1. 名谷教会 podcast
  2. 2017/05/14:母の祈り
2017-05-14 41:54

2017/05/14:母の祈り

2017/05/14 聖日礼拝

斎藤亘師

サムエル記第一 2:1-10

00:01
今朝は、齋藤先生より、母の祈りと題しまして、メッセージを取り継いでいただきます。
おはようございます。久しぶりに立ちますとね、やはりこう、印象するもので。
しかし、井上先生が、鶴見玉師協会での大切なご奉仕を、今朝と午後、2回のご奉仕でもって、そこで奉仕されますので、
なんとかその一つの責任を、ご一緒に果たしたいと願っております。
私は、最初、先生から依頼を受けましたときに、もう一つの聖詩の歌詞を思い起こしとったんですが、
ところが、この5月の第二聖日は、これは花の日じゃない、平和の日ということで、
私も長い間、そういう母の日の特別な礼拝を行ってまいりました。
で、私が母会しておりました大阪の教会では、そこに赴任して早々に、何をしようと。
当時私も30代でしたし、見ますと皆さんほとんど20代、30代ですから、母の日と言ってそれに該当するような人はどんなのだろうか。
子供と言えばみんなですね、小学校に入っているか入っていないかぐらいの、そういう子供たちですから。
彼らから見たらやっぱり親だから、母の日があってもいいんじゃないかなということで。
そして当時の教会が企画したのは、大福餅を作ってね、それをお母さんたちに贈りましょうという。
今それをやっているかどうかは覚えておりませんが、そういうことをやりました。
そのうちだんだん変化しましてね、大福餅はあまり人気じゃなかったんですね。
ですから餅をついて喜ぶのは、そういうお父さんたちでね、食べながら作るものですから。
そうしていくうちに色々アイデアが加わってきまして、最終的には青年会がね、豚汁を作って、そこにつきたての餅を入れて、そしてお母さんたちに振る舞う。
これが好評でした。
そしてお土産に大福を2個ずつ、プラスチックの中に入れて、そしてお帰りいただくという。
そういうことをしておりましたから。
ですからその後一丸教会に行きましてもね、そういうことをやったらどうなんだろうかなと思いましたけれども、
03:07
人数がない人が多いものですからね、違う形でやりましょうということで。
それぞれ教会は母の気にちなんだ行事をそこで行っているんじゃないかなと思いました。
ただ、ことの起こりから考えますとね、当時の平方希望教会がお母さんたちに花の一銀でもという、
それをなくして大福持ちというところでね、日本の教会の一つの在り方があるかなと。
普通ですと、バラを一本ね、それぞれ奥さんにお母さんに渡す。
私も最初ですね、花の日のことを知ったのは、確か小学生の時だったんじゃないかなと。
で、学校から今度は花の日だからと言われて、そして10円を母親からもらってきて、
で、紙で作った赤いバラを、それを学校でもらって、そして母親に渡したっていう、
そんな記憶がかすかに残っております、もう70年少し前の話ですから。
そしていくうちに教会に行くようになって、で、この花の日の起こりっていうそれを聞いた時には、
ああ、そういうところから花の日が生まれてきたんだなと。
皆さん方はご承知と思いますが、一人の女の子が、お母さんが天国に帰られた。
で、そのお母さんへのこの感謝と、神様がこんな素晴らしいお母さんを与えてくださったということへの感謝をね、
彼女は広いバラを教会に持ってきて、そして自分の気持ちを先生に伝えて、
そしてそれが教会で、ああ、これは良いことだということが始まりました。
その教会の中で行われた。
そしてそれを聞いた近隣のこの教会も、ああ、それじゃあそれをうちの教会でもやったら、
ね、あの亡くなったお母さんだけじゃなくて、今お母さんを頑張ってやってる、そういった人たちにもいいことがないだろうか。
やがてそれがするだけではない、アメリカ全体に広がっていって。
そこで国は、この5月の第二聖日を、これを花の日に決めましょう、そういう経緯が物の本には記されております。
今日ではですね、教会歴ではありませんけれども、それに次ぐらいの大切な日として、この花の日というのが一般に覚えられております。
私は5月の14日ということで、ああそうだ、それでは花のことに関する、そういうこの聖日のことをご一緒に開いてはどうだろうかということで、
06:09
それで読んでいただきました、このサムウエル1の2章、この祈りを通して、私たちは改めてね、この花に対する感謝を表していきたいと、
こう願って、今朝このところを開きました。
聖書には、こういう母を題材にした記録というものが、非常にかなめかがめというでしょうかね、非常に大切なところでもって、そのお母さんの役割というのがどんなに重要か大切か、それを教えている。
その一つが、この花とではないだろうか。
当時のこのイスラエルというのは、せっかく神様がお渡えなさったこの約束の木を収めるようになってきたんですけれども、ところがあんたやイスラエルと人間の気持ちというのは、いろんなところに向いてしまって、神様に対する感謝よりも、何か違うことに興味を持ち出すのでしょうか。
そして相当、このイスラエルは、まことの神様からだんだんだんだん離れがちになっていって、そして自分たちが治めているその世の土着宗教と言いましょうかね、そういうことも抱き合わせにするようになってきて、神以外に何者も神としてはならないというね、
彼らが国を頂いたときに、神様との間でもって契約したその約束ごと、これを彼らは忘れちゃった。
そして、天然の柄になってしまった。それで神様は、さてはということで、その時代時代にやる必殺を起こしなさったんですね。
王政が惹かれているわけではありませんから、そういう有能な器がそこに立てられて、そして彼らのもとでもって、その司法があるいは国が守られるように神様が取り上げられてくださった。
それでも彼らはダメなんですね。すぐに右に寄り左に寄ってしまう。
そういうイスラエルにとってはね、せっかく約束の地に自分たちが到達しながら、ところが到達させてくださった神様を忘れてしまって、そしていい加減な生活をするようになっていった。
ですから、当時のこのイスラエルというのは、イスラエルの歴史でもやはり非常に暗黒の時代とも言われている、そういう時代なんですね。
で、そういう時代的な背景の中でもって、この一人の女性の苦しみの祈りから、やがてこの祈りが一人の大切な子を生み出すのでしょうか。もちろん生んでいくわけですけれども。
09:20
当時、エルサリムではなくして、シロというところまで行って、そして彼らは自分たちの神様への感謝、あるいは自分の地にある祈りをそこで持って捧げるということをしておったんですね。
で、このレビ族に属する、このハンナさんのご親、これは、一応ですね、少しこれを背景にして読んでいきませんと、なぜ二章のこういう祈りが生まれたんだろうかという意味がぼやけてしまいますので。
で、ここにですね、エルコナという、その奥さんがこのハンナさん、ここにもハンナさんいらっしゃいますけど、ハンナさんですね。
ところがですね、当時のこのイスラエルというのは、こういったところも、いくら時代が時代だといって、果たしてどうなんだろうかというならば、代理夫人を持ったわけですよ。
で、本祭さんのこのハンナさんには子供さんがいなくてですね、そして一緒にそこにおりますもう一人のこの夫人の方は、それこそこう、ポコンというような表現はおかしいんですけども、それこそくもなく子供たちがこの方へ挙げる。
そうするとこの優位に立つのは、その代理夫人のようなそういう立場の彼女ですよ。
期待というかこのハンナさんはですね、本当に自分は神様を信じてここまで来たのに、なんで神様たちの祈りに応えてくださらないんだろうかという、もうそういう涙のない日がないぐらいに、その代理夫人からは痛められる。
そして見れば向こうには本当に可愛い子供たちがこの方へおります。
そしてその家庭の方が非常に愛されている。
夫のエルカガもどちらかというとそういうふうな方向に向いている時もある。
だから余計彼女は寂しく感じたんでしょうね。
そういうことを少し象徴的な言葉として、この七節にですね、毎年このようにして彼女が主の宮に登って行くたびにフェンリンナは彼女を苛立たせた、こう書いてあります。
12:02
神戸学生賞の方では、そこではですね、そういう表現じゃなくて、行く年も、行く、同じ意味なんですけどもね、行く年も、そして過ぎ去るその日もというような、そういうことで非常に素敵な表現がされておりまして。
私も覚えておいたらよかったんですけども、こうして年は暮れ、年は明けた。
こうして年は暮れ、年は明けた。
ですからもういつも、この毎年書いてある通りなんです。
彼女にはもう涙のない年、涙のない日はないっていうぐらいに、非常にそういう点では、彼女の心というのを本当に綺麗に見られた。
これちょっと暖房が入っているんじゃないでしょうかね。
あったかい風が来るんですけど。
それで、そういう中でもって彼女はその行く日もそういう厳しい、寂しい。
そして一体夫はどっちを向いてくれているんだろうかということが、もう一つ理解に苦しむような毎日がこの数日。
この実節に、ハンナの心は痛んでいた。
彼女は急に乗って激しく泣いた。
これがもう当時のハンナさんの力業なんです。
神様はそうした祈りを帰り見られないのか、そうした祈りにお答えにならないのか、というと決してそうではない。
実は彼女のこの祈りの様子が、この実節はそういう風に印しておりますけれども、
ついてその十一節を見ますと、一章の十一節ですね。
そして誓願を立ちて言った。
万君の主よ、もしあなたが足溜めの悩みを変えにいて、私を心に留め、この足溜めを忘れず、この足溜めに男の子を授けて下さいますなら、
私はその子の一生を主にお捧げします。
そしてその子の頭に神取りを当てません。
そういうこの神様との間でもって契約の祈りと言いましょうか、そういう祈りを捧げた。
この子は何とかして下さい、というそういう思いですよね。
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しかし彼女が一人、二人、三人、子供が生まれてくるならまだ少ないこと。
万人以内、そういう中から一体どうしたらいいでしょうか。
しかもその悩みは毎年のことです。
そしてそれをあざけるように、このペニンの方がですね、そういう風に自分を軽蔑してくるという中で、彼女はもうこれしか祈りがない。
神様との間でもって取引をしたわけではありませんが、
この祈りの本質は、全て自分自身を神様に目覚めるということなくして、この祈りは捧げられなかったと言ってもよろしいと思いますよ。
せっかく与えられた子をね、神様に捧げちゃう。
これは数石を見て参りますと、アブラームの奥さんのサラさんも同じような心境そういう道を歩んだと思います。
彼女も子を持つことができない奥さんでした。
それが要件ですね、彼女を苦しめた。
けれどもその苦しみの中から、やがて神様はこのサラさんを帰りに行って、そして遺作を与えなさった。
ところが神様の要求は、その遺作を捧げなさい。
せっかく与えられた子を捧げる。
サラさんは、あるいはそういうようなことを自分の思いの中に入れて、たとえ神様がお与えくださったとしてもそれは主のものだから、それは主にお捧げしますという、そういう思い。
これは本当に自分自身を神様にお依頼しないと生まれてこない祈りと言ってもいいんじゃないかと思います。
神様は、そういう祈りをこのサラさんを通して捧げたときに、その祈りに神様がお答えなさった。
私は、後のこのサムエルという偉大な預言者を見てまいりますとね、このような預言者の誕生日は、こういうお母さんのハンナさんの天神の祈りだったと言って間違いないと思いますね。
この祈りがあったればこそ偉大な器がそこにもって誕生していくわけです。
言うならばこの祈りこそがサムエル自身を育てていく、あるいは育てたとも言ってもよろしいと思う。
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このようなハンナさんの素敵となった祈り、あるいはいざねきった祈り、それがあったということを私たちは祈りの大切な器として見逃してはならない。
何でもかんでもお答えください、という、そういう時にそういう必要な祈りがあります。
けれどもその祈りというのは、いかに自分自身を神様にお任せしていくか、祈りを通して神様に対する信仰信頼というものがそこで養われていって、
そしてそれは自分自身も含めて与えられたものすらも全部それは主のものです、という、そういう祈りがこうした大切な答えとしてのサムエルの誕生につながっていく。
ご承知のよりこのサムエルは大泣き、この国でありましたこのイスラエルという、そしてそのためにもうみんなバラバラ、
けど神様はね、神の言葉を取り継ぐ預言者をもって国を治めるということにおいてそれを要求されていたんです。
けどひとりとはね、よその国を見るとやっぱりそこでは王様が立てられ、そういう国は勢いがあって、そういう勢いのあるこの周囲のこの国々にいつも脅かされている。
だから私たちも王様がいるんだ、ということで彼らはですね、半分くれたみたいなことでもって、この神様にこの言うならばサムエルにですね、握り寄せていくわけですよ。
なんとか私たちにも王様を与えてくれ。
サムエルは、王を必要とするあなた方の気持ちはわかった。しかしその必要ということの中には、あなた方の負うべき責任もある、払うべき犠牲もある、
そのことを踏まえてのその願いなのか、と聞いたらですね、当時の彼らは、もうなんでも仕掛かりますから、言ってください、と言うようなことでもって彼らは、
遂にですね、自分たちの願いを押し出していって、そしてサムエルを通して、やがてその国に王が誕生する。
イスラエルの最初の王として選ばれたのがホールという王様ですよ。
彼は確かに国を恐れました。
手の権力が、財力が、力が、自分に集中し始めた時に、あたかもそれは自分が獲得したかのように錯覚となってね、
そうやって自分を立てなさった神様を忘れるわけですよ。
神様の前にはいい加減な生活をして、そして自分の地位や自分の富だけを、自分の力だけを保護するというようなことに彼は教っていた。
21:05
そして、遂に彼、神様はこのサウルを支持づけて、そしてその後にダベテというですね、この人を立てになった。
サムエルは、サウルの時は、そういう神様から言われて、そして非常に体格のいい彼を任命したわけです。
ところが神様の選びが、そこではないということを知った時に、一体誰ですか?
そしたら、そのところの末っ子、どこにいるかわからないようなですね、そのダビデに神様の目がとまった。
そして、このダビデがやがて本格的なイスラエル王として国を統一し、そしてダビデ王国という国を治めていくわけですよ。
サムエルという人のこの働きというのはですね、そういうふうに人々の声を聞きながら、神様の言うことを伝えていくという、
そういう預言者とサイトを兼ね備えたような、そういう働きをしていた。
そしてその最初のイスラエルのこの国づくりのために、彼はどんなに大きなこの働きをしたかということがそこにあるわけです。
このサムエルという人をそこに生み出したのが、文字通り生んだのがですね、このハンナさんなんですね。
繰り返して言いますけれども、彼女の本当に頼り切った、任せた祈りが、そういう大切な身をそこで持って結ばせた。
そしてこの2章の3節を見ますと、ここではですね、彼女の祈りがそこにあります。
高ぶって多くのことを語ってはなりません。大平な言葉を口から出してはなりません。
誠にしては全てを知る神、その御業は確かです。
私はこの最初の方のですね、時間を気にしながら今、多くのことを語ってはなりませんというんですから、
あまり時間をオーバーしてはならないな、しかし無理なものですから、ついつい余計なことを言えなくてですね、余分な時間をとってしまうか分かりませんが、どうぞこの罪を犯さないようにお祈りください。
大切なことは、ここにマコトニースは全てを知る神、自分の心中、思い悩んできた自分のその思いというもの。
夫はなかなかこれを理解できない。
まあ夫としての責任というのは、彼女さんの心を求めながら、奥さんの心もしっかりときいていく必要があるのだなと、難しいなといつも思いながらおりますけれども、
24:07
この犯人さんはね、夫が理解してくれない。そういうことも焦らせたんです。本当に悩みだったんです。
けれども、彼女は、夫も理解してくれない。誰も理解してくれない。
けれども、あなたこそが私の全てをご存知ですと言って、言うなら、あるいは神様の前にしらき直りと言っているでしょうかね。
夫もだれって入ってきたわけじゃないんですよ。
けれども、そこには限界があります。
けれども、限界を超えた私たちのうちに働くのは、そして私のことをよく知ってくださっているのは、あなたですから、そのあなたに全てをお委ねします。
という、こういう信仰。やはりこの信仰が、やはり幼児期の、幼児期と言いましても、このサムエルは幼児期はですね、お母さんのもとにいなかったんですから。
けれども、彼女のそういう信仰が、自分のもとから離れてはいても、しかしその信仰とその祈りは、その幼子サムエルの中にしっかりと実を結んでいったのではないか。
私はやはりサムエルの障害を見てまいりますと、すべてをご存知の神への祈りというのが、そのままサムエルにですね、受け継がれているなという、そういう要所要所をサムエルの障害に固かれの言葉の中に、働きの中に見ることができます。
このように、この祈りに見る神様へに対する、そういう祈りが刻みとなって、そして彼女はその時から変わっていくわけです。
この1章の方では、彼女が祈る祈りに対して、この祭司がそれに対して答えていくんですが、この1章の26節。
ハンナは言った。おお、祭司様、あなたは生きておられます。祭司様、私はかつて、あなたのそばに立って主に祈った女でございます。
この祭司さんは、その時はですね、このハンナさんのそれを思い出すことができないぐらいに、ああ、そんな人も来ているのかなというような境地だったのでしょうか。
しかし彼女はですね、神様が自分の内に働いてくださるということを信じた時に、祈った時に、彼女は呼吸を持つことができた。
27:12
そして改めて、この祭司の前に立った時に、私はかつて祈った女です。
そしてこの27節。この子のために私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いを叶えてくださいました。
それで私もまた、この子を主にお渡しします。この子は一層は主に渡されたものです。
こうして、カラダワトコレヒを礼拝をしたと書いてありますね。
その前に、この18節の後を前後しましたけれども、この18節の後を見ますと、
彼女はひためがあなたの御声に預かることができますようにと言った。それからこの女は帰って食事をした。
彼女の顔はもはや依然のようではなかったと書いたのです。
苦しも苦しも、何の喜びも、また恵みも感謝も持てなかったこの彼女は。
やはりこの最初の間の中で持てかわしたその言葉、そこから彼女はやっとこの信仰を二人持つことができた。
そして死の前にそれを持つことができた時に、その時から依然の彼女ではなかったと。
そしてその証拠が、今読みました、この後半の私は神様がお分かりくださった時、その子のすべてをお祝いしますと祈りました。
そしてそこで礼拝をしたと、こう一生は結んでいるわけです。
このやんとりの中でも私たちがしっかりと理解していかなければいけませんのは、神様はそういう私たちのことのすべてをご存知だと。
ここにこの花さんの落ち着きどころ。
彼女はもう今まで冷静を失ってしまったかのような、もう心が乱れ、どこにも誰にもわかってもらえないような、来る年も来る年も育った、そういう彼女がこの時から変わった。
30:00
そして彼女のうちには、自分の思いが優先してあれやこれや悩むんじゃなくて、私をっていらっしゃるこのお方に私はすべてを贈っていこうと。
神様がお分かりくださったものは全部神様にお貸ししていこうと。
そういう思いでその信仰というものが結んだ時に、彼女はそこであらさめて神様をですね、礼拝をしたということです。
私たちの礼拝においての私たちのこの大切な姿勢もやはりここにたくさんの学ぶことがありますよね。
礼拝に行って神様に乗りながら、また神様から御子さんが頼られながら、そして私たちは何をするか。
示されたことにおいて私たちは神様に本当にご感謝した時に、そこにこういう礼拝が始まるんだなと思います。
そしてそれは彼女の祈りのように、なぜならば私のすべてのことを感じてもあなたは御存じかかるです。
私たちが礼拝に来る一週間のいろんな生活の中で傷つくこともあります。
あるいは傷を与えてしまったこともあります。
あるいはどうしたらいいだろうかというような事柄でもって思い悩むこともあるのが私たちの日常です。
けれども私たちはそういう日常の思いを持ちながら、神様と言って持ち直って、そしてあなたは私の愛にできたすべてを御存じ、私はこのこの日のあたりに礼拝します。
こういう礼拝ですね。
そしてもう一つの大切なそれは、これは2章の9節の方ですが、
主は生徒たちの足を守られます。悪者どもは闇の中に滅びゆせます。まことに人は己の力によって勝てやむ。勝てません。
申し上げたいことは、神様は私たちのことを全部御存じ、と同時に神様は私たちの足を守られるということは、私たちの日常生活の些細なことではありません。
とにかくあなたは私がどこへ行くにも、何をしてても、どういうことで悩んでいても、けれどもあなたは私の足を守られる。
もちろん悪い道に立とうとするような足になってしまうこともありますよ。
けれどもそういうことも含めて、そういう横島の道に行かないように、神様あなたは私をいつも守って下さい。
今年は、これから半田さんの祈りを読んでいきますと、神様はそれこそは些細なことでも私たちを守って下さる。
33:12
ある教会の信者さんが、私が行くので何とかこの車を用意しておきます。
その前任者の方の名に変更が何かが来ていくわけですが、その手付きをしようと思ったら、その必要な書類がどこへ行ってしまったのか見当たらない。
それで彼は奥さんに、われなかっただろうか、どうだっただろうかといって話すのですが、一緒に探すのですが、なかなか見当たらない。
そしてとうとう最後に、やっぱりお祈りしようかと。
二人でお祈りすることは滅多になかったそうです。
けれどもどこに行ってもそこで持って見つからないと、あとサイクロプスが来た時に困るだろうかということで、お祈りしたそうです。
そしたら、探したはずのそこに置いてあった。
で、彼は後で持って教えていました。
そういう二人で祈ることのない私だけに神様がね、何とか二人で持ってお祈りをする機会を、そういう形で持ってお与えくださったんだろうかということを、家内と話をしたのです。
そして家内も、ああそうだ、これからやっぱりお祈りしていこうという風に、その時から代わりが来たということを教えてもらえた。
そういうふうに、ささいなことなんですけどね。
けれどもこのご夫婦にとってはね、やはりその生活の中にも一大確信してみましょうか。
それこそ夫婦がそこで持ってお祈りしだした、という。
そのために神様が至らされたわけじゃないんですけども、ような距離をそこに置いて。
寝隠されたからよりですね、なかなか二人で探しながら皆様の内でやっていくうちにお祈りしようというところに行って、祈ることができたということが、もちろん祈ったから神様は答えてくださったんですけどもね。
しかし、祈ることのできるお互いの関係を夫婦をですね、そこで持って作ってくださったんじゃないかという、そういうこのお訳しのことを思い出します。
神様は私たちをあらゆることから守ってくださる。
つらいことも何もかも、私のことを何もかも知っていらっしゃる。
そういう私を、それこそ私の足を守られるという言葉に象徴されるように、神様は全てを守られる。
私は最後にもう一人言ってみましょうか。
ローマが、キリスト教を自分たちの国の宗教にしようというふうにですね、コンスタント・キノーブルでしたか、国が変わった。
36:05
その頃に、一人の若い青年、若い青年はおかしいんですが、彼は一生懸命ですね、その道を進んで歩んでいた。
けれども、一体人生って何なんだろうか、聖書にも触れてきましたし、いろんなことに彼はですね、ついていってきたんですが、わからない。
彼はもう思い悩んで、いや人生ってのは、快楽こそが人生の目的かなということで、
それこそですね、そういう道にも落ちていった。
けれども、この大垣神父、この人のお母さん、モニカって方ですが、この方は、もうその幼い時から、この大垣神父、彼が本当に神様に祝福された、そういう人になるように、祈りの中でおって、育ってきた。
ところがその祈りと逆の方向に、息子がどんどん離れていく。
花さんと同じように、彼女は教会に行っても、ミサを捧げていても、祈りなくしてそのミサに預かることがなかったぐらいに、もうそこには何の喜びも見えだせなかった。
祈れば祈るほどなんか息子が離れていく、という、そんな思いだった。
そしたらその教会のアムロシウスという監督が、彼女に目をとめて、「モニカさん、あなたの悩みは全部神様がご存知だ。あなたの涙を神様は決して癒せたりはしない。」ということを言われた。
それがね、このお母さんのモニカさんの心に留まった。
ですから、そういう励ましをいただきながらでも、しかし息子はもう全然方向違うところに向く、そういう中でもって、彼女の葛藤が始まったんですけれども、しかしその祈りはやがて応えられている。
どこに向かっても何の喜びも力を見出せなかった彼はですね、あの時もう疲れてしまって、そしてもうどうしていいかわからない。
そしたら遠くで、子供が遊んでいるその歌声が聞こえてきた。トール・レゲっていう、やる取り手読めっていう、そういう小勢歌のようなその歌が聞こえてきた。
大橋君はずっとこう立ち上がって、起き上がって。
目に留まったのが、その母親がですね、自分が離れる時に、これを私だと思ってこの聖書をよく読むように。
もう開いたことはない。
けれども彼はですね、その聖書を展示して、そしてそれを開いた。
その時、彼の心の中に働いたのは、ローマ日説の手紙の12章の方ですね。
失礼しました。13章ですね。13章のこの12節から読みますと、310ページです。
39:33
ここに、夜は更けて、昼が近づきました。
ですから私たちは、闇の技を打ち捨てて、光の部分をつけようではありませんか。
勇気をめいて、因乱行色争い、妬みの性格ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
主よ、キリストを来なさい。肉の欲のために、心を用いてはいけません。
この歌詞をですね、彼は開いた。びっくりした。
そしてこの言葉が、まさにその時の自分自身のこの実態だった。
もう苦しもう苦しもう、快楽の道に行かなかった。
そして結婚もしていない、相手の女性から子を持つというようなことも、産ませるというような、そんな生活までやってしまった。
そこに彼の中に光が入ったのがこの二言葉だった。
彼はここに立ち上がって、本当に感謝申し訳ない。
その後彼は、聖大賀神と変えられていく、そういう優れた指導者になっていくわけです。
こういう器が誕生するにも、お母さんの涙の祈りがあった。
非常に私は、そこにサンメルさんと共通したのを見出します。
そして、ああ、親っていうのは力強いものだな、と。
その大賀神の父親はどういう人なのか、あまり出てこないでしょう。
サンメルさんのお父さんはどんな人なのか、あまりですね、そういう存在はそこに記憶しておりません。
けれどもしかし、こうした女性型の祈りと信仰が、大切な時期に大切なその時代に必要な器をそこで持って起こしていく。
神様という方は本当に素晴らしい方だ。
私たちの祈りにこんなにまでしてお答えくださる方なんだ。
長くなりましたけれども、ご一緒に神様に対して感謝の祈りをお伝えいたしましょう。
41:54

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