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2020-02-23 47:55

2020/02/23:わたしたちが信じて、告白すること(2)神のことば

2020/02/23 聖日礼拝

尹善鎬牧師

テモテへの手紙二 -17, ヘブル人への手紙

00:00
皆さん、おはようございます。今日は、紹介が多くから開かれますけれども、多くの方々、また久しぶりの方々、礼拝に来ていただいて、本当にありがとうございます。
先程も、吉田さんに祈っていただきましたけれども、今、世界的にですね、新型コロナウイルスで、その影響で日本も大変困難な中にありますけれども、これ以上、病気が拡散されないように、
また、感染者の方々が早く治るように、また、命を失われる方々が出ないように、皆さんぜひ覚えてお祈りください。
もしもですね、日本にこれ以上、集団感染が始まったら、教会とか公の施設も閉鎖することも起こるかもしれないですね。
今、残念ながら、韓国が400人以上、南部の方に発生しまして、兵庫というところと、釜山のところは、強制ではありませんが、私の派遣医協会も、日曜日だったら3万人以上人が出入りするので、昨日から、教会の全てを閉鎖しているんですよ。
兵庫も釜山もですね。だから、それは安全のためでありますし、また、日本とはちょっと別の話ですけれども、韓国に突然、給与したのは、新天地というね、遺産の集団がありまして、そこから100人以上の感染者が出てしまったんです。
それが、ケグというところですか。釜山から近いんですけどね。それで、今、強制ではないんですが、自ら、国民の安全を守るためにですね、やむを得てですね、礼拝を、教会を閉鎖しているんです。
インターネットで、今日も礼拝を守っているかと思いますけれども、そういうところの中で、私たちは、右往左往することではなく、こういう状況の中で、人間はいかに弱いものなのか、教えられますよ。
いくら医療が、あるいは科学がですね、発達していても、一瞬に全世界にこのウイルスが広まってしまってですね、いずれか治ると思うんですけれども、人間はいくら技術が発達していても、神の前には本当に何者でもないことを覚えながら、
謙遜でありながら、また祈りながらね、神様をそれに吐き込んで進んでいきたいと思います。
皆さんもですからね、ここも今、もう狭いところに40人ほどの方々がおられますからね、出入りするときにね、受付の方に消毒がありますからね、手の消毒を。
今日、された方、してないですか。だめですよ。
03:01
ぜひですね、私は何回もしました。
また、咳をしている方はぜひマスクをかけて下さったり、くしゃみもね、しゃんしますからね、飲んでいきたいと思います。
ちょっと別な話ですけれども、今、ヨハネの牧瀬曰録をね、水曜日に学びをしていますが、わかる方はわかりますが、
終わりの時代に何かの災いか、あるいは病気や様々なことが起きてですね、もう一瞬にして多くの裁きが行われるということは、それは嘘ではないことなんですね。
だから、もう、いくらでも起こり得るということを私たちは覚えてですね、
まあ、たとえて明日家様が来られるとかわかりませんが、いつもですね、本当に民の弱い者であること、そして、ただ神様にしか救いはないということを覚えつつ、
いつ家様がおいでになっても、その前に強く責められるところないものとして、
パパとしていただけるように、心備えを日々ね、していきたいとね、そういうふうに願っております。
では、周りの方とですね、ありがとうございました。
ありがとうございます。お祈りいたします。
聖書はすべて神の霊化によるもので、教えと忌ましめと教制と義の訓練とのために有益です。
それは神の人がすべての良い働きのために、ふさわしい十分に整えられたものとなるためです。
神様、私たちに神様ご自身を、また神様の御業を啓示してくださるために、我々にこの人類に聖書というこの宝を、神の御言葉を、私たちにお与えくださる意思を感謝いたします。
なお、唯一の聖典であるこの聖書を通して、あなたにお会いし、あなたを知り、あなたを信じ、また正しく教えられ、忌ましめられ、教制を受け、義の訓練を受けて整えられ、強い者として若さと知り、新しくしてくださいますようにお願いをいたします。
06:05
あるいは、イエス・キリストが救い主であることを、この聖書を通して知る、そして信じ、救われる恵みが、神の言葉を通して起こりますように、神様、祝福してください。
見ていざねて、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
先週から続いて、私たちが信じて告白すること、私たちが信じて告白することのシリーズの説教が始まっています。
いわゆる神語告白について学びをしています。
そのテキストは、商談の神語告白文であります。
今日は二回目で、神の言葉、神の言葉であります。
ではまず画面を見てみましょう。
今日の部分ですので、紹介がありますので紹介でも告白しますけれども、この部分だけ一緒に読みたいと思います。よろしいですか。
今日はこの神の言葉、聖書について、私たちが何を信じて何を告白しているのかを学んでいきたいと思います。
明沢教会はプロテスタントですから、聖書についてその告白から信仰の告白が始まっています。
ローマカトリックは、聖書以外に教会の伝承とか、あるいは教皇が、聖書と同等の権威を持っているんです。
それと違って私たちは、旧、新、薬、聖書のみ、それだけが権威を持っているという信仰に基づいて進んでいます。
だから、教会も、あるいは教会のすべての規則も、あるいは誰かの制度も、もちろん人も役職も、すべては神の言葉である聖書の権威の下にあるということを告白しています。
09:10
だから、私たちが告白している通りに、私たちにとって最後の権威は、この神の言葉であります。その上に立つものはありません。それが私たちの告白であります。
ここで資料も参考としてお話をしていきたいと思います。
旧、薬、新、薬、聖書は全部で66巻あります。
創世から始まって、ヨハネの読書録まで66巻のみが聖典であると、私たちは信じて告白しています。
ですから、これ以外のものを聖書とする団体は、もう正当的なプロセッサントではない、もういたんといなしても問題ないと思います。
旧薬、聖書は創世から末期まで39巻あります。
新薬、聖書は末代の福音書からヨハネの読書録まで27巻あります。合わせて66巻になります。
そして、参考的に旧薬、新薬、全部合わせての使者、著者と呼ばれる人間、孟子や吉原など、約50名がこの聖書を書き記録しました。
そして、その記録の最初から最後までの期間が、約1500年の期間にわたって、聖書は書かれたものです。
例えば、旧薬、聖書の1番の最初に、創世、出礼、仏、礼引き、明石、新明という、この5つの聖書が出ます。
それが、孟子という人が、神の霊化によって、この聖書を書き記録した。この時は、約1400年頃に書かれたと、学者たちによってわかっています。
そして、新薬、聖書の最後が、ヨハネの黙示録という聖書です。これは、ヨハネという人が、家様の弟子ですけれど、彼がパトモモスという人間で、1885年から1990年の間に書かれたと言われています。
12:00
そうすると、この間を全部、先ほど申しましたように、1500年にかかって、聖書が書かれたものです。ところが、不思議に、ヨハネから遡って1400年の前の話と、1400年が過ぎた後の話が、みんな全部一致して一貫している素晴らしいことがあります。
なぜでしょうか。それは、孟子が好きに書いたわけではない。あるいは、1400年後のヨハネが、何か自分が書きたいことを書いてしまったわけではないのです。
今日の二言葉、第二手もて三の十六節を一緒に読みましょう。
三杯、聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと義ましめと教制と義の訓練とのために有益です。
ここに最初に大事な言葉が出てきます。国格にもありますように、聖書はすべて神の霊感によるものであります。
ここにありますように、神の霊感によるものであります。いいでしょう、画面は。
そういうのは、どういう意味かというと、この九十九月聖書は六十六巻のみの話です。
それは、私たちは何を告白しているのか、何を信じているのか。
聖書は、単なる神話とか物語とか、人の事情伝とか、ただのエッセイ、ただの詩、ただの歌、ただの小説ではなく、
唯一の神、創造主の神様の霊感によって、記者たちが申せとか、またいとか、彼らが用いられて書き潰した神の言葉ではなっています。
神の言葉だと、神の言葉として信じて、告白しているということであります。
神の言葉なんです。人の言葉ではない。私たちはそれを信じて、告白しているんです。
15:05
ちなみに、九十九月聖書はヘブル語、イスラエルの言葉ですね。ヘブル語で書かれています。
九十九月聖書はリリシア語で書かれています。
残念ながら、原本は見つかっていないんです。
例えば、孟子が書いた小説を、皆さんがどこかイスラエルに行って、それを発見したら、世界最高のオプションで売られるかもしれない。
残念ながら、原本は見つかっていないんですが、長い間、写本がたくさん見つかって、
そして何百年もかかって、この聖書が聖典として定まったということであります。
その多くの原本の写本からできた聖書が、多くの言葉に翻訳されて、翻訳されて、今の日本語の聖書があって、
私たちは、日本のプロテスタント歴史は百五十年ぐらいですけれども、この聖書を持っていることは、実は素晴らしい恵みなんです。
なぜなら、この文作の聖書すら持っていない国々が、まだ多くあるんです。
そのところを見ていきましょう。
このところですけれども、2018年、一番最近の世界には聖書という教会があって、そこのデータなんですが、
まず、世界には言葉を使用する人々の人口が71億名ぐらいと言われています。
その中に、集約、新約、全部ですよ、葬石から目白くまで訳されている、そしてその聖書を使っている人口は約56億名ぐらいですから、
これは素晴らしい働きなんです。
何十年、何百年かかって、多くの人々は翻訳をしてくれたわけです。
あるいは、新約だけは、これと別として、8億500万人の人々は、新約全家を持っているでしょう。
でも、まだ見返しのところ、アマゾンの中とか、アフリカのところとか、小さな部族だけの言葉が違うところもありますから、
その文章、例えばマルコの国とか、一番世界で多く訳されている文章の一つですけれども、
その一つだけ、例えばマタイとか、あるいはヨハネとか、それが翻訳されているのは、4億1100万人ぐらいが、文札の聖書を持っているんです。
18:04
で、文札もない、もう何もない、聖書は訳されていない、彼らはもう政府ということを呼んだことがない人々が、まだ世界には2億人以上があります。
次、これを言葉の数としたら、世界には約7350個の言葉があると、言語国語育てによってあります。
新約全家は、692個の言葉で翻訳されて、日本語もそこに入っているわけなんです。
新約全家だけは、1900人、で、文札は1123人ぐらい。
もう文札、聖書もない、言葉の数で言うならば、まだ3988の言葉は、聖書を持っていないということです。
世界に皆さん、いくらプラタンの本であろうが、誰の本であろうが、昔の本であろうが、
これほど多くの世界の多くの人々のために、翻訳されて、しかも1500年の年度がかかっても、それが失われず、内容が守られている本は、本だけ見ても世界にはないんです。
聖書だけであります。
大事なのは、その孟子であろうが、吉田であろうが、ヨハネであろうが、パオロであろうが、この聖書は、私たちが信じているこの聖書は、今日一番大事な話です。
それは、神のデータを受けたものによって書かれたものである。
だから、人はある意味で、神によって用いられただけなんです。
では、ここで霊感って何なの?霊感は何でしょう。
それは、聖書の言葉を借りて言いますと、それは、神様が、神の息を吹き出された、吹き込んでくださった、
もう、神の霊が吹き込まれて、そして、孟子が、パオロが用いられて、それを書き潰した、ということで。
だから、この書かれた言葉は、神の口から語られた言葉でありますから、そこに何がありますか。
キーがあるわけ。
そして、それが、主の口から語られて、キサタチ、孟子とか、パオロとかが、それをわかって、書き潰すことができたのは、聖霊様の働きによるものであります。
21:01
だから、聖霊様も特別な働きがあって、そして、この聖書は、単なる神、印刷、活字じゃなくて、何でしょうか。
生きている神の言葉であると、私たちは信じて告白している、ということであります。
ですから、皆さん、生きている神の言葉を食べて、それを読んで、そこから私たちは、後からお話ししますけれども、
生きている神様にお会いすることができる。
神様ご自身が、この聖像を通して、ご自身を表してくださるんです。
私はこういうものだ。私は聖である。私は神を愛する。
神様ご自身について、啓示してくださる。教えてくださっている。
また、この人類についても、人についても、救いについても、罪についても、神様がこの聖書を通して啓示してくださっているんだから、
私たちは、聖書を放しては、神を知ることができない。信じることができない。会うことができない。
信者の皆さん、どうでしょうか。
週に日々、この生きている神の言葉を開いて、ゆくゆくお読みになっているでしょうか。目透していらっしゃるでしょうか。
聖像に伝わってまれて、本当に毎日、一日三食食べているように、聖書を一日少なくとも一生ずつでも、あるいはもっと多くね、
ある巨大は、最近救われた巨大だったけれども、一日二食三食読んでいると。
そういうね、神の御言葉をいただく、そのことを通して、私たちが神の糸に変えられていくんです。
一つ皆さんにお勧めします。少なくとも、聖実礼拝の皆さん、教会においでになるんですよね。
そうすると、1週間ぶりに会う方もおられますし、また少しぶりに会う方もおられますから、お話あっていいと思いますが、
少なくとも、礼拝が始まる10分前は落ち着いて、その日の聖書を開いて、そしてまず酒に飲んでくださって、
そしてその日の神の御言葉、神の御臨済を待ち望む、この軽々な習慣をぜひ身についていただきたい。
まあ別のようなんですけどね、私、2013年神戸に行ったときに、新学校で研修を受けたんですね。
年間は1年ですけれども、火曜日に行って水曜日の午前、土曜日にするんです。
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水曜日の朝に早朝礼拝が神戸でありましたけれども、私は普通から入ったものだから、ルールとかどういう雰囲気なのか全くわからないわけなんですね。
それで祭典が始まって、背中でやるんですけれども、始まる前に隣の新学生と同じ部屋のものだから、ちょっとしゃべっていたんですよ。
そっちの背中で確認をして、ちょっとしゃべっていて、終わった後に校長の名前は言いませんが、先生に呼ばれて怒られました。
早朝祭典の前には人としゃべってはいけない。まず聖書を開いて、ちゃんと神の御臨済を待ち望みなさいとね。
その後からは、なぜみんな静まって静かにしていて、息をする小屋で音声が聞こえないんだろうと私は分かりましたけれども、神の御臨済を待ち望む、そういうことを一つ学ばせていただきました。
ぜひ皆さんも来週から礼拝にとられたら、最初は間ずつでいいんです。
でも少なくとも5分とか10分前は落ち着いて、聖書を開いて、牧草を敷いて、何度も何度も落ち着いてですね、聖書を開けますから、朝起きて、聖書を開くんじゃなくてですね、神の臨済を待ち望むのも経験な習慣をぜひ持っていただきたい。
さあ本部に戻りまして、ところが神様は不思議にですね、聖書の記者が50人もありますが、それぞれロボットではなく、ただね、言われる通りにロボットみたいにタイプみたいに打つものではなく、
一人一人その人の人格、背景、あるいは知識、あるいは性格、あるいはさまざまなものをしは、もうトータル的に用いて書かせなかったということなんです。
ちょっとだけね、話をします。例えば、新学生のページね、新学生書に福音書のマタイの福音書で、マルコ、ルカの福音書がありますね、ルカの福音書。
ルカという人は家様の直弟子ではなかったんだけれども、彼の元の職業は医者だったんですね。だから他の福音書が4つありますね、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネがありますが、
同じ家様がなされ、例えばある人の病気を癒した後に、そういう記事がマタイもあったり、ヨハネもあったりするんだけれども、
このルカはお医者さんだからどうですか、その病気の症状をよくわかっているわけなんですよ。
だから同じ病気の話だとしても、ルカの福音書は専門的ではないんだけれども、もっと他の記者よりは詳しく書き潰されていることがあるんです。
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他にもいろいろなことが、この聖書の中からその人の知識が用いられる、その人の背景が用いられるということがあるんです。
大事なのが、聖書は神の言葉である、生きる唯一の神、創造主なる神、全知全能の神様の言葉であるという、私たちはそれを信じて告白しているんです。
ですからこのように神的起源を持つものですから、聖書はすべてそこに誤りがないと私たちは信じています。
そこには少しの欠点もない、完全に明確されたものであると私たちは信じているんです。
もちろん聖書は歴史のタイミングに書かれた書物ではありません。あるいは創造のプロセスを究明するための理科の教科書でもないですから、
それと合わせてみたら、聖書はその部分については十分に書かれていないんです。
例えば神様が言葉で創造をなさったわけですから、そこには材料が何であるか、そのやり方はどんなものかは書かれていないわけなんです。
もちろん聖書は人間の救いのために、神の救済主という救いの歴史のために書かれたものだからなんです。
そしてそこには神の霊感のゆえに決して誤りがないと私たちは信じて告白しているんです。
もちろん神の言葉だから私たちにはわからない部分があるんです。
聖書は間違っていたり誤っているわけじゃなくて、ただ私たちは人間だから神の言葉が十分わからないだけなんです。
だから謙遜に神の御言葉を求めることが我々に求められているということであります。
だから神の言葉は完全でありますからどうですか?私たちは聖書を完全に信頼することができています。
次に告白部分にこの聖書はキリストを明かしし福音の真理を示すものであるとあります。
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聖書はどうですか?何のために書かれたのでしょう?この旧約新約聖書。
それはイエス・キリストが神の子であって救い主であって私たちを罪を許す、死から救うためにお入れになった方であること。
そしてそのイエス・キリストは私たちを救うために十字架にかかれ、死なれ、三日目によみがえり、そして天に登られて、また彼の家に必ず帰りなさること、そしてこの人類の歴史は終わること。
そのイエス・キリストを明かしするために書かれた書物が聖書である。その福音の真理を示すものであるということであります。
ここでちょっと聖書を読みましょう。字幕もありますけれどもね。ヨハネの福音書5章39節です。
あなた方は聖書の中に永遠の命があると思うので聖書を調べています。その聖書が私について証言しているのです。
ここに大事な話がありますね。聖書は誰について、イエス様について何をしていますか。表現をしているのです。
聖書を知れば知るほどその人はイエス様を知るようになるわけです。
皆さんイエス様について知りたいですか、もっと知りたいですか、聖書に行けばいいです。聖書を読めば、聖書を開ければ、聖書を学べばいいのです。
聖書は神様についてイエス様について聖霊様について完全な知識を与えるものであります。他にはありません。
ですから私は聖書を読むことを学ぶことを通して生ける神様にお会いできるのです。
聖書は単なる文字ではありません。単なる本ではありません。生ける神様の言葉です。
だから神の言葉は生きているのです。
この聖書に触れるものに、この聖書自体が働きかけるという霊のことが起こるということです。
33:09
今日の御言葉のヘブル4の12節も一緒に読みましょうか。字幕を伸ばしてくださいね。
ヘブル4の12節。聖書は生きているものだから、どんな働きをするのでしょうか。
ヘブル4の12節。聖書から前の字幕を見て読みましょうか。
神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも察し通し、心のいろいろな考えや計り事を判別することができます。
ここにはっきりと書かれています。
神の言葉はどうですか。生きているのです。
死んでいません。ただ文字ではありません。
生きているから神の言葉に触れる人は、読む人は、必ずその聖書によって変えられる。
祝福される。神を知ることができる。
生霊の品種に変えられる。
なぜでしょうか。力があるから、両刃の剣のように鋭く、その魂の霊の部分を、まるで関節と骨髄の分かれ目さえも察し通すように、心のいろいろな考えや計り事を聖書によって判別される。
だから皆さん、不思議にもね、聖書に触れて、聖書を読んで、聖書を学ぶ人、聖書を愛する人は、神に触れるわけなんです。
そして生きている聖書が、その人の心のいろいろな考えや計り事を察し通す。判別する。
だから自分が、神に対して良い思いを持っているか、そうでないかが、聖書に通して判別される。明らかにされるんです。
だから、聖書に触れて、察しまれて、それを読む、日々目視する人は、もうね、当然、神の人にその思いも言葉も行いも人格も、もう神の人に変えられるはずですよ。それが当たり前なんです。
だから私たちは、聖書以外を通して、人は、これ大事な話です。またあるいは、未信者の方々、救済者の方々は、神の言葉だから、生きている神の言葉だから、この神の御言葉に触れるときに、その人の人生は必ず神の人に変えられます。
36:10
何ででしょうか。
さっき通し、心のいろいろな考えや計り事を判別することが、聖書に一つの人の働きによるケースの話があります。
テセロホン、あのテンテコステの時に、そこに集まっているユダヤ人たちに、説教する。
どんな説教か皆さんお分かりでしょうか。
要点を言いますと、イエス・キリストはあなた方の罪のために生きなれた。しかし、そのイエス・キリストを十字架につけて殺したのは、あなた方ですよ、という説教がテセロの説教だったんです。
その時に、まるで生きている言葉によって鋭く差し通されて、自分たちが何をしたのか、心のいろいろな考えや計り事、それがもう差し通されて、
その時に人々はそのメッセージを聞いて、それはもうテセロの話ではないですね。神の言葉に彼らはね、そこに敷かれて、そして彼らはどう言ったのか説を開きましょう。
使徒の働き2章37節、新約聖書の230ページです。よろしいですか。使徒の働き2章の37節です。
さあ、36節にテセロがね、こういうふうに説教を終えるんですよ。36節からこのようにね。ですからイスラエの全ての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。
すなわち、神が今や使徒もキリストもされたこのイエスを、その次読みますね、一緒に。あなた方は十字架につけたのです。どういう意味ですか。あなた方が神様が使わせたイエスキリスト主を十字架につけて殺したものがあなたですよ。
その言葉に、神の言葉に触れたときに人々はどうおうとしたのでしょうか。37節読みますね。人々はこれを信じて心を支え、ペテロと他の人たちに兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうかと言った。
39:06
38節から私は読みます。そこでペテロは彼らに答えた。悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を許していただくためにイエスキリストの名によって罰セスも受けなさい。そうすれば様も残って精霊を受けるでしょう。
そしたらその後、そこに心を刺されてどうしたらいいんですかと。そしてペテロの悔い改めなさい、精霊を受けなさいと言ったときに彼らはどうしたのでしょうか。41節一緒に読みますね。
そこで彼の言葉を受け入れた者は罰セスも受けた。その日三千人ほどが弟子に加えられた。アメン。本当にアメンですね。皆さん大事なのは神の御言葉に触れる。
そしてそこに謙遜な人、心が開かれている人はいくら心が刺されてうわーつらいな、うわー痛いねとね、そうなっていても悔い改めなさい、精霊を受けなさいと言ったときに謙遜に素直にペテロを通して語られる神の言葉を受け入れて、精霊を受けて、その人が三千人ほどが弟子に。
そのように神の御言葉に本当に触れた人は罪を悔い改め、自分の思いや諮り事が判別されるからそこで悔い改めて神の人に変えられる。神の言葉は生きています。信じますか皆さん。神の言葉は信じている。
この神の御言葉に応答しようではないでしょうか。神の言葉に応答しようではないでしょうか。
神の言葉の証を神の生徒に触れて、その人生変わった人の証を出したいと思います。
本から出したものですから、読む感じで話したいと思います。
男性の証、休職して最初の9日札幌での出来事です。
私は青年期は宗教的なことを一切排除し、自分のこっかる信念や価値観、道徳観、人生観もない好き勝手な日々を送っていました。
仕事は楽しかったですけれども、休みになると目的が持てずに時間を持て余し、借金を捨てまでパッキンコにははまっている有様でした。
42:06
自分が何を目指して生きていいのか答えが見つからず、満たされない気持ちでいっぱいでした。
職場に二人のクリスタンがいました。一人は同じ年でクリスタンフォームで育ったエイティスマイ。
もう一人はボクスキ夫人。同じ年の人とは部屋を組んで仕事をしていました。
そんなある日エイティスマイに、教会でフルートを含んだけれど式に来ないと誘われました。
当時の自分にとって教会に行くということは想像もつけないことでした。
仕事に縋るというのは自分が弱い証拠だと思っていましたし、教会に行ったら自由心を関与させるのではないかと、
失格を誘われ続けるのではないかという思いがよけりました。
しかし二人のクリスタンのように穏やかで清楚な感じの人間に対する憧れもちょっと感じ始めていたことと、
エイティスマイとうまく仕事をし始めていたので、信頼関係を崩したくないという気持ちで教会へと足を向けました。
しかし最初に聞いた牧師先生のメッセージでつまずきました。
イエス・キリストだけが人の罪を背負い許すことができる、自分に汚い部分があることをしっかり棚にあげ、
自分の生き方には全く問題、けがれがないと思っていた自分でした。
ところがその後も何度か教会に足を運びました。
交際していたノンクリスタンの女性と一緒に行くこともありました。
しかしとうとう自分の本当のけがさに気づく時が来ました。
交際していた女性を裏切ったのです。他に好きな女性ができたからというそんな見勝手な理由でした。
しかしその裏切りは自分自身の心に大きなシコリを残しました。
自分には何の汚い点もないと思っていたのに人を傷つけてしまった。
そのことをきっかけに過去に自分が犯してきたことが相馬灯のように思い出されました。
自分がどんなに汚く勝手で人を傷つけてきたか悟りました。
自分が強いと思っていたのは過信であり本当は弱く小さく汚いものである。
つまり私自身が僕先生が言っていた罪あるものだったのです。
45:04
この自分の罪をも背負ってイエス様はズルリカにかかってくださった。
自分ではどんな方法をとっても罪を振り払うことはできません。
しかし神様はそんな自分の罪を一人ごイエス様に負わせて私を許してくださるとおっしゃる。
本当にそれこそ神頼みでした。
自分の罪に苦しんでいたときにまた私は教会へと自然と足が向くようになっていました。
自分の力ではもうどうすることもできないと思ったとき神様は次の御言葉を持って私を導いてくださりました。
もし私たちが自分の罪を告白するならば神は真実で正しい方ですから
その罪を許し全ての悪から私たちを強めてくださいます。
その神の御言葉を全身で感じながら私の物事に対する考え方は急に変わってきました。
ちょっと省略しまして、その後すぐ誠意におけた私は自分が正しい自分の力で何でも解決できるという考えから
イエス様の仕方に近づきたいという思いに変えられていきました。
いつも神様に愛されている実感がある僕、神様の栄光を表せるようになりたいと思います。
こういう私ですけれどもどうですか?
皆さん、神の言葉に触れるときに人は必ず変えられていくでしょう。
旧神約聖詞は神の言葉であって、生きている神の言葉であって、私たちにイエス実相し、また信じる、イエスを明かしするのに完全な神の言葉であります。
どうか信者の皆さんはこの聖詞を通して神の人にいよいよ変えられていっていただきたいです。
また、ここに世間と一緒にしておられる秀逸の方々にはこの生きる神の言葉に触れていただいて、そこら救いが祝うから、上から収まれますように心からお祈り申し上げます。
では、ここまでさせていただきまして、私から一言お祈りして、その後お泊まりの方とまた祈りの時を待ちたいと思います。
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