1. 名谷教会
  2. 2014/07/06:聖日礼拝(旧音源)
2014-07-06 42:24

2014/07/06:聖日礼拝(旧音源)

2014/07/06 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、ありがとうございます。
みなさん、おはようございます。
それでは、今日も御徒さんに入る前に、隣の兄弟姉妹たちに挨拶をしたいと思います。
はい、どうぞ。
それでは、一言お祈りします。
神様、今日も、こうして主の御前に礼拝できる、この幸いな恵みを心から感謝いたします。
今、聖火体が賛美を捧げたように、雨のように、あなたの恵みとあなたの力と御様を、主よ、あふれること、今、この心に、主よ、注いで下さいました。
心からお願いいたします。
どうぞ、神様御自身が、私たちに、一人ひとりの心の中に、あなたの御言葉を持ってお語り下さいましたように。
深い語りが与えられますように。
そして、この御言葉に突き刺さる、神火の実践の力も、主よ、どうぞ、増し加えて下さい。
御手に委ね、神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日は、キリスト教のエッセンスのシリーズの説教、神火について、共に生徒に学びたいと思います。
今日と来週に、2週にかけて、この神火について、共にですね、生徒から教えていただきます。
私たちが教会生活をし始めながら、一番ですね、多く耳にする言葉のひとつが、神火、あるいは信じるという言葉だと思います。
実際に、キリスト教は信仰を、とても強調をしています。
私たちが信じるとか信仰とか言いますけれども、聖書が語っている、聖書が教えている信仰はどんなものなのか。
それをですね、まずしっかりと分かっていただいて、そしてその上に、私たちの神火という家と言いましょうか、その建物を建て上げていかなければならないと思います。
03:04
その前に、何が聖書的信仰ではないのか、聖書が言っている信仰ではないものが何なのか、それを短く共に考えていきたいと思います。
その一つ目、聖書が言っている信仰ではないものは、自分自身を信じることです。それは誠の信仰ではないですよね。
例えば、俺は大丈夫、私はできる、といった考え方は、聖書が言っている信仰とは何らの形も関係もありません。
それは自分自身ではなく、例えば国を日本だから大丈夫、日本だからできる、といった漠然とした信仰というようなものも、聖書が教えている信仰ではありません。
自分や人やあるいは国家というものを信じるということは、ある意味で単なるポジティブシンキングに過ぎない。聖書が教えている信仰は、この前向き的、肯定的な考え方、ポジティブシンキングではないです。
二つ目、聖書が教えている信仰ではないものは、漠然とした楽観主義、楽天主義というものです。何とかなるだろう、時間が、例えば良くなるだろう、といった楽天主義と言いましょうか、楽観主義と言いましょうか。
そういった話を聞くときには、一瞬慰めになるかもしれませんが、本当の答えにはならないと思います。
時間が経てばすべてのものがうまくいくのでしょうか。すべてのものが良くなるのでしょうか。そうではないと思います。
この人類の歴史だけ見てもですね、歴史が立てば立つほど、人間愛や平和がさらにさらに豊かになるのでしょうか。そして戦争もなくなる、搾取もなくなる、貧困もなくなるのでしょうか。そうではないんです。
06:04
神様を無機にした楽天主義は、単なる虚しい妄想にしりないのです。
さあ、それでは聖書が言っている真理とは何でしょうか。その一つ、真理は救いの鍵であるということです。
聖書を一箇所開きましょう。ヨハネの福音書11章25節26節です。一緒に開きましょうか。ヨハネの福音書11章25節26節。新約聖書201ページです。
それでは、ご一緒にお読みしたいと思います。
3、イエスは言われた、私はよみがえりです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。アメン。
ここでの信じるとは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストが救い主であられ、十字架で死なれ、三日目によみがえられた、その十字架の福音を信じる、それが聖書が教えている信仰、信じるということです。
私たちはこの信仰を持っています。十字架の福音、イエス・キリストの福音を信じる生徒です。
ですから皆さん、信仰生活をするということは、単なる教会を通うことではなく、このイエス・キリストの福音を信じる、そしてこの福音が言う通りに生きる、これが信仰なんです。
二つ目、信徒は、先ほど自分自身や人や国家といったものを信じるものではないと申し上げました。そしたら私たちは何を信じるのでしょうか。それは生きる神様の御言葉を信じるわけです。
私たちはこの66ヶ907ヶ聖書が神様の誤りのない御言葉であることを信じます。そしてこの御言葉が、昔も今もこれからも永遠に変わることのない力ある御言葉であることを信じます。
09:20
それは皆さん、考えていただけたらいいですか。御言葉その通りに信じるということは、神様の力ある御業、神様の偉大さを、私たち人間のみすぼらしい水準に引きずり下ろして詰め込むのではなく、
神様の力ある御業に、神様の偉大さに、全知全能性に自分を引き上げていただくこと、神様の思いに、神様の身胸に、神様の全能性、永遠性に、自分の生き方、自分の考え方を合わせること。
それが信仰なんです。つまり、信仰とは、神様に満面なく、隅々まで全てが納められる生き方。これが聖徒が教える信仰なんです。
信仰は理論ではありません。信仰は考えではありません。信仰は生き様であり、信仰は行いであります。だから、神の御言葉が、「生きなさい!」と言ったら、生くことです。
つぶやかない、文句を言わない。神様の御言葉が、「生きなさい!」と言うならば、アブラハムのように出発する。
神様が、「生きなさい!」と言うならば、溢れているヨルダン川が流れていても、あのヨシワと祭司たちが神の箱を担いで、その溢れるヨルダン川に足を踏み入れたように、「生きなさい!」と言われますと、生くことが信仰なんです。
また、神様がここで、「留まりなさい!」と教えるならば、自分が生きたくても、進めて生きたくても、そこに留まることが信仰なんです。
ですから皆さん、信仰はこのように従順と対になっています。信仰は従順の上に立て上げられるものです。
12:13
ですから従順がない信仰は、土台のない建物と神様の御言葉通りに従うことが従順であり、それが実は信仰なんです。
皆さん、まずアブラーマが信仰の祖先として認められるように、生存にも褒められて言われているんですよ。
アブラーマが、「もし神様があったら、あなたの家へと出て行きなさい!」とよく聞きました。
神様の言葉は素晴らしいですね、と言うだけで家を出て行かない、動かない、そうしたらそれは信仰に至らないものです。
神の御言葉通りに聞き従うこと、それが信仰の根本なんです。
ですから従順を抜きにした信仰は、それは単なる信仰というぬいぐるみをかぶっているだけだと思います。
なぜかと知りませんけれども、日本にはご当地キャラクターが多いんですね。
調べてみたら全国に850のキャラクターがある。
フナチとかコマモンとかあるんですね。
その他には知りませんけれども、皆さん、コマモンぬいぐるみをかぶっていたらコマになれるんでしょうか。
それは単なるぬいぐるみに過ぎないんです。
信仰と従順の関係は、私たちは信仰というぬいぐるみをかぶっている生徒ではありません。
神の御言葉をそのまま信じる、そしてその信じる御言葉通りに生きる、働く、動く、従う。
これが私たちの信仰なんです。
皆さん、生徒が生徒として呼ばれるその理由は何でしょうか。
それは信仰というぬいぐるみをかぶっているからではなく、神の御言葉通りに生きるから、神の御言葉通りに従うから、神様の御言葉通りに働くから、生徒、教会と呼ばれるわけです。
15:08
二つ目、信仰には立派な信仰もあり、薄い信仰もあります。
それは私の話ではありません。
政府のイエス様がおっしゃった御言葉なんですね。
深くの詳細を見てみたいと思います。
マタイの福日書15章28節。
よろしいですか。新約31ページですね。
マタイ15の28節、一緒に読みましょう。
3、その時イエスは彼女に答えて言われた。
ああ、あなたの信仰は立派です。その願い通りになるように。
すると彼女の娘はその時から治った。
そして今日の御言葉の着任大経にイエス様がおっしゃったことも見ていきましょう。
9節ですね。今日のルカノ福日書7章9節。
よろしいですか。一緒に3、はい。
これを聞いてイエスは驚かれ、ついてきていた群衆の方に向いて言われた。
あなた方に言いますが、このような立派な信仰はイスラエルの中にも見たことがありません。
もう一箇所。マタイの福音書、今度は14記、31節です。29ページです。
31節、一緒に3、はい。
そこでイエスはすぐに手を伸ばして彼をつかんで言われた。
信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。アメン。
ここを見ますと、マタイの15挙は女性でした。違法人の女性でした。
そしてこのルカノ福日書に出てくる100人会長も違法人でした。
しかし彼ら二人は立派な信仰を持っていると、信仰には立派な信仰があるとイエス様が言われました。
そしてこのマタイの14挙には信仰の薄い人だと仰せるんですね。
18:00
だからこのイエス様の御言葉から言いますと、信仰には立派な信仰もあり、薄い信仰もある。
日本語は立派、そして薄いという言葉で訳されていますけれども、
その意味は立派な信仰は大きな信仰、薄い信仰は弱い信仰と訳しても大きな間違いはない。
ですから皆さん、外見を見たらみんなが同じような信仰を持っているかのように見えるかもしれませんが、
立派な信仰を持っている生徒もいるし、薄い弱い信仰を持っている生徒もいるわけです。
こう申し上げるのは、信仰の弱い人、薄い人を責めるためではありません。
私たちみんなは薄い信仰、弱い信仰から立派な信仰へ成長していかなければならないし、
神様がそのように立派な信仰者に養ってくださることを信じているわけです。
ところが皆さん、その信仰というものは、信仰の経歴、信仰の年数とは相当関係があることは、
言えません。
フリーチャーホームで生まれたからとか、教会に行って50年70年になったからといって、
その人が必ずしも立派な信仰を持つ人とは言えないかもしれません。
むしろ時々目にするのは、教会に通い始めてそんなに多くはなっていないんですけれども、
古い信者より立派な信仰を持っている生徒もあり得るということです。
ただして、私たち自分自身の信仰は、
家様に今語っていただくならば立派な信仰と言われるでしょうか。
今日の百人大徒の話を見ていきたいと思います。
百人大徒は六節を見ますと、
家様にこのように申します。
六節。
21:08
と申します。
皆さん、この百人大徒の信仰を見習いたい。
良いモデルを見たら見習いたい。
チャレンジを受けて、私もそうなりたい、そういう気持ちになっていただきたいんですけれども、
なぜかですね、一概には言えませんけれども、
日本の教会の場合に良いモデルをお見せして、
チャレンジを受けましょう、見習いましょう。
そしたら、私にはできませんと聞いてしまう稽古があるかなと私は思います。
この百人大徒の信仰の始まりは、この立派な信仰の始まりは、謙遜から始まっているんですね。
あなたを自分の屋根の下に置き入れする資格は私にはありません。
私のほうから置くことさえ失礼と存じますと。
彼はこういう感じです。
すごい身分を持っている、力を持っている、先生を持っている人なんですね。
しかし彼は、生きる主義者様の見舞いで、自分には何の資格もないものであることを悟って、
そこから彼の立派な信仰は始まっているんです。
つまり、イエス様を王として、王様として使える信仰。
自分は無劇な下手にすぎないと減り下るこの姿勢から立派な信仰が始まっているんです。
イエス様を自分のボスのように、自分の王様のように使える、これなんですね。
イエス様がわざわざ自分の家においでくださらなくても、ここで離れているんだけども、
ここでお言葉さえいただくならば、うちの家にいるあの忍びは治りますと。
信じる立派な信仰です。
七つの、ただお言葉をいただかせてください。
そうすれば、私の忍びは必ず癒されます。
皆さん、これなんです。
百人大徒の信仰は、立派な信仰は、イエス様のこの御言葉の力、イエス様の癒しの力を信じていました。
24:10
お言葉さえいただいてくだされば、治ると、必ず癒されると信じています。
皆さん、私たちにこのような信仰があって欲しいんです。
妙なに教会がこのような百人大徒のような立派な信仰を持って欲しいんです。
二十千年前も、今も、これからも変わることのない、永遠の力ある神様を信じる信仰なんです。
そして、その信じる通りに物事を行い、進めていく、生きる、戦う、実践する、それが信仰なんです。
信仰といえば、思い出す二言があります。
皆さんもご存知の場所です。一緒にいただきましょうか。
テーブル人への手紙、十一章一節。
新約聖書、四百三十八ページです。
では、ご一緒に読みましょう。
三、信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものです。
皆さん、信仰は望んでいる事柄を保障します。
だから、信仰がなくては、何かを望んでいる。
ああ、癒されたい、何かしたい、こうありたい、こうなって欲しい、という望んでいることがあるんですよね、皆さん。
個人的に、家庭に、あるいは教会的に、そういったものがあるんですよね、事柄が。
でも、信仰がない。そしたら、それは保障されないんですね。
信仰は、私たちが望んでいる、ああ、こうなりたいな、こう変わって欲しいな、そうすることを信仰が保障してくださるんです。
つまり、信仰が私たちが望んでいる事柄を突き動かしてくださる、そしてそれを成就してくださる力は何でしょうか。
信仰なんです。そして、目に見えないものを確信させるものです。
まだ成就されていないんですが、これから成就されると、癒されると、こうなると、それを確信させる力は何ですか。
27:11
信仰なんです。だから、信仰を持っている人と、信仰を持っている教会と、そうでない教会としてとは全く違うわけです。
私が動くのではありません。私が働くのではありません。
信仰は皆さん、神様が働くことを見るだけなんです。
立派な信仰は、現実に囚われて、恐れて心配するのではなく、今目に見えませんか。
先取りして、求める通りに、望んでいる通りに、従ってくださると、必ずそうなると、それを今目の当たりで見ているかのように確信するんです。
それは何が確信させてくれるんですか。信仰が確信させてくださるんです。
様々な現実という条件、都合に囚われていないで、目を上げて、善のなる神様を見上げること。
そして、主の力と主の助けを必ず信じる、神の力ある宮座を信じること。それが信仰であり、主人公がそれを確信させてくださるんです。
だから、確信は、「ああ、確信ですよ。はい、できます。」で、できるものではないんです。
信仰が確信させてくれるんです。
もしですよ、もしも、宮座に都会が、「さあ、新しい街道を建築しましょう。十分に乗って、木などとしましょう。」
もしですよ、固定です。
そしたら、皆さんの反応はいかがでしょうか。
先生が十分に乗って決められたわけですから、そうしましょう。という反応をするんでしょうか。
あるいは、今人数も少ないし、これでちょうどいいじゃないですか。
住み立て金もあまりない。なぜ建築をするんですか。お金はあまりありません。という反応をするんでしょうか。
30:00
皆さん、その反応、その答えが、実は私たちの信仰の水準なんです。
立派な信仰の答えを持っていると私は考えたいですし、信じたいんですけれども。
この前も少しお話をしましたけれども、この前、東京に県庁に行ってきましたけれども、
ウシクシにあるケンセンチリスト緑のタペルという教会の話を、もう少し具体的にお話したいと思いますが。
この教会がウシクシにある緑のタペルという教会です。先生は大北という先生なんですか。
その次の、ここが街道なんですね。200名以上入る2階の建物なんです。この次に行きましょう。
ここでちょっと話をさせていただきたいと思います。
ちょうど30年前でした。4人の信者さんがワンヌームで教会を始めました。
その前はどこを向いていただけますか。ここをご覧ください。
そこかな、こっちか。さっきの先。OK。そこでいいです。開拓をしました。
そして30人までは割と順調に成長したそうです。
そして30人ぐらい集めて、今の明太にぐらい。
そのときに一つの一軒家で始まったわけですから、大変なんですね。
それで30人を受けてきて、先生が十分に祈って答えられて、そして5年後なんですね。
100人収容できる街道建築をし始めました。
そのときにその教会の状況をお聞きしたら、今の明太にとよく似ていました。
懸念された方々が多い、ちょっと遠くから離れている田舎なんですね。
筑波市の隣でしたから。それで若者も少しあるはありましたけれども、
経済的にそんなに神が豊かな教会の状況ではなかったそうです。
33:05
しかし不思議なことは、その先生がおっしゃったんですけど、先生がずっと祈って、神様が答えられて、
それを総会で出したときに万女一致で建築をしましょう。
そして100人入る街道を建てました。
そしてその6年後ですね、アメリカから占拠師を協力占拠師として迎え入れました。
そして30人が50人を超えて、そして60人ぐらい集まっているときでした。
その先生は確かに50人という壁を突破するのは、確かに難しいとおっしゃっていました。
それでですね、30人から50人を突破するに7年ぐらいしやしたそうです。
そして60人ぐらい集まっていたときに、またこのままでずっと居心地のまま、このままいいからそれでいったら、
教会は選挙的体質には変わらない。
そしてさらにその次のページ、ごめんなさい、前のページ。
98年ですね、200人、今のさっきの街道です。それを建築することにしました。
60人集まっているときですよ。
その先生の話は、街道だけではなく、礼拝も変え、組織も整え、
弟子訓練やデボーションや祈りや、また特に伝道にみんな力を入れて、
教会みんながひとつになって出ていった。
そしてこの、やっぱり礼拝道という物理的な環境を整えることは大事である。
そして教会が30人ごとに集まると、みんなお互いによく知り合って、
まるで家族のように居心地を定めて、留まりやすくなる。
その一家族的な交わりを脱却して、そして新しい人、新しい人が入ってきても受け入れる。
問題を問題じゃなくて、好奇と捉える。
ビジョンを掲げ、喧嘩を喜ぶ、取り組んでいきました。
そして先の200名のあの街道と501房の壺が与えられ、
そう行くときに先生の大きな先生の若しさは、
もちろん先生も信者さんも本当に精一杯捧げ苦労もありましたけれども、
36:02
いやそれはほんのわずかの一部であって、
はるかにそれより大きな働きを神様が成し遂げた。
そうせがいの人から何百万円の献金も捧げられて、
神様が銀行の遠取りも持ち入ってくださる、
矢口も菅心を捧げてくださる、見つけてくださる。
そして30年間の歴史の間に開拓も3つもしました。
そして私の知り合いの選挙主が2006年小平市に開拓した選挙主なんですけれども、
私が皆さんに申し上げたいのは、いい態度を持っていいなという意味でありました。
その先生と教会員の信仰でした。
その先生はこうおっしゃっていました。
神父さんの本当に心尽くした協力と献金がありました。
そして何より神様は私たちの信仰を見られ、主が好き動かしてくださいました。
今まで30年のこの2回の開道、それから3つの開拓をしたこと、
これは信仰による働きでしたとおっしゃっていました。
普通の先生はこうおっしゃいました。
信仰によって進めていけば神様が不思議にも全てを突き動かしてくださる。
献金も見出してくださる。
本当にミラクルを体験しましたよとおっしゃっていました。
そして大塚先生はこうおっしゃいました。
神様の働きには、神様の力ある身肌の働きには流れというものがある。流れがある。
この神様が今働こうとしておられる。
今神様ことを進めようとしておられる時に、
その流れに私たちが身を委ねること。
その流れをタッチして、その流れに身を委ねてきただけですよとおっしゃっていました。
この先生はまた続いてこうおっしゃいました。
ある教会は続けて成長していきますが、ある教会は大きな変化も成長もストップしている。
39:02
なぜでしょうか。
この先生はこうおっしゃいました。
信仰によって神様の見当たる働きの流れに身を委ねる教会なのか、
現実にとらえられて、神のこの働きのタイミングと流れを見逃してしまうのか。
そこにかかっているとおっしゃっていました。
皆さん、私が皆さんに申し上げたいのは、
広い星や大きい街道、そういったものではありません。
今の時代、大きい街道を持っているかといって、教会が成長しているわけではありませんよ。
日本にも韓国にも大きな街道を建てましたけれども、
そもそもその教会は信仰がないから、
もう塞いで、狂信でその街道を売ってしまう教会が多くある。
私が皆さんに申し上げたいのは信仰なんです。
私がその親人先生の話を聞いて、
ああ、これは信仰の違いなんだ、私は気づきました。
この緑の社会では、その選手はじめ、
神徳さん、役員さん一人一人は本当に立派な信仰を持って、
30年のこの働き歩みをここまで来たなと私は本当に強く感じました。
考えさせられました。
妙谷教会の進歩はどんなもんでしょうか。
皆さん、お一人お一人の進歩はどんなもんでしょうか。
最後に、伊勢谷書55章8節9節を一緒にお読みしてメッセージを終えたいと思います。
伊勢谷書55章8節9節。
1217ページです。
一緒に読みたいと思います。
3、私の思いはあなた方の思いと異なり、私の道はあなた方の道と異なるからだ。
主の御告げ、天が地よりも高いように、私の道はあなた方の道よりも高く、
私の思いはあなた方の思いよりも高い。
アーメン。
皆さん、進歩というものは、自分の思いはもう小さなものであることを認めて、
42:03
神様の思いを待ち望み、そしてその思い通りに踏み出す、働き出す、
出発することです。それが進歩なんです。
お祈りしましょう。
42:24

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