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おはようございます。
今日はですね、名谷教会がことして、創立26周年を迎えるようになりました。
今まで、私たちの信仰を導き、教会を導き、恵んでくださり、満たしてくださり、
そういうふうに言って、神のことをして、ここまで養ってくださった、そのある神様に心から感謝をいたします。
また、今に至るまで、県に召された信仰の先輩の方々、また今の皆さん方々、
一人一人のお祈りと、また愛のわざと、あるいは涙ある報酬、あるいは精一杯のお捧げ物によって、
主の教会がこのように、この難しい時代にあって、教会が立ち上げられていますことは、
本当に神様が神の人、神と一人一人を用いて、ここまで導いてくださったに違いないと信じております。
おそらく、私より皆さんがはるかに深い、深みのある、あるいは重みのある、そういう感想というか恵みというか喜びがあるのではないでしょうか。
26年前、あるいはもっと遡って、与谷教会が西武教会から株分けされるあの頃、45年前でしょうか46年前でしょうか、
遡ってきますと、本当にですね、もっと多くの赤字、あるいは喜び、そういうことが皆さんの脳裏にですね、
フォーマートのように、映画のようにですね、流れていくのではないでしょうか。
そこにはね、恵みも喜びも感謝もたくさんあったのではないでしょうか。
26年とすると、ほのほの7年目、法師はさせていただいておりますけれども、だいたい4分の1という時間をですね、神の恵みによって、
このように皆様共に信仰生活ができることは、本当に神様の素晴らしい恵みだなというふうに覚えて感謝しております。
これからもですね、ともに愛し合い、ともに信仰を高め合い、ともに助け合い、ともに支え合い、ともに喜び合い、
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ともに神の教会、神の国を立て上げていこうではないでしょうか。
それでは一番上にですね、周りの方々と挨拶をしますね。
ありがとうございます。一言お祈りします。
しかし神の人よ、あなたはこれらのことを避け、正しさ、経験、信仰、愛、忍耐、入和を熱心に求めなさい。
主よ、私たちを一人一人神のことされ、あなた神の人として下さって、この世に主なる神様、王の王、主の主を敬拝できます、この恵みを本当に感謝いたします。
かつては罪ととばのゆえに死んでいた私たちです。神の敵だった私たちです。
弱かった時、神を知ろうとしない、逆らっていた私たちでした。
しかし、ただ一方的な神様の恵みによって、神なるイエス・キリストの十字架の使徒、その指標によって、我々のすべての罪が赦され、贖われて、神の民に入れていただきました。
そして、このように礼と誠をもって、主を礼拝できますこと、本当に主を感謝いたします。
この主の街道が建てられまして、二十六周年、また遡ってきますと、伝道書の時代、様々な時代を通ってここまで来れました。
いや、主が導いて下さいました。
すべては、神様の善のなる御手による業であり、主の恵みであります。
私たち人は、神の前には何者でもありません。
どうか、主よ、私たち一人一人が、これからさらに五年、十年、あるいは二十年、イエス様が再び来られるその日まで、主の教会が建て上げられ、神の国がこの市に来ますように。
そして、我々一人一人が神の人として、主の教会と神の国を共に励まし合い、祈り合い、助け合い、前道し合って建て上げさせていただきますように。
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どうか、私たち一人一人を恵みで満たし、満たまり満たし、強めて用いて下さいますように、お願いをいたします。
御手に委ねて、今日も主よどうぞ、我々に必要な主の命の言葉をお語り下さいますように。
聞く耳を与えて下さり、また全ての重い患いや全ての穢れの心を取り除いて下さって、赤ちゃんのような純粋な心で主の御言葉を受け取ることができますように。
そしてその通りに行える力をお与え下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
今日はシリーズメッセージは今日はちょっと休みまして、創立記念礼拝にして、神の人、神の教会、神の国という題にしまして、神の御言葉を取り過ごしていきたいと思います。
聖書の歴史を見てみると皆さん、どの時代にあっても神様はですね、神の人を通して、神の国を、あるいは神の御業を成就してまして下さったんですね。
例えば、ノアの時代のところでしょうか。
ノアという人、あるいはその家族を通して箱舟を作らせて、そして家族を、もちろん動物、家畜もありますが、救いの御業を神様はノアという神の人、信仰の人を用いて、
通して、あるいは彼のために主が御業を成して下さいました。
また、アブラムの時代はどうでしょうか。
アブラハムという神の人を通して、このイスラエル民族という、それを主はね、し始めて下さいました。
ヨセフはどうでしょうか。
あのエジプトにあって、ヨセフというあの神の人、信仰の人を通して、ヤコボの家族を含めて、主の救いという御業を主が成して下さったんですね。
また、モーセはどうでしょうか。
モーセの時代、モーセだけではないでしょうね。
カレボとか、ロスワとか、他の信仰の人物もいたと思いますけれども、そのような神の人、信仰の人を通して、主はあのイスラエルの人々を、主は救って下さい。
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イエス様の時代は、もちろんイエス様、他にもですね、イエス様の弟子、人たちを通して、主は主の御業を成し遂げて下さいました。
今の時代も同じでしょう。
神様は神の人、信仰の人、神を愛し、その教会を愛し、神の国が来ますようにして、派遣で仕えていくその人を通して、
その人を用いて、神様は御自分の教会を、御自分の御支配を、また神の国を成し遂げて進めていかれるということであります。
今日の第一テーマでの見言葉を見ますと、神の人よ、とね、最初から始まっています。
神の人は誰のことなんだろうか。
神の人はどんな人のことなんでしょうか。
生徒全体からお話しすることができませんので、今日の数に限って、神の人とは誰なのかを一緒に見ていきたいと思います。
まず、今日の十一節の箇所を一緒に読みましょうかね。
十一節だけ一緒に読みます。
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避け、正しさ、経験、信仰、愛、忍耐、入和を熱心に求めなさい。
何を熱心に求める人でしょうか、神の人は。
まず、正しさ、その次は経験、その次は信仰、その次は愛、その次は忍耐、その次は入和です。
神の人はどんな人なんでしょうか。
神の目に正しい道を歩む人です。
そのため、神の目に正しい道を求め、
また、自分自身が神の前にあって正しい人となるように熱心に求める人が神の人です。
また、経験な人です。
清い人です。
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いわゆる清めですね。
あらゆる面において、経験さを守り通していく人です。
考えにおいても、言葉においても、行いにおいても清い人、その人が経験な人です。
その基準は神様ですね、神の御言葉です。
その人が神に受け入れられる、だから神の人です。
その次は信仰の人です。
神の人はただ信仰を求めます。
自分がいつも信仰の人なのかを変えにみて、神の心に照らし合わせて自分の信仰を高めさせていただく人であります。
その次は愛の人です。
神の礼によって、キリストの愛によって自分自身も愛の人に変えられていく人です。
そして忍耐する人です。忍耐の人です。
なぜ忍耐するのでしょうか。
喧嘩したくないからじゃないんですよね。
それはイエス・キリストが忍耐されたように、私たちもそれを見習って耐え忍ぶことです。
それから最後は何でしょうか。
入和です。
これもイエス・キリストの神聖ですね。
入和はただの弱さではないです。
弱くても強くても、ただ信仰に立ってキリストに立っているから、誰に対しても入和に行うことができる。
神の人はこのような神聖を熱心に求める人です。
経験・信仰・愛・忍耐・入和です。
さらく今まで、野谷教会がこの2019年に至るまで、皆さんお一人お一人は正しい道を、経験な道を、信仰を求め、愛にあふれて耐え忍びつつ、
入和な言葉や行いを持って、互いに愛し合って、使い合って歩んできたのではないでしょうか。
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もちろんその中には、時には自分自身のことを変えりみたら、正しさが欠けていたり、愛が欠けていたり、
時には忍耐できなかったり、入和でいられなかったりした時もあったのかもしれません。
だからこそ私たちに神の恵みが必要であります。
だからこそ二玉の精霊の恵みが我々に、そしてシト・パウロもあのエピソードで勃開しているこの手も手に、
これを熱心に求めなさいと言っているのですから、
私たちはなおさらこの正しさ、経験、信仰、愛、忍耐、入和を求めるべきではないでしょうか。
そしてその次の十二節も一緒に読みたいと思います。
十二節、ご一緒に。
信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠の命を獲得しなさい。
あなたは神の人はどんな人なんでしょうか。
十一節に続きまして、信仰の戦いを勇敢に戦う人であります。
悪魔との戦いでしょう。また罪との戦いでしょう。
また自分の情欲や野望や穢れや罪との戦いではないでしょうか。
誰も完全な人は一人もいない。完全に勝っている人は一人もいない。
だから私たちは後からも御言葉がありますように、
イエス・ヒリストの現れの時まで、傷のない、至難されるところのないものでありたい。
それが神の人が歩む道であります。
信仰の戦いを勇敢に戦っていこうではないでしょうか。
そして私たちの永遠の命を、この信仰を奪い去ろうとしている悪魔との戦いをやり続けていく人。
それが神の人であります。
そしてその神の人の集まりが主の教会であります。
そしてその主の教会に神の栄光が満ち、神が住まわれ、そしてそこが神の国、神の御支配のもとにある。
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そして十二節の最後を見ますと、
あなたはこのために召され、また多くの商人たちの前で立派な告白をしました。
手も手は多くの商人たちの前で立派な告白をしたんですね。
これこそ神の人です。
神の人は多くの商人の前で立派な信仰の告白をする人です。
私はキリストのものです。
私は神の人ですとね。
そして信仰のお訳しをする人です。
孟子のように、吉祥のように、カレブのように、シトタウロのように、手も手のように、
また無数の信仰の先輩たちのようにです。
生徒の前で信仰を告白し、互いの信仰を高め合う人、その人が神の人です。
神の人のお話を、あるいはお訳しを聞くときに、私たちは信仰の勇気を得ることができます。
信仰のお訳しを、信仰のお話を聞くたびに、信仰が高められます。
そして励まされます。
そして素晴らしい神様、素晴らしいイエス様といってですね、神をはだめるようになる。
だから、キリストがはだめられること、それが本能です。
そして14節も一緒に読みたいと思います。
14節、一緒に読みますね。
私たちの主イエスキリストの現れのときまで、あなた方は命令を守り、傷のない、非難されるところのないものでありなさい。
アーメン。
だからさ、私たちが目指していく道は明らかです。
いつイエス様が再び来られるか、私たちには分からないんですけれども、確実にイエス様は再び現れます。
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そのときまで、そのときだけではないですね、そのときまで、私たちは主の命令を守る。
それが神の人であって、その人たちの集まりが神の教会であります。
このごろ、水曜日においては、ヨハネの目識録を学んでおります。
また、早天においては、失礼10時が終わりまして、レビッグを学んでおりますが、
どこを見ても、神の人は、神の教会は、神の命令を守ることが最も大事なことなんですね。
失礼10時レビッグ、皆さんもたくさんお読みになったことがあるかと思いますが、そこを注目してよく読みますと、
神の命令通りに行った。
モーセは神の命令通りに行った。
イスラム神は、モーセを通して命令された神の言葉を通りに行ったという言葉が何十回も出てくるんですよ。
神の人は、神の教会は、神の命令を守る人集団です。
人の考えに従うのではない。神の命令を守る。
ところが、神の命令を守るためには、どうしたらいいんでしょうか。
これが神の命令なのかどうか、見分けることができる霊の力を持っていることが大事ですよね。
宝石の鑑定をする鑑定士は、これが本物のダイヤモンドなのか、偽物なのか、キュビクなのか、
私たちのような素人の目には分からないんだけれども、その専門のプロの目には、それが見たら分かるんですよね。
これは本当の本物のダイヤモンド、これはただのプラスチックみたいにね。
信仰の人も、神の教会も、神の人も同じです。
そのためには普段、祈りと見言葉に叫ぶこと、他には力があります。
祈りを通して、あるいは見言葉を通して、お家であるいは教会に集まって、一人であるいはみんなで神に教えていただくことが、神の命令を守るための第一の道なんですよね。
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神の人は、神の命令を守ります。
そして、神の命令を守るために、神に聞く人。
そして、傷のない避難されるところのないものでありなさい、と見言葉。
教約の時代は、絶対に傷のない羊とか牛とか鳩とかを捧げることができなかったんです。禁じられていました。
今はね、同じく牛とか羊を捧げることはないんですけれども、傷のないイエス・キリストが十字架において死んでくださって、血を流してくださった。
だから私たちも、傷のないものであるよう、避難されるところのないように、この信仰の道を全うして歩んでいこうではないでしょうか。
神の国は、神様が治められるそこ。そこが神の国です。
私たち一人一人が、神の支配を全く受けて歩んでいるならば、私たち皆さんがいるそこが神の国です。
そして神の人が集まって礼拝し伝道するところ、そこが神の教会であって、またそこが神の国が望まれるところである。
あっちにあるこっちにあるのではない。私が神の人であれば、私たちみんなが神の人であれば、神の教会は神の国の中にあって、神様がイエス・キリストが御自身の教会を御自身の主権を持って、などと見ていくのではないでしょう。
最後の十五節、十六節を読みまして、説教を終わりにしたいと思います。十五節、十六節、信仰を持って一緒にお読みしましょう。
そのあらわれを神は御自分の御主とする。神は福福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主。ただ一人気のない方であり、近づくこともできない。
そのまわれ、人間が誰一人見たことのない、また見ることのできない方です。おまれと常しえの主権は神のものです。アーメン。お祈りします。