神への祈り
それでは、一言短くお祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今日も私たちを主の御前へと招いてくださり、
ご一緒にあなたを仰いで礼拝ができます幸いを感謝を致します。
気候が落ち着かない中にあって、私たちもまた身体的にしんどいそのところにありますけれども、
あなたの支えによって共に集っておりますし、
また私たちがどういう状況にあろうとも、
あなたの永遠のカイナは常に私の下で支えているという、
そのことを覚えて本当にありがとうございます。
神様、あなたは私たちを愛し、
巫女イエス・キリストを十字架に捧げてくださいました。
巫女イエス・キリストの流された血を、
それによって私たちを完全に罪許し、
神のことし、
三日目に甦えられた復活の命、
永遠の命を私たちに与え、
永遠なる主と共に生き、
この世界にあなたの御国を築くという、
本当にそのような幸いな歩みへと私たちを招いてくださいました。
あなたはもはや自分の足で立つのではない、
私の恵みによって歩みなさいと、
あなたは強め続けてくださることをありがとうございます。
どうか今日も御言葉を主が開いてくださいますように、
特に今日ファミリーウェルカム礼拝です。
御言葉が本当にそのお一人一人の胸に届くことを願います。
どうか主が働いてください。
お願いいたします。
世界に本当に多くの争いがあり、
私たちは多くの不安の中に取り囲まれる中にありますが、
あなたを信じるならば、
立っていくことができることを信じます。
どうか私たちを強めてください。
お願いいたします。
ここに来たくても来れない方々、
施設で礼拝を守っておられる方、
お一人一人のことを覚えています。
どうか主がそのお一人一人を慰め、
支え続けてくださいますように、
お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。
主がどうか私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
不安の時代の生き方
ファミリーウェルカム礼拝にようこそおいでくださいました。
この礼拝では普段よりもできるだけ分かりやすくと自分に課しながら、
そうなるか不安ですが、
少し様々な身近なテーマについて、
聖書の言葉に聞こうと願っております。
今朝テーマを一つ挙げるとするならば、
不安の時代をどう生きるかということになるでしょう。
不安の時代を私たちはどう生きればよいのか。
といいますのも、
最近ですね、私もいろいろな人と話しながら、
将来に対して前向きな話っていうのはあまり聞かなくなったなということをつくづく感じるんですね。
むしろ不安の声を聞くことが多いように思います。
物価が高騰してお米が高いっていうのはだいぶ深刻な問題ですね。
AIが台頭して仕事は取られるんじゃないかという不安があります。
気候変動、この5月にこの寒暖差ですっかり体をやられちゃいましたっていう人の話もお聞きします。
また私たちは世界の現状、戦争が続いているところを見れば、
ウクライナ、ロシア、イスラエル、パレスチナ、インドとパキスタンがこの前起きようとしました。
続いたら台湾有事が併発する、そしたら日本も無関係じゃないよなという、そういうことを思う。
不安の種というのは実につきません。
それは大きなところですが、私たちは個々人で生きていたとしても、それぞれの生活の中には不安がある。
時に病であったり、いろいろなことがある時に、
私たちは実に多くの不安に囲まれながら生きている。
そして37歳の若造が言うのは相応しくないかもしれませんが、
人が生きて死ぬってのは本当に大変だなとつくづく思う時があります。
しかし実は今日読んでいただきましたこの「使徒の働き17章」、
これはおそらく今からおおよそ2000年ぐらい前の時代ですが、
2000年前の時代も実は大きく変わりません。
人々は変わらず不安な時代の中を懸命にどう生きていけばいいのか、
むしろその時代の状況に流されず、よく生きるとはどういうことなのかということを悩み続けていました。
ただ今朝の箇所は、そのように生きている人たちの中にキリスト宗教の伝道者のパオロがひょっこり入ってですね、
ちょっとその話に私も加えていただいていいですかと入っていく、そのような話です。
ここから私たちもパオロが語るキリスト教のこの時代の生き方、
そのことを少しご一緒に見たいと思っています。
3つのポイントで今日お話をいたします。
1つ目のポイントは、この不安の時代を私たちはどう生きるかという人々のうめきです。
この不安な時代をどのように生きるかという人々のうめきがあります。
パオロが迎えましたのは、ここに書いてますがアテネですね。
当時古代のギリシャにおいて中心都市がアテネでした。
ギリシャの文化であったり哲学の集中するのがアテネですね。
そこでパオロは町の街道というユダヤ人の教会みたいなところで語り始めるんですが、
ここには、なかなか聖書では見ませんが18節のところにエピクロス派とストア派の人たちが集ったということが書いてあります。
ご存知の方もいらっしゃるでしょう。これはギリシャ哲学の一派ですね。
パオロの時代も実に不安な時代でありました。
世界は一度ギリシャによって、ご存知でしょう。アレクサンブロスによって世界はギリシャ一色になったわけですが、
しかしそのギリシャ世界はその後ローマ帝国に上塗りされていきます。
ある種世界のイニシアチブが刻々と変化していく中で、人々は戦争もたくさんあるわけですよ。
いろいろな危機にも危害もあるわけです。
でもその中で、その状況に流されない人間本来の良い生き方、人間はこう生きるべきだということを考え続けていきました。
例えばストア派の人たち、彼らが信じていたことは、禁欲をすれば私たちの心の平静は守られるということでした。
人の心が揺れるのは欲望によるんだ。
だから様々な欲に振り回されずに、私たちは心の平静を保ちましょうねと言ったのがストア派でしょう。
しかし、皆さんよくご存知かもしれませんが、平静な心を保とうとしても、でも揺さぶられることはあるんです。
戦争が目の前で起きた、そこに行かなければならない、病になった死が訪れる。
心は平静ではいられない。
だからエティック・ローサ派という人たちはこう考えました。
いや、人間は死んでもただ原始に戻るだけなんだから。
人間が死ぬってことは自然なことなんだから。
だからそんなことを恐れずに、むしろ恐れにとらわれずに、楽しいことはいいことのはずだから楽しく生きていきましょう。
というのが、ちょっとすごく雑な説明ですが、エピクロス派の理解です。
どちらも説得力があります。
というか、日本でも今でも聞きます。
いや、いろいろな欲から離れて、私たちは心穏やかに生きましょう。
いや、人間は死んだってどうせ自然に帰るだけなんだから。
しかしそのようなところを考えている人たちの中に、パウロは入っていって、18節にありますが、彼はイエスと復活を述べ伝え始めるんです。
イエスと復活を述べ伝え始めました。
このパウロの話は、ギリシャ人からすると初めて聞く話でして、
彼は19節にありますが、アレオパゴスというところに連れて行かれます。
これは小高い丘の上にある劇場と言われます。
そのところに連れて行かれて、評議会が開かれて、その評議会の真ん中にパウロは立たされるわけですね。
アレオパゴスでの説教
目の前には哲学をたしなんでいる多くのアテネの群衆がいます。
違法人たちもいます。
その人たちがパウロは一体何を語るのかということを注目している。
それがこのパウロの演説のシーンですね。
実に私たちが生きて死ぬってどういうことなんだろうということに考え飢えている人たち。
これは今も私たちも変わりませんが、そのところでパウロは語り始めるのですね。
じゃあ彼は何を語り始めるのか、二つ目のポイントです。
彼が語るのは、あなた方の神はこのような神であるということを語り始めるんですね。
実はパウロの言葉は今朝の22節から始まってまいります。
実に丁寧に丁寧にパウロは語り始めます。
22節から23節の言葉を読むとこういう言葉ですね。
パウロはアレオパゴスの中央に立って行ったアテネの人たち。
あなた方はあらゆる点で宗教心に熱い方々だと私は見ております。
道を通りながらあなた方の拝むものをよく見ているうちに、知られていない神にと刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。
そこであなた方が知らずに拝んでいるもの、それを教えましょうというのですね。
あなた方はこの時代どのようによく生きたらいいか求めていますよね。
そしてきっとその良いことのモデルとして多くの神々をあなた方は持っている。
ギリシャ神話をご存知であればたくさん神々がいることを知っていらっしゃるでしょう。
しかしその中には知られていない神にと刻まれた標があった。
あなた方がそのように刻むのは、人間が拝むべき本当の神様はどのような神であるのかおぼろげには見えているんだけれども、
しかしそれがおぼろげにしか見えていないのであるならば、私がはっきり教えしましょうと言い始めるんです。
神の本質の探求
あなたがおぼろげに神ってこんなんかなと思っているのは、私がはっきり教えようと言うんですね。
彼が語るのは24節から25節です。
神はどういうお方か。24節から。
この世界とその中にあるすべてのものを作りになった神は天地の主ですから、手で作られた宮にお住みにはなりません。
また何かが足りないかのように、人の手によって使えられる必要もありません。
神ご自身がすべての人に命と息と万物を与えておられるのですからと、
アテネという町は数多くの神々の像がありました。ギリシャ神話の主神は雷の神ゼウスです。
そしてそれだけじゃありませんで、海の神、木の神、いろいろな神様がギリシャ神話にはいます。
日本もちょっと似てますね。
日本の神官もいわば半神論って固い言葉で言ったらそうです。
あれもこれも神様。
もしくは日本だと徳の高い人が天地で神様になるっていうこともよくあることでしょう。
しかしパウロは、神はそういうお方ではないって言うんです。
そういうお方ではない。
神はこの世界とその中にあるすべてのものをお作りになった神、いわば世界のすべての創造主である神様。
そしてそのお方は天地の主だと語る。
天地の主だと語るのは、まさにこの作られた世界を今も保ち、そして治めておられる神様なんですよということを語るわけです。
しかもパウロは神という言葉を単数形で語りますから、神というのはあなたたちが思うようにたくさんいるわけではない。
神は唯一の神なんだということをはっきり語るのです。
そのようなたった一人であって世界を作って世界を治めているような、そういう力強い神であるからこそ、神というお方はあなた方に使えられるほど無力な神様ではないということをはっきり語る。
神との関係
神は無力ではない。
ちょっと話が取れるかもしれませんが、旧約聖書の預言者にイザヤという人がいます。
彼が、箇所でいうとイザヤ書の46章の1節から4節というところにあるんですが、彼が預言者の中でこういうことを批判するんです。
ある国で戦争で負けて、その戦争で負けた国の神々が違う国に引っ張られていくわけです、神の像が。
もしくは戦争があると自分たちの神を守ろうとして、その神様を担いで逃げていく人たちがいるわけです。
イザヤがそういう人たちを見て、こういうことを言うんです。
運ばれなければならない神が、あなたを運ぶことが本当にできるのかと言うんです。
運ばれなければならない神が、あなたを本当に運ぶことができるのか。
余談ですが、私は高校生の時から仏像が好きでして、そんなことでずっと間違えるかもしれませんが、仏像が好きなんですよ。
高校生の時、一人で京都に行きまして、配管料払って仏像を見に行ったことがあります。
仏像の前に座ると、すごく心が落ち着くんですね。
私、クリスチャンじゃなかったら100%手を合わせているような、そんな気持ちになります。
拝みたくなる気持ちっていうことはすごくよくわかるんです。
ただ、同時にクリスチャンである私がその時にいつも頭にあるのは、イザヤの言葉なんですよ。
運ばれなければならない神が、あなたを本当に運ぶことができるのか。
神を信じると一言で言うならば、
私の人生を、私の命をこのお方に担ってもらいますという告白ですよね。
神を信じるというのはそういうことです。
私の人生を、私の命をこの神様にお委ねします、になってもらいたいですということですよね。
パウロは語るんです。
神様というお方はたくさんいるわけでもなくて、そこら辺の像にあるわけでもなくて、
神というのは善能であって、そしてこの続けて書かれている言葉を見るならば、
全ての人に命と息と万物を与える神であるということを呼ばれる。
神は力強く、そしてここで重ねて言われるのは、神は与えられる神である。
あなたたちに命と息と万物を与える。
人間から奪うことを目的にする神ではない。
まことの神は与える神である。
人間に命を与え、命を保つ力を与え、命が生きるための世界を担い保たれる神様である。
そのような神こそが、あなたたちの人生を担うにふさわしい神なんじゃないんですかということを、
彼は問いかけるんですよ。
そういう神じゃないとおかしいんじゃないですか。
そしてこのパウロの演説はクライマックスへと入ってまいります。
3つ目のポイントです。
そのような神がいるのだけれども、私たちが知らなければならないことは、
そのような神の中に私たちのすべてが包まれているということです。
そのような神の中に私たちのすべてが包まれている。
パウロはそこで神様について語りますが、
この神は人間に何を期待しているのでしょうか。
26節から30節まで読んでしまいますが、
彼の後半ですね、こういうことを彼は語ります。26節から。
神は一人の人からあらゆる民を作り出して、地の前面に住まわせ、
それぞれ決められた時代と住まいの境をお定めになりました。
それは、神を求めさせるためです。
もし人が手探りで求めることがあれば、神を見え出すこともあるでしょう。
確かに神は私たちの一人一人を遠くから離れておられません。
私たちは神の中に生き、動き、存在しているのです。
あなた方の家にある詩人たちも、私たちもまた、その子孫であると言った通りです。
そのように私たちは神の子孫ですから、神である方を金や銀や石、
人間の技術や考えで作ったものと同じであると考えるべきではありません。
神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、
今はどこででも全ての人に悔い改めを命じられておられます。
そこまでにしますが、パーロが語っていること、まず最初に彼はこう言うんです。
一人の人からあらゆる民を神は作られた。
これは聖書の創世記に書いてある話です。
世界の始まりはアダムとエバという二人から始まった、
聖書を書きます。
ただ、その子孫は世界中に広がっていって、今や国籍も文化も違う。
でも、私、今世界を見回してもそうですけれども、不思議なことに、
そうじて人間は神を求める。
宗教は違うかもしれません。
現れ方も違うかもしれません。
しかし、そうじて人間は神を求めている。
それぞれの国に宗教があり、神を信じたいという願いを人間というものは持っている。
神が求めさせているとパーロは語るんです。
イワシの頭も新人からと日本人は言いますが、しかし、それでも神を求めるんです。
何か神がいなければおかしいと人間はどこかで思いを求めていく。
私たちの生の全て
現代はこの考えがだいぶ崩されてしまった時代でもあります。
ちょっとだけ部屋越しの話をしますと、近代哲学者のニーチェは神は死んだと言ってしまいました。
それは結局神様というのは、抑圧された弱い人間が救いを求めて生み出した幻想なんだと彼は言ったんです。
神なんか考える必要もない。
どうせ傷ついて弱っていった人間が何か救いを求めて生み出した幻想なんだとニーチェは言ってしまいました。
その彼の言葉は今なお響きます。
宗教というのは弱い人間がすることなんでしょう。
宗教というのは救いを求めている人だけに関係することなんでしょう。
でも神様がいないって考えるのであれば、私たちの存在はただ生まれ死ぬだけの意味も目的もない。
人間はそんなもんだと言っているようなものです。
果たして本当にそうなんでしょうか。
そうではない。そうではない。
神は人間に神自身を求めさせるお方です。
神を私たちは求めている。
パウロは語るんですね。
そういう人間のことを合わせて、私たちは神の中に生き動き存在していると。
私たちは神の中に生き動き存在をしている。
この言葉はややこしいかもしれませんが、ギリシャの詩人の引用の言葉なんですね。
エピメリデスというギリシャの詩人の言葉です。
ただ、この言葉の中には、ちょっと哲学好きな人はわかるかもしれませんが、ギリシャ哲学特有の言葉が混ざっています。
存在というのはギリシャ哲学の大事なテーマです。
いわば人間はどこから来たかです。
人間のこの世界の大元は何なのか、存在の問題です。
人間はどこから来たのか。
そして動きというのも哲学の中では大事なんです。
これは生成とも言われますが、人間は動いて、じゃあ世界の存在は動いてどこに向かうかです。
いわばこの世界や人間は何からできていて、この世界の人間は世界に一体どこへ向かっていくのか。
しかしパウロがはっきり語ります。
それは神の中に全て包まれている。
人間がどこから来てどこへ行くのか。
いわばそれは言い換えれば、私たちの生の全てと言っていいかもしれません。
私たちの生の全て。
しかしそれは神の中にある。
どこから来てどこへ向かうかわからない私たちの生の全て。
考えてもわかりません。
どこから来てどこへ行くのか。
しかしわかりきれない私たちの生の全てを、この神というお方は抱え包んでくださっている神なんだということをパウロはここで語るんですね。
私は哲学も関心があります。
神への信頼
哲学の営みはとても大事だと常々思います。
しかし同時に思います。
人間は全ては知り得ないんですよ。
人間は全てを知り得ることはできない。
でも確かなことは、全てを知り得ない私たちを神は愛しておられ、私たちの生の全てを受け止めてくださっている神であるということです。
そのような神がおられる。
だからパウロは三十節に書いてありますが、悔い改めなさいと語ります。悔い改めなさい。
悔い改めるというのはこれは方向転換です。悔い改めるというのはあなたの方向を変えなさいということです。
あなたの人生を本当に委ねることのできる神様、その神は、神である方、そのような神、担う神、あなたの人生を担う神を、金や銀や石、人間の技術や考えで作ったものと同じだと考えるべきではない。
あなたの人生を委ねる相手をあっちゃこっちゃ向かずに、この方だと定めなさいと呼ばれきです。
さて、そして十三十一節にこのような言葉を彼は最後に語ります。
なぜなら、神は火を定めてお盾になった一人の方により、義をもってこの世界を裁こうとしておられるからです。
神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになりました。
一人の方、一人の方というのはこれはイエス・キリストですね。
イエスはそもそも哲学者たちに何が語りたいのか、イエスと復活を彼は述べ伝えたのです。
聖書の福音書にイエス様は出てきます。
神の義という言葉がありますが、それは神様が願う良い生き方をイエス・キリストは表し、そして世界に神の愛を実現していったということですね。
イエスは十字架で死にますが、神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証のすべてを人にお与えになった。
復活が意味するのは単に死人がよみがえりましたすごいという話ではありません。
復活というのは、神がこの人を忠実なものとして認めたという確証なんです。
言い方を変えるならば、よみがえったイエス・キリストは確実に神の前に正しいものであったということが言われているわけです。
いわばイエス・キリストの生きたその生き方も。
そしてイエス・キリストは聖書では、よみがえって天に昇って、今や世界の王になったということを語りますけれども、聖書はイエス・キリストこそがこの世界の誠の王になったと今でも語ります。
そして私たちが神を信じるというのは、簡単に言うならば、このイエス様が私の人生の主人ですと告白する。私の主ですと告白する。それだけですね。
不安な時代の中で
もう終わりますが、カーロのこの話を聞いて、ある人々は嘲笑いました。はっきり聖書にこう書いてますね。ある人々は嘲笑いました。ある人々は続けて聞いてみようと思いました。
そして何人かの人は信じました。こういうことを言ったらいいかもしれませんが、今もこれは変わらないですね。聖書の話を多分どこで語ったとしても、教会に来てすぐ神様を信じる人がいます。一方、30年いても神様を信じない人もいます。
ただ、決まって私が言いたいこと、もしくは申し上げていることは、この神を信じるべきかどうかは信じ始めなければ決してわかりません。この神を信じるに値するかどうかは信じ始めなければ決してわかりません。
本当に神は全地を治めて私たちを支えてくれるの?でもそれは外側からいくらかその証拠を集めているだけではわからないんですね。今朝の私たちがご一緒に受け取る御言葉は、私たちは神の中に生き、動き、存在している。
私はどこから来てどこへ行くのか、私という命その存在が、いや関係ないよと、私は私で生きているんだからほっといてくれという世界もあれば、いやそのあなたを包んでいる神がいるんだよと言われるときに、私はお願いですが、神の懐の中に飛び込む勇気をどこかで持っていただきたいと思います。
勇気が必要なんです。でもそれをどこかで持っていただきたいと願っております。不安の時代を私たちは生きていきます。そしてあれもこれもわかりきることなんかできません。
思考停止になってはいけませんが、けれども私たちがなおもその時代を生きることができるのは、それでも私はこの神の守りの中に生きているという、その大きな支え、平安ではないでしょうか。
どうかそのような神様を握っていただけたらと思います。お一人一人がこの時代の不安に押しつぶされることなく、神の中で良い人生を歩み切ることができますように、そのことを願っております。一言お祈りをしてメッセージを終わります。