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2025-02-23 29:40

2025/02/23:待ちなさい委ねなさい

2025/02/23 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -30


00:02
それでは一言お祈りを致します。
愛する天の父なる神様、今日も私たちを、あなたの御前へと招いて下さい。
あなたを、儀礼拝ができます幸いを感謝を致します。
寒い日が続きますが、私たち一人一人のことをあなたは知っていて下さり、
その喜びの時、悲しみの時も、主がいつもともにいて下さっていることを感謝を致します。
あなたは限りない十字架の愛をもって私たちは愛し抜いて下さいました。
その流された血潮により、私たちの罪を完全に許し、
よみがえられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる死と共に生き続ける人生を与えて下さいました。
もはやあなたは自分の足ではない、私の恵みによって歩むのだと、
あなたの手がいつもともにあることを覚えてありがとうございます。
そして私たちと共に御国を築こうと、あなたは私たちをまた使わせて下さることを感謝を致します。
どうか死の恵みを覚えて、今日もあなたを仰ぐ勇気を与えて下さい。
様々なものに心をとらわれる私たちですけれども、
あなたの御前へとそれを委ねながら、あなたと共に立ち上がるこの時とさせて下さい。
お願いいたします。
祈られたように、全世界では様々な争いが起きていますし、その争いは私たちの中にもあるでしょう。
ただしこそが私たちの王であることを覚えて、あなたの裁きを信じることができますように導いて下さい。
お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。
御言葉を開いて下さり、あなたの御声を聞かせて下さい。
ここに集えなお一人一人の上にも、あなたの恵みが豊かにありますように導いて下さい。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン
本日は午後に教会総会を控えています。
次年度のテーマの計画と予算を共に決議しながら、総会の時というのはいつもそうだと思いますが、
教会が一致して前進していくそのような時であると思います。
そのような時となるよう、ぜひお祈りいただけたらと思います。
教会というのは、何度かそういうお話をしましたが、
一つとなっていくことで主の栄光を表すそのような群れです。
エピソディという手紙の1章の10節というところにこういう言葉がありましてお読みしますと、
天にあるものも地にあるものも一切のものがキリストにあって一つに集められること。
03:02
これこそが奥義であるとエペソ書は語りますけれども、
まさに神様の御心はこの地上にあって一つとなっていくということです。
それは言い方を変えるならばまさにエペソ書でその後語られますが、
隔ての壁を壊して隔てられているところに愛の交わりが築かれていくということでしょう。
私は明太に教会もそのように主の栄光が表されることを本当に願っております。
当たり前のことを言いますが、教会の中にはいろんな人がいます。
それは当然のことですね。
違いがあるということは本来は豊かさですね。
神様がいろんな人を教会に置いてくれているというのは神様からの賜物でしょう。
ただ私たちはいつもそう思えない時があります。
時に違いを私たちは悪いこととみなしてしまいますし、
意見が違う相手と仲違いすること、これは教会でよくあることです。
確かに冷静に考えると自分と違う誰かを受け入れるということは決して容易なことではありません。
それは難しいことです。
だからこそ教会が地上にあって一つとなっていく。
違うお互いを受け入れ合い認め合う交わりが少しずつでも築かれていくならば、
それだけでも神様の奇跡なんですよ。神様の奇跡です。
私はそのような一つとする神様の奇跡があるんだということを期待して信じています。
一つと神様はしてくださる。
今朝の箇所からもそのような知恵を汲み取ることができるのではないかと思って開かせていただきました。
今日読んでいただいたのはマタイの福音書の13章の箇所です。
この箇所を見ていただくと、前後を見ても天の御国とは云々云々という話が13章は続くんです。
天の御国に関する例え話。
ここでいう天の御国というのは、いわゆる天国とはちょっと違います。
私たちが召された後に行く場所の話をしているのではなくて、
これまで見てきましたイエス様がここにもたらしてくださった恵みの御支配ですね。
神様がこの世界にイエス様を通して新しい御業を始められた。
それがマタイの天の御国です。
06:01
ですからこの13章の天の御国とは云々云々という話は、
実はこれまでイエス様が歩んでこられたイエス様の御業と関係しているんです。
また重ね合わせながら読んでいただくといろいろな発見があると思いますが、
そのような中に今朝読んでいただきましたこの24節からの
良い麦と毒麦の例えというものがあるわけです。
ちょっとだけそのストーリーを追っていきますと、こういう話ですね。
ある人が畑に種をまきました。
しかし夜になると敵が現れて、その畑に毒麦をまくわけです。
そして翌朝目が出ていてその目を見ると、
ああ、毒麦が混ざっているということにしもべは気づくわけですね。
ちょっとやりとりを見ますと、28節からこういう言葉がありますね。
これは一体どうして毒麦が生えたのでしょうか、28節。
主人は言った。
敵がしたことだ。
するとしもべたちは言った。
それでは私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。
しかし主人は言った。
いや、毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。
だから収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。
収穫のときに私は狩る者たちにまず毒麦を集めて焼くために束にし、
麦の方を集めて私の蔵に納めなさいと言おうと言われるのです。
しもべはすぐに毒麦を抜こうとしますが、主人は麦が育つまで待ちなさいと言うのですね。
麦が成長して見分けがついてから選別し、
毒麦は燃やして、良い麦は蔵に納めようと言うのです。
この例え話は実は解説がありまして、
36節からイエス様はこの例え話の解説をなさっています。
36節から39節までお読みしますとこういうことですね。
それからイエスは群衆を解散させて家に入られた。
すると弟子たちが身元に来て、畑の毒麦の例えを説明してくださいと言った。
イエスは答えられた。
良い種を蒔く人は人の子です。畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。
毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、狩る者は御使いたちですと言われるのですね。
良い種を蒔いたのは人の子、すなわちイエス様ですね。
蒔かれた麦というのは、これまでイエス様の言葉を聞き、ついてきて信じてきた御国の子ら。
09:01
一方で毒麦を蒔いたのは敵は悪魔であるとはっきり書かれます。
そして毒麦はその悪魔に囚われている悪い者の子ら、
つまりイエス様の活動にこれまで反対してきたパリ裁判立法学者のことを指しているのでしょう。
ただ、このように見ますと、実はイエス様の敵というのは、パリ裁判や立法学者たちが直接的な敵ではないということがこの箇所を見るとよくわかります。
イエス様の真の敵は悪魔です。
これはマタイの福音書の背後にずっと流れているテーマ。イエス様の敵は悪魔なんです。
そして悪魔に捕らえられている人たちが反対をしてくる。
11章の12節というところにイエス様はすでにそういうことをおっしゃっています。
11章の12節というところにこういう言葉があります。
バクテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく責められています。そして激しく責める者たちがそれを奪い取っています。
バクテスマのヨハネとほぼ同時にイエス様が活動を始められます。
でもその時から激しい攻撃が私にある。
背後には悪魔の身技が、働きが後ろで起きているんだということを言うのですね。
さて、この中で一つ注目したいのは、このしもべと主人の対応です。
一つ目のポイントとして、対応として見たいのは、待ちなさいということです。
この先ほど例え話を見ながらありましたけれども、敵が毒麦を撒いた。
そして毒麦、いろいろな反対者が出てきてですね。
その人たちに対して、例え話の中ではしもべは言うのです。
この毒麦を抜きましょうかと。
これはすぐ抜きましょうかということです。
すぐ毒麦を私たちは抜きましょう。
そういうことを言うのですね。
調べてみますと、この毒麦をすぐに抜こうというイエス様の言葉というのは、
実は当時のいろいろな人たちの態度が反映されている言葉だと言われます。
例えばカリサイ派や立法学者は、まさにイエス様のことを毒麦とみなしましたね。
彼らは十二章の十四節にもありますが、どうやってイエスを殺そうかと覚削し始めているわけですね。
そして以前もお話をしましたが、当時ローマ帝国の支配に対して武力をもって抵抗する熱心党、
12:02
レジスタンスなのかテロリストなのか、味方によると言われましたが、
ローマの武力的な反旗を翻し、すぐにローマを打ち倒せという動きは当時いろいろなところで起きていました。
そしてイエス様の弟子たちのヤコブとヨハネも、これは違う福音書ですが、
ルカ福音書の9章というところには、自分たちを受け入れなかったサマリア人に対して、
主よ、天から火を下しましょうと言ったという言葉をご存知かと思います。
共通するのは、独無義はすぐに抜かないとという思いです。
独無義はすぐに抜かないといけないという思いです。
こういうのは私たちの間にもあるかもしれません。
今日のお話で一番強調しないといけないのは、誤解をせずに聞いてください。
私は明太に教会に独無義があるということを決して言ってません。
明太に教会に独無義なんかいません。
これははっきり言います。
明太に教会に独無義なんかいません。
ただ、ただ、私たちの目には時にして、相手が独無義に見えてしまう時があるということです。
そして、独無義はすぐに抜かないとと思う。
あの人は間違っている。
あの人とはもう私は分かり合えない。
これは別に特殊なことを言っているわけではありません。
右から左までいる教会にはよく起こり得ることです。
よく起こり得ることです。
けれども、主人はそのことに対してこう言うんです。
29節から先ほどもお読みしましたが。
しかし主人は言った。
いや、独無義を抜き集めるうちに、無義も一緒に抜き取るかもしれない。
だから収穫まで両方とも育つままにしておきなさいというのです。
いわばこれは何を言っているのか。
判断を待ちなさいということです。判断を待ちなさい。
なぜなら、あなたがあの無義は抜かれたらいいのにと判断をするその独無義の中に
良い無義は混ざっているかもしれないからです。
いわば私たちの中に、これは私も含めてですが、独無義をすぐに抜く。
そのような思いが起こるときに、その判断は必ずしも正しいわけではないと言っているのです。
神言の中には、人には自分の行いがみな純粋に見えるという耳の痛い言葉がありますが、
15:03
耳が痛いですね。
私たちは自分のやることは全て純粋にすべからく、そうだと思うわけです。
しかし、私も含めて、これは牧師である私も含めですが、
私たちは自分が正しく、誰かを正しくないと即座に判断をしがちで、
しかしそうしてしまうときには必ずしも正しくはないということです。
私たちは人というのは、良いも悪いもあります。
正々堂々混在するのが人間であると、私はそう思います。
私のうちにも良い面も悪い面もあるのです。
ただ、一度私たちの中で、もしも意見が違う相手、
その人はもう分かり合えない相手なんだと見なし始めるときに、
私たちはその人の悪い面しか見なくなります。
地位的に見なくなっていきます。
そして、もしもですよ。
そこですぐに対処できたらいいんだけれども、
対処できずに和解ができないまま続いていくならば、
時を重ねれば、なおさらその見方は固まっていくんですね。
その人への見方が固まってしまう。
あの人はああいう人だから、だからもう分かり合えないんだと。
しかし、イエス様が言われるのは、待ちなさいです。待ちなさい。
誰かを毒麦と見なしてしまうこと。
すぐに取り除こうとする思いを待ちなさい。
私も含めて、私たちのうち誰一人、絶対に正しい人なんかいません。
私も含めて、絶対に正しい人なんかいません。
そして、重ねて申し上げますが、教会に毒麦などいません。
ではです。じゃあ、待ちなさいと言われるんですけれども、
誰がただ待っていたらいいのかというと、
もう一つこの箇所からイエス様が進めてくれる方向性があると思います。
それは、委ねなさいということです。委ねなさいということです。
誰がその正しい、間違っている、みんな偏りがあるんですが、
それを判断できるのでしょうか。
それは、儀なる神様だけです。
正しいお方は主なる儀なる神様だけです。
儀なる神様に委ねなさいです。
この例えで表される人々は、13章の41節を読んでいただくならば、
最終的には、人の子、イエス様が使わす御使いの裁きに服するということが書かれてあります。
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これは私たちも一緒ですね。
私たちもまたそれぞれが、主の御前に裁きに立たされる時が来ると聖書は語ります。
そしてまた、もっと言うならば、私たちも日々、究極的に言えば私たちの日々も、
毎日毎日、主の御前に立たされているお互いです。
主の御前に立たされているお互いですね。
主の御前に立たされると聞きますと、私なんかが想像するのは、
裁判官のような神様がそこに立っているような気がするんですよね。
裁判官のような神様が立っていて、お前は正しくないとか、お前は正しいみたいなことを言うような、
そういう神様がいるような気がします。
確かに、神様は儀なる神様ですし、その裁きはいつも正しく、偏り見られないお方であると言われます。
御前に立つ時ですよ。
私たちが主の御前にそれぞれが立たされる時に、
私たちはいつもは、私は正しくてあの人間間違いと言いがちなんですけど、
主の御前に立たされる時に私たちは自分は正しいと言えるでしょうか。
私はとてもではないけれども言えません。
私自身の罪深さを知っているがゆえに言えません。
ああ、私は正しくない。
私たちは互いにそうかもしれませんね。
ただですね、ちょっとだけここから見ていきますと、
私たちが主の前に立つという時に、
じゃあ本当にそんな裁判官のような主が立っておられるのでしょうか。
私はそう考える時もありました。
だから、わずかな罪も犯してはならないし、
自分の中で罪が消えないという現実を見る時に、
私こそ罪深い毒麦だ。
私はダメだということで自分を責めたこともよくありますが、
けれども今私は、いやそうではないんじゃないかなと思うんです。
違うのではないかなと思うんです。
確かに神様の前に誰一人私たちは、
自分は正しいとは言えない罪人です。
主の裁きに遭うのは必然のものです。
しかし、その私たちへの裁きを一人その身に
全て引き受けてくださった方がいらっしゃいますね。
イエス様です。
十字架に打ち付けられ、
父なる神様に見捨てられたイエス様ですね。
21:00
それは全て私たちに本来下るべき裁きでしたが、
イエス様は私たちの裁きを全て引き受けてくださいました。
あの十字架という場所でですね。
なぜなら、神様もイエス様も
私たち一人一人の存在が
自分の命を捧げても惜しくないということに
尊いからですね。
私たち一人一人の存在が尊いからですね。
私は先ほどから
教会に読む義はいないという話をしています。
その根拠と言える箇所が一箇所あります。
お読みしたいと思いますが、
使徒の働きの二十章の二十八節。
これ有名な言葉ですね。
使徒の二十章の二十八節という言葉があります。
これ有名な言葉です。
今日何度か引くと思いますが、
使徒の働きの二十章の二十八節というところに
こういう言葉があります。
パウロの国別説教の一節ですが、
あなた方は自分自身と群れの全体に気を配りなさい。
神がご自分の血をもって買い取られた
神の教会を牧させるために
精霊はあなた方を群れの監督にお立てになったのです。
と言われますが、
パウロがここでエペソの人たちに言うのは、
教会というのは
神がご自分の血をもって買い取られた神の教会だと言います。
神がご自分の血をもって買い取られた神の教会ですね。
神の教会というのは建物ではないでしょう。
教会というのはここに集う私たち一人一人のことです。
私たち教会に集う一人一人は
巫女イエス様の血、神様の、神の血という表現がここで使われますが、
によって贖い取られた尊い一人一人ですよ。
尊い一人一人です。
もしもそれが私にとってはどれほど分かり合えない相手であっても、
味方が固まってしまう相手であったとしても、
あなた自身も、そしてあなたが分かり合えないと思うその人も、
神の血によって贖い取られた尊い一人なんですよ。
私たちの中には、私も含めてです。何度も言いますが、私も含めてですが、
毒麦はすぐに抜く。
あの人とはもう分かり合えないというそのような思いが浮かんでくることはあります。
24:00
ただ、そのような思いが抱くときに、私たちは、
その人のためにもイエス様は十字架の血を流されたんだという、
その事実をあなたは過論じるのですかと問われるような気がするんですよ。
その事実をあなたは過論じるのか。
皆さんいかがでしょうね。
私たちはいつも主の御前に立たされています。
でも私は思います、そこに裁判官が立っているわけではないでしょう。
いわばもう裁きは終わったんですよ。
2000年前に裁きは終わったんですね。
釘で打ち抜かれた手足を見せつつ、
あなたの裁きはもはや全て私が引き受けたと宣言し、
だから帰ってきなさい。
罪深くてもいい。何でもいい。ただ私のところに帰ってきなさい。
そう言われるイエス様が私たちの前に立っているわけです。
どれほど私たちがある種不確実な自分の正しさを誇りながら、
誰かを毒麦だと罵ろうとも、
私は毒麦なんだと自分の罪深さを呪おうとも、
私たちは共通してその神の前に立たされるんです。
その神の愛の前に立たされているんです。
パオロはローマ人への手紙の中でこういう言葉を言いましたね。
ローマの2章の4節というところに有名な言葉があります。
ローマの2章の4節というところにこういう言葉があります。
お読みします。ローマ人への手紙の2章の4節というところ。
それとも、神の慈しみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、
その豊かな慈しみと忍耐と寛容を過論じているのですかという言葉があります。
私たちを悔い改めに導くのは恐怖ではないですね。何度も申し上げます。
私たちを悔い改めに導くのは、神の慈しみがあまりにも偉大だから私たちは悔い改めに導かれる。
あなたの罪は全て引き受けた。あなたのために私はあの十字架に着いた。
あなたへの裁きは終わった。帰ってきなさいと釘打たれたイエス様が手を開いて待っていてくださるから、私たちは悔い改めるんです。
しよって、私は何をしてたんでしょうかと。
私の愚かさを全てをご存じで、それでもあなたを愛していると十字架で宣言された
神様の御前に私たちはただただ神戸を垂れるんじゃないでしょうか。
27:07
もう終わりますけれども、教会は一つに向かうことで神様の栄光を表していく。これは変わらない事実です。
ただ、人間は簡単に人の見方を変えられないのもまた事実でしょう。
先程も言いましたが、時間がかかればかかるほど私たちの見方は固まっていく、そういうものです。
ただ、今朝アッシュが私たちに、そういう私たちに言われるのは、第一には待ちなさい。待ちなさい。
あなたの判断が、あなた自身が絶対に正しいわけではないのだから。
そしてもう一つは、委ねなさい。委ねなさい。
あなたも、そしてあなたが分かり合えないと思うその人も、神様の前に一緒に立たされているんだから。
ただ忘れてはならないのは、神様は裁判官として立っているのではない。
イエス・キリストはあなた方全ての罪を引き受けた。
そしてあなたも、あなたのその人も、愛してその前で待っているんだ。
私たちはそのような主の愛を知る時に、十字架の前で手を結びなさいと招かれるんですよ。
十字架の前で手を結びなさい。
どうでしょうか。それが起きるならばまさに神様の奇跡ですね。
それは神様の奇跡です。
しかし私は教会がそのような神の奇跡が起きる場所であると信じ続けたいと思います。
教会というのは、神がご自分の血をもって買い取られた神の教会です。
今朝主は私たちに言われるのではないでしょうか。
あなた方の誰一人として毒麦などいない。
いいや、あなた方一人一人は私の血によって買い取った高価で尊い一人一人なんだ。
そう主は言われるんじゃないでしょうか。
その主の前に私たちはどう応えていきましょう。
教会は一つとなることで主の栄光を表していきます。
ご一緒に祈っていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。
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