00:01
お祈りをお捧げいたします。
我々は、天の父様、あなたの素晴らしい宝をご愛いとともに、
私を守るためにお投げしてくださった、
シウエスケス様の尊い十字架の父を、
そして尊い力強い権威あるお名前とともに、
御内従の三沢様を崇めて、これから感謝をいたします。
祈られたように今日も、聖書のお言葉を通して、
あなたの素晴らしい御心を語らせてください。
そして、聖霊によって御言葉を信じ、
イエス様をさらに信じ続けることができますように、
お待ちください。
今日も気合いします、
エズ先生、ハンナ先生三人の子たちとともに、
あなたの限りない帰り身と、その健康の開封を
お与えくださることを併せてお願いをいたします。
明治谷教会のすべての兄弟姉妹たちと、すべての御家族の上に、
特に弱さ、痛みを抱えている御高齢の兄弟姉妹たちの上に、
あなたの限りない平安と慰めをもって
覆い積んでくださることを併せてお願いをいたします。
もしも平等か、地球によって清め、聖霊によって
致してくださって、あなたのお言葉を語ることができるように
お待ちください。
イエス様のお名前によって感謝してお祈りをいたします。
アーメン。
このメッセージの主題は
新しく生まれ変わるためにということで
ヨーネの三章の1から16をテキストとして
導きをいただいております。
ここに出てくるニコデモという師匠のことですが
ニコデモというこの方の名前の意味は
人々の勝利者という意味があります。
人々の勝利。
今日はいつものように3つのポイントで
お話を進めていきたいと思いますが
最初のポイントは
イエスとの出会いの時、そして
暗闇から光へ、これが一つのポイント。
第二のポイントは
新しく生まれ変わるためには。
03:03
第三のポイントは
罪の許しと永遠の命の希望ということで
お話を進めてまいりたいと思いますが
当時のユダヤの民の指導者でありましたニコデモ
彼は当時のユダヤの最高議会の国会議員でありまして
あるいは法律家であり道徳教師という
非常に社会的な地位や名誉を肩書きに持っていた人物でありました。
今日市議会とか県議会、国会というものがありますが
当時のユダヤの社会には
それに相当するものがいくつかあったようでありまして
その中でも最も高い地位と言いましょうか
県議のあるのがニコデモが属していた
いわゆるグレイト・サン・ヘドリン
このグレイト・サン・ヘドリンの主なる質問は
民事裁判、刑事裁判、宗教裁判を
司っていたということでありますが
まさに最高議会の国会議員がニコデモであったということであります。
このニコデモという人が
ヨハネの7章48節とかヨハネ19章の39節を見ますと
イエス様の御遺体を受け取りに行った一人であります。
その時彼は持役と入庫を持参したということが描写されておりまして
有方へのヨセフというこの人も最高議会の国会議員でありましたが
二人で一緒にイエス様を手厚く預かったということが
ヨハネの福音書に記録されております。
得方へ彼らはキリストをはっきりと告白してクリスチャンになったようであります。
そのニコデモが一目をしのんで夜イエス様のところにやってきた。
06:07
彼がなぜ夜にイエス様のところに来たのかということについては
いろんな諸説がありますが
一つは肩書き、名誉、そういう対面を考えて
秘書下に偉大人たちを恐れてイエス様のところにやってきたと。
しかし彼の本心はそれよりもイエス様と一対一でじっくりと話し合いたかったと。
私は個人的にはそちらの方の説を指示したいと思います。
ニコデモ別れなりに自分の人生とか自分の家族のこと
あるいはこのユダヤという国の育成
あるいは国民のことでかなり悩んでいたのではないかと想像します。
そしてイエスという方がもしかしたら解決の道を示してくれるのではなかろうかなという
淡いというかそういう希望を持ってイエス様を訪ねてきたように思います。
現在の日本の国、世界もそうでありますが
一体この先どうなるんだろうかという
個人的にも家庭的にも社会的にも国家的にも世界的にも
非常に厳しい時代ではないかと思います。
あるいはその異常と言いましょうか
どこまで悪くなるんだろうかという
気象状況、年々何か悪くなっていくような気がします。
経済的な破綻とか
ウクライナ、ロシアをはじめ世界のあちらこちらで
ひらめがつきない一方で解決したと思えば他方でまた
09:07
戦火の火が上がるというようなことが繰り返されているようであります。
私はニコデムが夜イエス様のところに来られたという
この夜ということから
これは私たちに
単なるその真夜中というミッドナイトという時間を
表しているだけではなくて
何か希望も何もなくなってしまいそうなという
当時の時代世界とともに今の現在の我々の
時代そのものを表しているような
そんな気がしてなりません。
ところが私たちが聖書を見ますと
神の声とか見つかりのお告げというものが
夜を聞かれるということが案外あるんです。
例えば個人的なことを言いますと
アブラハム、ヨセフ、モーセもみんな彼らは
神の声を夜を聞いた。
夜静かな時に神の御声を聞いた人たち
心も思いも世界中も真っ暗になる闇夜のような時に
死の声を聞いた。
ということは現実がそうであったとしても
決してその夜の闇に沈み込んでしまわないという
希望の光を彼らは神とともに見出したということを
私たちに教えているようであります。
加藤恒明という有名な聖書学者
この方はもう既に引退された牧師でありますが
この先生の御言葉の放つ光に生かされ
という本がありますが
その本の中に出てくるお話です。
四編の六十三編の七節の御言葉を引用されて
次のようなことをおっしゃっています。
四編の六十三編の七節というのは
12:05
常につく時にも皆を唱え
あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします
と素晴らしい御言葉だと思います。
その御言葉を引用して先生が次のようなことをおっしゃっています。
私たちは夜をどのように過ごすのか
私たちは昼忙しく働いている時だけ
生きているのではありません。
むしろ夜すでに
床についてから何を考え
何をしているか
というところでも生き方を問われるのである
私はこの一文を読むたびにドキッとします。
というのは
床についてからなかなか眠れない時が
私もやっぱりあります。
そういう時に
例的なことを思えばいいのですが
時々世俗のことがパッと浮かんでくる。
恥ずかしい話ですが
例えば
野球の場面が浮かんでくることがある。
あんな時に
ちゃんと犠牲バウンドしていたら
そういう時に限ってヒットが出る。
あんな牽制をしなくてもいいのに牽制して冒頭
そして逆転負けしたというね
そういう場面が浮かんでくる。
浮かんできますとやっぱり
地域チームが負けたということで悔しい。
ところが
時には
かつて見たドラマや映画の場面が浮かんでくる。
あの女優さんどういう名前だったかなと
あの場面は良かったなというのが
こう浮かんでくるんですよね。
そこがますます冴えてくる。
で、はっと気が付く。
はぁ、死をお許しください。
私は本当に
静寂的なことであれこれと思っていました。
ということで
大変申し訳ないですが
体は横たえたままですけども
我が教団の北海道から
15:02
ゾーンと各教区の教会の名前を挙げて
祈る。
本当はすぐそれはいいんですけどね。
教団はご存知のように124教会があります。
それでずっと
沖縄の南波平安教会まで124の教会ずっと祈って
そして
どこの教会がどういう牧師先生が
勃開しているということも
時々思い出して
先生たちの顔を思い出して
名前を思い出して祈る。
そうすると
本当にこの安らかと言いましょうか
ほっとして
ぐっせと眠ることができる。
確かにこの加藤先生がおっしゃった通りだと思います。
寝ている時も何をしているか
というところでも私たちは
生き方を問われるのである。
二つ目のポイントは
新しく生まれ変わるということで
三章の2から8のところでありますが
ニコデモは非常に真面目に
イエス様に訪ねたのが
ヨハネさんの2節です。
あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています
神が共におられなければ
あなたがなさっているこのような印は
誰も行うことができません。
そのニコデモの真摯な地図問に
イエス様が答えられたのが
三章の3節。
人は新しく生まれなければ
神を知ることも神の国に入ることもできません。
つまりここでイエス様は
人が新しく生まれ変わるためには
人間のあらゆる努力やあらゆる知識や経験ではなくて
上からつまり天からの賜物によらなければ
人は誰も新しく生まれ変わることができないとおっしゃったんです。
上からつまり天からの賜物
これは水と霊と言っています。
この水と霊というのは神の命と力を意味する言葉です。
非常にここは重要なとこですね。
アノーセンという言葉ですが
アノーセン
ここで言っている水というのは
18:00
必ずしも霊天の水のバツケスマを言っているのではありません。
それを考えられますけども
一番大事なことは
神の賜物
天からの賜物つまり
神の命と力によるのであるということを表す言葉が
水と霊ということです。
でなければ誰一人神の国に入る
つまり神の国と直結することはできませんということです。
精霊によって新しい人を生きるという言葉が
ララテーションなどにも出てきます。
イエス様はここで一つの象徴的なお話をされています。
風と霊という風と水玉
この風と水玉というのは同じ言葉
プネウマと言います。
風はどこから来てどこへ去っていくのか誰もわかりません。
でも木の葉が揺れたり
雲の動きによって
この風はどこからどこへ吹いていくのかということがわかります。
新しい生まれ変わりも同じでしょう。
六説に肉によって生まれたものは肉というのは
このように人間として生まれてから
ずっと死ぬまで同じということです。
新しく生まれ変わってないということ
肉によって生まれたものは肉のままだと
ところが見た目によって生まれたものは霊です。
新しく生まれ変わるためにはどうしても
これが必要なのであるということです。
ところがこの時点では
偉い国会議員の先生でしたけれども
イエス様のおっしゃることが
まだ一つわからなかったようです。
コリントの第一の十二章三節でパウロが
聖霊によらなければ誰も
イエスは死であるということはできませんと言ってますが
まさにここで言うこのことなんです。
21:06
風と同じように
御霊がどのように来てどのように働いているか
私たちはわかりません。
しかしその人の
その後の生き方によってわかってきます。
結んでいる身があるのかないのか
ああ確かにこの人はキリストによって
新しく生まれ変わっているということが
わかるのはその人の生き様
そしてその人の生き方を通して
身が結ばれているかどうか
例えば
愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実に
祝は自生という身がありますが
少なくともこの個々の身が
全部でなくても
一つでも二つでも
この身が結ばれているなら
その人は聖霊によって新しく生まれ変わっている
という一つの証拠であります。
私たちは
そのようにして
クリスタンになりました。
自分勝手にクリスタンになったのではなくして
死の見た目によって
イエスは死なりメシアなりと告白して
悔い改めて救われて
新しく生まれ変わったのであります。
ニコデモもやがて
そのようにしてイエス様を救いにして
信じ悔い改めて
生まれ変わってクリスタンになったのです。
さて第3のポイントは
3章11から16であります。
罪の許しと永遠の希望
ここで
皆さんも
ご存知だと思いますが
非常に有名な
お話をイエス様は
旧約聖書から印象されております。
それは
14節以下のお話であります。
13節から読みますと
誰も天に昇った者はいません。
天に昇った者はいませんというのは
どういうことかといいますと
神様の
権威ある聖なる御座に
下された方は誰もいないということです。
しかし
天から下ってきた者
つまり人の子は別です。
これイエス様のことですね。
聖書を読みますと
イエス様のことを色々表現していますね。
人の子とか
メシアとか
キリストとか
主とか
24:00
王とか
そういう表現しています。
みんなこれ一緒です。
みんなイエスキリストのことです。
そして
14節以下
読みますと
モーセがアラノで蛇をあげたように
人の子もあげられなければなりません。
ということで非常に
素晴らしいといいますか
大事なところですので
皆さんもその場所
旧約聖書の
その場所を開いていただきたいと思いますが
民数記の
旧約聖書の
民数記
21章
4節から9節のお話です。
旧約聖書の
277ページ
旧約聖書の
277ページ
4節の
終わり頃から
しかし民は
途中で我慢ができなくなり
神とモーセに逆らっていった
なぜあなた方は
我々を
エジプトから連れ昇って
このアラノで死なせようとするのか
パンもなく水もない
我々は
このみじめな食べ物に
飽き飽きしている
そこで主は民の中に燃える蛇を送られた
蛇は民に噛みついたので
イスラエルのうちの多くの者が死んだ
民は
モーセのところに来ていった
私たちは主とあなたを
非難したりして
罪を犯しました
どうか蛇を私たちから取り去ってくださるよう
主に祈ってください
モーセは民のために祈った
すると主はモーセに言われた
あなたは燃える蛇を作り
それを旗竿の上につけよう
噛まれた者は皆それを仰ぎ見れば生きる
モーセは一つの製造の蛇を作り
それを旗竿の上につけた
蛇が人を噛んでも
その人が製造の蛇を仰ぎ見ると生きた
不思議な
奇妙な気もしますが
しかしここに
すごい素晴らしい
真理と言いますか
恵みが包含されている
どういうことかと言いますと
27:02
あまり私たちも
イスラエルの人たちは
あれこれと言う資格はないのですが
どうも聖書を見る限り
イスラエルの人というのは
始めから終わりまで
つぶやいてばかりですね
何か都合の悪いことがあると
我慢ができない
我慢ができなくなると
人はつぶやく
私たちもそうだと思います
どうして彼らが
ひどい目に遭ったのか
それは
モーセに逆らったということは
神に逆らった
モーセという人
大変な目にばかり遭っているんですね
偉い目に
本当にモーセという人
こんなこと言ったら
叱られるでしょうけど
かわいさがしたいなと思う
最後まで
民に
いじめられるんですね
受け入れられない
最後は
あんなモーセが皆さん
誰よりもすごい方ですけど
約束のカナンの地に
入れてもらえなかった
たった一回のミスで
一回ですよ
彼らは
神様に反旗を振り返したの
反旗を
神様
ハレルヤーメンと言ってた旗を
下ろして
今度は神様に
文句を言い出したの
我慢ができない
演出棟に帰ったほうがマシだ
とんでもないですが
ところが皆さん
ここが第二弾
これは
大昔の
他民族の
他の人たちの話ではなくて
私たちのことなんです
神を無視して神を知りどけた
神への不信仰と不修順
これは皆さん
あだまえばえらい
もう人類の歴史というのは
ザーッと続いて
今も続いているんですよ
これはおそらく
世の終わりまで続きます
ザーッとも
イエス様が再臨されないと
これがもう繰り返し繰り返し
ザーッと続く
毒蛇
わざわざ皆さん
どうして
毒蛇に噛まれて死んだんでしょ
30:00
死んだ毒蛇を
わざわざまたどうして
竿の上にあげたのか
それは
あなた方の
真相
人間の真相を
痛いほど
分からせるためなんです
この竿の上にあげられた
毒蛇こそ
実はあなたなんだ
人間の真相というのは
毒蛇なんだ
犯罪を行う者は一人もいない
ロマンショーに出てきますが
本当にその通りだ
私はいいこといっぱいしてます
人を助けてます
福祉もしてます
貧しい人を助けてますと
こう言いますけども
しかし
真相は毒蛇なんだ
何か自分の都合が悪くなると
私も含めて人間はみんな
裏返しになる
罪の支払い報酬は死であると
ロマンショー6章23章にありますが
この真相というのが
キリストの十字架なんだ
十字架を暗示している
けれども当時のユダヤ人たちが
イスラエル人たちが
やがて来るカルヴァレの十字架
キリストの十字架を見ていたと
見ていたはずはないと思う
そこまでは
でも彼らは
モーセを問えて
神様が命令される通り
従った
従ったときに
彼らは癒された
ここが大事です皆さん
今もそうなの
私たちも自分の罪のために
毒されて
やがてその毒がもう
全身に
魂の奥底まで
もう蔓延して
私たちは
もう滅べてしまう
しかなかった運命だったの
私も皆さんもそう
全人類がそう
この毒は
申し上げた現在のことに
現在ね
生まれながらの罪
生まれる前から持っている
罪の性質なの
だから
この現在が実は
人生を麻痺させ
まともに人間らしく生きることを
妨げているもの
そして
永遠の滅びという死に
追いやすしまう
燃える蛇
あの
ずっと前の
賛美ですが
33:01
岩渕誠さんという
シンガーソングライターが
父の涙という
賛美はよく歌っておられました
父の涙
その中に
人の罪は燃える火のよう
人の罪は
燃える火のよう
愛する
という賛美
もう罪は皆さん
燃えたりしている
世界は燃えているという
ビリング・ブラハムの
本ではありませんが
人の魂のどん底には
もういつも
罪の火が燃えたりしている
これが
致命書になっているわけです
ある有名な
生物学者が
こんなことを言っていました
人は誰でも
悪魔的な残虐性を
有しています
人間と
ある種の一つの
生き物だけが
同胞を組織的に
絶滅させる
遺伝子を
持っているのであろう
人は誰でも
神に顔を向けている生活から
自分たちに顔を向ける生活へと
移った時に
人類は
その歴史に
資産と分裂を
引き起こしたことを
旧約聖書は
象徴的に語っているのであろう
本当に私は
その通りだと思います
間違いない
ところが
ありがたいと言いましょうか
これが神の恵みなんですね
皆さん
そのどうにもならない
致命傷となる
毒蛇
毒々とした
罪は
十字架のイエス様によって
全部
溶かされてしまう
イザヤが
五十三章五節で
その打ち傷の上に
私たちは
癒されたのであると
言っています
彼らは
竿の上に掛けられた
毒蛇が仰いで
それを
つまり
その
おっしゃったことを
信じて
従った者は
皆生きたと
許された
清められた
私たちは
竿の上の
毒蛇ではない
イエスキリストの
十字架を
何と信じて
罪を悔い改めたら
もう
全部
洗い流されて
全部
許される
一つの
お話をして
終わりたいと思いますが
ダザイオ様と
36:00
シーナ林蔵という
本があります
ダザイオ様と
シーナ林蔵
二人を
許される
と思って
申し上げますが
二人を比べると
作家としては
ダザイオ様の方が
はるかに有名です
彼の
書いた
著作
彼についての
詳論と言いましょうか
彼についての
伝記とか
いうのはもう
数えきれない
この
ダザイと
シーナ林蔵の
共通点は
二人とも
虚無的な
人間であった
ニーリズムといいます
哲学を非常に愛して
探求した
そうでありますが
ハイゲッカー
サルトル
あるいは
ニーチェ
特に
彼らは
ニーチェを愛した
愛したと言いましょうか
ニーチェに
傾倒した
作家であります
ところが
二人とも実は
聖書をよく読んでいた
だいたい
作家というのは
だいたい以外の
聖書は
よく読んでいる
そうでありますが
特に
ダザイは
誰よりも熱心に
聖書を
読んでいた
そうです
最初は
マタイにある福音書を
完読するのに
3年かかった
そうですが
ところが
ある時から
何十回という
聖書を
繰り返し
読んでいた
そうであります
彼の
聖書の中で
彼が一番
愛した
箇所は
何時を
愛するが如く
何時の隣人を
愛せよ
昔の文語訳です
何時を
愛するが如く
何時の隣人を
愛せよ
しかし
この
この
聖書の
言葉が
生涯
ダザイオサムを
悩ませ苦しめた
そうです
どういうことかと
言いますと
ダザイオサムに
とって
芸術は
神の如き
ものである
芸術は
私自身である
ということは
彼の
腹の底には
斧が腹を
神としていた
ような気がします
だから
39:00
その一つの
証拠
証拠ですが
彼がこう言っているの
この私
ダザイオサムが
己を嫌って
あるいは
これを
強いたげて
人を愛するのでは
私は自作する他は
ないんだと
彼は40年の
短い生涯と
言っておりますが
40年の
短い生涯で
彼は
5回自殺を
試めていますが
最後の
5回目に
完全に
命を
絶った
ということです
つまり
ダザイオサムにとって
神は
怒りの神
以外の
何者でも
なかった
彼は
罪を認めて
食い荒らとめることが
なかった
つまり
キリストの
十字架にまでは
至らなかった
皆そうですね
芥川も
藍島武も
皆そうです
正宗白鳥も
そうであったそうですが
最後の最後に
彼は
食い荒らとめて
彼らは
カソリックの
信者だと
言われておりますが
クリスタンに
あったそうであります
だから彼は
死ぬより他は
なかったの
ところが
シーナ林蔵は
どうだったか
彼もやはり最初は
虚無主義で
若い時には
一度
道国に
繋がれたことも
あったそうです
マルキシズムと
共産主義に
没頭したことが
あったそうです
ところが
ある時
ドストウェスキーの
作品に出会う
そして彼は
ドストウェスキーを
通して
聖書に至って
そこで
彼は
キリストの
十字架の
愛と許しを
体験するわけです
彼は
作品の中で
言っておりますが
ある時
我が爪を
食い荒らとめた
この
キリストの
愛と許しの
十字架以外に
私にとって
本当の
自由は
他には
ないのです
まさに
ヨガネ三章
十六節の
お言葉が
彼の生涯に
実現したん
神は
その一人を
保うほどに
この世を
愛してくださった
それが
御子を
信じる者が
一人も
滅びないで
永遠の
命を
得るためである
永遠の
命とは
まさに
何者でも
ないということが
あります
20年前
日本イエステキリスト教団の
42:01
50周年の
記念大会が
行われましたが
その時に
この大会の
主題歌になった
賛美に
私たちの
未来という賛美が
ありました
皆さんの中でも
覚えていらっしゃる方が
いらっしゃると思いますけども
私たちの未来
その折り返しの
ところに
こういう歌詞が
あります
私たちの未来は
神とともにある
私たちの未来は
約束されている
信じていこう
この道しかない
神の
恵み受け継いで
光目指して
という
素晴らしい賛美だった
と思います
非常に
投げたらしいと
言いましょうか
本当に
灯せれば
実望しかねないような
世界であり
時代であります
どこに希望があるんだろうか
どこに生きがいが
本当の幸せが
自由があるんだろうか
みんな
それで悩み苦しみ
もがいている
と思います
しかし
ここにありますよ
私たちの未来は
神とともにありますよ
私たちの未来は
約束されていますよ
信じていこう
本当に
本当に
もっともっと
信じていきたい
いやいや
誰も嘘つきな
真実としては
誰もいません
もっと本気でやって
信じていこう
この道しかない
本当に
私は道であり
真理であり
命である
私によらないでは
誰も
神の国を見ることが
できません
とも
イエス様が
言われました
もうこの皆さん
イエス様の
十字架の
愛と許し
ここに
私たちの
素晴らしい
希望が
あります
神の
恵め受け継いで
光
目指して
キリストを目指して
共に生きていこう
と
お祈りを
お捧げいたします