母の日のメッセージ
今朝は、この箇所から道を取り戻すという題で見言葉を取り継がせていただきます。
ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。今から10年ほど前、2014年ですが、
アメリカのある企業が、YouTubeにこのような動画を上げました。
人材募集、世界で最も過酷な仕事、そういうタイトルの動画を上げました。
状況は、オンラインで面接をしているという状況なんですね。面接官と学生がいて、面接をしている。
そこで面接官から、その仕事の内容が説明されるんです。こういう仕事を募集しています。
職種は、現場の総監督です。勤務時間は基本24時間、週7日。
徹夜があります。休憩はほとんどありません。
そして、この仕事には交渉力、交際力、医学、金融学、栄養学、すべての知識が必要とされます。
また、複数の仕事を同時にしてもらわなければなりません。マルチタスクをしてもらわなければなりません。
この仕事は常に立ち仕事で体力を使います。常に周囲に気を配らなければなりません。
食事はいつも同僚の後に食べることになりますし、休日やクリスマス、他は休んでもいいえ、
あなたの仕事はさらに仕事が増えることでしょう。 そして肝心の給料ですが、0円ですって言うんですね。
学生たちは口をそろえて言います。NO! ただ働きなんて、そしてただ働きでそんなに過酷な仕事をするなんて、そんな仕事誰がするんだ。
でも面接官が言うんですね。 いいえ、世界中には何十億とこの仕事に従事している人たちがいるんですよ。
ふぅ、一体誰ですか。 面接官は言います。
それはお母さんですよって言うんですね。 お母さんですよと。
それを聞いた学生が息を飲むんです。 ああそうだと。お母さんは自分の願いをそのように聞いてくれた。
ある男子学生はママ最高って叫ぶんですね。ママ最高! そしてみんな口々に口をそろえて言う。ありがとうママと。ありがとうママと。
今朝ご一緒に母の日を迎えています。 普段そんなことしないのですが、今日は特別母の日に向けたメッセージ。
ハンナの苦しみ
お母さんだけじゃないんですけど、皆さんも聞いていただきたい。 そのような箇所から見言葉を取り継がせていただこうと思っています。
聖書の中には様々なお母さんが出てまいります。 ただ今朝はサムエルの母親になったハンナという女性。
この女性の姿に注目をしながら、お母さんだけではなく全ての私たちに語られている種の言葉をご一緒に聞きたいと願っております。
3つのポイントで少しお話をさせていただきます。 第一のポイントは
このハンナという女性。 彼女は深い悲しみを抱える女性であったということです。
今朝読みましたのは9節から19節をお読みしましたが、一章全体をちょっと扱っていきたいと思います。
このハンナという女性の状況が書かれているのは1節から8節になります。 ハンナは深い悲しみの中にありました。
それの原因は2節にあります。 エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。
ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかったというのです。 エルカナという男性の元に二人の妻がいたペニンナとハンナ。
そしてペニンナに子供がいるのですが、ハンナには子供がいなかったと。 この言葉は当時においてはとても重たい事実です。
時代錯誤なので今に絶対当てはめちゃいけませんが、当時の社会において奥さんの最も大切な役割、それは後取りを残すということでした。
ですから子供がいない女性というのは、いわば妻として不十分であるという楽園を世間から押されます。
そのような世間の目も去ることながらそれもあるのですが、それ以上にこのハンナを苦しめたのは同じ妻であるペニンナの存在でした。
自分には子供がいて、ハンナには子供がいない。そのことに優越感を感じたペニンナは、簡単に言うとハンナをいじめるわけですね。
そしてそれが最も露骨に現れるのは、毎年の聖女での礼拝という場所でした。
聖女というところで礼拝をする時に生贄を捧げるわけですが、エルカナは子供の分も捧げるのでペニンナ側にはたくさんの生贄があって、
ハンナの方にはちょっとしかない。 まさに目に見えて彼女はちゃんと妻として十分なものが与えられた女性であって、
私は何もないということが露骨に表される場所。 そしてその場所でまたペニンナがハンナをひどく苛立たせたということが6節に書いてあります。
ちょっと6節もお読みしますと、 また彼女に敵対するペニンナは主がハンナの体を落としておられたことで、
彼女をひどく苛立たせ、その怒りを掻き立てたというのです。 この6節の言葉は原文では苛立ちという言葉が重ねて書かれてあります。
いわばこれはペニンナはハンナの気の触ることをしつこく言ったということです。 そして感触を起こさせたということです。
ただそのようなことがいわば毎年繰り返されていたわけですね。 7節を見ますと、そのようなことが毎年行われて、
ハンナは主の家に昇っていくためにペニンナは彼女の怒りを掻き立てるのであった。 こういうわけでハンナは泣いて食事をしようともしなかった。
食事が喉を通らないぐらい、彼女は深い悲しみに囚われたのです。
ただここで肝心の夫であるエルカナはどうであったかというと、8節を見ていただくならば、
ハンナはなぜ泣いているのか、どうして食べないのか、どうしてあなたの心は苦しんでいるのかと、
攻め立てるというか、なぜ、どうしてと聞くんですね。
ハンナはあなたにはペニンナ以上に特別に受ける分を与えているじゃないか。 いや、ハンナ、私はあなたのことをペニンナ以上に愛しているじゃないか。
でもきっとハンナが欲しかったのは共感ですね。 悲しを聞いて共に夫に泣いて欲しかったのかもしれません。
けれども夫は、私もそういうところがありますが、素早い解決に向かっていくんですよね。
こうだからこうだから、こうしたらいいじゃんということを簡単に言ってしまうのです。
けれども、時間をかけて痛みを共感する忍耐力がないだけですよ。 自分自身です思いますし。
そして私もしばしばする失敗なんです、これは。 よく怒られます。話をちゃんと聞かなければならないですね。
深くうなずいておられますけど。 何を言いたいかというと、結局この箇所でハンナは孤独なんですよ。
誰も誰もわかってくれない。 彼女を押しつぶそうとしている力があるんです。
子供がいないということに関する世間からのネガティブな評価。 好きなことを言う人はいるんです。
あなたは親として、妻として、あなた不十分ですねということを言われているんじゃないかというネガティブな評価。
また同時に先ほども申し上げましたペニンナの優越感から来る攻撃ですね。 それによって生み出される劣等感です。
ああ、あの子は持っているのに私は持っていない。 どちらもそれは世間と自分を比べるだとか、ペニンナと私を比べるという他者との比較の感情から来る。
人と比べてしまう感情から来るものです。 ただこれらが抗いようもなく、ハンナの心に染み込んでくるわけです。
そして結果、これらの言葉に囲まれる中で、ハンナ自身ももしかしたら、ああ私は本当にダメな人間なんだというふうに楽園を押していったのかもしれません。
でも比較というのはすごくそういうところがありますね。 私はKJKというところにお世話になりました。
KJKを卒業するときに主治という方が学生たちによく言う言葉があります。 出てから比較することは避けれないけど、絶対に比較し続けないでください。
学生が卒業した後、結婚する人としない人がいるんです。 しない人は結婚した人が羨ましくなる。
でも結婚した同士だと今度は子供がいるといないでまた自分を比較するんですね。 でも子供がいたらどうなるかというと、あの家の子は良くてうちの子はというような比較が繰り返される。
ずっとその中で多くの人たちが劣等感に苦しんで、一部の人たちは優越感を守るためにマウントを取り始める。
でも覚えておいてください。神様はその感情をどちらも願っておられない。 劣等感も優越感も何かが違う。
むしろ神様というお方は、あなたがどんな人生を選んだとしても、あなたがどんな人生を歩んだとしても、あなたの人生を愛して祝福されるお方であることを忘れないでください。
ハンナの祈りと自立
そういうことを学生たちに語ってくださるんですね。 そのことは重々胸に覚えます。
重々胸に覚える。でも比較をしないっていうのはなかなか難しいですね。 比べてしまうお互いがある。
でも主治が語ったことは事実ですね。 そして観音、私たちも
このある種の比較から、世間の声から抜け出すためにはどうする必要があるのか。
やっぱりどこかで神様に向かい合わなければならない。 そう思うのです。
二つ目のポイントを見てまいります。二つ目のポイント。 主はハンナをご自身の道に戻されるお方であるということです。
旧説をお読みしますと、こういう言葉があります。 城での飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。
ちょうどその時エリーは主の神殿の門中のそばで椅子に座っていたと。 食後ですね。
家族が寝静まった頃、ハンナは一人で聖女に出て行ったというのです。 述説に彼女の心中が語られています。
ハンナの心は痛んでいた。 彼女は激しく泣いて主に祈ったと。
思い患いのゆえに、私たちは時々経験しますよ。 祈らないと眠れないという夜を私たちは経験をする。
その夜の中で彼女は誓言を立てて言うのです。11節。 万軍の主よ、もしあなたが端溜めの苦しみをご覧になり、私を心に留め、
この端溜めを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間主にお渡しします。
そしてその子の頭に紙反りを当てません、というのです。 彼女の誓言は実に大胆なものです。
ただ同時に、この言葉の節々にはハンナの不安が現れているようにも思います。 主は私の苦しみを見ておられるのだろうか。
主は私を忘れておられるのではないだろうか。 神様の臨在を感じることはできない。
言葉が言葉でしかならないような、そのような暗闇の中での祈り、それがこの祈りでしょう。
しかし彼女は言うのです。子供を与えてくださるなら、主よ、私はその子の一生をあなたに渡します。
ハンナの祈りというのは、この後の15節、16節にも書いていますが、心を注ぎ出すような祈りです。
エリが現れますが、エリに向かってハンナが答える言葉が15節からありますね。
ハンナを答えたイーエサイシ様、私は心に悩みのある女ですと、私はお酒を飲んでません。 私は主の前に心を注ぎ出していたのですと、彼女は言う。
これ深海薬に注釈を持っていらっしゃる方は見ていただいたらわかりますが、この心という言葉は、これは魂をとも訳される言葉。
ヘブル語の魂という言葉、これは全存在を意味します。全存在です。
心を注ぎ出してというのは、憂いや苛立ちを主の前に注ぎ出したということも意味しますが、それだけではないでしょう。
彼女は自分の全存在で主にぶつかっていったんです。主よ、なんでですか。なんで私の人生こうなんですか。
全部を主にぶつけていったわけです。 ある種世間性を気にしたその悲しみも、無理解な夫エルカナに対する怒りも、
ペニンナに対する憎しみも、全てを主にぶつける。 主は全てを受け止めてくださるからですね。
さて、ハンナはどうなっていたでしょうか。今日注目したいのはこの18節なのです。
18節。 「彼女は、はした目があなたのご好意を受けられますようにと言った。
それから彼女は帰って食事をした。 その顔はもはや以前のようではなかったというのです。」
帰っていった彼女の顔は、以前のようではなかったというのですね。
何かが変わったのです。一つ彼女は隠しを握ったようです。 しかし何が変わったのかというのは、この箇所だけでは分かりにくいですね。
ただキーワードとなるのは、この18節の 「彼女は帰って。」という言葉です。
これはさらっと訳されてますが、 ヘブル語で直訳しますとこういう言葉です。
その女は自分の道を歩んでという言葉です。
その女は自分の道を歩んで。 ヘブル語ではわざわざここで定漢詩付きの主語がつくんです。
その女は自分の道を歩んだ。 ある仲介者がこの箇所、このように説明をいたしました。
この言葉は、これは 「はんながただ夫に従う女性ではなく、自立を獲得した女性になったことを意味する。」と。
はんなは、ただ夫に従う女性ではなく、自立を獲得した女性になったことを、この言葉は意味する。
その女は自分の道を歩んだ。 主に自分の全存在を注ぎ出して祈った先に、
はんなは一体何を聞いたのでしょうか。 エリの言葉に注目したいと思うんですが、17節にエリは祈ったはんなに対してこう答えるのです。
「安心して生きなさい。 イスラエルの神があなたの願ったその願いを叶えてくださるように。」と。
ハンナの試練と思索
安心して生きなさい。 これははんなが単に行為の聖職者であるエリの言葉に励まされたということだけを意味していないでしょう。
行為の聖職者はその人を通して神様が語られるんです。 安心して生きなさい。
それはエリを通し神様がはんなに語っているような言葉です。
安心して生きなさい。 世間の目は冷たい。
理解してほしい人は理解をしてくれない。 敵はどこにでもいる。
そして何よりもそういう言葉に振り回されるべきではないと自分自身でわかりながら、
振り回されてしまっている弱い私が一番嫌い。 私たちはそういうことあります。
でも神様は言われるのです。 そういう私たちに言われる。
安心して生きなさい。 安心して生きなさい。
憐れみ深い神、イスラエルの神はあなたのことを忘れてなど、あなたの苦しみを見ていないなど、決してそんなことはない。
イスラエルの神はあなたのことを変わらずに愛し、あなたのことを握っている。 だから安心して生きなさい。
あなたが誰に何を言われようとも、あなた自身が自分を責めてしまう言葉から離れようがなかろうとも、安心して生きなさい。
あなたが何者であるかは世間の声が決めるのではありません。 誰の評価があなたが何者であるかを決めるのではありません。
あなたが何者であるかを示す真実の声はいつも神様の御声です。 私はあなたを愛している。
安心して生きなさい。 それが彼女が祈りの先に見出した答えではないでしょうか。
ハンナのことを、いいえ、それは私たちのことを今も昔も変わらずに愛してくださっている主が、
彼女に示された自分自身の道、あなたが変えるべき道はここなんだ。
安心して生きなさい。 その女は自分の道を歩んだと聖書は語っています。
さて、 そのようなことを通し、ハンナは自分自身の道を取り戻してまいりました。
サムエルの委ね
さて、最後のポイントを見てまいります。3つ目のポイントですが、
ハンナはそのような道を抜けて、サムエルという子供が与えられましたが、3つ目のポイントは、
彼女は神様に自分の子供を委ねたということです。委ねた。 20節をお読みしますと、こういうことが書いてあります。
年があらたまって、ハンナは身こもって男の子を産んだ。 そして私がこの子を主にお願いしたのだからといって、その子をサムエルと呼んだと。
とうとうハンナに待望の赤子が与えられます。 彼女はその子供の名前をサムエルと名付けます。
これはヘブル語、日本語に訳すと、神の名という意味です。神の名。
神の名というのは後に神殿の臨済、神の臨済を表す意味の言葉ですから、 いわば神の臨済の現れ、神が生きておられることの証であると言わんばかりに、この子供にサムエルという名前を付けます。
どれほどハンナはサムエルが可愛かったでしょうか。 しかし彼女は子供が与えられたら、これを主に渡しますと請願をしました。
ので、夫エルカナの勧めもあって、この子供を捧げに行こうと勧められるのですが、21節以降に書いてあるのは、
ハンナは、いやこの子が血離れするまではと言って、まあ聖女には行こうとしない。 強い母親の愛がそこに現れているような気がいたします。
子供がいない悲しみ、しかしそれだけに与えられた子供と離れる悲しみというものは大きいものであったでしょう。
ただそれでもハンナはエリの元へとこの子を連れて行きます。 そして26節にハンナがこのように言うのです。
26節からお読みしますと、ハンナは言った。
ああ、祭司様、あなたは生きておられます。 祭司様、私はかつてここであなたのそばに立って主に祈った女です。
この子のことを私は祈ったのです。 主は私がお願いした通り、私の願いを叶えてくださいました。
それで私もまたこの子を主にお委ねいたします。 この子は一生涯主に委ねられたものです。
こうして彼らはそこで主を礼拝したというのですね。 この子を主にお委ねをしますと、この子を主にお委ねします。
それがおそらくハンナが我が子サムエリにすることのできた最後の愛です。
最後の愛。 これは端的な事実を申し上げることですけれども、
親は子供の責任を最後まで見ることはできません。 同時に子供は親が自分の人生の責任を最後まで負ってくれると誤解してはいけません。
私たちはそれぞれどこかで立たなければならない。 神の前に向き合わなければならない時がある。
では最後まで私たちそれぞれの責任を担われるのは誰なのか? 誠の父である神様なんですよ。
神様が最後まで私たちの人生の責任を担われる。 最近実家に帰って少し父と一対一で話す機会がありました。
父が私にこういうことを言ったんですね。 母は僕とヨリ子の間に、よくも4人の子供を委ねてくださったと思う。
でももう、あとは神様に4人の人生を委ねればいいと思っている。 これまで自分の子供に何かがあったら気を立てていたが、
神様は良いお方だから、あとは神様お願いしますという今気持ちなんだっていうことを言われたんですね。
常々うちの親というのは、子供たちにも言ってましたが、子供というのは神様が私たちに預けてくださったんだってことをよく言っていました。
そういう父親の口からある種、そうかとこの人の子育ての最後は神様に委ねるというところで完結するんだなということを
私もその話を聞きながらしみじみ思っていました。 無責任じゃないんですよ、これは。
私の人生の責任を負ってくださる確かな種であるという確信があるからこそ、この良いお方に私の愛する子供を委ねる。
最後まで責任は取れないからこそ、最後まで責任を取ってくださるお方に委ねる。
私は、それはそういう言葉を聞いて嬉しかったなぁと思っています。
私はもう終わりますが、私は見ての通り親でもありません。女性でもありませんので、母親について語るというのは実にふさわしくないものが偉そうに語りましたが、
ただ感謝すべきだなぁとつくづく思います。お母さんありがとうとつくづく思います。
そして母親としてのまさに老公になっておられるお一人一人に今朝語りたいのことは、忘れないでいただきたいことは、
神様はあなたを責めておられないということです。 どれほど多くの老婦が、どれほどの言葉があなたを取り囲み言おうとも、
神様がお一人一人に言われることは安心していきなさいですよ。 安心していきなさい。
私があなたを握っている、誰が何と言おうとも、あなたが自分のことをどう言おうとも、安心していきなさい。
それが今朝主が語っておられる言葉ではないでしょうか。 聖三式をこれから取り行います。
十字架という場所は、神様が私たちを神の子として取り戻すために、ご自身の愛する御子を捧げられた、まさに親の愛が現れている場所です。
私たちそれぞれは、神に愛されている神の子として、今一度その約束を受け止め直しながら、
神様の愛の眼差しを覚え直しながら、私たちそれぞれ共に自分の道を取り戻させていただきたい。
私が立つべき場所は、主の愛の言葉の中にある。 一言お祈りをいたします。