神様へのお祈り
それでは、お祈りをいたします。
恵みと哀れみに満ちておられる、天の父なる神様、
尊い皆を心から賛否をいたします。
私たちを主の御前へと招いて下さり、
また、あなたの御言葉によって力強められ、
ここから立つようにと、あなたが備えて下さっていることを、ありがとうございます。
あなたは私たちを愛し抜いて下さり、
巫女イエス様を十字架へと捧げられました。
その流された血潮は確かで、変わりのない私たちへの救いを与えて下さり、
私たちへの愛を表して下さったものです。
私たちを神の子とし、
それだけではなく三神に生み返られた命、復活の命を私たちに与え、
永遠なる死と結ばれた命、切っても切れない、死をも切り離すことのできない、
永遠なる死と結ばれた永遠の命を私たちに与えて下さっていることを、
心からありがとうございます。
神様、私たちは本当に様々なものに揺さぶられます。
今は本当に熱い季節になりました。
それが私たちを揺さぶります。
世界では様々な不穏なことが起き続けています。
悲惨な現実が私たちを揺さぶりますし、
また日本の国勢においても変化が起きました。
そのことも私たちを揺さぶります。
私たちの現実の過程の中にも様々な痛みがあります。
それを私たちが揺さぶります。
けれども主よ、確かでゆるぐことのない私とあなたは結ばれているのだから、
あなたはここに立ちなさいと、
あなたは御言葉を持っていつも私たちはあなたの身元へと引き戻して下さいます。
立つべき場所はここであると。
どうか主よ、今一度この場所に御臨在を表して下さり、
聖なる主の前に跪きながら、
あなたは仰いでこの時を過ごすことができますように、
どうか導いて下さい。
お願いいたします。
御言葉を開いて下さいますように。
そしてまた痛んでいるお一人一人兄弟姉妹のこと、
どうか覚えて下さい。
自宅におられる方、施設におられる方、
ここに来たくても来れない方々、
お一人一人に主が望んで下さい。
お支え下さいますように。
お願いいたします。
これからの時を未定に委ねます。
どうか主が御言葉を開いて下さいますように。
期待をして、
イエス様の皆によってお祈りを致します。
アーメン。
裁きの意味
先週はお祈りいただきまして、
ありがとうございました。
赤城一丸教会で御奉仕をさせていただきました。
そして教会では、そのままその教会を会場にして、
午後から第3ブロックのファミリー礼拝というものが
開かれたんです。
いろんな教会の方々が集って、
そこで教会を越えた交わりがなされました。
宮谷教会からも先週は、
舞子の川教会の子ども会に参加させていただいたということもお聞きして、
すごく嬉しかったです。
徐々にですけれども、
教会を越えた交わりというのは確かに増えてきているように思います。
私は本当にそれがもっと増えればいいなと願っています。
教会というのはそれぞれの場所に立っていて、
違う歴史を持っているわけです。
けれども、どこの教会も、それは行動の教会であり、
神の家族ですね。
ですから様々な結びつきがなおも続けられることを願っています。
ただ、どうしても私たちが一緒に何かをしようとするときに、
そこには人と人との間を裂こうとする誘惑というのは
いつも現れてくるわけです。
イエス様はそのことを参上の説教を通して一つ一つ扱っておられましたが、
今朝イエス様が取り扱われる一つのことに目を向けたいと思います。
それは裁きというものです。裁きというものですね。
ただ七章の一節を見ますと、
裁いてはいけません。自分が裁かれないためですと書かれています。
イエス様が言いました裁いてはいけませんと。
ただ、新約聖書をよく読まれる方はお気づきかもしれません。
実は聖書の中には裁きなさいという言葉もあるんです。
ちょっとそこも見ておきますが、
第一コリントの五章の十二節というところ。
パウロの言葉です。
第一コリントの五章の十二節をお開きできる方だけでも大丈夫ですけれども、
ちょっと読みますとね。
第二コリントの五章の十二節。
外部の人たちを裁くことは私がすべきことでしょうか。
あなた方が裁くべきものは内部の人たちではありませんかという言葉があります。
これは裁きなさいということなのです。
どっちと思います。裁くな、裁け。
だからこそ、今朝まず最初にしなければならないことは、
裁くとはそもそも一体何を意味しているのかということです。
裁くとは一体何なのか。
そこから今朝読んでいただいたこの七章のイエス様のお言葉に少し入っていきたいと願っています。
三つのポイントで少し見ていきたいと思いますけれども、
一つ目のポイントは裁きとはそもそも何なのかということです。
裁きとは何なのか。
私たちは裁きということを聞きますと、何か怖いというイメージをよく持ちがちだと思います。
いわば神様が罪人を滅ぼすというイメージを私たちは互いに持ちがちでしょう。
しかし本来の裁きの意味はそれではありません。
本来の裁きの意味というのは、あるべき姿に正すということです。
裁きというのは歪んでしまった現実があるときに、あるべき姿に正すという働きが裁きということの意味です。
神様は歪んでしまった現実を裁くことによって戻そうとされる。
けれども注意しなければならないことは、それは滅ぼすことを目的にはしていないということです。
神様が裁かれる目的は、その物事を回復させようというのがその目的なんですね。
例えば、神様はこの世界を裁かれると聖書は語ります。
四辺の九辺の八節というところには、主は義によって世界を裁き、公正をもって諸々の国民を裁かれるという言葉があります。
主は義によって世界を裁き、公正をもって諸々の国民を裁かれる。
世界の王様ですね、神様はね。世界の王といわれる神様は、法律ではなくて御自身の義ですね。御自身の義に従って世界を裁かれる。
それによって、悪は討たれますし、貧しい人々や傷ついている人たちは慰めを受ける。
これは四辺の中でいろんな箇所で語られていることですね。
四辺の信仰者たちというのは、そういうふうに、それが目の前の現実には見えていなかったとしても、事実として神はこの世界の王であって、今もこの世界をそのように裁いているんだというふうに理解をしていました。
これは今の私たちにも大事なことかもしれません。戦争が起きている。
その中に神は果たして世界の王なのか、無力なのではないか、本当に裁いているのかと私たちは思います。
けれども、私たちは目に見える現実の先にある神様の現実を見たいと思うんですね。
神は変わらずこの世界の王であり、神の裁きの技は今も人を越えた力を通して働いているということを見なければならないと思います。
そしてもう一つ、神様は罪人を裁かれるわけですね。しかし滅ぼすためではないんですよ。裁きの警告というのは、食い改めへの招きですね。
旧約聖書のエゼキエール書の18章の30節というところはあまりにも有名なので、ただちらっと読むだけ読みますけれども、エゼキエール書の18章の30節というのはちょっとこういうことが書いてありますが、
18章の30節ですね。お読みしますとこういう言葉があります。
それゆえイスラエルの家よ、私があなた方をそれぞれのその生き方に従って裁く。神である種の言葉。
立ち返り、あなた方のすべての背きから身をひるがえせ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたが行ったすべての背きを、あなた方の中から放り出せ。
このようにして新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ、なぜあなた方は死のうとするのか。私は誰が死ぬのも喜ばない。神である種の言葉。だから立ち返って生きよということが言われています。
何が言いたいのか。神様は裁かれるのは、誰かが滅ぶことを願ってのことではないんですよ。立ち返って生きなさいというメッセージなんですね。
そのような神様の警告を無視し続けた結果、滅びが訪れるということなのです。
かつての北イスラエルや南ウダがそうでした。このために神様が何度も警告したということは、エレミア書というところを見たらよくわかることでしょう。
ただ神様の裁きというのは、罪人が滅ぶことを目的とはしていません。むしろ罪人が生き、罪人が立ち返って回復することを願っています。いつでもそうです。
教会の回復
そしてそこに見える神様の動機というのは、罪人に対する愛ですね。裁きの動機は愛なんですよ。
先ほどのパウロの言葉も、実はそれと同じような流れにあるのです。
神様は、パウロは教会の回復を願っているのですね。
コリント教会、この第一コリントの五章あたりを見ていただいたらわかりますが、コリント教会の中には当時、乱らな行いというものが行われていたわけです。
しかしコリント教会の内部では、実はその問題を取り扱わなかった。教会には明らかに問題があったのに、誰もその問題を責めはしなかった。
そのことに対してパウロがはっきりと言うのです。
あなた方が裁くべきものは内部の人たちではありませんか。
教会の中に明らかに神様の愛に背く、もしくは神様の御心を痛める問題が起きている時、その時に私たちは、それはおかしいよと言わなければならないのだと思います。
ただし、ただし、忘れてはならないことは、その言葉はいつも愛から出ているかということを私たちは忘れてはならない。
パウロのこの言葉も、あなた方は教会の中を裁きなさい。しかしその目的は回復なんです。
あいつが出ていけばいいとか、そんな話じゃないんです。
回復ですね。
罪を犯した兄弟姉妹の、そして教会の回復を願って裁きなさい。
このように裁きというのは必要なんですよ。必要なことです。
その目的はただ一貫してそれは、滅ぼすことを目的とはしていない、回復を目的としています。
そしてそこにある動機、神様の動機は、罪や過ちによって痛んでいるその人に、滅んでほしくはないという愛の動機から出ている。
そしてこれが本来の裁きのあるべき姿なんですよ。
裁きというのはそうあるべきだし、そのようになされるべきなんです。
ただ問題となるのは、私たち人間は互いに、私も含めてですけれども、時にこの裁きを歪んだ形で用いてしまうということです。
いわばそれは裁きが相手の回復ではなくて、相手の滅びを願って裁いてしまうということがある。
相手を愛するという動機からではなくて、相手に対する憎しみであったり、怒りから相手を裁いてしまうということがある。
裁きの基準
今朝イエス様がこの7章で扱われるのはそういうことなんです。
そのような裁きをもしもするのであれば、裁いてはならないと言っているんです。
ちょっと今日の歌詞に入っていきましょう。2つ目のポイントです。
ふさわしく裁くことができない私たちの姿があるということです。
ふさわしく裁くことのできない私たちの姿がある。
3条の説教を見ています。
イエス様はここで群衆を前にして語っているわけですが、その群衆たちというのはどういう人たちだったでしょうか。
その中には宗教指導者もいたでしょう。
宗教指導者たちというのは当時、貧しい人や病人という人たちを裁きました。
そういう穢れた人々は立法も知らないし、街道の礼拝には参加することができないんですね。
そのため彼らを見て宗教指導者たちは私たちこそ聖書を知っていて、正しい基準を知っていて、
この罪人であったり穢れた人たちは何も正しいことを知らない人たちだと言って裁いていたのですね。
しかしイエス様は言われるのです。
ちょっと短いので全部読んでしまいますが、7章の1節から5節を読みます。
裁いてはいけません。自分が裁かれないためです。
あなた方は自分が裁くその裁きで裁かれ、自分が計るその計りで計り与えられるのです。
あなたは兄弟の目にある塵は見えるのに、自分の目にある針にはなぜ気がつかないのですか。
兄弟に向かってあなたの目から塵を取り除かせてくださいとどうして言うのですか。
見なさい。自分の目には針があるではありませんか。
偽善者よ、まず自分の目から針を取り除きなさい。
そうすればはっきり見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除くことができますと。
裁くなとイエス様は言われます。
これは先ほど話した通り、裁き全般を禁じていることではないでしょう。
むしろ人々の間に蔓延する、いわば歪められた裁きを禁じているのですね。
この箇所を見るときに、何がその裁きを歪めてしまうのかというと、原因は一つだけです。
それは、自分の目にある針に目を向けず、相手の塵を取り除こうとするという姿勢ですね。
これによって、いわば裁きというものが大切なものなんだけれども、あえて言葉にするならば、独善的な裁きになってしまうということです。
私だけが正しくて、相手は間違っている。
この言葉ちょっと注目したいですが、ご存知の通り、塵というのは小さいですね。
針というのは、この教会いいですね。これ針ですよね。
教会の天井を支えているこの柱のこと、針ですよね。
一目瞭然で、これは大きさが違うのです。
イエス様は明らかに、塵よりも大きな針があなたの目には確かにあるんですよ、ということをここで言われているのです。
ただ、その表現というのは、それほど針が大きかろうとも、どれほど事実が大きかろうとも、
人というのは、自分自身の針の大きさや、自分自身の問題性に気づかずに認めにくいということです。
人間というのはそういうものだということです。これは私も含めてですけれども。
ただ、そのような認めにくい現実があるのですが、それをある種開き直りながら、私には針などありませんということを、
そういうふうに自分自身を絶対視して相手を裁いてしまうならば、それは歪んだ裁きになってしまうし、
何よりも、そういう態度というのは、あたかも神様のように裁きを下している姿なんですよ。
あたかも神であるかのように、自分が神であるかのように裁きを下してしまっている。
ただ、それこそまさに独善的な裁きと言えるかもしれません。
そして、罪人の最大の特徴は、自分を神だと考えるということですよね。
大切なことは何かと言いますと、完全な裁きを下せるのは神様だけです。
儀なる神様だけが、完全な裁きを下すことができます。
私たちは互いに重々理解しなければならないことは、人間は神ではないということです。
人間は神ではない。私も神ではありません。
互いに必ず限界があるお互いですし、失敗もするお互いです。問題を抱えているお互いです。
みんなにあって私だけにないということではないはず。私にもあります。
ただ、私たちは時に驚くほど、自分だけが正しくて周囲が全て間違っていると、よく考えがちなんですよ。
そして、誰かの信仰的もしくは道徳的失敗を目にした時に、それを理由に相手を見下したいという誘惑が、いつも私たちにはあるんですよ。
石破総理が叩かれているのを見て、ちょっとかわいそうだなとテレビを見ながら思います。
なんでこんなにみんな叩くのかなと。
誘惑があるわけですよ。
ただ、私たちは気づかなければならない。
もしもそのような誘惑にとらわれて、私がそういうことをしてしまうならば、それは自分を神様のようにしてしまっているんですね。
そのような裁きしかできないのであれば、相手の回復ではなく、相手を見下してしまって、
正しい裁きの実現
自分の義を立てようとするためだけに相手を裁くのであれば、裁いてはいけないということを言われているんです。
裁いてはいけない。
3つ目のポイントに入ります。
私たちは正しく裁かれる神のもとへ行かなければならないということです。
何度も申し上げますが、聖書は裁き全般を禁じているわけではないのです。
イエス様は、相手の目の塵を取り除くことをやめなさいと言っているわけではないですね。
目の塵は取り除いたらいいのです。
ただ、ふさわしい裁き、それこそ神様の御心にかなった裁きをするために、相手の目の塵を取り除くためには、まず自分自身の針をしっかりと認めなさいということを言われるわけですよね。
7章の5節に書いてあります。
偽善者よ、まず自分の目から針を取り除きなさい。
そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除くことができます。
改めて、私たちは自分自身を誠実に、他の誰かを指さすのではなく、自分自身のことを誠実に見つめるようにと招かれているのではないでしょうか。
ああ、私には塵どころか、針があるということ。
そして、私も限界のある一人の人間なのだということを認め、自分だけが正しいと考えていた独善性を、あたかも神のごとくさばえていた高ぶりを、私たちは恥じいらなければならないときがあるかもしれません。
難しいですけどね、感情にとらわれているときはバーッとそうなっちゃうことが、私もよくありますけれども。
でも、気づいたら、はずべきことだなと思います。
そして、それを行った上で、相手の塵へと向くときに、おそらくその人の中には変化が一つ訪れるのです。
それは、言葉を選ぶようになるのではないでしょうか。
塵を取り除くに関しても。
自分のことをもう棚には挙げません。一方的にも話しません。
そうではなくて、いやあなたを裁けることを、私も立派ではないんだ。
私も罪人なんだ。
そして、あなたが罪を犯してしまう理由も、私はよくわかる。
回復を願う裁きの重要性
けれども、神様の前にはそれは罪なんだと。
だから、どうか私と一緒に、神の御前に出てくれないか。
神の御前に一緒に出てくれないか。
そのような言葉になるのではないでしょうか。
相手の罪の痛みが自分にもあるのだということを、共感をしながら。
そして、相手を愛しながら、相手の滅びじゃない、相手の回復を願いながら、
共に神様の前に行こうよと招く裁きですよ。
共に神の前に行こう。
それは、まさに回復を願う裁きの姿。
けれども、それは神様の願われる裁きのあり方ではないでしょうか。
私たちは正しいことを知っているんです。
聖書の言葉は正しいんですよ。
だから、私たちは正しいことを知っているし、
人と話していても、何を言っても、これが正しいよねということはわかっていたりするわけです。
でも、愛の伴わない正義の言葉はいつでも人を傷つけるものだと、覚えておかなければならないと思います。
愛の伴わない正義の言葉はいつでも人を傷つけるですね。
それは、相手を傷つけてしまったら、相手は悔い改めないですよ。
ヤコブの手紙というところにこういう言葉があります。
四章の十二節というところに。
立法を定め、裁きを行う方はただ一人で、救うことも滅ぼすこともできる方です。
隣人を裁くあなたは一体何者ですかという言葉があります。
ヤコブの四章の十二節というところです。
正しい裁きを行える方はただお一人ですね。
私たちのできる裁きというのは、
塵がついている、罪に陥っている相手をあるべき姿に正していくために、
共に神様の前に食い荒らために行こうということです。
共に神様の前に食い荒らために行こうよと。
相手を愛してです。
決して怒りだとか何かではなく、相手を愛してですね。
そしてそれが教会を癒し、回復させていく道筋ではないでしょうか。
イエス様はいつも人々の、そして忘れてはならない、
イエス様はいつも私たちの回復を願っておられるんです。
私たちが滅べばいいなんて思っていないんですよ。
もうありますが、新約聖書の最後のヨハネの黙示録というところがありますが、
黙示録にはイエス様が再臨される時、
神天神地が訪れ、そこで私たちは神と共に世界を治めるようになると書いてあります。
黙示録の五章の十節というところにそういう言葉があります。
私たちは、よみがえった後、神様と共にこの世界を神天神地を共に治めるんですよ。
それは言葉を変えるならば、神と共にこの世界を治くんです。
私たちの裁きの技、私たちが誠実な裁き、回復を願う裁きの技を訓練されていくというのは、
将来神様と共にこの世界を治めるため、この世界を裁くための訓練ですね。
でもイエス様はそのために私たちを回復させ、そして相手を回復させてくださいます。
今朝の御言葉というのはその回復への招きです。
決して厳しく私を責め立てているというだけでおりとらないでください。
神様は回復を願っておられる。
そして私と共に世界を裁こう、世界を癒すために。
そして不正に耐え続けて傷んでいる人たちを慰めるために。
正しい裁きを身につけなさい。
その招きとして今朝の三節の御言葉を受け止めたいと思います。
あなたは兄弟の目にある塵は見えるのに、自分の目にある針にはなぜ気がつかないのですか。
針を取り除きなさい。
初めてそれで相手の塵を言うことができるのです。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。