1. 名谷教会
  2. 2014/07/13:聖日礼拝(旧音源)
2014-07-13 45:49

2014/07/13:聖日礼拝(旧音源)

2014/07/13 聖日礼拝(旧音源)




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皆さん、おはようございます。今日は、本当に雨の中ですけれども、よくいらっしゃいました。
では、いつものように、メッセージに入る前に、隣の方々、握手をしたり、挨拶をしたり、マジは電話機を持ちましょう。
ようこそいらっしゃいました。おはようございます。
ありがとうございます。
どうぞお祈りします。私たちは愛し、また、いつまでも共にいて下さる主よ。
今日もこうして、一人一人名を呼んで、主の教会に集めて下さり、ありがとうございます。
今日、私たちがこの場所に集まっていることは、神の意図であり、神のお見せであることを、これから信じます。
神様、今から、あなたの御言葉をもって、私たち一人一人に御声を聞かせて下さい。
真意を悟らせて下さい。また、あなたの心を深く知ることができますように。
神御自身が、私たちにおかしみたりになれます。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
今日の説教の題は、キリスト教のエッセンス、信仰その2のサブタイトルがありまして、神様を驚かせるほどの信仰という題です。
私たちも、本当にうれしいことがあるときに、びっくりするほど、驚くほどのうれしいことがあったり、もちろん悲しいこともあったりするんですけれども。
先週の御言葉におきまして、イエス様が、本当に驚くほどの信仰の人にイエス様が出会ったんですね。
その人は、百人大挙というローマ人でした。
その人の信仰を見て、イエス様はこうおっしゃったんですね。
イスラエルの中でこれほどの信仰を持っている人は、見たことがないと、イエス様が本当に驚いて、その人の信仰を褒めておられました。
今日のおメッセージを通して、願わくは、私たち一人ひとりが、神様を驚かせるほどの信仰を持つ神の人でありたいと願っております。
03:14
今日は、よちよちこの一節、四節の御言葉なんですけれども、実は先週、聖書を目通して読んだりしているときに、神様から与えられた誠であり、メッセージでありました。
そして、金曜日の夜のリバイヴァルキーとかにおきまして、働きましたけれども、さらにもう一度、この朝、祈ると共に御言葉に学び、御言葉に知りたいと。
このよちよち一章の一節から四節が背景になりますので、このところをお話ししますと、
イスラエル人たちが、430年間、今のエジプトの国で、最初は良い身分で彼らは暮らしていたわけですけれども、
後々は彼らは奴隷のように扱われて、何百年か本当に奴隷の身分として働かせられました。
そして神様は、ずっと前、アブラムのときから、約束された地球の地に、カナーのところに導くとおっしゃって、
それがやがて、モンセのときに、やっとこのイスラエルの人々が、あのエジプトの奴隷のあの生活から神様が連れ出してくださって、エジプトから出ていくことができました。
そして今は、罰に乗ったり、被告に乗ったりしたら、エジプトからイスラエルまで、一時間も働かなくて生きるという近い距離になっていますけれども、
これはBC約1400年代わけですから、みんな歩きで、しかも200万人、300万人ほどの神戸市民より多いの人が移動するわけなんですね。
そしてその砂漠のような荒野を通って、今日のこの夜中や次にイスセス、一個に行かれている場所は、イスラエルの地図があるならば、西の方は地球界があるんですね。
そして東の方は、今のイラ、イラク、クエイトがあるわけなんですけれども、その今のイスラエルの真ん中にヨルダン川という川が、北から南の方に流れている。
06:00
今、その東の方に彼らがそこにいるわけなんです。その荒野を、実はもう一ヶ月、二ヶ月で来ることができたわけなんですけれども、彼らの普通住居や。
そして神様の試練がありまして、40年間という時間がかかって、やっとこのヨルダン川の東の方に、今までその200万人以上の人々の指導者はモーセでした。
神様がされた素晴らしい人材であり、勇士の人でした。信仰の人であり、リーダー質もある、努力のある素晴らしい指導者はモーセでした。
しかし、モーセも人間ですから、星をとって、そして神様の御言葉もありまして、カナーの地には入ることができずに、そのヨルダン川の東の方で、あの偉大な指導者モーセが亡くなったんですね。
今イスラルのこの一国にとっては、大変なことが起きたわけです。自分たちをあのアラーノで、やっとここまで導いて引き入ってくれたあの指導者モーセが亡くなった。これからどうしよう。
あのあふれるヨルダン川も渡っていかなければならない。向こうは鉄騎を持つあの七つの部族が待ち構えている。今彼らはそういう都合に置かれているわけです。指導者が亡くなりました。
もうエグポに戻ることもできないんですね。アラーノに住むこともできない。何もないところなんですよね。でも、この多くの人々が川を渡って、カナーの地に行ってもまた戦わなければならない。敵が待っているわけなんですね。
このような状況に置かれているこのヨシワと、それからイスラルの人々に神様が何を語ったのか。今日の御言葉からこの信仰の大事な原理が記されていますね。そしてそれをこの原理は永遠に有効な信仰の原理だと思います。
それを私たちが自分自身に当てはめて、自分のものにさせてもらって、そしてそのように歩んでいきたいとそう願ったり。二節をもう一度ご一緒にお読みいただきたいと思います。二節です。よろしいですか。
09:07
三、私の子供、モーツェは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルザン川を渡り、私がイスラルの人々に与えようとしている地に行け。アメン。
今日の二節、三節、四節において、特にこの単語の動詞に注目していただきたいとなっております。その前にまず、神様もヨシワにこう言われました。私の子供、モーツェは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立っていただきましょう。
神様がヨシワに言いました。これは、イスラルの人々全体におっしゃった言葉ですね。今、あなたヨシワですね、このイスラルの人々は立ちなさい、立ち上がりなさい。いつですか。今なんです。
一時期、今でしょうというように流行る言葉がありますが、本当そうなんです。今です。神様はヨシワに、イスラルの人々に強調して語っていただく。
明日でもなく、明後日でもなく、来年でもなく、十年後でもなく、今。今、この指導者を失ってなくして、そしてどうしようもなくって悩んでいる、あのあなたの今、言われました。
皆さん、今ということは、実は私たちの信仰や従順の物差しのようなことだと思います。さあ、考えてみましょう。ヨシワとイスラルは、まずヨシワから考えましょう。
ヨシワはですね、ずっと孟子の従者でした。しもべ、しもべではなく、しもべと言いましょうか、部下のような立場でした。ヨシワは、このあらわれ40年間、一度もですね、イスラルの指導者になったことがありません。
で、孟子が亡くなって、自分がこの多くのイスラル人の指導者に、いきなりに戦われたわけなんですね。しかも、イスラルの民は、堅くなな民族で、失敗も多くて、孟子にも神様にもですね、何度も呟いて立ち向かった、そういう民族。
僕が余暇だったら、ああもう、使者になりたくないなと思えるほどのイスラルの民族で、自信がなかったかもしれません。恐れていたですね。だから今日の御言葉、見てないんですけれども、旧説を見たらですね、神様はヨシワ御子をおっしゃいました。
12:15
大きくあれ、恐れてはならない。ヨシワは心をきじんでですね、恐れていたですね。どうしよう、どうしたらいいんだろうか、恐れていた。その時に神様は、今、立ち上がりました。
今のヨルダン川も渡っていかなきゃなりません。今のイスラルの実際のヨルダン川は、本当に狭いんですね。このヨシワ木とか、他のセルフンなら、川の幅も広くてですね、水量も多い川なんだろうと思ってですね、一度、僕も行ったことがあるんですけれども、行ってみたら、あれれって、本当に狭い。今はですね、特に狭い川なんですけれども。
このBCのオウム関係はですね、もっと川の幅も広くて、しかもこの時期は、一年中で、もっとも雨が多い時期でした。あふれていたとですね、生徒になかれているわけです。
200万人以上の人々ですよ。赤ちゃんもいるし、もちろん青年もいるんですけれども、お年寄りも人もいるでしょう。歩けない赤ちゃんや大人もいるでしょう。荷物も多いんですね。家族もあるんですね。テントもあり、また幕屋の大きなテントや材料、すべてを持って渡っていかならない。
しかも、向こうはですね、すごいホテルがあってですね、もう家が建てられて、もう引っ越しすればいいわけではない。戦わなければいけない。墓地を見ても、状況は、手法は良くないんです。恐れるのが、ある意味で当たり前のように思えるかもしれません。
しかし、神様はおっしゃいました。だから、今、行動をしなさい。今、やりなさい。今、立ち上がりなさい。と、神様はおっしゃるんですね。皆さん、神様がおっしゃるならば、今、やらなければならないことが多くあるんです。
神様がおっしゃるならば、難しくても、あるいはしたくなくても、あるいは都合が悪くても、恐れていても、悲しんでいても、押し込んでいても、神様が今、立ちなさいと言われますと、今、行動をしなければ。
このページは、この朝、神様が私たちに語ってきたメッセージなんです。
15:10
ヨキワとイスラン民が今、立ち上がらなければなかったように、私たちも今、あのことこのことをしなければなりません。よくよく聞いていただきたいです。
この朝、神様が私たちに、皆さんお一人お一人に、それからこの明太に、長官に、お語りをされました。今、それをやりなさい。と、皆さん、神様が最近、あるいはずっとずっと前からかもしれません。
皆さん個人に、皆さんお一人お一人に、神様が怒ったりになった、あのメッセージがあるのではないでしょうか。もちろん、ないかもしれません。でも、あると思います。何かがあります。それを、主は今、やりなさいとおっしゃるんですね。
悪さでは間に合わないかもしれません。誰との関係を回復するメッセージであるかもしれません。誰との仲直りのメッセージであるかもしれません。あるいは、誰かを許さなくてはならないメッセージであるかもしれません。
どうしたらいいでしょうか。今、許してください。今、仲直りをしてください。あるいは、今、謝ってください。今、愛してください。今、愛してください。おっさんになったら、遅くなるかもしれません。
親孝行したくても、親が亡くなって、親孝行もできない時が来るわけなんですね。信仰的にも同じでしょう。今、祈らなければなりませんし、今、報酬をしなければなりませんし、今、神の御言葉につかなければならないのではないでしょうか。
今というのは皆さん、神様への私たちの愛のものさし、真珍だと思います。今、神様を愛さなければなりません。
結婚した夫婦はいたとしましょう。結婚して、妻の方が夫に、あなた、今はちょっと困るから、10年後、愛するからねと言ったら、そんな夫婦はいないですよね。今、愛さなければならない。今、神様を愛していなければならない。
18:20
これは小さい時のお直しなんです。5歳、6歳の時なんですが、親は小さな食堂を運営していました。何とか貯めて、記憶が霞んで、はっきりは覚えていないんですけれども、
40房でしょうか、30房のポチを買って、そこにセメントのブロックで建てた家を親がやっと持ちました。小さい時ですからね、父と母はすごく嬉しく言っていました。
ところが、今住んでいる家もあったわけですよ。ところが、2年後か3年後、母ががんの病気になって、治療費のために、買ったポチと家を売るしかなかったんですね。
ポチとそれを売って、そのお金で給料費で使ったわけなんです。それも良かったことでしょう。母の病気も治ったわけなんですけれども、その後々私が大きくなって、母から聞いたことがあります。
こう言いました。母はね、昔から悔しさでしたから、あの時にあの家を神様に捧げたら良かったのに、自分に家が無いわけではない。
ポチの自分が頑張ってお金を貯めて、買って建てた家なんですけれども、でもそれは無くても良かった。それを神様に捧げたら、もっと価値ある御用のために用いられたはずなのに、それを捧げることができなくて、残念だったなと、そういう風に話をする母の声を聞いたことがあります。
皆さん、この朝神様が皆さんにこのメッセージを通して果たせる御声に耳を挟んでいただきたいと願っております。今、立ち上がらせてください。
神様はこの朝皆さんにお語りになる。そのことを今。その次に注目していただきたい言葉は、「立って」という言葉です。立つ。立ち上がる。
21:09
もう手は済みました。偉大な人たちを亡くしました。みんな非常な悲しみに押し込んでいたわけなんです。このイスラエルの人々は無業の人のみたいで、何もできないような人々を率いて向こうに行くことを考えたら、もう恐れる。自信がない。どうしようというところです。
ところが神様は、そのような時に今、立ちなさいと、立ち上がりなさいと語っておられるんですね。また、そのイスラエルのカナンの地は神様の約束の地なんです。
神様が約束して与えているという地ですから、立って、渡って、それを取ればいいんですね。この悲しみから、恐れから、落ち込んでいるこのところから、イスラエルには立ち上がらなければなりません。
私もそうであるかもしれません。その座り込んでいるあの場所です。落ち込んでいるそのところから、慣れすぎているそのところから、諦めているそのところから、あるいは恐れているその気持ちから、悲しんでいるその気持ちから、立ち上がりなさいと。
皆さん、立ち上がるということは、出発するための必要な準備段階です。立ち上がらなければ出発できないわけなんです。立ち上がるということは、しているために必要な準備段階です。
皆さん、私たちは立ち上がらなければなりません。あまりにも慣れすぎているその場所から、あるいは失敗のその場所から、あるいは罪の場所から、悲しみの場所から、弱いその場所から立たなければならない。
このイスラの神は、私たちのように失敗の多い者でした。40年間失敗だらけの民族でした。もし神様の忍耐と慈しみがなかったならば、このアラノを通ってここまで来ることはできなかったかもしれません。
それほどの失敗が多かった民族でした。しかし、二度とその失敗を何度も繰り返して繰り返して反省する考える必要はない。あの失敗の場所から立ち上がりなさい。そしてそこから離れなさいと神様がおっしゃるんです。
24:14
あなたの失敗を、あの弱さを、あるいは心の傷を、そういったすべてのものを振り落としなさいと神様がおっしゃるんですね。
時々耳につく話があったりするんですけれども、私たちはこの失敗や、あるいは何らかの痛みや、あるいはトラウマや、あるいは傷や、そういったものに縛られている、そういう傾向が強いのではないかなと思ったりします。
皆さん、過去の失敗やトラウマや弱さや、そういったものがあるでしょう。しかし、あまりにもそれに取りすぎて、つかみすぎて、考え、神様はそういったものを問うこともなく、覚えることもなく、そこから今立ちなさいとおっしゃるんですね。
40年間あなたが失敗してきたのか、大丈夫、そこから立ちなさい、今立ちなさいと。
慰めて、同情して、立ち上がる力も主が与えてくださるでしょう。
膝も腰も背中もですね、背骨も主が強めてくださって、手を取って引き上げてくださって、その場所から立ち上がりなさい。
その悲しみ、失敗、不信仰、そこから立ち上げてくださる必要を信頼して、皆さん、立つ決心を必要ではありません。
皆さんが立つべき場所は何でしょうか。恐れの場所ですか。失敗の場所ですか。あるいは迷っているその場所でしょうか。あるいはもじもじしている場所でしょうか。あるいは悲しみの場所でしょうか。
皆さん、私たちがそこから立ち上がる時に、力ある神様の御業を見ることができるでしょう。
3番目、その次の書きを見ますと、このよるだん川を渡りとあります。よるだん川を渡りなさいとあります。
27:04
ところが、さっきも申し上げたように、このよるだん川は本当にあふれている。
これを見てみましょうか。三章の15節ですね。三章の15節をご覧ください。
私は読みますね。ご覧ください。
ザレンタンのそばにある町アダムのところで石をなして立ち、アラバの海、すなわち潮の海の方に流れ下る水は完全にせき止められた。民はエリコに面するところを渡ったとある。
みなさん、素晴らしいことが起きました。立って渡りなさいとおっしゃったですね。そして一部の民は、この二百万人以上の人々ですね。子どもも赤ちゃんもお年寄りの人々もみんな荷物を持って、本当に一律に渡っていくわけです。
一番先頭には神の契約の箱、神様の臨済を意味する箱を担ぐこの社区たちが箱を担いだままですよ。
一年十一があふれる日にですね、足を踏み入れたときに、そのあふれるヨドダン川が遥か彼方上流のところでせき止められて、川が止められて、その川の下がですね、もう乾いた地に変わって、歩いて喜んで歌いながら踊りながら渡ることができました。
この奇跡を見たのは、今立ったからです。そして渡ったから見ることができました。
30:10
皆さん、神様が今立ちなさい、そして渡りなさいと言ったらですね、その前にですね、この先にですね、もう自然もなく川もなく、もうプラトナ人生、高速のような人生がずっとこの先にあればいいんですけれども、人生にはそんなことはないんですね。
自然もあります。悲しみもあったり、失敗もあったり、悔しいこともあったり、様々なことがあるんですね。しかし皆さん、このような危機はチャンスなんです。危機はチャンスなんです。
同じ危機がまなかれにやってきても、きちんとの人とそうでない人のその態度は違ってくると思うんですね。皆さん、川が溢れていたから一瞬の間には、その川がですね、せき止められた魅力を見ることができたんですね。
もしですね、もう本当に一年中水路が一番少なくて、赤ちゃんも渡って歩けるような時だったら、こういう神様の素晴らしい魅力を見ることはできなかったでしょう。しかし、溢れていたから、危機があったから、試練があったから、きちんと思って進んでいくときに、それがせき止められる素晴らしい神の魅力を見ることができた。
危機はチャンスです。信仰によってそれを捉え、進めていけば、それがチャンスに変えられます。
それから、そのさきのかなのしは、三節を見ますと、あなた方が、あ、すみません、二節の最後ですね。
私がイスラエルの人々に与えようとしている木とあります。そのさきの花の木は、神様が与えようとしている、もう与えているとですね、三節の最後にはありますよ。あなた方に与えている。
神様が与えている木だから、渡っていけばいいんです。心配はいりません。恐れる必要もないでしょう。ずっとずっと座り込んでいる必要もないでしょう。立って渡っていけばいいです。
ところが皆さん、私たちはどうでしょうか。ヨルダン川のような川が目の当たりにあるときに、何かを解決しなくならないときに、私たちはできる方法を考えるよりは、できない方法を考えてしまう、そういう弱さが私たちにあるのではないかなと思ったりします。
33:20
こういうヨルダン川が目の前に出てきたとしましょう。人生にですね。そしたらどうするんですか。渡ろうとしない人々の言い訳はだいたいこんなことなんですね。
神様、川が深すぎます。船もありません。人も多すぎるです。赤ちゃんもいる。僕はポチポチと歩けません。渡っていくときに溺れて死んでしまえばどうするんですか。
こういうふうに先にですね、信仰に導かれていくことを考えるよりは、できない言い訳を考える。
社会でも同じなんですね。会社でもですね、何かをプロジェクトとかスポットが与えられるでしょう。そしたら何とか頑張ってですね、それをできる方法を考えて工夫して努力してやる人が多いわけなんですけれども、
いつもですね、このメンタルがマイナス機構で危機的な機構を持っている人は、何かの仕事が与えられると、それができないほうを先に考えてしまう。
言い訳を先に考えてしまって、だからこれはこうしたらできないでしょう。それを先に考えてしまう。そうした人がある人が世の中にもたくさんいるでしょう。
皆さんもそうでしょう。川がとても深いです。船ありません。人多いです。おじきゃん、おばあちゃんです。荷物も多いです。そういうできない言い訳を先に考えますか。
あるいは神様が渡りなさい、行けと言われましたから、ユルダン川はあの航海のように渡れるでしょう、渡っていけるでしょうと信仰に導かれる人を持ちます。
もしユルダンのイスラム神も、あの敵機を持つあの人と戦うのは無理だ。ユルダン川の東も何とか進めるから、やめましょう。諦めて、ここで住めばいいじゃないかと諦めたらどうなったんでしょう。
神様の約束のあの祝福を自分のものにさせてもらえなかったでしょう。
36:03
皆さん、一度ここで立ち止まって、今までの皆さんの人生、あるいは三谷教会の今までの歴史の中で考えていただきたいと願っております。
今まで皆さんが本当に信仰に導かれて結成して渡っていって受けた祝福も多かったでしょう。しかし、その中でも諦めてしまって、言い訳を先に言ってしまって諦めてしまって受けられなかった祝福もあったのではないでしょうか。
私もそうでした。ああ、その時に私はもっと立派な信仰を持ってそれを進めてそれに来て良かったのに、そしたらもっと神様の素晴らしい祝福を受けることができたのに、諦めてしまって、悔しいなと思ったことは皆さんありませんか。
なかったらいいんですけどね。信仰が小さすぎて、やめてしまって、神の力あるあの御業を奇跡を見ることができなかった。皆さん、神様の力が小さすぎるのではなく、私たちの信仰が小さすぎたからではないでしょうか。
皆さん、私たちが渡るべきヨルダン川を渡っていきましょう。三和谷教会が渡っていくべきヨルダン川を渡っていきましょう。
言い訳を先に言ってしまうよりは、神様の約束の木があそこにあると、主がヨルダン川を渡れてくださる、そして渡らせてくださる、戦ってくださる、今までそうなかった神様が生きておられることを信じて、進行に突き動かされて歩みたいと、そう願っておりました。
ところが、渡っていけと言いました。そして、行けばいいんですけれども、三節にもう一度重要な進行原理が記されているんですね。三節を一緒に読みたいと思います。三節。
お一緒に、三杯。あなた方が、あなた方に与えている、アーメン。皆さん最後ですよ。あなた方に与えているんです。皆さん、もう既にあなた方の手にある、あの金の地、道と地があふれている、あの四国の地はもう既にあなたのものですよ。あなたが持っていますよ。あなたの手にあるんですよ。
39:05
渡ってはいけませんと、見事に書かれているんですね。既に受けたと信じることです。
新書を一箇所見てみたいと思います。新約聖書の丸子の訓書、十一章、二十四節です。新約聖書、九十ページです。丸子の訓書、十一章、二十四節。
二十三節から読みますね。二十三節から二十四節一緒に読みたいと思います。三杯。誠にあなた方に告げます。誰でもこの山に向かって、動いて、海に入れと言って、心の中で疑わず、ただ自分の言った通りになると信じるなら、その通りになります。
だからあなた方に言うのです。祈って求めるものは何でも既に受けたと信じなさい。そうすればその通りになります。アーメン。
皆さん、祈って求めるものは与えられると既に受けたと信じていますか、皆さん。まさかそんなものがあるんだろうかと疑っていますか。皆さんは信じうまいクリスタンですか、疑いうまいクリスタンですか。
今朝ですね、神社のときに女の子がこう言いました。新しい像理が欲しい、像理が欲しいと祈ってきたんです。そしたらある先生から像理が買ってもらって嬉しいと言ってくれました。
皆さん神様は私たちの小さな祈りを聞いていてください。
信仰を持って求めるものは、もう既に何でも受けたと信じなさいと。病気の癒しもそうでしょう。将来のこともそうでしょう。人生のこともそうです。教会の働きもそうでしょう。
皆さん、祈って求めているんですね。家族の救いのために祈って求めているんですね。病気の癒しのために祈って求めているんですね。人生のこの先のために祈って求めているんですね。
そのときに既に何でも受けたと信じてください。まさかこのことが起こるのだろうか。それは無理でしょうと思わないでほしいです。そうすればその通りになります。
42:03
御静寂に戻りましょう。愛する皆さん、そのメッセージをどうか心に留めていただきたいと願っております。神様から語られたそのことを、今、それをやってください。
それは神様のためのことですか?人を愛することですか?ほぼこし、すかえ、わけ与え、誰かを励ます、誰かを支えることなんでしょうか?それを今なお励んでください。
そして今皆さんが座り込んでいるその痛み、失敗、その場所から、すべてを振り落として立ち上がってください。立ち上げてください。そして立ってこのヨルダン川を渡ってください。恐れないで渡ってください。足を踏み入れてください。
そしたらヨルダン川が真っ二つに散かれるように分かれて、すべての問題が消え去るでしょう。そして何より神様がもう与えているんですよとおっしゃるならば、大きな大きな祝福を受ける受け皿を用意しましょう。
遠慮しすぎてですね、小さい湯のみ1個だけ持ってきてですね、神様どうぞ満たしてください。そういう小さい真骨じゃなくて、大きな、何と言いましょうか、大きな器は何がありますか?たらい。大きなたらいを持って用意して、死を満たしてくださいと。そういう真骨が我らに必要なんです。
どうか皆さん、今立って渡ってください。そして踏むどころどころを主が与えてくださるわけですから、東西南北を踏んでいくときに主が与えてください。最後1つだけ分かっておいてメッセージをお願いいたします。
私の派遣協会の、富山の資源の協会の、今会堂が建ってあげられているあの場所は、約15年前、17、18年前に富山に大きな集会がありました。全協会連合の大きな集会があったときですね。今の会堂が建てるその土地は埋め立て地でして、何もなかった。
今は高層埋葬が建っているんですけど、昔は空き地でした。何もない空き地でした。
その今の会堂が建っているあの場所に、昔の会堂から、教会みんなが富山の救いのために、また主の働きのために私たちのこの教会を、私たちを用いてくださいと、今の会堂のある場所にみんな集まって、何日もそこで祈った場所なんです。
45:18
そこに、その祈りの場所、主が突き入れてくさって、その祈ったあの場所、主が土地も、会堂も、救われる人々も、主が与えてくださる、素晴らしい証がそこにあるんです。
皆さん、祈る者は信仰を持って祈って、そして主に伝えてまいりましょう。お祈りします。
45:49

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