00:01
では、メッセージの前に不満のような方と挨拶しましょうか。
では、一言お祈りします。
私のために造ったこの民は、私の栄誉を述べ伝えよ。アメン。
神の栄誉、誉れを述べ伝えるために、賛美するために、我々を造ってくださって、
また、この朝も、我らを引き寄せて集めてくださって、本当に感謝いたします。
主よ、主の御言葉の御前に、心を無にし、低くし、謙遜であって、
主よ、お語り下さい。しもべや、おきつします。という信仰の姿勢をもって、御言葉を表題いたします。
どうか、主よ、豊かな悟りを与えて下さい。我々の生活を、生き方を、人生を、主に向かって歩むものとさせて下さいますよ。
どうか、主よ、お語り下さい。イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
今日は、いよいよ、このシリーズの説教、私は神の作品、最後のメッセージになります。
最初に、9回か10回くらいと、予想しておりましたけれども、今日で10回で最後になります。
今日は、その最後のメッセージとして、神のために作られた神、神のために作られた神、という題にして、
御言葉の恵みを共に言いたいと思います。どうか、皆さん、このシリーズの説教を通して、
皆さん、自分自身が、まず、自分自身のことを、歪んだ目ではなく、この世の価値観による目ではなく、
神の目で、神の心で自分自身を見て、そして、神と隣人と自分自身を愛しながら歩んでいきたいなと、そういう風に願っております。
今日の最後の、私は神の作品の最後のメッセージは、神様が私たち一人一人を、なぜお作りになったのか、
03:03
その目的を正しく知って、そして、その目的を成すためにどうしたらいいんだろうか、
それを、今日の御言葉から教えていただきたいと願っております。
旧約聖書、新約聖書には、私たちがなぜ作られたのか、それを教えてくれる箇所がいくつかあります。
今日は、その中で、まず第一話、今日の二十一節です。もう一度、二十一節を一緒に読みたいと思います。
よろしいですか。
私のために作ったこの民は、私の栄養を延べ伝えよ、アメ。
この歌詞は、他の聖書で、私はこの民を、私を賛美するために作った、とも訳されているんですね。
いずれとしても、その意味は同じだと思います。
ここに大事なポイントが、まず一つあります。
神様は、皆さんお一人お一人をなぜお作りになったのでしょうか。
なぜ私たちは作られたのでしょうか。この世になぜ生まれてきたのでしょうか。
この質問に対する答えは、二十一節の一行目に、はっきりと明確に書かれています。
私のために作ったこの民、とありますね。
ですから、我々はなぜ作られただろうか。この世になぜ生まれてきたんだろうか。
死ぬために生まれたわけではありませんね。
なぜ作られたのでしょうか。神様のために作られた。
神様がご自身のために、皆さんお一人お一人を、尊い存在としてお作りになった、ということです。
これが今日の第一のポイントです。
私たちが作られた目的の始め、その最後、その全てがこれです。
神のために作られた。
こうしますと、我々が生きる目的も、こうある。
私たちが神を信じる目的も、信仰を持つ目的も、
このように集まって礼拝する目的も、
あるいは、教会が組織されて立てられて維持されている目的も、
あるいは、教会が行う全てのことの目的は何でしょうか。
06:04
神のために、ということであります。
あるいはですね、皆さんこちんこちんのことを見ますと、
勉強をすること、就職をすること、結婚をすること、子供を持つこと、お金を稼ぐこと、
その生きる目的は何でしょうか。
神のため、ということです。
日頃皆さんはいろんなことをしていますね、本当にね。
その中で、神のためにということを、我々は常に心に留めていただきたいですね。
仕事をしても、自分の健康を維持することも、
放棄をすることも、ボランティアをすることも、家族を愛することも、
全ては神のため、ということです。
これは目的、方向性と関係ある大事なことであります。
人生の方向、目的がある、それは神のため、ということなんです。
例えば皆さん、関西空港で出発して、ニューヨークに行く飛行機に乗りました。
15、6時間かかるでしょうか。ニューヨークまで行ったことはありませんから。
15時間、16時間、ニューヨークの空港に着きます。
そこが目的地ですね、目的地です。
ところがですね、起きたり寝たり、起きたり寝たり、食べたり寝たりして、
起きてですね、降りたら、アフリカに着いていたんです。
なんということなんでしょう。
方向性がある、目的がある、我々の人生もですね、ただ生まれて、ただ生きていて、ただ死ぬことでは、
生きる方向がある、生きる目的がある、それは神様である、神のためである、ということであります。
そして、それはどういう意味なのか。
今日の21節の2行目には、神のために作られたということに対する一つのヒントをもう一つ教えてくれます。
それは、私の栄誉を述べ伝えようとあります。
これは、他の役にはですね、神を褒め支えるために作られたという意味であります。
どういう意味でしょうか。
我々が生まれて、作られて、この世に生きる目的、歩んでいく目的、それは具体的に何でしょうか。
神を賛美するために、神を褒め称えるために、神の栄誉を述べ伝えるためなんです。
それが第一であって全てであります。
信仰を持つ目的もそこにあります。
09:01
神のために、神の栄誉を述べ伝えるために、神を褒め称えるために、我々は生きているんです。歩んでいるのです。
ですから皆さん、この目的を知っていて、この目的方向に向かって歩む人は幸せな人でしょう。
わけなら、その方向に目的にふさわしい生き方をしているから幸せなんです。
皆さん、作られた目的にふさわしく生きることは、とても大事なことなんですね。
ところが皆さん、例えばですよ、皆さん、今朝も食事されましたか、あるいはお昼も食事をするんですよね。
食事をするときに、お箸で食事をする。野球のバットで食事をする人はいない。
野球のバットは工事園で、あの野球場で野球をするときに使うものない。そのために作られたものなんです。
食卓で、野球バットで食事をする者はいない。逆にお箸を持って工事園で食事をする人もいない。
お箸は、野球のために作ったものではない。食事のために作ったものである。
お箸もバットも、それぞれの使用用途がある。まして、それより遥かに尊い我々が何の目的がないままで作られたのでしょうか。
そんなことは決してありません。
私たちは神を賛美するために、だから皆さん、私たちは就職をしても神を賛美するためにするんです。
結婚をしても、ただ愛するから結婚したのではない。それ以上の目的がある。神のために神を賛美するために結婚をするわけです。
恋愛する目的は当たり前でしょう。ただ自己満足のためではない。知識を蓄積するためではない。神を賛美するために、神のために我々は恋愛するわけなんです。
何をするにしても、神のために、神の栄養を使えるため、神を褒め讃えるために、我々は作られたということです。
この大事なポイントを一生皆さん覚えていただきたい。そしてその方向に向かって歩んでいきたいですね。
2番目、今日の43章の7節を一緒に読みたいと思います。
伊沢諸、43章の7節です。一緒に読みましょうか。
12:06
私の名で呼ばれるすべてのものは、私の栄光のために、私はこれを創造し、これを形作り、これを作った。アーメン。
ここにもう一つ、我々が作られた目的がありますよね。何のためなんでしょうか。神の栄光のために、ということであります。
神様の栄光のために、我々は作られた。神のために作られた。神を褒め讃えるために作られた。それはですね、神様の栄光のために、我々は作られたということであります。
さきも申し上げたように、人生の方向性があるわけなんですよね。神の栄光という方向があって、そこに向かっているんですね、我々は。
皆さんですから、いつも祈るときに、心に覚えるときに、神の栄光のために生きるものとしてください。
結婚をしても、子育てをしても、お金を稼いでも、仕事をしても、神の栄光のために生きるものにしてくださいと、祈るのではありませんか。
私が僕に、大体高校生、大学生のこと、そのときでしょう、母がですね、私によく口癖のように言っていた言葉がありました。
あなたが将来にどんな仕事をするのか、それは悪いことじゃない限り何でもいいところが、母の願いは、神の栄光のために生きるものになってほしいと、よく言われました。
例えばですね、学生のときには、試験があっても、あるいは勉強、本当に勉強をしたがる学生はなかなかないでしょう。
試験がある、勉強する、あなたが勉強しようが、姉妹が、神の栄光のために生きるものになってほしい。何をしても、神の栄光のために生きるものであってほしい。
もうですね、たくさん示唆されました。皆さん、その方向性があるんです。
例えば、夜真っ暗の海を航海している船があるとしましょう。光が何もない、どこに行けばいいのか、昔の船としましょう。
そしたらですね、灯台がある。灯台に光がある。そしたら、そこを目指していけば、港に着くわけなんですよね。
同じではないでしょうか。人生、実は真っ暗なんです。
15:04
この一分先、五分先、朝、一ヶ月の後、別にですね、スケジュールは組むんですけれども、でも我々は一分先のことも知らない。
実は、暗い暗い中に我々は生きているんです。しかし、そこに方向がある。それは、神の栄光のためであるということであります。
これはですね、パウロ先生が、ヒト・パウロが、新約聖書のコリントピトの手紙に、このように語っています。
ちょっと一緒に開きたいと思います。第一コリント、十章三十一節です。新約聖書の332ページです。332ページ、第一コリント、第十章三十一節。
少し読みましょうか。
こういうわけで、あなた方は、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光をあらわすためにしなさい。アメン。
ここにありますよ。パウロ先生、コリント協会に言いました。
食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光をあらわすためにしなさい。
同じなんです。私たちも同じです。
食べるにも、飲むにも、走るにも、仕事をするにも、放棄をするにも、何をするにも、ただ神の栄光をあらわすために。
これが実は、我々が生きる唯一の目的方向ではないでしょうか。本当にそうなんです。
そもそも、心の姿勢が大事であるということですね。
どんな心の姿勢を持って、食べるか、飲むか、放棄するか、仕事をするか、働くか、ということなんです。
心は何にしても、神の栄光のために私はこれをやるんだという心の姿勢、信仰を持ってそれにあたるということなんです。
放棄をしても、神の栄光をあらわすために放棄をするんです。
いやいやしながら、そういう思いじゃなくて、教会の兄弟姉妹のために昼食を作っても、神の栄光のために昼食を作る姿勢を持つことです。
教会道の掃除をしても、神の栄光のために掃除をする。
男女がお付き合いをしても、交際をしても、神の栄光のためにする。
会社で仕事がある、夜、残業がある、それも神の栄光のためにする。
夫婦が家族がお互いに愛し合うこと、それも神の栄光のためにする。
18:00
兄弟姉妹たちがお互いに愛し合って、支え合って、励まし合うことも神の栄光のためにするのだという心の信仰の姿勢を持って臨むということ。
それを神様が喜ばれるということです。
我々が、皆さんがね、神の栄光のためにするならば、それを神様が喜ばれますよ。
私の友人の神戸のある選挙地の山内です。
この選挙はですね、本当に顔が広くて足も広くてですね、韓国の多くの教会から訪問をするんですね。
私が聞くだけでもう半年以上、彼らが毎日のようにチームが来るんです。
特にですね、中高生、青少年がよく最近は来るようになったそうです。
そうするとですね、本先生は、その青少年、青少年が中高生たち連れて行く所々がありますけど、
神戸の何区ですか、ちょっと奥の山の方に外国人墓地があるんですよね。広い所があるんです。
そこにですね、アメリカ人の選挙地と、また日本で北海した韓国の牧師のお墓じゃなくて、お湯があるんですね。
そこ、また神戸の教会、大阪と京都、あるいは当地や大学、イギリスと京都、歴史を学べるという場所を訪問する。
さて、その中高生たちに、青少年たちにですね、この歴史や、またキリスト教の話、その中で、
当社で勉強した、韓国では有名なユンノンズという詩人がいますけれども、記念碑みたいなものもありますけれども、
そういう話をしながら、その中で栗ちゃんがこの歴史をどういうふうに向けて生きていたのか、そういう話。
そしてこれからのビジョンや、さまざまな話をよくするんです。
ところが、そういう話をして、選挙を開いて、そういう話をすることは礼拝のほかにはないでしょう。
ところが不審なことが起こるんです。
訪問して帰ったその中高生たちがですね、もう今まで学校で適当に暮らして、勉強もあんまりしていなくて、
親の言うこともなかなか聞かなかった子どもたちがですね、一生懸命勉強する子になって、
そして姻婚になってですね、教会でもですね、一生懸命放棄するんです。
それでですね、その親の方々が、教会の先生方が本当にもうびっくりしてるんですって。
あの、神戸にいて何があったんだろうと。
その先生とですね、選挙も月1回の学びを今してますけれども、おかしなお中でこんな話がきました。
21:07
神の英語のための働きではないのか。
もしその青少年たちが日本に来て、彼らが人口が強まって、あるいはね、本当にただ教会に通っていた子どもたちが皆さんを信じるようになってですね、
そして彼らの中に、将来にですね、本当に選挙主になったら、あるいは国首になったら、あるいは忠実にそれでビジネスをしながら、
教会を使える立派なですね、神の人になったら、それが神の英語のための働きではないでしょう。
皆さんそうでしょう。
だってですね、いつでもですね、選挙を開いて、教えなくてはならない、そういうことはありません。
我々がすることは、実は選挙である、伝道であるということなんです。
どうか皆さん、私たちのやることすべてが、神の英語のためのものでありたい。
何をするにも、ただ神の英語を表すために来てまいりましょう。
3番目、一箇所精査いただきたいと思います。
新約のペソビタへの手紙2章10節です。
新約の375ページです。
今回のシリーズ、説教のタイプルここからね、取ったわけですけれども、10節一緒に見ましょう。
私たちは神の作品であって、良い行いをするために、キリスト、イエスにあって作られたのです。
神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えて下さったのです。
アーメン。
ここにですね、私たちは神の作品である。
なぜ作られたのか、良い行いをするために、キリスト、イエスにあって作られたということです。
簡単に申しましょう。
良い行いをするために、我々は作られた。
それが神の英語のためであり、それが神のために生きる人生であるということなんです。
良い行い、難しく考えなくていいでしょう。
もう言葉通りに、良い行いです。
良いことをすることです。
もちろん、キリスト、イエスにあってという前提がついていますけれども、
ですからそれは、人々が一般的に見て良い行いじゃなくて、神様の目で良い行い、
キリスト、イエス様が見て良い行いということです。
ところが、もっと大事な順序があります。
それは良い行いをして救われるのではなく、
24:03
逆に、救われたから、神の作品として作られたから、良い行いをするのです。
わかるでしょうか。この順番が大事です。
ですから皆さん、イエス、キリストを信じて、救われた神の人として良い行いをしてください。
これが、神の英語のために生きることです。
これが福音です。
もう一か所、説を開けたいと思います。
第二手もて3の16説、17説、416ページです。
これも一緒に読みましょうか。
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと忌ましめと教制と義の訓練とのために有益です。
それは神の人がすべての良い働きのために、ふさわしい十分に整えられたものとなるためです。
皆さん、聖書が与えられた目的は何のためなんでしょうか。
もちろん16説に書いてある教え、忌ましめ、教制、義の訓練のために与えられましたけれども、
17説にもう一つの目的がある。
それは神の人がすべての良い働きをするために、聖書が与えられたということです。
ですから皆さん、聖書を学ぶこと、勉強すること、それは良い働きをするためなんですよ。
自己満足ではない、良い働きをするためなんです。
兄弟のため、姉妹のため、教会のため、あるいは未信者のため、病の人のために、貧しい人のために、
仕えて放棄して働くこと、それが良い働きをするためなんです。
ですから皆さん、まずはお家で、あるいはそこで、教会で、良い働きを、良い行いを託させてください。
皆さんが家族のために、兄弟姉妹のために、隣人のために、あるいはその町のために行おう、
その良い行いは、決して何者でもないわけではありません。
それが神の栄光のために行く方向性なんです。
皆さんの周りに悲しんでいる人がいるでしょうか。
一緒にいて、一緒に悲しんで捧げてください。
その弱い人がいるんでしょうか。
付き添って、引いてあげて、守めて捧げてください。
それが良い行いなんです。
27:02
また、良い行いをする何かのパンツがあるんでしょうか。
そしたら、心を尽くして、力を尽くして、その良い行いを成してください。
すぐに何かの実がなくても、長い目で見て、死のために生きることであります。
午前の9月のメッセージに、私の友人の選挙時の話をしました。
ソウルで立派な大学を卒業した彼ですけど、水の研究をする勉強をしました。
同じ新学校の同級生ですけれども、新学校を卒業して、
また水の研究の中止のために大学まで行って勉強した後、
彼はアフリカに渡っていきました。
大体15年くらいになっていました。
彼はそこでまともに教会を作れるわけでもありませんし、
政策を開いて、なかなか教えることもなかなかできないんですけれども、
彼が15年間やり続けてきた良い行いはありました。
それは井戸を掘ることでした。
ヨーロッパやアメリカ、韓国の多くの団体から、教会から援助をもらって、井戸を掘るんです。
今はわかりませんけど、昔は井戸を一つ掘るのに日本円で50万円あれば、
井戸、いろんな機械もいるでしょう。機械とか作るわけですから、セメントからいろいろ。
50万円ぐらいだったら、今はちょっとわかりません。結構昔ですから。
50万円だったら井戸を一つ作れるんです。
そしたらここに村ができる。
今もアフリカに子供たちが水がなくて、水不足で、もう半日歩いていくんですよ。
トラックのパケットみたいなの。それも着せない。
着いたところも井戸があるわけではない。動物の糞が入っている、ドロドロの水です。
それを踏んで、また半日自分の天幕に戻るんです。
それでみんな病気が多くある。目の時、臭の時、歯は悪い、腸は悪い。
その移動って水ができるでしょ。
そしたらみんな、その複数の病気はほとんど治るんです。
それは良い行いじゃないでしょうか。
それで人々が冷えたまま死ぬようになる素晴らしいことをやり続けている。素晴らしいなと思います。
我々がアフリカまで行かなくても、この街で、この村で、
皆さんに、我々にできる良い行いはたくさんあると思います。
それを神の栄光のためにやり続けていこうではありませんか。
この例のお話として終わりたいと思います。
さっきの神の栄光のために、神のために生きる人生は方向性を話しました。
30:04
よくですね、人生をマラソンに例えますね。
マラソンはスタートラインがあってゴールラインがありましたね。
42.196キロでしょうか。
それだいたい2時間くらいなんですかね、選挙は。
ところが皆さん、そのフォルコスを1時間で走れる人がいたとしても、
ゴールじゃない変なところに、間違ったところに行ったら、それは無効なんです。せっかくでしょ。
いくら速く走っても。
ですから皆さん、ある意味でよく速く走れることより、
最も大事なのは、正しい方向に向かって、ゴールラインに向かって走ることではないでしょう。
我々人生には方向性がある。目的、ゴールライン、それは神の栄光のため。
よい行いを知るためになっている。
我々は神のために作られた尊い存在です。
皆さんの家族、ご親さん、奥様、ご両親の方々、お子様の方々、兄弟姉妹たち、みんな、神の栄光のために作られた尊い存在です。
ですから私は神の栄光のために歩んでいきたい。
互いに愛し合い、助け合い、支え合い、よい行いを知る。精一杯それをさせていただく。
そしてイエス様の体である、教会のために奉祈をし、救え、捧げ、そして福に占拠をする、背後で祈りをする、すべてを神の栄光のためにさせていただきましょう。
その道には時には喜びもあるでしょう。でも時には苦しみもある。
時にはがっかりすることもあるでしょう。時には本当に素晴らしいことも起こるでしょう。
しかし方向性があっていれば、主はよいもので満たしてくださって、我々が行うすべてのことを通して、主の素晴らしさをなってくださるよいお父様です。
どうか皆さん、イエス様にお会いするその日まで、神の栄光のために歩んでいこうではありませんか。
神を賛美するために歩んでまいりましょう。お祈りしましょう。