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おはようございます。
急に涼しくなりまして、体調管理がなかなか難しい。
コロニー様とまたお会いにかかることができて感謝いたします。
それでは始めに、短くお見舞いを。
心のきよい者は幸いです。その人たちは、神を見るからです。
神のお父様、尊いあなたのお名前と、私たちの救い主、イエス様の尊いお名前を賛美いたします。
新しい月を迎え、もう一度このところで、あなたを共に礼拝する恵みが与えられていることをありがとうございます。
すぐ一週間振り返るときに、喜びのこともあり、また飢えることもあり、また戦いを覚える様々な環境に私たちは置かれておりますけれども、
見上げるべきお方が、私たちと共にいてくださることを心から感謝いたします。
どうぞ御言葉を通して、お世辞がお語りになられ、植川いて集っていらっしゃるお一人お一人に、神様の恵みが届きますようにお願いをいたします。
とうとうイエス様の皆によってお祈りいたします。
今日は先にお祈りしていただきましたように、新学校で、教団の新学校ででもあり、また関西聖書新学校の新学校ででもあるというような日になっておりますが、
今ですね、10月1日から献身を願って新学校に入学したいという方の申し込みが受け付けられるようになっているんですね。
事務所にお願いしますという連絡が来るはずなんですが、去年はこの期日よりも前にお尋ねがあって、
この春ですね、献身される方々が与えられました。
今のところそういうお尋ねがないので歩んでいるんですけれども、また続いて本当に喜んで一緒にお仕えしたいという若い人たちが与えられることができるようにお祈りをしていただきたいと思います。
今日は開かせていただいています、マタイの副委書の5章の続きの8節です。
この3章の説教、8副の説教とか9副の説教とか言われておりますけれども、皆さんのご経験でこの8つ9つの中のどれを一番よくメッセージとしてお聞きになっていったでしょうか。
私の経験はこの記憶に残るのは8節もしくは3節です。
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この8節の心の清いもの、栽培という言葉はやはり福音派に属する私たちの教団の、しかも清め派と言われるような流れにいる私たちにとっては耳にする言葉ではないかと思います。
今賛美に使っております聖歌も清め派の流れ、福音伝明というところが出している賛美歌ですから、私たちの教団に属しているということはこういう清いということを求める団体であるということから逃れられない状態の中にいます。
しかしこの聖書の中に清いという言葉が使われても、今日使われている清いという洗うとか綺麗であるとか無垢であるとかいう清いというのと、性別するという言葉は前の公語訳の聖書なんかでは同じように清いってひらがなで多分書いてあったと思うので、どちらが使われているのかなかなかわかりにくかったんですが、
今使っております新海薬2017では無垢であるとか綺麗であるとかそういう清いはひらがなで書かれてあって、性別するという意味での清いはちゃんとひじりという感じで書かれてあるので、どっちかの区別が非常にしやすくなっているのは便利だなと思います。
それで今日は洗って清くするという、そういう無垢である、清らかであるという言葉の方が使われています。
ですからこの清さが使われているということは、その反対の罪とけがいのことを取り扱おうとしているということがわかるわけなんですね。
この清いという言葉を使って新薬聖書の中に清い心とか清い良心とか清く輝く白い天布とか言って使われていますけれども、清い心とか清い良心という、そういう表現をよく使われているんですね。
ですのでその私たちの愛情とか願望とか願いとか、それが動機がどうであるかということを私たちに問いかけている言葉ではないかと思います。
その最初にこの清いという意味が私たち何を求めているのかということを考えたいのですが、よくご存知のように罪を犯した人というのは、聖書にはたくさん出てきますし、私たちの日常生活にはそういうものといつも戦わなければならないところがあります。
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そういう中で聖書の中でよく例えに出されるのはダビデ王です。
彼は肝炎化して、そしてそのことを隠してしまおうとして殺人にまで至るわけですね。
しかし彼は王でありながら自分の立場を守るために最後まで頑張ったのではなくて、
預言者に問われたときに彼は自分の罪を認めて神様に背を向けていた状態から急転180度神様に向き直るということをしたことでよく知られています。
その詩編の51編の中には私のうちに清い心を作ってくださいという言葉がありますように、
彼は自分の罪を本当に痛んで、それがもう心に刺さって神様の前に立ち返ったということで知られている人です。
罪を犯したことで有名である反面もう一つ悔い改めて方向を変えたということで彼は非常に有名になっています。
神よ私に清い心を作り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。この着替えた私をどうか清めてくださいというのを神様に求めたんですね。
自分で何とかするのでもなく、人に頼むのでもなく神様に向かって彼は叫び求めてそれを自分のものにしていくわけです。
聖霊なる神様は私たちの動機に働かれて、あなた今しているそのことの動機は本当に正しいですかという問いかけをしてこられるわけですね。
その時に私たちが聞くことができる耳、そしてその問いかけに柔軟に応答することができる魂、そういう魂は非常に恵まれている魂ではないかと思います。
私たちの罪を犯せる根本に、聖書でいう肉の心とか肉の思いというのがありますけれども、それはもう少し違う言葉で言うと心から出てくるというわけですね。
同じこのマタイの福音書の15章の19節、この表現はマルコの福音書にも似たところがあってよく使われますけれども、今日はマタイの福音書を開いていますので、15章の18節と19節をお読みします。
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マタイの福音書の15章の18節と19節、そこをお読み、31ページです。
しかし、口から出るものは心から出てきます。それが人をけがすのです。悪い考え、殺人、肝炎、乱な行い、盗み、偽証、罵りは心から出てくるからです。
とイエス様がおっしゃっています。人をけがすものは人の思いの中から出てくるということをおっしゃっています。ですから聖書が言うようにあなたの心の泉を油断することなくあなたの心の泉を守れと言われているように、私たちは神様によっていつも点検されている必要があります。
日常生活で皆さんご家族がいらっしゃると思うのですが、ご夫妻、親子、いろいろな関係がある中で近いところでは毎日いろいろな思いの行き違いもあったりするのではないかと想像をいたします。
その時に言い訳をしたり、あれがこれでこうだったからと言わずに率直に謝ることができたら関係もすっきりしますし、また自分自身も神様がくださる安心に帰っていくのではないかと思います。
そのような日常生活の細かいところから神様のチェックを受けて溜め込んでいかないで、いつも現れ続けていく、神様に向き直って現れ続けていく関係が私たちの毎日を平安なものにしまた喜びのあるものにするのではないかと思います。
私が以前の教会でお話した時に、それはご夫婦間のことの話ではなくて、生世の御御言葉の中からあなたの持っているものとかはちゃんと整列されて、そしてお部屋も整えられて、ご夫婦間の間でもちゃんと謝るべきことを謝っていますかというようなことを言った時に、
ご夫妻で来られていた方が、ご主人がお家に帰られてから奥様に何か謝られたみたいなんですね。そのことを後から奥様が私に教えてくださって、それを聞いた私はちゃんと言っていることを聞く処方の男性がいるのだと思って感心したことがあるんですけれども、
12:15
私たちは自分が正しいと言って言い張っている時に案外正しすぎてですね、本当に神様が求めておられる正しさというものとずれてくる場合がありますので、やはり聖書を読み自分が砕かれるということをですね、自分が正しいと言わないということはとても大切かと思います。
ですから、よく教えられるように、悔いを改めやすい心、また教えられやすい心というのは大切です。それは人からもそうですけれども、聖書が言っている言葉に対して教えられやすく、そして悔いを改めやすい心というのがとても大切になります。
今日の御言葉は、心抜き良い、つまりいつも神様に向かって自分の穢れた思いを洗っていただき続ける人はどうなるかというと、その人たちは神を見るからです、というここに行くんですね。
ご存知のように、この見るというのは目で見ることができるというのは多分、イエス様が再臨なさってからだと思いますけれども、今は目に見ることはできませんが、ここで使われている見るという言葉は、神を理解する、神に気づく、そして神を観察し、また知ることができる、
知覚することができる、神様がわかるということですね。ですから、いろんなわかり方があると思いますとともに、年数を重ねれば重ねるほどよくわかってくるということがこの中にはあると思います。
そして、私たちが招かれている神様はイエス様によって象徴されていますように、十字架にかかるほどの愛をもってあなたを愛していますと語られるこの方をですね、
そして、実際にこの二千年前に十字架にかかられて三日目によみがえられた私たちの罪のために死なれるということをご自分の方から選んでしてくださった方を私たちはもっと知ることができる、その一年前、二年前よりもっと知ることができるように、神様の深みへと導かれるように招かれているということがわかります。
ですので、毎日神様のもとに食い当たりで立ち帰るということをし続けていくならば、私たちはもっともっと十字架の愛を深く知り、神様の慰めを受けることができるということをこの言葉は私たちに約束してくれています。
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それで、先ほど罪というものが心から出てくるということですが、皆様はどのような聖者の言葉によってご自分が探られる経験をなさるでしょうか。
たぶん個人個人が違うと思うんですけれども、たとえば、お書きにならなくても結構ですが、詩編の24編には、
誰が主の山に登り得るのか、誰が聖なる御前に立てるのか、手が清く心の澄んだ人、その魂を虚しいものに向けず、偽りの誓いをしない人、という言葉が書かれています。
心の澄んだ人、魂を虚しいものに向けない、偽りの誓いをしない、そのようなことが書かれてあります。
また、少し前の詩編の15編には、
主よ、誰があなたの幕屋に宿るのでしょうか。誰があなたの聖なる山に棲むのでしょうか。
全き者として歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。舌を持って中傷せず、有事に悪を行わず、隣人へのそしりを口にしない人。
その目は主に捨てられたものを蔑み、主を恐れるものを彼はたっ飛ぶ。
損になっても誓ったことは買えない。利息をつけて金を貸すことはせず、潔白な人をフリにする。賄賂を受け取らない。
このように行う人は決して揺るがされない。
人間喚起の中にその清さというのは現れてくるということを教えられるわけですね。
個人的な証をここで入れますけれども、私、前にお話まだしていないと思うんですが、
私が宣税を受けるに至る前に、主幹社の先生から、神様を受け入れるということをしたので、宣税を受ける前に食い渡めの祈りをしましょうと言われました。
でもその時私は正直に、私はそれほど悪い人間ではないと思うので、罪というのがわかりませんと先生にお話したら、先生が何と言われたかというと、
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聖書を読みなさいと言われました。これが罪ですというような解説はなかったんです。
それで私はまだ給度して数ヶ月の頃でしたので、新約聖書を読み始めましてね、
ルカの福音書の6章のところまで来た時に、自分の好む人に挨拶をするのは当たり前だ。
そして自分の貸したものを返してもらってもそれは当たり前すぎるというようなことが書いてあったんですね。
それを読んだ時に、自分が普通で当たり前の人間だと思っていたレベルは標準以下ということが非常にはっきりとわかってきまして、
自分の決めた基準で自分が良しとしていたという生き方に気が付かされて、そこから自分の罪ということを教えられるようになりました。
それでその後、他のことも含めて悔い改めの祈りを先生と一緒に捧げて先例の恵みに扱ったという経験があります。
ですので、私たちが清くされることのためには基本ですが、やはり御言葉に日々触れるということですね。
同じようなところでああそうだと思うことが私などは度々ありますけれども、
聖書を読んで自分が取り扱われるという経験を重ねていくときに、私たちはもう一度神を見る。
イエス様の十字架を見上げ、またそんな私でもイエス様を許すために手を広げていて下さいということがわかりますし、
だからダメだとおっしゃらないのが神様であるということを年を重ねるごとに示唆されるわけですね。
悩みを訴え、弱さを訴え、けがれを訴えてもイエス様はそれを受け取ってくださるお方であり、
私たちをもう一度前に新しいものに作り変えてくださるというお方であるわけです。
その御言葉に養われるということは基本の基本ですけれども、
それと共に厳しいいろんな訓練と課題が私たちには与えられます。
何かをすればするほどいろんな課題と問題に私たちはぶつかるものですよね。
そのときに何が起こっても全身というタイプの方もいらっしゃると思いますが、
何か起こるたびに座り込むタイプの方もいらっしゃると思います。
いろんな反応があると思いますけれども、
カリスマの訓練で不必要なものはないという、
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十字架に書かれたイエス様のお姿と復活されたお姿を見るときに、
私たちに失望と楽嘆とこれで終わりだということはないということがいつも教えられます。
ですから様々なことが起こったときにも、
この世では悩みがあるが、しかし勇気を出しなさいとおっしゃり、
また私たちを決して見放すことも見捨てることもないと言われるイエス様のもとに、
大きな懐に私たちは帰っていって、そこで癒されて強められて、
そこから立ち上がるものになるように招かれています。
ずっと前に私が聞いた例えの話ですが、
杭を打つ、皆さん今頃杭を打つなんてあまりしないですかね。
昔は地面と近い生活をしていましたから、そんなことあったと思うんですけれども、
杭を打ったときに、1回とか2回上から叩いて杭を打っただけでは弱いんですね。
それをぐるぐる回して杭の周りにゆとりを作って、そこに石を入れて、
そして固めると、倒れないように固く立つということです。
そのように私たちの人生に、いろんな困難と戦いと揺さぶりがやってくるんですけれども、
それは決して悪いものではなくて、それを補強してくださる神様の恵みがあるので、
私たちはそれを通して強くされるということが言えるわけですね。
ですから大変なことも一時は、ちょっとしおれることもあるかもしれませんが、
神に望みを置いて前進することができます。
それが自分の肉の思い、自分中心の思い、自分を自己中心で愛する思いから清くされて、
神様を見続けるときに、イエス様の恵みがよくわかるということに結びついていきます。
今日は2曲目の賛美に天国の賛美を選ばせていただきました。
皆様はあの賛美はお好きでしょうか。
非常に天国を慕わせるような賛美なんですけれども、
お聞きになったことがありますかね。
聖書の中に罪の状態が書かれていないところは、
旧約聖書の最初の2章と新約聖書の終わりの2章しかないんですよね。
その間ずっと罪の歴史の中で神様がいかに改善しようかという働きをされておられるかということが書かれてあって、
その前後の2章だけに罪がない世界が描かれています。
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その最後の目清句の22章のところにも、
神様の顔を見るという表現が22章の4節の中に書かれています。
おそらくこの見るは本当に肉眼なんでしょうかね。肉眼と言わないのかもしれません。
とにかく私たちはイエス様を知っている、より深くわかる以上に、
今度は本当に神様を目の当たりに見るというその時が将来に約束されています。
イエス様がどんなお顔をしておられるとかいうのを見るのかその辺はちょっとよくわかりませんが、
とにかく今度は本当にはっきりと仰ぎ見るという時が私たちには備えられています。
その時まで日々に神と共に歩んで、
清くされ続け御心にかなうように歩み続けて喜んでこの神様の顔を仰ぎ見るものに私たちも加えていただきたいと思います。
今、ここ数年しおや生会がオンラインで行われて会場に集う人たちが少ない状態で数日開かれています。
今年のしおや生会は2日目は若い人たちを対象にギターやドラムの楽器で賛美がされて、
そして鎌野直人先生が説教をなさるカジュアルなスタイルで高段というかレバンテホールに行かれてそこで説教をなさっておられましたけれども、
そこの司会者に午前に立っておられた先生はフリーメソディットの先生で、しおやの新学校を卒業されてフリーメソの教職になられた先生です。
その先生が司会をなさって最初に皆さん、皆さんはどんな人になりたいですか、何が希望ですかというようなことを最初に投げかけられたんですね。
私はイエス様のようになることが希望です、願いですということを最初におっしゃいました。
それは当たり前といえば当たり前なんですけれども、私はそれを聞いたときに非常に新鮮な感じがしたんですね。
性別会というときには気良くなりましょう、性別されましょうというメッセージを受け取ってそうだなと思って聞いて帰るわけですけれども、
自分で私は本当にイエス様のようになりたいですと言って聞くことって私の経験としてはあんまりないような感じがしました。
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ですので、多分30代後半だと思うんですけれども、この若い先生が本当に本気で私はイエス様のようになりたい、
つまり愛と希望を人にも与えることができるような本当にイエス様に似たものになりたいという思いをそのところで告白されたのにちょっと感動しました。
私たちも日々神様との関係を深めながら現れて現れて、イエス様の十字架の愛に触れて触れて、私たちもキリストのように変えられていくこの一週間を送らせていただきたいと思います。
そして私たちの証を受け取る人たちがキリストを知ることができるように使わせていただきたいと思います。
ではお祈りをいたします。