1. 名谷教会
  2. 2014/06/22:聖日礼拝(旧音源)
2014-06-22 1:11:30

2014/06/22:聖日礼拝(旧音源)

2014/06/22 聖日礼拝(旧音源)




00:02
アーメン、ありがとうございました。
みなさん、おはようございます。
今日も、見事場に出る前に、隣の方と挨拶しましょう。
よくいらっしゃいました。
それでは、ひとつお祈りします。
天皇としての神様、今日も、神様の恵みを求めて、
私たちをここまで、あなたが支障してくださいました。
やってまいりました。
神様、賛美を通して、また、次からは御言葉を通して、
神様が私たちに語ってくださる、その御言葉に耳を傾けて、
そして、聞き従い、この御言葉を実践する、
そして、我々の信仰が成熟していけますように、
神様どうぞ、あなたが憐れんで祝福してくださいますように、
お願いをいたします。
いつも、死を賛美する聖火台の一人一人も、
神様が豊かに祝福してください。
イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日は、キリスト教のエッセンスの続きです。
今日は、タイトルは聖歌なんですが、
まずですね、ひとつの写真を一人見て、話を始めていきたいと思います。
さあ、皆さん、この二人の関係はどんな関係だと思いますか。
抱っこしている人が、お母さんのように見えますか、皆さん。
抱っこされている人が、子供のように見えますか。
実は、抱っこされている女の人ですけど、20歳です。
ブルーク・グリンバーザというアメリカの人なんですが、
そして、抱っこしている人が、3歳下の妹さんです。
あのブルークさんは、5歳の時に聖書がストップしました。
それは、多分、ホルモン系や様々な病気なんでしょう。
そして、5歳のまま、ずっと20歳まで、
2013年、20歳になって亡くなったそうなんですけどね。
はい、さっきの子供の写真です。
皆さん、そのお母さんの気持ち、あるいは家族の気持ちはどうでしょう。
娘さんが5歳の時に、聖書が止まって、ずっとそのままね、生きているわけです。
03:06
聖書がストップしました。
言葉も歩きも、全てが不幸としたそうです。
皆さん、私たちの信仰もストップしてはいけないんですね。
神様が私たちをご覧になる時に、私たちの信仰が救われる時、
今から皆さんは何年前でしょうか。
ある方は10年、ある方は50年、ある方は70年前かもしれません。
あの時より今は、どれだけ皆さんは清聴して、成熟していらっしゃるでしょうか。
もしも、私たちの信仰が、あのブルクさんのように、
5歳の時に信仰の姿がストップしているんだったら、
本人も悲しいんですけれども、その家族はどれだけですね、悲しいことなんでしょうか。
このテーマは聖歌なんですけれども、この聖歌はつまり、
清聴であり、成熟なんです。
先々週は、救いに関して、まず、
義人、義人と認められることを、ともに御言葉から教えていただきました。
前々回にも申し上げましたけれども、
私たちが救いを考える時に、
聖書はこの救いを三つの実例として語っています。
一つは、過去官僚家でも亡くなった時ですね。
私たちが救われた時、あの時です。
その場合は、自分でですね、自分の意思で告白して洗礼を受けたのは、
大学1年生の時です。
その前に教会が通ってはいたんですけれどもね。
あの時が私にとっては救われたことです。
その救いは完全なものなんです。
しかし、その救いは、また現在進行形でなければならない。
今も聖書を通して聖化していくこと、それも救いなんです。
06:00
そして、やがてイエス様が再びお出になる時に、
私のすべての罪が拭り去れて、
そして完全な栄華の心も体も変えられる時ともですね、
義人、聖化、栄華、この三つが実は救いなんですね。
だから、救いということを考える時に、
いつも昔救われたあの時のだけ考えてはいけない。
今日はその中で、この救いのプロセスと言いましょうか、
聖化について共に考えてみていきたいと思います。
もう一度申しますが、救いとは、
ただ一度で私たちは救われました。
その救いは完全なものなんです。
進行によって救われました。
そして救われた私たちが、今生きていきながら、
この神様の素晴らしい救いの恵みを思う存分豊かにそれを享受すること、
味わうこと、喜び楽しむこと、これがまた救いであり、これが聖化というものです。
ところがですね、私たちがしばしばこの聖化あるいは清めということを考える時に、
罪許されること、清められることを考えます。
しかしそれも聖化なんですけれども、罪許されること、そして清められることだけをですね、
強調しすぎては、その救いあるいは聖化の完全なイメージには及んでいないと思うわけですね。
救いとは、もう一度繰り返して申し上げますと、
神様が私たちに下さったこの恵みあるいは祝福を思う存分マクシマムで、
そしてそれを享受して喜び、味わい、大切にしていくこと、それが実は聖化なんです。
この恵みを一生前だ、喜び楽しむこと、
まるでですね、大きな滝、
ところ皆さん、外からじゃなくてその滝の下に入り込んだことありますか?
そしてその滝の水を浴びたことありますか?
09:04
そのようにですね、大滝の下に入ってですね、その水を浴びる、
そのような救いの恵みと祝福と助けと奇跡と死の癒しを溢れるほど溢れるほど、
毎日それを味わって体験させていただくこと、実はそれが聖化なんです。
ですからこの聖化はですね、一時期だけで終わるじゃなくて、
ずっと一生の間それがなされていくプロセスなんです。進行形なんです。
完了して終わったんじゃなくて、進行中なんですね。
これをどうぞ一回見てみたいと思います。
今日の箇条はまた後から見ますけれども、まず同じピリピみたいな手紙、一挙の六節をご覧ください。
では一緒に読みましょうか。六節です。
三回、あなた方のうちに良い働きを始められた方は、キリストイエスの日が来るまでに、
それを完成させてくださることを私は固く信じているのです。アメン。
ここのですね、良い働きとは、救いを指します。
ではよくご覧ください。
その救いを始められた方、神様が私の救いを始められました。
作っていく定めですね。それは始められました。
それで終わるのではなく、キリストイエスの日が来るまでに、シャイリンの日までに、
その救いを完成させてくださることを私は固く信じているのです。
救いを完成させるんですね。
この救いを完成させるとはどういう意味なんでしょうか。
それは一度完成と立ち上げて、それで終わりではなくて、続けて完成させていくことです。
シャイリンの日まで、私たちのこの救い、つまり成果なんですね。
主の恵みを味わうこの成果も、このそれを通して私たちの救いを続けて完成させていくこと。
つまり救いとは、私たちの罪の問題を、罪に死んでいた私たちを、ただ一度で救ってくださる。
12:03
過去患によってでありながらも、同時にこれからも生きるながら、そしてそれを続けて完成させていくこと。
それが救いであり、成果という。
まるで先ほどお見せした写真の赤ちゃんのように、
生まれたばかりの赤ちゃんは、一人の人間なんですね。
赤ちゃんは歩けない、しゃべれない、だからそれは人間じゃない、これから人間になっていく、そういう人はいないんですね。
赤ちゃんも赤ん坊も一人の完全な人間。しかし成長して、成熟していきます。
言葉も学び、さまざまなことを経験をし、そして成熟していくことが当然なことなんですよね。
そのように私たちも救われるときはみんな赤ちゃんです。先行的に言えば赤ちゃんです。
そしてこの成果を通して、死が完成させてくされる恵みを豊きながら成熟していくんです。成長していくんです。
神の世界を、キリストの恵みを、聖書の素晴らしいその恵みを、もっともっと豊かに豊かに知るようになり、経験するようになり、
そして自分の内に生きておられる神の世界が豊富に豊かになること、それが成果なんです。
皆さんいかがでしょうか。皆さんが救われたとき、あのときと比べて、今日が。
あるいは一年前の今日と、今年の今日と比べて、どれだけ皆さんの金庫は、この神の素晴らしい恵みと祝福を味わう、
この成果の恵みはどれだけ成熟して豊かになっているのでしょうか。
成熟していない人は、さっきのブルックさんのように、成長がストップしている。
それはもう救われたから、もう救われていいんじゃないか。そんなに熱心に信じる必要があるんだろうか。
適当にすれば、どうせ救われたから、どうせ天国に行くんだろう。
そうしたら、それは成長がストップした20歳の、5歳のような子供と同じでしょう。
あるいは、顔はおじいちゃんおばあちゃんをしているんだけど、体は赤ちゃんでおむつをしている人と同じであるかもしれない。
15:00
皆さん、もう一度繰り返して申し上げますが、救いは続けて成長していくことです。
そして、神様の素晴らしい世界は、皆さんでは私たちが経験しているのはほんの小さな、それよりははるかに素晴らしい神の世界が、救いと恵みと奇跡の世界があるんです。
それを体験していただくこと。自分のものにさせていただいて、豊かに豊かに恵まれていくこと。
それが実は神様の願いであり、そして私たちをそういうふうに成長してくださるんです。
先ほどありましたよね。成長させてくださる。始められた方が成長させてくださる。
だから、私たちはそれを求めて、待ち望んで、そして従っていけばいいんじゃないかと思います。
では、今日の御言葉に、生徒数にまた続けて見ていきたいと思います。
まず、今日の十二節をもう一度一緒に読みたいと思います。この歌詞は大事なんですね。
十二節一緒に読みますね。
そういうわけですから、人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおのもいて、自分の救いの達成に努めなさい。
ここに皆さん、「自分の救いの達成に努めなさい」という言葉がありますね。これに注目していただきたいです。
これは、理解し間違ったら、「ああ、なるほど。救いを得るために、自分で努力したり頑張ればいいんだ。」と思っておくしかありません。それは違います。
例えば、仏教とかカトリックとかのように、自善や善を行って、この赤善といいますね、善を積んでいく。赤善して救いを自分が取る、獲得する、そういう意味ではありません。
この自分の救いの達成に努めなさい。
皆さん、救いとは、人間のどんな努力によってでも、どんな次元によってでも、それを取ることができます。
では、この自分の救いの達成に努めなさいという言葉の意味はどんな意味なんでしょうか。今も救いは不完全だから、それを引き上げなさいという意味なんでしょうか。
18:01
そうではありません。先ほども申し上げたように、私たちが救われた時、あの時は、その救いは完全なものなんです。しかし、同時に成長していくことも救いであり、それも正しいおなかです。
では、この十二節を理解するためには、このティリピビという手紙は、未信者に書き送られた手紙なんですか。信者に書き送られた手紙なんですか。
信者に、教会の生徒に書き送られた手紙。だから、この自分の救いの達成に努めなさいという意味は、救われていない人が救われるために努力しなさいという意味ではないんですね。
もう既に救われた生徒が自分の救いの達成に努めるという意味なんです。では、どういう意味なんでしょうか。
この達成に努める日本語の意味は、ほとんど調べたり見ました。その言語の意味はどういう意味なのか調べたり見たところ、こういう意味です。
例えば、金や銀やダイヤモンドとか宝が埋もれている鉱山がありますよね。そのすごい量のダイヤモンド、宝石、金銀が埋もれている鉱山があります。
その鉱山の中で、自分が掘ることもできるすべてのダイヤモンドや宝石や金や銀を、すべてを掘りつくすこと、それが実は達成に努めるという意味なんです。
どういう意味でしょうか、皆さん。私たちが救われるときに、神様は私たちみんなにすごい量のあるその鉱山、埋もれている鉱山を神様から与えられました。いただきました。
さあ、その鉱山の中で、自分がどれほど掘り出すか次第に、その宝石、金銀が自分のものになるわけです。
例えば、Aさんは、その鉱山で自分の技術を開発して、熱心に働いて、そしてすごい量の金を、ダイヤモンドを掘ったとしました。しかし、Bの方は、もう同じ鉱山が与えられているにも怠けて、指輪一本ぐらいの金を取って、それで満足して終わったとしました。
誰が賢い人であり、誰が愚かな人なんでしょう。皆さん、この自分の救いの達成に努めることは同じ意味なんです。
救いという最高の宝物が埋もれているこの神の世界の中で、自分が信仰を励んでいって、御言葉の祈りに熱心で励んでいって、そしてこの神様の素晴らしい祝福を、宝のような、金銀のような、ダイヤモンドのようなものを自分が掘り出すこと、これが自分の救いの達成に努めなさい。
21:25
つまり、皆さん、すべての生徒に等しく、同じく、救いという恵みが、様物が与えられました。
例えばですね、神様が永井さんを救う時には、この人には100%の素晴らしい救いの恵みを与えて、この人には1%くだらない救いの恵みを与えたわけではありません。
みんなに同じ神様の素晴らしい救いの恵みが与えられたんですね。
にも変わらず、ある人は、10年、20年、30年が経つにつれ、素晴らしく恵みが豊富になり、豊かになり、そして自分も生徒する。
しかし、一方、他の人は同じ救いに預かっているのに、10年、20年、30年、50年が経っていても、なかなか変えられていない。
清楚していない。昔もあのまま、ありのまま、ずっといる。
皆さん、成果は、神の豊かな恵みを経験していくことです。
罪を許されること、清められることも成果なんですけれども、そして悔い改めて清められて、その後はどうするのか。
積極的に、神様からいただき、この救いの祝福を、恵みを、思い存分自分が喜び楽しむ、共通することなんです。
いつも遠慮して、いつも自分を罪人扱いにして、心も体も霊もですね、いつも乏しくて眩しい。
そういうふうに思って生きることは、神様が望む救いの人生ではありません。
救いの祝福を、昨日も共通し、今日も味わい、明日も豊かに大変させていただくこと。
これが、その理由はですね、この日本語の訳は、
達成に勤めなさい、これからもずっとずっと勤めていきなさい、そういう意味なんです。
24:00
言語の意味は、ずっと、イエス様が再び来られるあの日まで、ずっと達成に勤めていきなさい、そういう意味なんです。
だから、補通で諦めないで、絶えず救いという宝石のある鉱山で、その金銀を、恵みを掘り出して、自分のものにしなさい。
それはあなたのものですよ、という恵みなんです。
これが、聖火なんです。
皆さんは、いかがでしょうか。
救われた聖火として、この聖火の恵みを、祝福の恵みを、豊かに溢れるほど、それを浴びていらっしゃいますか。
受けていらっしゃいますか。
味わっていらっしゃるでしょうか。
それとも、せいぜい1滴、2滴くらいの水を、体につけているでしょうか。
同じ信仰生活をしていても、同じ教会に通っていても、ある人は大滝のような恵みを浴びている人もいるはんめ、
情露のように、ぽかぽか、恵みを浴びている人もいるでしょう。
皆さん、神の救いの世界は、あたしたの創造です、ということを言いたいと思います。
神様が救われた、あたしたちに注いでくださる、救いの、この聖火の恵みはですね、
小ぼしくてちっぽけなものではないのです。
この恵みを求めるに対してですね、もっと、何と言いましょうか、貪欲を持ってほしいのです。
もっと神様の恵みを求める、自分のものにさせていただきたい、そういう渇きを持っていただきたい。
ところが、この自分の救いの達成に努めなさい、という言葉がありますが、
これを、英語の聖書は、ワークアウトと訳されています。
このワークアウトという意味は、トレーニングする、練習する、訓練する、あるいは体を鍛える、鍛錬する、そういう意味なんですね。
なぜか不思議なんですよね。
救いの達成に努めなさいを、トレーニングすると言っていますよ。訓練する、鍛える。
まるでですね、腹筋を作るために、自分に大きくないんですけど、腹筋を作るためにですね、毎日トレーニングする。
ポジティブ光ですね。トレーニングして腹筋を作る。
一晩で作れたらいいんだけど、作れないんですね。
明日になってですね、かっこよくてですね、腹筋ができたらいいんだけど、なかなかできないんです。
27:01
ずっとトレーニングする。練習して、運動して、ジムに行って1時間、2時間、トレーニングしたりするんですよね。
しかし、それが出来上がったとしてもですね、またその翌日からですね、たくさん食べ過ぎてですね、運動しなかったら、また戻りにですね、出っ張っちゃってですね、腹のようなお腹になっている。
救いの達成に努めなさいを、お腹に。
ずっと常に神の恵みをいただくために、自分の霊的な戦いのために鍛える、戦う、トレーニングする、訓練を受ける。
そうして救いの完成に目指して達成に。
皆さんはどれほど霊的にトレーニングをしていらっしゃるでしょうか。霊の成功のためにどれほど訓練を受けているでしょうか。
神の豊かな祝福の恵みを味わうために、豊かに味わうために、どれほど皆さんは訓練をして、鍛えて、丹念をしていらっしゃるでしょう。
どうしたらいいでしょうか、皆さん。霊的にトレーニングをしなければならない。
そのためには、たくさん祈り、聖書をたくさん読み、そして御言葉をたくさん学び、その御言葉を実践し、
そして絶えず常に熱心にトレーニングをしなければならない。
救いという恵みは与えられましたが、自分が何もしなくても豊かな恵みを味わうことはできない。
去年9月に来てまいりまして、1年以上になっていますね。もう6月後半に入りましたが。
この1年間、皆さんもお互いにお分かりになると思いますが、私は牧会者として、1年間のこの時間が経って、本当に信仰的に大きく生徒された方々がいらっしゃる。
本当に恵みを求めてですね、すごく恵まれている方々、生徒している方々が多くいらっしゃる。
例えば商店企画会において御言葉の恵みにどっぷり使っていて、恵まれていて、
そして新しく始まった水曜日記録会の生徒の学びを通してですね、信仰が確実にされて、確証されていてですね、朝も夜も来ている方々もいらっしゃいます。
30:04
この方々は金曜日のエスモールで分かち合った方なんですね。
判断から聞いたんだけれども、1年より、金判さん、金判さん、本当に恵まれている。夫婦関係がすごくたわって、このままでずっと生きたいと明かされた方もいらっしゃいます。
こういう方々こそですね、このすくいという講座の中で宝を掘り出して、何と素晴らしいことなんでしょう。
このように皆さん、成果は喜び、楽しむ、すっかり。
さあ、大きく2つ目。成果は、またこういうコメントがあります。
それは、古き人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける、身に着ることです。
さあ、その成果を開きましょうか。
エペソビトへの手紙4章、22節から24節までです。378ページです。
エペソビトへの手紙4章、22節から24節までです。
では、これを合わせて一緒に見ましょうか。
3杯、そのお伝えとは、あなた方の以前の生活について言うならば、
気とあたむく情欲によって滅びてゆく古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
また、あなた方が心の霊において新しくされ、真理に基づく義と誠意をもって、
神にかたどり作り出された新しい人を身に着るべきことでした。
ここの二つがあります。
滅びてゆく、古い人を脱ぎ捨てること、そして脱ぎ捨てて新しい人を身に着ること、
この二つが実は成果なんです。
古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着ることが成果なんです。
この二つの働きを、技を一生の間ずっとやり続けていくこと、これが実は成果なんですね。
古き人を、古き自我を、かたくなな自我を、汚れた罪を、罪の性質を、そういった古き人を脱ぎ捨てること、
33:10
そして、精霊による、神による新しい人を身に着ること、
この働きを、この技を一生の間ずっとずっとやり続けること、これが成果なんです。
まず、この滅びてゆく古き人、古い人について考えていただきましょう。
皆さん、私たちは救われるときに、神様は、キリストの十字架の指標において、私たちのその罪を許してくださいました。
そして、悪魔の奴隷であった私たちを、その悪魔の頭を打ち砕いて、そこから救い出してくださいました。
そして、新しい霊を、御霊を注いで、新しくしてくださったんですね。
それが、私たちに、みんなに救われた私たちになされたことです。
しかし、皆さんもご存知のように、私たちの内側には、まだ罪の性質が残っていて、蠢いているんです。
虫のように蠢いている。
そして、自分の内側で、この古き人と新しい人が戦っているんですね。
実は皆さん、この新しい人と古き人が戦いながら、そしてもっと強くなって清掃していくこのプロセスが、成果なんですね。
牧師である私も、まだまだこの古い人の性質が、罪の性質が自分の中にまだまだ残っている。
そして、日々蠢いているわけなんです。
今もですね、時々カラッとなる時があります。
20歳の時、30歳の時は、もっと酷かったんです。
そして昔は、本当に妻とめんどくさい喧嘩をしたんです。
牧師になって怒らない。悪い思いも持たない。
家様のように完全に返信できたらいいのに、そうなりきっていない自分があるんですね。
こうですね、いつも会いちゃいましょう。忍耐しましょう。
36:04
積極している牧師のこの者も、こういうものなんです。
このように皆さん、私たちの内側で蠢くこの古き人は、本当に恐ろしいものなんです。
ところが、私たちだけではありません。
あの立派なヒト・パウルもそうでした。
彼もですね、新しい人と古い人の間でですね、もう葛藤してもがいていました。
その箇所をちょっと見てみましょうか。
ローマ人への手紙、7書。19節から21節です。
新約聖書、300ページ。
えーとですね、私が読んでいきますね。
皆さんは、24節読んでお読みください。
19節から私が読みます。
私は自分でしたいと思う善を行わないで、かえってしたくない悪を行っています。
私も実はそうなんです。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私の内に住む罪です。
私も一緒です。
そういうわけで、私は善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を身に出すのです。
悪が宿っているんです。
すなわち、私は内なる人としては、神の立法を喜んでいるのに、私の体の中には異なった立法があって、
それが私の心の立法に対して戦いを挑み、私を体の中にある罪の立法の虜にしているのを身に出すのです。
さあ、24節、急ぎますね。
3回、私は本当に惨めな人間です。
誰がこの私の体から私を救い出してくれるのでしょうか。
アーメン。
皆さん、シト・パウロでさえ悩んでいました。葛藤がありました。
善を行いたい、善をしたい。しかし、罪の性質あるこの罪が挑んできて、ひたすらない罪を犯している。
つまり、私たちがこんなものでないですか。
39:04
皆さん、このように、聖火のプロセスというものは、目が離せない霊的戦いなんです。
一時も油断してはなりません。
油断したら、パウロが言っているように、この罪の性質の火が燃え上がるんですね。
ですから皆さん、常にこの古き人、罪の性質を打ち砕いて、打ち砕いて、打ち砕いて、ずっと、ずっと、打ち砕き続けていかないと。
そして常に、御言葉によって、また精霊の恵みによって、新しい人を常に、
常に、今日も、明日も、朝も、昼も、夜も、常に、常に、それを身に着なければならない。
そうして、聖火のこの歩みを歩んでいくことなんです。
覚えましょう、皆さん。
他は、私たちを、まだ罪の奴隷であるかのように私たちを扱おうとします。
騙そうとします。
その古き人とはですね、戦っていかなきゃならないんです。
これが聖火のプロセスなんです。
だから皆さん、この聖火というものは、ある時点だけの話じゃなくて、
この祝いの始まりから、栄華にいるこの全体のプロセスが聖火なんです。
しかし、罪の性質にある私たちですから、ずっと戦って、自分は罪の奴隷ではない、もはや罪の奴隷じゃなくて、新しくなった人である。
だから、新しくなった人として、神の恵みを思い存分豊かに味わっていくこと、これが聖火なんです。
皆さん、アメリカの話なんですけれども、アブラム・リンカンが奴隷解放したんですね、簡単に言えば。
そしてアメリカ全国に奴隷制度を経由する法律を発表しました。
ところが、本で読みましたけれどもね、その黒人たちはですね、
もう勉強したこともないし、文字も読めない人が多かったわけですから、自分たちが奴隷から解放されたのに、それをわからない。
そして何十年もその奴隷のままに暮らした人が多くあったそうです。
あるいは、ある黒人の奴隷たちは、いやもう奴隷のあの時はもっとよかったんじゃない?
42:03
もう自分でこれもしなくてはならない、あれもしなくてはならない、決断しなくてはならない、勉強しなくてはならない、もう大変。
いや、昔はもう主人がですね、これをしなくてはい、すればいい。
そしたら食べ物も寝るところも与える。それで楽だったのに、もう解放されて牛耳になってもっとめんどくさくなった。
そういう人が実際にあったらしい。
皆さん、私たちの罪の性質ある私たちも、そうなりやすいと思います。
それは悪魔の騙し。騙されてはいけません。救いの達成に努めてはいけません。これが正解です。
ところが皆さん、私たちは人間というものは、この罪の性質、古き人を脱ぎ捨てることがなかなか難しいんですね。
例えば一つの習慣を変えるのはなかなか難しいんです。
例えばですよ、約束をするんですね。何時に集まりましょう。
約束をしましたら、しょっちゅう遅れる人はしょっちゅう遅れます。いつも午後遅れてくる人はいつも午後遅れてくる。
博多に行ったらだいたい遅いんですね。博多タイムであって30分ぐらいは遅れるという。
ただ宮崎に行ったらもっとそれが緩くなっているらしいですけどね。厚い国はそうなんですね、だいたい。
習慣であり、癖なんですね。こういうふうに自分の習慣と言いましょうか、癖というものを変えるのはなかなか難しい。
例えば私、10年前でしょうか、大分の斎木という市があって、そこに教会がありまして、応援伝道に行きました。
それではもう暑い、40度近く暑かったんですね。
そして夜になって初めのみですよ。その先生が井上という先生でしたけど、あのとき私は伝道生だったんですね。牧師だったんです。
先生、お風呂を用意しているからシャワーをしてください。そして入ったら湯船に熱いお湯が溜まっていて、あれ、これ何だろうって思ったんです。
皆さんはそれは、復帰自然なことでしょう。夏も冬も暑いお湯に体を浸かって、そしてお風呂をすることは、日本の皆さんにはそれは当たり前のことなんですけど、
韓国人としては暑い夏に暑い湯船に入ることは絶対そんなことはないんです。
修正の違いなんですけれども、今も自分は暑い夏は湯船には熱いお湯を入れてはいりません。暑い、シャワーをするだけなんです。
45:03
もったいないですか、湯船が。もったいないですか。それで習慣があるわけなんですね。こういうふうに人の習慣というものはなかなか変わらないものなんです。
しかし罪の成績はもっと粘り強い。だから常に打ち砕いて、成果のために、救いの達成のために努めていかなければならない。
皆さん、古い糸を脱ぎ捨てること、それは一生の間していかなければなりません。
昨日体を洗った人は、今日も体を洗います。明日も体を洗います。
同じく、礼的な健康のために、この救いの達成のために、古き糸を脱ぎ捨てて新しい糸を身に着るためには、ずっと毎日日々御言葉と祈りに励んで、そして恵まれて、清められていかなければならない。
だから、さっきも申し上げたように、古き糸を脱ぎ捨てることは、自動的にオートマチックで、それが脱がれるわけではありません。
ずっと打ち砕いて、御言葉に励んで、祈りに励んで、そうしていって、脱ぎ捨てることができるんです。
この前の、杉亜紀都会の時の、ある一枚のお若さでした。
今年の初めから、修法に書かれている聖書通読をお勧めしていましたが、一体何人ぐらいが聖書通読をしているのだろうと、私、気になって、一人一人突っ込んで聞くわけにはいけませんし、
あの時、ある一枚が当たりとしてくれました。ずっと今も知っている。毎日、二章、三章、四章、ずっと知っていますという話をしてくれて、私は牧師として本当に嬉しかったですね。
牧師のお話は、苦を推すような無駄な話ではないんだと。こういう忠実に従っている兄弟姉妹がいるんだなと。
そして、信徒は生として生きることなんです。古き人を無儀式するためには、そして新しい人を身に着るためには、見言葉と祈りと礼拝に励んでいかなければならないんです。他にはありません。
48:04
では、新しい人を身に着ることについて考えてみましょう。皆さん、新しい人を身に着るという言葉は、つまり心が新しくされることです。
心が新しくされるということは、簡単に言えば、心が変わることであり、考えることが変わることなんです。
皆さん、手を抱えてみてください。考えが行動であり、考え、つまりそれが生活なんです。考えている通りに私たちはことを、考えている通りにものを言い、考えている通りに何かをするわけです。
ですから、皆さん、この考えというものが本当に重要なんですね。我々の人生は、信仰生活は、今日は成果の話を言っていますから、この成果というものは、実は自分の考えること、考えから実は変えられなければならないんです。
考えを変えることはどれだけ大事なのか、こういう話があります。あるカウンセイナの先生が教室に帰りました。
そして、生徒たちに寝るところで水をついて、持って、みんなに聞きました。さあ、みんな、このコップの重さはどれぐらいなんでしょうと聞きました。そしたら、生徒たちは、何それという反応がありました。
そのカウンセイナ先生は、こう言いました。皆さん、僕がこのコップを1分持っていても、10時間持っていても、このコップの重さは変わりません。しかし、このコップを、例えば1分持っていておろしたら、渋には何のしんどいものもない。
しかし、このコップを10時間、あるいは今日1日、ずっと持ち続けているんだから、体もしんどくなって、疲れて、首も体もしんどくなる。では、どうしたらいいんですか。それを、おろしたらいい。
そういうカウンセイナの話は、私たちは自分の考えを変えなければならない。例えば、自分の弱さや、自分の苦いこと、あるいは自分の危機なんでしょう。そういったものを、実は自分がそれをずっと持ち続けていて、まるでそれで腕が痛くなるようになっている。
51:01
すぐにおろしたらいいのに、それを持ち続けているから、自分の体がしんどくなるという話です。
皆さん、まずは、私たちのこの考えを変えなければなりません。おろすべきことは、おろしきること。神様に差し出すべきことは、差し出す。委ねるべきことは、委ねること。
それが、心の重い重荷でしょうか。あるいは、心の傷でしょうか。恨みでしょうか。憎しみでしょうか。あるいは、誰かに対する不信のことでしょうか。そのコップをおろしたらいいんです。ずっと持ち続けていたら、持っている自分が苦しくなるだけなんですね。
皆さん、私たちの信仰態度もそうですし、聖火の恵みを味わっていくことも同じなんです。実は、この考えが変えられない限り、聖火の恵みを豊かに味わうことは、実は難しいのです。
聖書一ヶ所見てみましょう。さきのローマ人への手紙なんですが、ローマ人への手紙、5節、6節。さあ、5節、6節、一緒に見ますね。よろしいですか。
皆さん、この5節、6節は、結局何を語っているんでしょうか。それは考えなんです。
皆さん、肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます。クリスタンでさえ、救われた人でさえ、こういうことはあり得ることなんです。何を考えるかによって、その人から出てくるものは肉的なことなんですよね。
しかし、ひたすら霊園で御霊のことを考える人は、その人から出てくるものは御霊のものであり、神のものなんです。6節よく覚えていただきたいです。肉の思いは死です。死はどこから出てくるんでしょうか。思いから出てくるんですよ、皆さん。
命と平和は何から出てくるんでしょうか。思いから出てくるんです。だから皆さん、よく覚えていただきたい。この神の御言葉を覚えていただきたい。自分が、私たちが、皆さんが、日ごろ、どんな思いをしているんだろうか。
54:09
その思いが、実は皆さんの人生なんです。思いによって人生が決定付けられるということなんです。だから思いを、考えを変えなければなりません。神様に自分の思いも、考えも、完全に支配を受けなければならないんですね。
ところが、さっきのエペソービトヨ手紙4の23、24節の古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着るという言葉の脱ぎ捨てる、そして身に着る、この着ると脱ぎ捨てるという言葉は、さっきも言いましたように、現在進行形なんです。
一度完了したものじゃなくて、ずっとずっと脱ぎ捨てていくこと、着ていくことなんです。ずっと仕切っていくことなんですよね。これが成果なんです。これが成果。
ところが、この成果を今まで個人的な側面から考えてみましたけれども、この成果を教会的な側面から一緒に考えてみたいと思います。
皆さん、このように成果のプロセスは、一人一人が成果していく、成熟していって変えられていくんですよね。
そしたら、妙谷教会の私たちが成果されて恵まれて成長していきますと、同じく同時に妙谷教会の成果のプロセスも成長して成熟していくことでしょう。
神徒は、生徒は、よく恵まれて成長しているのに、教会は成長していない。そんなことはあり得ません。
あるいは、神徒一人一人は、みんなあまり成長していない、成熟していない、昔とあまり変わっていない。しかし、教会はものすごく変えられている。そんなこともないんです。
生徒と教会は別個ではありません。同じなんです。空はと与えられているんですね。同じなんです。
だから、妙谷教会の生徒、成熟、成果のプロセスは、つまり皆さんお一人お一人の成果と直結している。
つまり、皆さんお一人お一人の成果の深さが、恵みの豊かさが、妙谷教会の成果の深さであり、豊かさなんです。別個ではないんですよね。
57:04
もしもですよ。皆さんお一人お一人が、二十年が経っても、三十年が経っても、五十年が経っても、昔のままとあまり変えられていないならば、考え方も変えられていない。
夫婦関係もなかなか変えられていない。金の使い方も時間の使い方もなかなか変えられていない。神の豊かな世界をもっと豊かに経験していないとするならば、妙谷教会もそのまま。
ところが、皆さんお一人お一人が変えられていて、神の豊かな世界をしびしび豊かに経験していて、清聴していて、神の世界を経験する豊かさが本当に豊かに変えられているならば、妙谷教会もそういうふうに変えられていくことでしょう。
古い罪の本性、古くて固くならない罪の本性を脱ぎ捨てることを、それを私たちがどれだけそれを脱ぎ捨てて、新しい霊の衣を着るかによって、一人一人の成果だけでなく、この妙谷教会のこれからの歩みもそれで決定付けられること。
これをとても重要なお話をしていると思います。
妙谷の黙示録にこういう見言葉があります。
それはイエス様がアジアの七つの教会に対して語ったその見言葉を始められるときに、耳のある者は聞きなさいという言葉があります。
今日だけではありませんが、この文章を通して語ってくださる神の見言葉に耳を傾けたらしたい。
神様から語られた見言葉なんです。ずっと一年間神様から語られた見言葉でした。
それは私一人ではなく、多くの人にも同じ見言葉が語られて続けてまいりました。
それは皆さんお一人お一人が、つまり妙谷教会が神様の見言葉にどれだけ従順に従い、仏会社にどれだけ従うかによって、
そして妙谷教会のこの土台を変えるか変えないかによって、これから二、三年が妙谷教会成長のターニングポイントになるということです。
1:00:14
このままずっといくか、変えられてリバイバルを、神の素晴らしい世界を経験していくか、この二、三年が軌道なんです。
これは私の話ではあります。一年間神様がずっと語られた見言葉でした。
だいたい人間はですね、さきも申し上げたように、変えるのを本性的に嫌なんです。嫌います。
年をとればとれほどもっとそうです。本性的に拒みます。
自分のうちにも、まあ四十五になりましたけれども、自分のうちにも変えようとしない習性や癖があることを見たりします。
皆さん、人が生徒としていけば、小学生は赤ちゃんの服のようにおむつをしません。
高校生になった人は、小学生の頃の服を着ません。
大人になれば、子供のような考えをしましょう。
同じなんです。教会が生徒として豊かな恵みを味わうためには、その時に、そのプロセスにふさわしい服を、衣を、傘を持たなければならないんです。
大人になっておむつをしている人はいません。
大人になって小学生のカバンを持って三宮に行く人はいません。
変わります。変えられます。教会の生徒もリバイバルも同じなんです。
その変化の始まりは、私たちの考えが変えられなければならない。
その変化は、リバイバルは、復旧はどこから始まるんでしょうか。
従うときです。
まず、神の御言葉に従うとき。
復旧はリバイバルは従順から始まります。
私たちがこの墓地から始めて、みんな主の御前に従う墓地に、そして祝が立てられた主の下辺に従うときに、教会は生徒として恵まれていくことなんです。
その霊的原理を一日でも早く悟って従う教会が、実は恵まれて成長していくことです。
1:03:06
しかし何があっても、なかなか変えようとしない。
昔のママのあの形をずっと持っていて、小学生のあのカバンをずっと持っていている。
私よりもと同じです。
私たちはいかがでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。
霊的に従う体質でしょうか。あるいは、なかなか従わない、固くなな体質なんでしょうか。
成果というものは、古き固くなな自我を、頑固な自我を、変えようとしない自分の古き自我を脱ぎ捨てることなんです。
それは神の御言葉に、どれだけ従うか従順であるかによって決まることなんです。
家様もおっしゃいました。目に見える人に従わない者が、どうやって神に従えるか。
皆さん、目に見える兄弟姉妹に従いましょう。目に見える僕会社に従っていきたい。
先週にこういうことがありました。
小さな従順と言いますか、方式だけれども、神様も私も嬉しいことでした。
ささやかなことでしたけれどもね。
水曜日の人会が終わって、最近このカーペットが結構汚れていて、
私がお名前は言いませんが、ある姉妹に汚れていて、天気のいい日に洗いましょうか。
日焼けで雨がキラッと降っていましたね。
そして私は2階に行って、布をとっていましたら、何かをしているような声が聞こえて、
何だろう、みんな帰っていないんだろうって降りて行ってみたら、3人、4人の姉妹がテキパキに洗っていました。
すぐに綺麗になりました。テキパキ婦人と言いたいんですね。
1つだけお願いしました。天気のいい日に洗いましょう。すぐに洗ってくれました。
小さな方式なんです。小さな従うことです。
しかし、私が1つだけお願いしたのに、10個も20個も喜んで自発的にしてくれました。
人に従う人が神に従う。
1:06:03
成果イコール成長従順です。
長くなりましたけれども、最後にこの話はいつかは申し上げたいと思っておりましたので、
今日からも内容的につながっていると思いまして、お話をしたいと思います。
これはあくまでも個人的な話なんですけれども、個人的な見解であるかもしれません。
でも敏感な話なんですけれども、申し上げたいと思います。
私たちの教団は、僕会社が教会と教団、またその先生の合意によって移動しますね。
私も清教師になるときにサインしました。教団の人事異動に従いますとサインしました。
ここに行きなさいと言っても、従いますとサインしました。
ところが、そういう人事異動があるからこそ、そこにはもちろん素晴らしい念もありますし、
配慮もありますけれども、そこには一つのジレンマがあります。
まず僕会社の立場から考えてみたら、一つの業界に踏みしてきました。
3年、5年働きました。しかしなかなか難しい。しんどい。反対にぶつかれて、何をしようとしてもなかなか来てくれない。
ついてくれない。伝導もうまくいかない。
そしたら、いよいよその場合は、教団にお願いして教会を変えてくださいと言ったら、変えてもらえることがありますよね。
もちろんみんながそうしていらっしゃるわけではありませんよ。
一つの教会で30年、40年中と僕会をしていらっしゃる先生方もおられます。
さあ、教会の立場からはどうなんでしょう。今までともっと違う。気に入らない。
そしたら、そういう言葉にもありますよね。ささやきせんに。
技のように直接であろうが間接であろうが、教団にその話が入るでしょう。
そしたら先生は変わり。一概には言えませんけれども。
だから僕会社も教会も、気に入らなかったら、うまくいかなかったら、耐えればいいんだ。
そういう思いが両方にあるのではないでしょう。
これがある意味で教会成長を妨げているのではないかと私は思います。
1:09:04
みなさんはいかがでしょう。
私は僕会社として日本に骨を埋める覚悟でやってまいりました。
先生様が送ってくださる教会で、その覚悟を持って僕会をさせていただきたい。
みなさんはいかがでしょうか。
様々な事情がありましたけれども、最近の5年間、先生は4人も変わりました。
いろんな事情があったでしょう。
その根本的な理由はどこにあるのでしょうか。
私よりみなさんがよくご存知だと思います。
私たちは新しい人になっていなければなりません。
神の御言葉に従わなければなりません。
日々御言葉と祈りと礼拝に励んで励んで励んでまいりまして、
そして煽れるほど恵みを受けなければなりません。
そして私たちの考えが変えられ、言葉や行動や人生が変えられ、
そして教会が変えられるときに、祝いが起こり恵みが起こるんです。
みなさんどうか足首くらいの恵みで満足しないでほしいんです。
星を越えてそして泳げるほどのあふれるその川に浸る恵みを共にいただこうではありませんか。
上様が下されるあふれるほどの命の川をその水をいただきたい。
そしてこの成果のプロセスを共に変えられそして恵まれ豊かに、
さらにさらに豊かになるクリスタルになりたいと願っております。
お祈りします。
01:11:30

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