1. 名谷教会
  2. 2015/02/22:聖日礼拝(旧音源)
2015-02-22 45:06

2015/02/22:聖日礼拝(旧音源)

2015/02/22 聖日礼拝(旧音源)




00:01
おはようございます。
それでは今日も、いつものようにお待ちいただけませんか。
おはようございました。
それでは一言お祈りいたします。
神様、今から、神様の御言葉から、あなたの御声を聞きたいと、我ら待ち望みつつ、祈礼をしております。
どうか、主御自身が、私たち一人一人にお語りくださいますように。
そしてその御言葉を、自分自身への神の生きた御言葉として、お受けできますように。
豊かに作って恵んでくださいますように、お願いをいたします。
感謝して、神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は1月に続いて、礼的教約シリーズ説教、人の働きのシリーズ説教でありますが、第2回目でして、
今日6節から11節の御言葉を中心にして、聖礼、力、承認という題にして、
共に神の御言葉から教えいただきたいと願っております。
今日は、明大の教会の第22回教会総会が開かれる日です。
その際に、今日の本文を聴取にして、教会とまた生徒はどういうものなのか、
それについてですね、共に考えていきたいと願っております。
今日のタイトルにありますように、今日のこの6節から11節、
人の働き第1教のキーワードは、聖礼、力、承認と言うべきではないでしょうか。
この3つはですね、聖礼、力、承認というものは別々のものではなく、切り離すことはできない。
互いに非常に密接している一つのようなものだと思います。
今日の本文に書かれているようにですね、家様が生きているうちには、弟子たちといつも一緒でした。
一緒に町に行って、食事も一緒にしたり、伝道も一緒にしたり、寝食をですね、共にしていました。
03:03
ところが、家様がですね、弟子たちと3年間働いているうちに、時々ですね、家様はこういうお話がされました。
私は、天に引き上げられる。
そうすると、神様があなた方のために、助け主、つまり聖霊様のことですね、助け主を使わせて下さい。
そうすると、その助け主、その方が御言葉を思い起こしてくさって、力を与えてくさって、あなた方を助けて見守ってあげまして下さるんですよ、というお話ですね、家様が時々されました。
そしてですね、実際に家様がこのですね、今日11節、10節、11節に書かれているように、天に引き上げられるその直前、そのこの地上に残される弟子たちにお話になったその中心のお話は、この8節ではないでしょう。
それは、私は天に帰る、引き上げられる。しかし、あなた方は一人ではない。個人にはしない。
私はこの地上にいなくなるんだけれども、神の右のがに帰って、そして助け主、聖霊様があなた方の上においでになるのだ。
そうすると、その聖霊様が一人一人の上に、教会全体の上に、あなた方のその無礼の上に望まれるというお話を、今日このところでわかっているわけなんですね。
ところが、家様が3年間一緒に働いているうちにもそうでしたし、たぶんこのですね、きっとこの時もですね、今日のこの一緒のあの時も、弟子たちにとってはですね、
3年間ですね、いつも一緒でした。いつも家様がそばにおられたわけなんですね。彼らが本当にですね、何か弟子としての役目をうまくできている時も、家様は一緒におられた。
人と失敗したり、そういった時にも、家様はいつもそばにおられたわけなんですね。ところが、その家様がいなくなるなんて、もう考えたくないことですし、考えられないようなことなんですね。
ですから、弟子たちはそのお話を聞くたびにですね、もう戸惑ってしまっていたわけなんですね。家様は彼らといつも一緒であって、御言葉を持って教えて、ただいていらっしゃいました。
06:11
時にはですね、彼らがその病人の病気を癒していくことができなかった時には、家様がそこに来てですね、代わりと言いましょうか、家様が癒してくれました。時にはその落ち込んでいる弟子たちを励まして奮い立たせてくださいました。時には責める時もありました。
ですから、弟子たちにとってですね、家様がいなくなることはですね、もう考えられないことなんですね。もう目先が真っ暗になるような戸惑いを彼らはこの時にですね、覚えていたことでした。
実際にちょっと開いてみたいと思いますが、大野福音書16章ちょっと開きましょうか。大野福音書16章21節22節。新約聖書33ページ。新約聖書33ページ。大野福音書第16章21節22節です。
私は読みますね。左の方から開いた方がいいです。33ページ。はい、21節私は読みます。
その時からイエス・キリストは御自分がエルサレムに行って、丁度最強立法悪者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえられなければならないことを弟子たちに示し始められた。
もう殺されて三日目によみがえるよという話はですね、この時が最初にイエス様がお話になったことですよ。
そしたらその話を聞いた時にですね、ペペロはですね、こう言いました。イエスを引き寄せて諌め始めた。
主よ、神の御恵みがありますように、そんなことがあなたに起こるはずはありません。つまりですね、もうイエス様、そんなことがあなたにあってはいけませんよ。
まあそういうですね、気持ちで口にしてしまいました。
そしたら二十三分後に言いますと、しかしイエスは振り向いてペペロに言われた。
下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っているという。
09:06
まあここだけ見てもですね、弟子たちの気持ちがわかってくるんじゃないですか、皆さん。
イエス様が一緒におられないということはもう考えたくない。
彼らはですね、きっとそうしたらこれからどうしたらいいんだろうか。
弟子たち、弟子としてうまくこの使命を、この役割をもう果たしてですね、果たすことができるんだろうか。
悩んで心配をしていたことです。
必要に沿ってイエス様が教えられたように言葉を教えることができるんだろうか。
病人が癒してほしい時から癒すことができるんだろうか。
あのイエス様のように素晴らしいメッセージができるんだろうか。
もう不安で不安で心配してどうしようどうしようとですね、悩んでいたに違いないと思います。
ところが皆さん、イエス様はそのような彼らの悩みを知らないお方ではないのです。
イエス様がですね、私は県に帰るからお前たちで電話しようとですね、そういうふうにですね、命令ばかりなさった方ではない。
彼らの気持ちをイエス様はよくご存知であらざまった。
この地上に残される彼ら、その周りは本当にですね、イエス様を十字架に引きつけたあの反対の勢力がまだまだいる。
また、よく落ち込んだり失敗する弟子たちのことをイエス様はよくご存知であるから、
彼らに必要なのが何なのかイエス様は知っておられました。
残されるイエス様の弟子たちが、弟子として、将人として、その使命を、役目をですね、よく果たすことができるように、担うことができるように、
彼らにとって必要なのは聖霊様であること、そして聖霊様がくださる力であることをイエス様はよくご存知でした。
だからイエス様はですね、「君たちで何とかやれ!」と言ってしまったわけではないんですね。
彼らに必要なのは聖霊様であること、彼らに必要なのは力であること、それをイエス様が神様として彼らにお与えになるという、
実は今日のこの一章八節はですね、約束の御言葉であって、福福の御言葉ではないでしょうか。
12:06
こういう例えはどうでしょうか。
日本にはですね、プロ野球家、作家が有名なんですけれども、私は今野球はそんなに好きなものではないんですけれども、
阪神大活に韓国人のピッチャーがいるんです。
オースマンという、韓国ではサンソンのものなんですけれども、彼はプロに入団する前はですね、あまり休息が早くなかったそうです。
ところが、コーチに出会ってですね、自分に何がだめなのか、そういうピッチングモードなのか、
それをさまざま分析して、そして治ってもらって、コーチをしてもらってですね、彼はピッチャーとしては身長は低いほうなんですね。
しかし直球でですね、160ぐらいは普通に投げられるものなんです。
それで彼は、そういった素晴らしいコーチに出会って、自分がこのですね、もっと速いボールを投げられるように自分がそうなったわけです。
いいコーチはいい監督はどんなものでしょうか。
まあとりあえず、160ぐらい投げ投げ投げとですね、言うばかり、コーチ、監督は良い監督、コーチではないんですよね。
彼に強度が何なのか、単位度が何なのか、何がうまくできていて、何がうまくできていないのか、それをですね、
よく教えて、それを正して治すように指導する、それが良い監督であって良いコーチなんでしょうね。
イエス様も私たちにとって、またこの是非たちにとってはですね、良い監督のような、コーチのようなお方です。
是非たちが承認として、福音の承認としてこの使命をですね、この役割を本当に素晴らしく果たすことができるように、
イエス様は聖霊様を助け主よ、助人をですね、お使わしになるということです。
聖霊様が、是非たちのところにおいでになりまして、彼らが承認の役割をよく果たすことができるように、
何が必要なのかよく御存じでありますから、彼らに知恵をお得たになり、力をお与えになり、
時には御言葉を教えてくださる、時には御言葉を思い起こしてくださる。
15:01
そうしてですね、この是非たちが、この魂の救いというこの使命を、役割をよく素晴らしく果たすことができるように、
助けてくださる方、弁護してくださる方、励ましてくださる方が聖霊様なのです。
その聖霊様をイエス様がいなくなるから、目に見える方としてはいなくなるわけですね。
ですから聖霊様を送ってくださって、この是非たちがこれからこの世界の福音のために、
この承認の使命をよく果たすことができるように助けてくださる。
それを今、是非たちに約束して祝福してくださるのが、今日のイエス様の御言葉ではないでしょうか。
ですから今日のこの一章の御言葉、特に本節はですね、イエス様の約束の御言葉であって、
祝福の御言葉なんです。どんな約束の御言葉なんですよ。
ですから、私たちもですよ、同じですから、私たちがこのイエス様の承認のこの役目を、使命をよく担うことができるように、
素晴らしい承認となるように、神様の心にかなった承認となるように、私が助ける。
私があなたを素晴らしい承認とするのだ。それで、あなた方のために私が助け抜き、
御霊を使わす、という約束の御言葉なんです。何という誇りよい祝福の御言葉なんですよ。
皆さんは普段ですね、どうしたら電動ができるんだろうか、いつも祈って悩んでいらっしゃるんですよね。
どうしたら家族を、あるいは親戚を、あるいは友人や隣の方々を電動できるんだろうかですね、考えて、
あるいは祈ったり悩んでいらっしゃるんですよね。涙をもって祈ってやられると、そう思います。
そのためにですね、時にはよく会ったり、話し合ったりしたり、あるいはイエス様のことを、教会のことを紹介したり、
お連れしたり、教会に何か行事があったらお勧めしたり、そのためにまた、普段、よい関係を築いていっていらっしゃるんですよね、皆さん。
そして、何とかして一人でも多くの人が救われるために、皆さんが本当に苦労して、祈って努力していらっしゃるわけなんですね。
18:07
皆さんのそのような祈りの課題、その悩みを、その気持ちを、イエス様はよくご存じであられる。
そしてその悩みをですね、よくご存じであられますから、イエス様は、私たちがこの証人の使命、役割をですね、
よく果たすことができるように助けてくださる方、助け主、聖霊様を使わせてくださるという約束の言葉が、この弟子たちにだけではなく、今日の私たちにもイエス様がお語りになっているのではないでしょう。
私が魂の救い、それをですね、うまくできるように助けてくださる。私たちにできることを主は委ねてくださる。
そしてそれがですね、この証人の使命を私たちが果たすことができるように助けてくださって、魂を備えてくださって、出会わせてくださって、
またその責任すらもですね、イエス様がすべて負ってくださるという。ですから皆さん、今日のこの一生の8節のこの御言葉をですね、イエス様の約束の御言葉として、祝福の御言葉として、お受けしようではありませんか。
私たちが伝導する証人のこの使命をよく果たすことができるために、明堂教会が救いの箱舟の役目をですね、うまく果たすことができるようにですね、
イエス様は私たち一人一人の上に、明堂教会の上に聖霊様を、助け主なる聖霊様を使わせてくださるという約束の御言葉として、心にですね、止めて受けじめていきたいと、そう願っております。
皆さん、私がですね、説教を聞いているうちに、あるいは聖書を読むときに、あるいは黙祖したりデボーションをしているときにですね、あるときですね、ある御言葉が、一節とか、あるいは一つの単語とかがですね、
ものすごいこの強いインパクトを持って、心にですね、染み込むように、入り込むような御言葉が与えられるときがあるんですよね、皆さん。そういう経験が皆さんにあるかと思います。
そのときはですね、その御言葉は、この紙に、ただ印刷されている文字にすぎるのではなく、聞いておられる聖霊様が感動をもって、その一節、私に、皆さんにお語りになった、私にだけ、宿が語ってくださった御言葉なんですね。
21:23
ですから、その御言葉をですね、私たちがアーメンと言って、そして約束の御言葉、自分への御言葉として、福の御言葉として、あるいは教訓の御言葉として、それを受け止める生徒が、教会が祝福をされるのですよね、皆さん。
多分、皆さんにもそういう経験があったかと思います。
新年の御言葉が、あるいは年末に目指した御言葉が、あるいはですね、聖書を普段皆さんがお家で読まれるときに、あるいは誰かがここですね、
最近はネットが発達していて、メッセージを送ったり送ってもらったりするんですよね。
そういうふうに御言葉が自分になんとかの、ね、通して与えられるときに、ああ、そうか。
まあ、これが御言葉、それを置き去っておくのではなくて、もうものすごいですね、こう、強いインパクトがあって心に染み込むような、あるいは刺されるような、
あるいは本当にですね、心の中からですね、もう喜びと嬉しさがですね、湧き出るような御言葉が語られるときがあるんです。
ありますよね、皆さん。ないですか。あるかと思いますけれども。
聖霊様は皆さん、聖書の御言葉は御霊様の霊感によって書かれた御言葉ですね。
ですから、そのとき、このときに、私たち一人一人に、あるいはその教会にどういう御言葉が必要なのか、
私だけは知らないかもしれませんけれども、聖霊様は御存じであって、ちょうど必要なメッセージを、御言葉を、主は教えて下さい。
そのときに信頼って、それをですね、軽く見過ごしてしまうのではなく、それを受け入れる心に留めさせていただく。
そしてですね、主よ、この御言葉が私の上にこの通りになりますように、というふうにですね、信仰を持って、
御言葉を受け止めるキリシャになっていただきたいと、そう願うものであります。
24:01
その聖霊様は力の主です。聖霊様は力の主ですから、聖霊に望まれた聖人は、
イエス様のように救いをもべ伝えることができるようになる。
そのもべ伝えた福音が生きていて、魂が救われることを目に見ることができる。不思議な救いの御技が起こるんですね。
今まではうまくできなかった弁度が不思議にもよくできるようになる。
今までは何とか諸回しても受け入れてくれなかった一人の心が不思議にも開かれたとか、
今までの自分と自分が別人のように変えられて、本当に不思議な救いの御技がなるということを、私たちは見ることができるんですね。
その証し、その証拠が、その働きなんです。
その働きを、いくつかの箇所を一緒に開きたいと思いますが、まず2章41節を開きましょう。
その働き、2章41節を一緒に読みたいと思います。231ページです。
そこで彼の言葉を受け入れた者は、バプテスマを受けたその日、三千人ほどが弟子に加えられたため。
これは、第2章において、ペンテコステの日に精霊が望まれた後の出来事です。
私たちは、今までこういった素晴らしい伝道の収穫は、実はありませんでした。
もう一回しよう。4章4節。一緒に読みますね。
しかし、御言葉を聞いた人々が大勢信じ、男の数が五千人ほどになった。
また同じ4章の33節を一緒に読みましょう。
人たちは、主イエスの復活を非常に力強く明かせき、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
もう一回最後ですよ。6章7節です。
27:02
6章7節、一緒に3回。
こうして神の言葉はますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。
そして多くの妻子たちが次々に信仰に入った。アーメン。
皆さん、これは誰の力によるものでしょうか。
弟子たちの力によるものではないんですよ。
聖霊様の力によって、聖霊に臨まれて、弟子たちが変えられて、このような素晴らしい救いの見業が起きたわけなんですね。
この赤息をもって、この朝、聖霊様は私たちをはじまして腐っておられるでしょう。
この使徒行伝が私たちに明かしをしている。
聖霊様に臨まれたら、こんなすごいことが起きましたよ。明かしをしている。
だから、あなた方も聖霊に臨まれると、聖霊に満たされると、聖霊の力をいただきますと、
このように、僕たちのように、この聖人の役目を果たすことができますよ。
聖霊様が助けてくださるんですよ。聖霊様が魂を救ってくださるんですよ。
使徒の働きのこの弟子たちが、明かしをしているんですね。
その明かしに耳を傾けていきたいと、そう思えられます。
本当に聖霊様は力無しでした。
このペンテコシテ前後で、弟子たちは全く別人のように変えられましたね。
ペンテコシテの以前の弟子たちは、どんなものだったんでしょうか。
よく失敗する者たちでした。弱虫のような者たちでした。
時にはやる気もなくて、落ち込んでいたりしている弟子たちでした。
このままでは、イエス様が天に引き分けられた後、
聖人の役割を彼らの今のままでは上手くすることができないという状態だったんですね。
しかし、イエス様は彼らを励まして、強めてくださって、
知恵の主である、霊の主である御霊様を使わせてくださって、
そして、ペンテコシテのその日以来、彼らは全く別の人に変えられました。
弱虫で失敗者で、やる気のない者たちではなく、大胆に福音を述べ伝える聖人に、
聖霊の力によって勝利する聖人へ、
また、福になってのやる気満々で身を結ぶ聖人に変えられました。
30:07
これは聖霊による力なんですね。
ところが皆さん、弟子たちはこのように変えられるために、
実は彼らはある意味で大したことをしていないんです。
御霊様がエルサレムから離れないで、おどまっていなさい。
そして、おどまっていました。
約束の御霊がおどまれるから、待っていなさい。
待っていました。
御霊様の約束の御言葉を、ただ信頼して、エルサレムを離れないで、
祈りながら従って、ただ御霊様を待ち望んでいただけでした。
そのように弟子たちは、聖霊降臨、このペンテコシテの御神節の日も、
あの聖霊様を待ち望みに来た。
そして、やがてペンテコシテの日に、聖霊様がお出になったわけじゃないですか。
そして彼らは、この聖人の役目を本当に素晴らしく果たすことができるように変えられたわけです。
皆さん、これが教会と聖徒の本文ではないでしょうか。
皆さん、イエス様は、私たちが聖人として歩むことを願っておられる。
ところがですね、やれやれやれとおっしゃる主ではなく、
どうしたら私たちが本当によくこの聖人の役目を果たすことができるんだろうか。
何を悩んでいて、どんな知恵が必要なのか、どんな礼愛が必要なのか、
それをよくご存じであられますから、
私たちより100倍以上、よくご存じであられますから、
知恵を与えて、御言葉を与えて、大胆さを与えて、恵みを与える、
言葉を捧げてくださる、健康を与えてくださる、
必要であればお金さえ持ちは満たしてくださるお方なんですね、皆さん。
そのように私たちが聖人の役目を本当にですね、うまく全うできるように助けてくださる方、
高知を指摘される最高の高知が、聖人様なんですね、助け主。
ここでですね、この明蘭教会の、昔の22年前、いやその前の、あの出発点のことを思い起こしていただきたいと思います。
もちろん私はその場におりませんでした。
ですから皆さんは私よりはるかによく、あの時の明蘭教会の出発を皆さんはよく知っていらっしゃるはずなんですよね。
33:06
神戸西北教会から、この30年前のこの明蘭ニューサウンに教会を開拓しましょう。
そしてそこに参謀して協力して検診された皆さんが一つになって、
皆さんから志願をして進んで、神戸西北教会から分かれて、
そして皆さんの祈りとこの観察伝道というかですね、観察スピリットと言いましょうか、
それに基づいてこの明蘭教会が家庭集会から、あるいは教会がこうですね、ある兄弟の家で、ある姉妹の家で、
そしてそれがやって今の街道が立てられた。
ですから皆さん、明蘭教会は伝道と開拓精神によって立てられた教会といっても囲んではないと思うわけなんですよね。
人なだらけの歴史のように福音と御言葉がますます広まっていきまして、
そのスピリット、その伝道して魂を救う、そして教会を生み出す母体の教会になることが明蘭教会の創立精神ではないでしょうか。
それを思い起こしていきたい。
そして私たちは今どこに立っているのか、一緒にですね、考えていきたい。
そうすると精霊様が私たち一人一人にこの明蘭教会に必要な知恵も力も周りの環境もすべてをしわすべて収めてあげる方ですから、
それを動かしてくださるに違いないと思いませんでしょうか。
先週ある方が集会の中で祈るのきにこう祈っておられました。
だいたい整理しますとこんな祈りでした。
神様、明蘭教会がほんとにリバイバルしてこの明蘭、富岡、あるいは南の地域、白川大前で福音を伸び伝えて、
そしてやがては確変として精神南へ教会を生み出す開拓できる教会にしてくださいと祈っておられました。
その祈りをお祈りを聞きながら、ああそうなんだ、
これが明蘭教会の最初のあの開拓成立に進行ではなかったんだろうかと私は思いました。
いや、その依然イエス様を信じている私たちにイエス様が望んでおられることではないでしょう。
36:09
そのように祈っている人々、夢を持って一つ一つ使えている者たちの上に主はその祈りを、悩みを、夢を叶えてくださるんです。
そして魂が救われるように主は助けてくださるんですね。
皆さん、イエス様にとって一番うれしいことは魂が救われることです。
だから魂の救いのために悩んで祈って集まって伝道して、
そうしている教会を精霊様はよく目を止めてくださって、
どうしたらこの教会をどうしたらこの人を助けてやることができるんだろうかと思って、実際に助けてくださる。
福岡にいる時のある教会の話です。
ある教団の教会の街道が福岡の中心の天神という街がありますけれども、
そこからバスで30分、40分ぐらい離れているところに教会があります。
だからこの教会は福岡の中心のあの天神に街道を建てて、
そこで本当に福岡中心で伝道活動をしたいな、いろんな活動をしたいなという夢を持って祈っていたしました。
でもそれは教会全面的に立ち立って祈ったり、そうしましょうと言っているより、
そんな心の中にそういう夢が先生から語られて、みんなの信徒さんが、
そうですね、そうできたら若者伝道もできますし、いろんな集会もできるんだったら、
福岡の教会のために貢献できるだろうという夢を持っていたころです。
ところが不思議なことが起きました。
たまに他の教会でもよくあるケースなんですけれども、
その教会の信徒じゃない、ある方が、ある教団の信徒ですよ。
天神のど真ん中にですね、ものすごい良いところに土地を持っています。
神戸だったら三宮の辺りのあのところに土地を持ってですね、
その土地をですね、自分の教会じゃなくて、なぜかこの教会にそれを捧げたんですね。
その信者に頼んだ人もいませんし、この教会が天神の土地を買おうとしている噂を言っていないんです。
しかし不思議ですね。その土地が捧げられて、そしてその教会は、これは神様からのおこたではないか。
39:07
そして総会議でそれを決めてですね、そこに立派な会堂を建てました。
そしてそこでですね、礼拝も一緒に捧げていたり、土曜日にいろんな集会もしていたり、
教協和の様々なですね、ゴスペルとか、あるいは講演会とか、あるいはいろんな世界がそこで開いているんですね。
皆さん、これが祝福の原因になります。
魂を救うために家様の心を持っている神と教会、
与えられたこの承認のこの使命をもうまく果たしたいと願って祈っている人々を、
夢を持って、美情を持って、祈っている教会を聖霊様は目を止めてくださったんですよ。
そして聖霊様はですね、例えばですね、このさっきの教会のように、この土地をどこの教会にあげようか。
聖霊様はね、目を止めて、よく祈って、そして美情を持って、植えたがいている教会にそれを与える、プレゼントして与えるんです。
そうするとその教会がそれをですね、よく用いるからなんですよ。
ところが皆さん、聖霊様は魂の救いという、この祈り方を持って祈る教会、
涙を持って、あるいは夢を持っている人々をよく目を止めてくださって、
彼らに伝導、さらにさらにですね、伝導してもらいたいから、
彼らを通してもっと一人でも多くの人々が救われてほしいから、
聖霊様からそれを、というプレゼントをですね、抱かせてあげてくださるわけなんです。
人の働きの歴史は教会の歴史であって、教会の模範であります。
そしてこの人の働きのこのメッセージをですね、私たちはこのように見習わなければなりませんし、
また私たちもこのように承認の使命を果たすことができるという証を、
励ましを、夢を、私たちに語っているんですね、皆さん。
皆さん、イエス様は私たちが、私たちにできないことを求める方ではありません。
私たちにできることを求めておられ、そしてもしも今も状態でできないんだったら、
42:06
それはできるように知恵を与えて、能力を与えて、知恵を与えてくださる。
だから私たちに必要なのは、聖霊の働きを、聖霊の力を信頼してついていくこと。
皆さん、私たちはイエス様の承認です。そのプライドを持っていきたい。
そして私たちがこの承認の役目をうまく果たすことができるように、
聖霊を贈ってくださって、知恵を与えてくださって、力を与えてくださる。
そのイエス様を信頼しようではありませんか。
そのイエス様に全て委ねて従うではありませんでしょうか。
22回、教会総会が開かれるこの聖実礼拝に、私たちみんな心を一層に捨てたり、
妙谷教会の開拓精神と、イエス様の人よりとして召されたこの本部を共に考えてまいりました。
皆さん、生徒は承認の役目を果たすときが一番美しいんです。
教会は救いの箱舟の役割をよく果たすときが一番美しいんです。
そこに教会と生徒の存在価値があって、存在の目的があるのではないでしょうか。
それをまるで鳥は空で飛んでいるときが一番美しいんですね。
魚は水で泳いでいるときが一番美しいんです。
獣は野原で走っているときが一番美しいんですね。
それが逆になっていたら大変なことになるわけです。
精霊、力、承認、この三つのキーワードが、私たちに向かうイエス様の愛と救付のメッセージではないでしょうか。
それはイエス様が私たちを強引にするためのイエス様のプロジェクトなんですね。
私はイエス様は私たちを通して、妙谷教会を通して、一人でも多くの魂が救われることを願っておられます。
この妙谷教会を通して、私たち一人一人通してですね、
イエス様の魂が救われることを祈りつつ、発表されつつ、
この御殿様に命された強応にとして一緒に歩んでまいりましょう。
45:04
お祈り致します。
45:06

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