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2024-06-30 33:07

2024/06/30:真実な言葉を

2024/06/30 聖日礼拝

加藤満牧師

出エジプト記 20:2-16


00:01
それでは一言、お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
私たちを主の御前へとまた招いてくださり、礼拝を与えてくださっていることをありがとうございます。
私たちが主を仰ぐ以上に、あなたが私たちを招き、恵みをもって待ち構えていてくださることを感謝をいたします。
神様、またあなたは私たちを限りない愛をもって愛してくださいました。
それは十字架に表されています。
巫女が罪人である私たち一人一人を見つめながら、私があなたの身代わりにとその血を流し、
巫女の十字架によって私たちの罪が許され、神のことされ、
それだけではなく、甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる人と共に生きる新たな人生をあなたは私たちに開いてくださいました。
心からありがとうございます。
神様、しかしなお、私たちは本当に迷いやすいもの、
生きていくということが本当に大変なものであることを覚えます。
主よ、あなたを仰げと賛美をいたしました。
どうかこの礼拝のときに今一度、あなたを仰ぐことができますように、
実戒を見続けています。
それはある種、私たちの罪の歪みを指摘するものですけれども、
その歪みを本当にあなたが取り扱い、
本当に隔てなく主を仰ぎながら、復活の主と共に歩んでいく、
そのようなものと私たちを作り変えてくださいますように、
精霊様が望んでください。お願いいたします。
ここに来たくても来れない、本当にここに来たいと願いながら、
道が閉ざされている方々がいることを覚えます。
どうかお一人一人と共に主がいてくださり、慰めてくださいますように、
施設におられる方々、また心がこちらに向かない方がいらっしゃることを覚えます。
どうかお一人一人が主を仰ぐことができるよう、
帰りに来てください。お願いいたします。
全世界での戦争が続いております。
神様が平和を形作ってくださいますように、
異星者になおも、あなたが働きかけ続けてください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を主が開いてくださいますように、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
今朝は、実会の第9回をご一緒に見てまいります。
あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない、という言葉です。
03:02
この言葉というのは、平たく言えば、
嘘をついてはいけないという言葉ですね。
ただ、もう少し正確な意味においては、
それは裁判において偽りの証言をしてはならないという言葉です。
実会が授けられた当初を少し想像してみていただきたいのですが、
エジプトから脱出したばかりのイスラエルの民というのは、
少年男子だけで60万人ほどと聖書に書かれています。
女性子供を含めれば、おそらく100万人を超える王女体が一緒に移動していた。
それだけ人と人が共にいるところには、争いが必ず起こるわけです。
だからこそ、民にとって裁判というものは、必要不可欠なものでした。
そして、私たちが学んできましたこの実会というのも、
これは実会、そして実会をもとに出されるある程度の最速、実会の立法の最速というものも、
裁判における重要な法律として扱われたわけですね。
また、出エジプト紀の18章というところには、
その100万人を超える民をたった一人で裁こうとする孟子の姿があって、
首都の伊テロが、「いやいや、そんなことは無理やで。」ということを言って、
孟子に対して伊テロがこういうふうな言葉を言いました。
18章の21節から22節の言葉ですが、
あなたはまた民全体の中から、神を恐れる力のある人たち、不正の理を憎む誠実な人たちを見つけ、
千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として民の上に立てなさい。
いつもは彼らが裁くのですと、孟子に勧めました。
人によっては、これがイスラエル民族の中で初めて明確な司法体制が確立した、
そのような言葉だという人もいます。
ですから、何かと言いますと、
十人の長から定められるぐらい、実は人が十人集まれば争いは起こるわけですし、
そこにおいて裁判がなされていた。
そして、十人の集まりで争いが起こるのであれば、裁判の証人として呼ばれるというものも、
彼らにとっては日常的なことだった。実によくあることだったわけです。
一方、私たちにとってはどうでしょうかね。裁判の証人として呼ばれるということは、
人生にあって一回か二回かなと私は勝手に想像しますが、そんなに多くはないと思います。
ですから、この第9回というものも、実はそういう意味においては、
私たちの現実とはちょっとかけ離れている言葉、そう言えるのかもしれません。
06:05
ただ、私たちと無関係なのかと言ったら、そうではないんですね。
むしろ裁判において、なぜ人は偽証をするのかということを、そもそも論ですけれども。
そしてそのことを紐解いていく中で、それは私たちの現実にはあることとは重ならないかもしれないけど、
私たちのおそらく罪の歪みの現実には、重なってくる部分があるのではないか。
そういうことを思うのです。
実会を見てきています。神様は実会を通し、ある種私たちの罪を指摘します。
実会を聞きながら、うわ、しんどいなと思われる方、いらっしゃると思います。
指摘するんです。ただ、それを用いて裁くために語られてはいない。
毎週語ってきました。実会は裁くための言葉ではありません。
罪を指摘し、ここにあなたの痛みがあるのであれば、私と共にそれを癒していこうという道です。
神様は私たちをそのように、罪をある種癒すために包み、
ご一緒に癒したいと願っておられる神様ですね。
ですからこそ、今朝も偽りの証言とは何がそもそも問題なのか、
ご一緒に目を向けていきたいと、そう願っております。
さてですね、このあなたの隣人について偽りの証言をしてはならないということが、
今朝は注目しますけれども、この言葉のリアリティといいますか、
これは実際にどういうことが起きることなのだろうかということを、
実際にこの偽りの証言がなされた聖書の箇所をちょっと見ながら確認をしていきたいと思いますが、
すみません、先に言っておきます。今日はいくつか箇所を開きます。申し訳ないと。
まず最初に目を向けたいのは、第1列王記の21章の1節から19節というところに書かれている話です。
第1列王記の21章の1節から19節ですね。
全部を読むとちょっと大変ですので、さらっとその話を確認をしていくということにしたいと思いますが、
この箇所は、読んでいただいたらわかるかもしれませんが、ナボテの畑の事件の話です。
簡単にこの箇所の流れを少しお話をしますと、アハブ王という北イスラエルの王様がいました。
このアハブ王が自分の住んでいる宮殿の近くにブドウ畑、とても土地の濃えたブドウ畑があったんです。
そのブドウ畑が欲しいなと思って、そのブドウ畑の持ち主のナボテという人に、この土地を私に売ってくださいとお願いをするんです。
09:07
でもナボテは言うんです。いや王様、これは私にとっては先祖伝来の神様が与えてくださった土地ですから、この土地を王様に売ることはできません。
それを聞いたアハブ王は激怒するわけですね。
家に帰って怒っている姿をアハブのお妃さんのイゼベルという人が見てですね、じゃあアハブ王こうしましょうというふうに悪辞を働きました。
ナボテが住んでいる町の長老たちにイゼベルが手紙を送るんですね。
ちょっとその言葉だけ読もうとしますけれども、第1列読21章の9節から10節に彼女の手紙が書いてあります。
9節から10節。
彼女は手紙にこう書いた。
断食を布告しナボテを民の前に引き出して座らせ、彼の前に二人の横縞な者を座らせて、彼らにお前は神と王を呪ったと証言させなさい。
そして彼を外に引き出し石打ちにして殺しなさいということが言われるのです。
イゼベルのとった行動は、偽りの証人を立ててナボテを殺そうとするということですね。
この言葉の通りにその後見ていくと行われるのです。
ナボテという人物は先祖の土地を大事にする信仰深い人、とても忠実な人だと思います。
けれどもそのナボテがまさにこの偽りの証言の通りですね。
彼は神と王と呪いましたという証言が裁判の場で、偽りの言葉がそこで言われて、彼は石打ちで殺されるわけです。
偽りの証言というものが一体どのように作られたか、それはおそらくこういうことですね。
アハブにとって都合のいいように事実をねじ曲げてしまう。
そしてナボテが石打ちで殺されてしまうということです。
このことを神様は見ておられました。
ですからエリアを通して神様はこのことをこう言われますね。
十九節というところにこういう言葉があります。
十九節、彼にこう言え、主はこう言われる。
あなたは人殺しをした上に奪い取ったのか。
また彼に言え、主はこう言われる。
犬たちがナボテの血を舐めたその場所で、その犬があなたの血を舐める。
神様が言われるのは、あなたはこの偽りの証言を通し、人を殺し奪う。
12:02
実戒で言うならばこれは殺してはならないと、盗んではならないを破るおぞましい事件。
おぞましい事件ですね。
ただこれを実行し実現したのは人の言葉、偽りの証言によるものでした。
また、すみません、他の箇所を開いてしまって申し訳ないんですが、
新約聖書でもこのことは偽りの証言をなされています。
イエス様の裁判の場面ですね。
マルコの福音書の十四章の五十五節から六十六節というところに、
マルコの福音書の十四章の五十五節から六十六節というところに、
この裁判のことが書かれてあります。
ちょっと全部読むと長いので、特に五十五節から五十九節をちょっとお読みしますけれども、
マルコの福音書の十四章の五十五節から五十九節をお読みします。
さて、最司長たちと最高法院全体はイエスを死刑にするため、
彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
すると何人かが立ち上がり、こう言ってイエスに不利な偽証をした。
私は人の手で作られたこの神殿を壊し、
人の手で作られたのではない神の別の神殿を三日で建てるとこの人が言うのを私は聞きました。
しかしこの点でも証言は一致しなかったということが書かれてあります。
イエス様を十字架形に処すというのは容易ではありませんでした。
なぜならイエス様は罪を犯されなかったからですね。
ですから不利な証言、偽りの証言がこの場所に集まってまいります。
いわばありもしない事実を捏造しながらイエス様を殺そうと彼らは企むわけです。
なぜここまでしてユデイ人マサイ公法院がイエス様を殺したかったのでしょうか。
ちょっとだけその動機を見ますと11章の18節というところに彼らの心の思いが書かれています。
11章の18節を読みますとこういう言葉です。
最司長たちや立法学者たちはこれを聞いてどのようにイエスを殺そうかと相談した。
群衆が皆その教えに協談していたため彼らはイエスを恐れていたのであると言われています。
彼らはイエス様が怖かった。怖かったのですね。
群衆の心がイエス様の言葉に惹かれ始めてそして自分たちから離れていくのが怖いわけです。
15:09
そのため彼らにとってイエス様は邪魔なんです。邪魔である。
邪魔だから私たちにとって都合のいいように事実を捏造して殺してしまおう。
これがイエス様の裁判で起きたことでした。
これら2つの箇所から見える特徴が共通する特徴があるように思うんですね。
偽りの証言というのは先日めて言えばこういうことなのではないでしょうか。
偽りの証言とは私の都合や利益を優先して事実をねじ曲げることによって
罪のない人の命を傷つけ奪う行為だということです。
もう一回言いますが、偽りの証言とは私の都合や利益を優先して事実をねじ曲げることによって
罪のない人の命を傷つけ奪う行為だということ。
私たちの裁判というものを想像していただくとわかるかもしれませんが
裁判の場において重視をされるのは
この事実を私はこう思うという主観だとか感想じゃないですね。
裁判においていつも重視されるのは事実です。
これをどういうふうに見るかという見方は人それぞれのうちに千差万別あります。
私はこう思うという意見も人それぞれあります。
でも事実は一つだけなんです。
事実起きていることは一つだけです。
そしてそのたった一つ、それゆえにそのたった一つの事実をねじ曲げて人の前に話すというのは
これは人の前にも神様の前にも重いことだということ。
ただ、これは本当に私自身の自戒を込めて申し上げますけれども
私は、私はですが
自分にとって都合の悪い事実を
それがあるときにそれを直視して認めるということにはものすごく葛藤があるなと思うんです。
葛藤があります。
で、願わくばその事実を曲げたくなるという誘惑があるなと私自身は思わされます。
そして時に私にとって都合の悪い事実を
偽りを含んだ強い言葉でねじ曲げて隠して責任転嫁をしたくなる
18:07
そのような言葉を時に私は用いてしまうなと思うときがあります。
これはでも私たちもそうなのかもしれないと思います。
ある種そのような事実をねじ曲げてしまうこと
それによって責任転嫁をするということ
そのような言葉がまさに言うまでもなく隣人との関係を傷つけるということ
隣人を傷つけるということ
そういうことは確かにそう言えるのだと思うんです。
ただこのような言葉はですね
もう一つ見たいのはこの言葉は隣人だけではなくて
自分自身のことも傷つけるということを
私たちが覚えておかなければならないと思うんです。
いろいろ開いて申し訳ないんですけれども
新約聖書のヤコブの手紙の3章の8節から12節というところ
いろいろ開いて申し訳ありません。
ただヤコブの手紙の3章の8節から12節というところ
ここはヤコブがある種信仰とおこないということに関して
一番シビアな感覚を持っている人ですが
彼がこの3章8節から舌、言葉について注目して語っている箇所です。
少しだけお読みします。3章の8節から
しかし舌を制することができる人は誰もいません。
舌は休むことのない悪であり主の毒で満ちています。
私たちは舌で主であり父である方を褒めたたえ
同じ舌で神の仁姿に作られた人間を呪います。
同じ口から賛美と呪いが出てくるのです。
私の兄弟たち、そのようなことがあってはなりません。
泉が甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。
私の兄弟たち、一軸の木がオリーブの実を鳴らせたり
ぶどうの木が一軸の実を鳴らせたりすることができるでしょうか。
塩水も甘い水を出すことはできませんと語ります。
舌ですね。いわば私たちの口から出る言葉について
ヤコブは教えるわけですけれども
彼が言うのは私たちの口は一つである。一つですね。
しかしその一つの口から
父である誠の神様への賛美が出てくるのと
その一つの口から同じように
神の仁姿に作られた人間への呪いが出てくる。
事実はあなた方は今一つの口から賛美と呪いが出ていると言うんです。
21:04
ただそれが事実であったとしても
本来それは一つの泉から甘い水と苦い水が出せないように
二つのものが並存することは本来はできないと言っているんです。できない。
いわば言い換えるならば
私たちの口から偽りも含むような苦い水が流れていれば
そこに甘い水を流すことはできないと言っているんです。
偽りの言葉が私たち自身を傷つけるのであれば
いったいどのように私たちを傷つけるのか
それは私たちの一つの口から偽りの言葉が出ているときに
神への真実な賛美から私たちを遠ざけるということです。
同じ口からそれを出すことはできないということです。
それは恐らく痛みではないでしょうか。
あなたの隣人について偽りの証言をしてはならない。
神様は偽りによって私たちが隣人を傷つけることはよくご存知の上でも
それだけではなくて
私たちが偽りの言葉を通して自分自身を損なっていくということ
そのことを神様よくご存知なんです。
嘘というのは特徴として
一つの嘘をついたらそれを塗り固めるために
嘘というのは重ねられていきます。
でもそこから抜け出せなくなるほど
痛み続けている私たち
神様はそれを案じておられるんですね。
それでいいのかということです。
そして偽りをはらむ私たちに対してでは
神様はどうされるのでしょうか。
神様は一つの道を私たちに示してくださいました。
私たちがこのように罪に迷いながら
どこに進んだらいいのかわからないときに
いつも私たちが見なければならないのはイエス様です。
私が道であり真理であり命であると言われた
イエス様を見なければなりません。
先ほどのマルコの14章の裁判の場面に
少し戻りたいのですが
マルコの福音書の14章の裁判の場面
先ほどは59節までお読みしましたが
それ以降の60節から65節を
少しお読みしたいと思います。
こういう言葉があります。
マルコの福音書14章の60節から65節
そこで大祭司が立ち上がり
真ん中に進み出てイエスに尋ねた。
何も答えないのか。
この人たちがお前に不利な証言をしているが
どういうことか。
24:01
しかしイエスは黙ったまま
何もお答えにならなかった。
大祭司は再びイエスに尋ねた。
お前はこむべき方の子キリストなのか。
そこでイエスは言われた。
私がそれです。
あなた方は人の子が力ある方の右の座につき
そして天の雲とともに来るのを見ることになります。
すると大祭司は自分の衣を着さえて言った。
なぜこれ以上証人が必要か。
あなた方は神を冒涜する言葉を聞いたのだ。
どう考えるか。
すると彼らは全員でイエスは死に値すると決めた。
そしてある者はイエスに唾をかけ
顔に目隠しをして拳で殴り
当ててみろと言い始めた。
また下役たちはイエスを平手で打った。
先ほど申し上げましたけれども
罪を犯さなかったイエス様を十字架けに処するというのは
容易なことではありませんでした。
ただ大祭司の問いかけ
この言葉
お前はこむべき方の子キリストなのか。
イエス様が十字架にかからなければならなかった理由は
この問いかけに答えたことだけです。
お前はこむべき方の子キリストなのか。
イエス様は答えられましたね62節
私がそれですと答えました。
この言葉を答えなければ
イエス様は十字架を回避できたかもしれません。
もしもイエス様が
ご自分の都合を最優先で考えられるならば
この言葉ははぐらかすべきでしょう。
前のシーンでも黙秘犬を使っています。黙っています。
黙っていればよかったでしょう。
けれども
イエス様は偽らざる真実を答えました。
私がそれですと言われた。
私がそれですと。
なぜならイエス様は
ご自身の都合以上に大事なものがあるということをよくご存知だったからです。
イエス様にとっては
私の自分自身のこれを答えるならば都合が悪くなる
そのご都合以上に
神様の義
神様の御心を求めておられたんです。
マルコの福音書の14章の36節
好きでよく開きますが
月世までのその祈りでイエス様は祈られました。
しかし私の望むことではなく
あなたがお望みになることが行われますようにと
イエス様はその場所で神様に祈られました。
27:05
イエス様は
自分の都合以上に大事なものがある
自分の都合以上に遠飛ばなければならない
神の義があるということ
そのことをよくご存知でした。
そしてイエス様の道筋というのは
その神様の義
神様の御前に
自分自身の都合が砕かれるものこそが
真実な証人となり得る
そのことを私たちに教えているのではないでしょうか
この裁判の場面というのは明確な対比が描かれています。
最主張や最高法院というのは
自分の都合を守るために
事実をねじ曲げて捏造し
命を奪うものである
しかしそのような
偽りの証人に囲まれる中のイエス様だけが
真実な証人としてここに立っておられる
イエス様は
ご自身の都合以上に
神の義を求め
事実を事実として認め
十字架に進んでいかれた
そして私たちはよく知っているでしょう
しかしその歩みこそが
多くの人々に命を与えるものとなった
私たちの父なる神様は
私たちに
イエスキリストの道を歩むようにと願われるのです
どこまでもイエス様の道を歩みなさいと
言われるのです
そしてその道に歩むことができるように
聖霊様が私たちに望んでくださっているのです
聖霊様というのは
私たちをイエスキリストの歩みへと導かれるのです
もう終わりますけれども
あなたの隣人について
偽りの証言をしてはならない
これは単に
私たちが言葉遣いが変わればいいということを
言っているのではないでしょう
それはおそらく
偽りたくなる
私たちの心に問いかける言葉ですね
私自身の都合だけを優先する根っこの部分に
これは私自身もそう自覚を思いますが
自己中心性があるのです
自分の都合、利益さえ良ければいいという
思いが私の中にもある
そしてそのために
正義や公正などを無視して
都合の良い方にしか現実を見ようとせず
罪のない人を傷つけ奪おうとする
私たちの弱さがある
30:02
けれども忘れてはならないのは
そのような私たちを神様は愛してくださったのです
そのような私たちを許しておられるのです
十字架の父親によって
神のことをされているということはそういうことです
許されて神のことをされている
そしてなおも私たちの中に残っている
偽ってしまう私たちの罪の残りが的なもの
しかしそれは残りがですね
それをイエス様は共に包み
癒やそうとしてくださっているということです
せめて終わっているのではないのです
そしてそのような私たちを
ご自身の道に導くために
私たちの心に主が住んでいてくださるわけではないでしょうか
もうこれ以上偽りを重ねて
隣人をそしてあなた自身を傷つけなくてもよいのだと
そういうのではないでしょうか
イエス様が私たちに今朝招くのは
私と共に真実の言葉を取り戻しなさいということです
私と私と共に私の道を歩み
真実の言葉を取り戻しなさい
偽りがあるのであれば
そこから真実を取り戻しなさい
そう私たちに招かれるのではないか
取り戻すための道筋は
イエス様が示してくださっています
私たちは自分自身を守ろうとする自己都合以上に
尊重し大事にしなければならないものがある
それは命を与えるよう命じる神様の義
神様の御心ですね
その神様の御前に偽りがあるならば
その御前に立たされるときに
神の義の前に自らの偽りが砕かれるものこそが
真実の証人となることができる
その道筋を私たちに教えてくださっている
イエス様の歩まれた道筋を
私たちにそのように教えているのではないでしょうか
あなたの隣人について
偽りの証言をしてはならない
神様が願われるのは
あなたを通してこの世界を祝福しようとしておられる
だからこそ尊い器であるあなただからこそ
あなたを通して隣人が傷つかないように
あなたを通してあなた自身が傷つき続けないように
私と共に真実の言葉を取り戻そう
そのように今朝私たちに招かれるのではないでしょうか
死の御前に誰よりも私自身がですが砕かれたい
33:01
そのように願います
一言お祈りをしてメッセージを終わります
33:07

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