たちにも語られているその言葉であります。
その後彼らは21節、多くの人を弟子としてからルステラとイコニオムとアンテオケに引き返した。
このことを通して福音が語られ、多くの人が救われてキリストの弟子になったという、そのことが明かしされているわけであります。
多くの困難もありましたけれども、この東アジアに、そしてやがてヨーロッパに、そしてこの日本にもこの神の言葉がもたらされているということ、このことを覚えて私たちは祈りたいと思います。
この日本が救われるように、日本の魂が救われるように、今は恵みの時、今は救いの日です。
今日どこかで、日本のどこかで、世界のどこかで、この御言葉を信じて、そして救いに預かる人が必ずどこかに起こされている、そのことを信じて私たちはお祈りしたいと思います。
48:16
天の父なる神様、あなたのご愛と憐れみによって、この日本の地、私たちにも今、福音が語られていますことを感謝いたします。
あなたは天地創造の神であられ、生ける誠の神であり、また恵みの神でいましたものことを、もう一度覚えて皆を崇めます。
主耶様が神であられたのに、人間の姿をとって、私たちの罪の贖いと救いのために、この世に来てくださったことをありがとうございます。
それを疑ったトマスに対して、主は言われた。信じないものにならないで、信じるものになりなさいと。
私たちの目には見えませんけれども、このお方がいつも私たちと共にいてくださることを信じます。
また、このお方を信じる人が、今日もどこかに起こされていることを信じて皆を崇めます。
そして今日、まずこの私自身が、改めてこの主を信じて、このお方にお従いすることを告白いたします。
どうかこれからもお導きくださいますように、主耶様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。