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2021-04-11 47:21

2021/04/11:創世記(13)ノアと家族の救い、私と家族の救い

2021/04/11 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -22


00:00
みなさんおはようございます。
今日もいろんな状況の中で、主が私たちを守ってくださって、共に集まって低廃できますことを心から感謝いたします。
2週間ぶりに創世記に帰ってきました。
ノアの話が続いていますけれども、今日はノアの救い、その家族の救い、
また、洪水の神の審判、それから救われたこの出来事を通してですね、
まず私たち自分自身、一人一人の救い、ことに家族の救いに対して、神の知恵を、神の心を共に悟り知り、またお受けしたいと思います。
今年度の兵庫と御言葉が、今こそ家族への伝導と信仰継承を1年目であります。
そしてその御言葉、使徒の働き、16書31節の主イエスを信じなさい。
そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。でございます。
今日のですね、この後半に行って、使徒の働き、このピリピレの話もね、一緒にお話したいなと思っております。
神様はノアの時代、当時堕落した世代の中で、ノアとその家族をお選びになりました。
ノアは正しい人であって、神の心にかなっていたものでした。
そしてノア一人だけではなくですね、その奥さんも子供さんもお嫁さんもみんな、同じくこの洪水の侵犯の中から、滅びの中から救われました。
この葬石をですね、前後読みますと、ノアが箱舟を作ったこの期間がどれぐらいなのかは、それについて書かれていないんですね。
それが大事なことではないんですけれども、ノアの年あるいはその後から出てくる経済から推定することもできるかと思いますが、
大体80年から100年ぐらいはかかっただろうと言われています。
ともかくですね、100年としても80年としてもですね、ノア一人でその大きい箱舟を一人で作ったわけではないと思います。
きっとですね、その奥さんも息子3人もあるいはお嫁さんたちもね、お手伝いをしたと思いますね。
03:02
ノアもその家族も神様が言われたこと、この堕落したこの地のすべてのものを捌く、すべては消え去る、大洪水が起こるという神の言葉を信じたわけですね、受け入れたわけなんですよ。
もしね、ノアは信じたんだけれども、その奥さんも息子3人もお嫁さん3人もですね、ノアのように信じなかったならば、箱舟に入らなかったと思いません?
入らなかったと思うんですよ。 でもみんなノアと同じくその家族は箱舟に入ったわけです。
まあそのことについてですね、聖書は全部すべてを網羅して細かく書いているわけではないんですけれども、この箱舟を作った、そしてそこに入った、守られたこと、そこからですね、私たちはノアもその家族も神の御言葉を信じて、そして大洪水の侵犯が起こること、今までそんなことはなかったんですけれどもね、
経験したこともないことですが、その洪水が起こることを信じて、備えて、一緒に箱舟を作って、そしてそこに入った。そして今日ね、読んでいただけましたように、洪水が全部終わって、家族みんな箱舟から出てくることができた。
彼らの行動から結果的にですね、彼らは信仰を持っていたに違いないと思います。
ノアが600歳の年に大雨が降り続いたわけですね。
葬式を見ると、600年目の第二の月の17日、大いなる淵の源がことごとく裂け、天皇水門が開かれたとあります。
もうこの土からですね、地面からも裂けて、水が湧いて噴出して、また上からもですね、大雨が降り続いたと思います。
それで、7章11節を見ると、ノアの洪水は今申しましたように、ノアが600歳の時の2月17日に始まった。
で、雨が止んでですね、箱舟から出たのはいつですか。
今日の8章13節を見ると、601年2月27日、だからもう1年と1ヶ月ぐらいなんですね。
06:08
もう一度申しますと、ノアとその家族は一緒に神の命令に従いました。
箱舟を作りました。 箱舟の中に入りました。
もう一度申しますが、もしノアは神の命令、御言葉を信じたんだけれども、その家族は信じなかったならば、
たぶんね、家族はその箱舟を作ることもしなかったでしょうし、その洪水の審判を信じなかったでしょう。
箱舟の中にも入らなかったと思うんです。
なぜなら、ノアの家族の他のすべての人がそう信じなかったからです。
箱舟の中に入らなかったんです。誰も入らなかったんです。
もしも少しでもですね、ノアの話やノアがやっている、100年も作っているから、
ノアの、例えば普通の人間ですから、ノアの隣さんも、
ノアさんが毎日のように山の方に行って作っていることをわかるんじゃないですか。
友達もいたわけですし、周りに人々がたくさんいるわけなんですよ。
砂漠にノアの家族しかいないわけじゃないですからね。
皆さんの隣の誰々さんがいるように、ノアも普通の人間ですから、
ノアさんの家の周りに人々が住んでいたわけなんですよ。
100年も同じことをやっているノアを見てですね、もし少しでも関心がある人がいたならば、
なんか最後の最後でも駆け込みみたいにですね、箱舟に入れてもらえませんか、みたいな人がいたかもしれません。
でも誰もいませんでした。信じなかった。
誰も信じなかったわけなんです。ノアとその家族の他には。
結果的にはどうなりましたか。本当に神の御言葉通りに大洪水は起きました。
地のすべてのものは消え去りました。人も家畜もすべて。
命のあるすべてのものは、ノアの箱舟の中にいるもの以外のものはすべて滅ぼされました。
ノアは救われました。その家族も救われました。
ノアもその家族も神の御言葉を信じて、その命令に従いました。
だから彼らはみんな、この洪水の審判の中で命が守られたということなんです。
この出来事を覚えておいて、また私自身に当てはめていきたいと思います。
09:06
ここから私たちは、私たちの救い、家族の救いことを今日はですね、真剣に一緒に考えてほしいなと思うわけですけれども、
自分の救いと家族の救いに対して、こういうことを知ることができます。
その1、ノアとその家族を選ばれたのは、神の主権であるということです。
誰を救うか、それを定めるのは、神の御心です。
神の領域なんです。私たちの領域ではない。
神様が御自分の心によって、救われるものをお選びになる。
定める。そして救いに導いてくださる。そしてやがて神の時に救ってくださるということなんです。
ノアが選ばれたの、神様がノアを選ばれたこと、その家族を選ばれたこと、それは神様の完全なお選びです。
そしてこのお選びには、間違いがありません。失敗がありません。
あるいはですね、漱石の11章後半、12章に出てくる、アブラムもそうではないですか。
アブラムのお父さんは偶像を作る職人ですよ。
今風に言うならばですね、神社を作る人と一緒なんです。
お釈迦様の仏像を作る人の息子さんなんですよ、アブラムはね。
そのカルデアウルというのは、そういった違法の町で偶像の町なんです。
でも神様は不思議に思いますよね、その町の中でアブラムをお選びになりました。
神の主権である、神の領域である、神の御心によるものであるということなんです。
ですから皆さん、私たちが自分自身の、皆さんもそういうふうに考えておられると思うんですけれども、
自分自身の救いについて考えるとき、あるいは皆さん長い間本当に家族の救いのために、
友人や知人の救いのために祈って祈って皆さんおられるんじゃないでしょうか。
その時に覚えてほしいことがあるんです。
それは、神様が救われるものを選んでくださる。
神様がその人を救いに導いてくださる。
神様がその人の心を開いてくださる。
その人を神様が救ってくださるということなんです。
だから、救いの始めもそのプロセスもすべて、救いの完成も神によるものなんですよ、皆さん。
12:08
そうではないでしょうか。
だから皆さん、まず皆さん自分自身の救いについて考えてみてください。
だから、なぜ私が救われたのか、なぜ私が選ばれたのかを考えるときに、
その恵みに、哀れみに、選びに、もう感謝しかないんですね。
なぜ私が選ばれて、なぜ私が救われたのか、わからないんです。
この世の中で、この数多くの人々の中に、なぜ私が選ばれて、なぜ私が救われたのか、
なぜ不思議に私が神を信じるようになったのか、ある意味ですね、わからないんです。
信仰も救いも、イエス様を受け入れたこともですね、自分の中から出たものではないんですね。
もう、救いもすべて神様から来たものであって、天から来たものであって、だから、
ただ与えられた賜物なんですよ、プレゼントなんですよ。
だから恵みであり、感謝ではないでしょうか。
そういうふうに、まず救われた私たちを選んでくださった神様が、救いに導いてくださった神様が、
私たちの家族、友人、知人、親戚の方々を救ってくださることを期待して祈っているわけであります。
僕次第である私自身もですね、子供の信仰だけではなく、私も向こうに行ったら兄弟がいますし、
ハンナも兄弟が、お兄さんが3人もいますけれども、親戚のことを考えるときに、まだ救われていない親戚の人がまだまだいるわけなんですよ。
それもですね、ある意味で重荷なんですね。皆さんもそうでしょう。
なんとかですね、伝導ができるように、できるチャンスがあれば伝導をしたり、本当に皆さんのように毎日毎日家族や親戚のためにですね、祈ってはおりますけれども、
そんな中で本当に私たちは神様に期待するしかないかなと思うんですね。
私を選んでくださった神様が、私を救ってくださった神様が同じく、いや、もっと素晴らしく、私の家族、友人父親を救ってくださるように、諦めず、主に期待して祈っていきたいと思います。
15:09
2番目、このノアとその家族の救いについてですね、話をするときに、これはちょっとここが誤解しやすい部分があるかなと思いますね。誤解しやすい部分。
それは、ノアは聖書に書かれている通り、彼は正しい人であって、義人であって、神の心にかなった。いわゆるね、神を信じたから、彼は救われた。
でも、家族はノアのためにおまけで救われた。ノアが救われたから、家族は実は信じなかったんだけれども、ノアが代表で信じたから、家族は信じなかったんだけれども、おまけで、サービスで救われた。ついでに救われたみたいに。
それは誤解なんですね。だからね、たまにそういう甘い思いをする人がいるかもしれません。
うちの家族で私が代表で救われたから、私の家族は自動的に救われるだろう。天国にみんな行くんじゃないかと。信じなくてもね。これは誤解なんですよ。
まあね、家族が救われてほしいからという、まあ思った、漠然とした期待感かもしれませんけれども、決して聖書はそういうふうに言っていません。
救いに関してとても大事な法則があります。それは、救いは自分と私と神様の一対一の関係で起こることなんです。
私が神様を信じて、私がイエス様を救い主として受け入れて、救われます。
それで終わりなんです。
それがお父さんであろうが、お母さんであろうが、子供さんであろうが、その家族は、また彼は彼女はそれぞれ神様と一対一で、神様を信じてイエス様を救い主として受け入れるときに、その人はまた個人的に救われるということなんです。
決して私が救われたから、家族もおまけでついでに救われることはありません。
もちろん、私の信仰が、私の家族に影響を与えることはあります。
あるいは、私が進めて、誘って、教会に来ることもあります。
これはとてもいいことであって、素晴らしいことであって、これからももっともっと皆さんがやってほしいんです。
家族とのために祈ること、教会にイースターのときに、あるいはクリスマス、あるいは今日みたいに礼拝にね、一緒に礼拝に行きましょうとですね、誘って一緒にお連れすることは、とっても素晴らしいことであります。
18:05
それが伝道の始まりであります。
ところが、私は私の信仰で救われます。
友人は友人、知人は知人、家族は家族を、その一人一人はその人に信仰があるなら、その人は自分の信仰によって救われます。
これ、間違ってはいけませんよ、皆さん。
ついでにおまけで救われることはないんです。
そういうふうに、ノアも神様を信じて、彼の家族も神様を信じたから救われた。
私も私の家族も同じく、個人個人が神様を信じて、
神の裁きを信じて、イエス様が救い主であることを信じて受け入れて、それぞれ救われるということです。
だから、このノアの記事はですね、このストーリーはですね、はっきりした聖書の真理を教えているとても大事なことなんです。
それは、信じる者は救われる、信じない者は滅ぶ、この永遠に変わらない、この真理をとても明快に物語っている話が、
このノアとその家族の救い、そして大洪水の侵犯の話なんです。
信じる者は救われる、信じない者は滅ぶ。
ところが、そう見てですね、一つの疑問が生じたりするかもしれません。
それはね、神様は果たして人々を救いたくて、救うのか、もう滅びたくて、裁きたくて、救うのか、どっちなのか、みたいなね。
こんな怖い大洪水の侵犯みたいなものをしなくてもいいんじゃないか、みたいなね、思いが我々にあるかもしれません。
そしてね、ひょっとしたらですね、こういう聖書を読んで、いやもうね、キリスト教の神様は怖い神様なんだよ、こんな怖い神様なんて、もう嫌だ、もう。
それでですね、やめるかもしれません。
しかしそうではないんです。
結論から申しますと、神様はすべての人が救われることを望んでおられます。
アメですか、皆さん。
聖書一箇所を開きましょう、皆さん。
新約聖書の第一手もて、二章四節。
21:05
よろしいですか。
手もての手紙第一、二章四節。
新しい聖書の419ページ。
私が読みしますね。
神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
もう一度。
神はすべての人が救われて、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。
アメ。
これなんですよ、皆さん。
神様をもう滅ぼすために、じゃなくてですね、一人でも多くの人が、すべての人が救われる。
私たちの皆さんの家族のみんなが、友人、知人、周りの私が知っているすべての人が救われることを、その人々が、もうイエス・キリストが救い主であることを、その真理を知るようになることを切に切に望んで望んでおられる。
そして、働きかけてくださろうということなんですよ。
信じてください、皆さん。
ノアの話を考えてみましょう、皆さん。
まあ、100年ぐらいの時間かけて作ったとしましょう。
そしたら、さっきお話ししましたように、ノアの友達、ノアの家の隣の誰々さん、ノアの息子さんも3人いるからですね、息子さんの友達もいるんじゃないですか。
お嫁さんもいるから、そのお嫁さんの相手の、お嫁さんの家族もいるわけで、友達もいるわけなんですよ。
その村に住んでいる他の人々もいるわけなんですよ。
噂を聞いた、その隣の村、隣の町の人々もいるわけなんですよ。
彼らには神様が、100年間というチャンスを与えてくださったということなんです。
100年間。
きっとですね、ノアは正しい人であって、神の洪水の審判が起こることを確かに信じていたわけですから、少なくとも100年間この墓舟を作りながらですね、
家族や親戚、周りの人、隣の誰々さん、息子さんの、もう多くの人にですね、もう洪水が起こるんですよとね、もうね、数えられないほど伝えたと思うんですよ。
もう皆さんがノアだったら、でもそうするんじゃないでしょうか。
だから皆さん、ノアとその家族の以外の人々には、神様が100年間の時間、神様の言葉が本当であることを信じることのできる100年間の時間が、
洪水の審判が本当に起こるんですよと、それを信じることのできるチャンスが、従うチャンスが、また堕落した罪を悔い改めることのできるチャンスが、清く生きられるチャンスが、100年も与えられたということなんです。
24:13
これはすごいと思いません、皆さん。
誰か私たちに何かのチャンスをくれるときに、大体1回か2回なんです。
神様は100年間ですよ。100年間。
簡単に申しまして、神様は人々が神様を信じることのできるチャンスを、ノアの時代は少なくとも100年間与えてくださって、望んでおられて待ってくださった、忍耐してくださったということなんです。
このようにしてでも、すべての人が救われることを、真理を知るようになることを望んでおられたんですよ。
100年を待つぐらい。すごいでしょう、皆さん。すごいですよ。
どうですか。それでも、ノアの家族以外の人は、100年も時間が与えられたのに、誰も信じなかった。
誰も入れてちょうだいとかね、誰もいなかったんですよ。これはもっとすごいことだと思うんですね。
だから彼らは、自分たちの不信心のゆえに、自分たちが信じなかったから、滅んだわけなんですよ。
神様が怖い神じゃなくて、100年もチャンスを与えたのに、そのチャンスを拒んだ、彼らの自分自身の罪のゆえに、彼らは滅ぼされました。
決して神様は滅びの神ではありません。救いの神なんですよ。
皆さん、今日も同じなんです。神様は今も、私たちに、私たちの家族に、周りの人々に、チャンスを与えておられるんですよ。
神様を信じられるチャンス、イエス様を受け入れられるチャンス、
悔い改めて清められるチャンス、永遠の命をゲットできるチャンス、その救いのチャンスを神様は与えていてくださる、働きかけてくださるということなんですよ。
だから皆さん、ある人が80歳としましょうとしたら、その人は少なくとも80年間、神様を信じられるチャンスが与えられているということなんです。
100歳の人がいるとしたら、その人には神様が100年間、神様を信じるチャンスを与えているわけなんです。
神様は慈しみ深い神様だから、我々が十分に救われるチャンスを、働きを与えてくださるお方なんです。
27:03
しかし皆さん、洪水が起こって審判が始まったように、そのチャンスは永遠に続くわけではありません。
必ずそのチャンスが消え去る時が来ます。審判が始まったように、そして全てが死んでしまったように。同じなんです、皆さん。
ところがもう一つ、人々の救いに関して、私たちが期待すること、神に期待するわけですけれども、人々が救われることは、神様の苦しい御業だと思うんです。
神様の不思議な不思議な神様の働きによって、人々は救われるんです。
それがですね、その救いが、いつ、どこで、どんなことを通して、何が起きて救われるのか。
もう知れないほどですね、神様がなさる方法ややり方は、とても複雑であるいはマルチ的でですね、神様は働かれるということです。
我々が見て、これは不幸だなぁと、いやーこれはもうね、最悪だなぁと思われるところの中でも、神様は救いを起こしてくださる。
いやもう、とても素晴らしいことの中でも、救いを起こしてくださるんです。
聖書をちょっと開きましょうか。
「使徒の働き16章」
新約聖書の
使徒の働き16章を開いてください。
大体ですね、大体16節からね、ストーリーが始まるんですけれども、
えーとですね、伝道者のパウルとシラスは、ピリピという町に入ったんですね。
ピリピ、今のギリシアにある町です。
そこでですね、このパウルとシラスは一生懸命伝道していました。
聖書を見ながら話を聞いてくださいね。
そしてですね、伝道しているうちにですね、占いをする女の奴隷にですね、出会ってですね、
この女の奴隷が占いをして、その持ち主にですね、主人に多くの利益を得させていただけるんです。
ところがですね、この女奴隷がですね、何日も何日もこのパウルとシラスにですね、
もうあの、この人たちは射手高き神の下目立ちで、救いの道をあなた方に述べ伝えているんですよ、ともう叫ぶんですよ、占いをしているね、女の子なんですね。
それで困ったなぁとですね、それでですね、ある日パウルは、
30:01
その女奴隷を捕まえているその霊に、悪霊にですね、
イエス様の何よってお前に命じる、この女から出て行けとですね、その悪霊を女奴隷からもう出て行くようにしたわけなんです。
そうしたら、この女奴隷は占いができなくなってしまった。普通の女の子になってしまったわけです。
そしたらその主人はですね、いやもうこれは金儲けできなくなるんじゃないかと思ってですね、結果的にどうしましたか。
パウルとシラスを訴えてですね、それでパウルとシラスはですね、そのピリピュの牢獄に投獄されてしまったわけですね。
そうでしょ、投獄されてしまった。伝道者が突然囚人になってしまったわけです。
罪人に犯罪人になってしまったわけなんです。でもですね、パウルとシラスはどうしましたか。その中でもですね、
きっとですね、毎日賛美して祈って、賛美して祈って、そこで過ごしていたわけです。
ところがある日、大地震が起きてしまったんですね。夜だったんですよ。大地震が起きてしまってですね、この囚人たちの薬が全部外れてしまってですね、きっと他の囚人たちは全部逃げてしまったんですね。
そしたら、そこを管理している監修がですね、いやもうこの囚人たちは全部逃げてしまって、これが後からわかったら自分はもう処刑されるだろうと思ってですね、怖くて自殺しようとした。
でしょ。そしたらパウルとシラスはどうしましたか。逃げましたか。逃げてなかったんですね。そのままそこにいたんですよ。
それでその監修に出会った。もちろんね、たぶんこれは地震が起きたことと、投獄されたのはたぶん時間があったと思うんですよ。何日くらいなのかわかりませんけれども、何日が経ったわけなんですよ。
で、この監修さんは毎日見たらですね、他の囚人たちはもう呟いて悪口をして、もう怖い顔をしているのに、
なんとこのパウルとシラスはどう見ても無実な罪でね、こういうふうに入れられているように見えるんだけれども、何かいつも賛美して祈っている不思議な二人だなと思ったわけなんですね、この監修さんは。
よく見ていたわけなんですよ。そして彼らが何をしていたのかよく調べてみたようなんですね。
それでですね、もう震えながらですね、明かりを持ってですね、パウルとシラスにところに行ったら、本当にこの二人は逃げていない。みんな逃げているように不思議だなと思いながら、その時にこの緊迫な時でしょ、大地震が起きて大混乱ですよ、皆さん。
33:04
地震が起きてですね、もうこの牢屋がですね、もう崩れてですね、みんな逃げて、めちゃくちゃになっているじゃないですか。今がだいたい2000年前だからね。そんな大混乱の中で明かりを持ってきたその監修さんが、このパウルとシラスに一番最初に言った言葉は何ですか、皆さん。
これ大事なんですよ、実は。16章の30節をご覧ください。
毎日このパウルとシラスをよく見ていたこの監修さんがですね、この二人を外に一旦連れ出して、危ないからね、安全のために連れ出して、こんな時に、なんで逃げてなかったんですか。他のことを聞くんじゃなくて、このことを聞くようにしたのも神様なんですよ、皆さん。
なんと聞きましたか、先生方。救われるためには何をしなければなりませんかと聞いたんですよ。これは不思議なことなんです。皆さんだったら、このね、地震が起きて、コーヴェッタ地震みたいに地震が起きて、ぐちゃぐちゃにめちゃくちゃになっている中で、救われるためには何をしなければなりませんかと聞くでしょう。普通あんまりね、ありえないような話なんです。
でもね、この監修さんは、今じゃなければ、この時にこの二人にこの話を聞かなければ、自分は救われないかもしれない。この時を逃してしまったら、二度とこんなチャンスは来ないかもしれませんとね、それをもう神の霊によってわかったでしょう。
これも神の働きだと思うんですよ。人間から出たこの尋ねたことではないと思う。その時に、かの有名な16章の31節、パウルト・ヒラスが何と言いました。シュー・イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われますと言ったわけなんです。
その後、どうなりましたか。32節をご覧ください。そして彼と彼の家にいる者全員に主の言葉を語った。これも省略されていると思うんですけどね。監修さんはその話を聞いて、そうですか、そしたらどうぞパウルさん、ヒラスさん、うちに来て、うちの家族にみんなこの主の言葉を語ってくれませんか。
もう時間がありませんよ、みたいにですね、語ってくれた。そして16章の33節をご覧ください。これ大事ですよ、皆さん。33節。
監修はその夜、時を移さず、二人を引き取り、家傷を洗った。
そして彼とその家の者全員がすぐに何を受けましたか。パプテスも受けました。ハレルヤ。監修さん、その家の者全員だから家族も含めているでしょう。
36:15
もしこの人が少しお金があったならば、その家の家に奴隷さんがいたと思うんですよ。何人いたのかそれはわかりませんけどね。みんなその時に救われたんですよ。
監修は監修の信仰によって、その家族の者はみんな全員それぞれ信仰によって、イエスさんも信じて家族が救われたんですよ。
驚くべき家族の救いが起きたんですね。皆さん、考えてください。神様がなさることは本当に不思議なんですね。
もしパオロとシラスがピリポに行かなかったならば、そこで伝道しなかったならば、女奴隷の悪霊を追い出すことをしなかったならば、
あるいは盗獄されることがなかったならば、毎日のようにそこで賛美して祈りをしていなかったならば、
その監修に出会わなかったならば、あるいは監修が救われるためにはどうしたらいいんですかと聞かなかったならば、こんな素晴らしい救いは起こらなかったんじゃないでしょうか。
だから皆さん、パオロとシラスが打ち打たれて盗獄されたことも、地震が起きたことも、パオロとシラスが逃げなかったことも、
このすべてのことは、結果的にはこの家の者全員が救われる祝福のプロセスだったということなんですよ。
だから皆さん、私たちに、それが事故であろうが、病気であろうが、死であろうが、何であろうが、人間的に見てね、不幸なことは確かにありますけれども、
不幸なことのように見えることでも、辛くて大変なことのように見えることでも、
そんな中でも、神様、いくらでも良いことを起こすことができる、いくらでも救いを起こすことができる、いくらでも多くの人々を救うことができる神様、何でもお出来になる方であるということを信じなければならないんです。
皆さん、毎日家族の救いのために涙をもって祈っていらっしゃるんじゃないでしょうか。切に切に祈っていらっしゃると思うんですよ。
そこで私たちは、家族の方々が健康であることも大事ですし、老後を楽しんで生きることも大事でありますけれども、
39:07
私たちが知っているように最も大事なことは、そのお一人お一人がイエス・キリストを信じて救われることだと信じます。
そして私たちは、あの堕落した世代の中で、ノアとその家族を救われた神様が、また今の時代にも同じく、私と私の家族を救ってくださることを望んで祈って求めていきたいんです。
もうちょっと掘り下げて話をしていきたいと思いますけれども、もう一度申しますが、
人が神様を信じるようになること、イエス様が救い主であることが信じられること、受け入れることは、霊的なことなので、神様によって起こるということなんです。
一箇所ね、聖書を開きましょう。
エレミア書、旧約聖書ですね。
最近私自身、エレミア書を読んで目指していますけれども、毎日読んでいますが、その中で不思議にこの御言葉が、この説教を準備しているときに、やった、この言葉だとね、もう神様が教えてくださいました。
エレミア書24章7節、文脈はちょっと違うかも、背景は違うかもしれませんが、ここは大事だと思うんですね。
旧約聖書の1336ページ、エレミア書24章7節、私が読みますね。よくご覧ください。
私は、私が主であることを知る心を彼らに与える。
彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。
彼らが心の全てを持って私に立ち帰るからである。
一番最初の文ですね。神様が、私は神様ですね。神様が、神様が主であることを知る心。知る心。知る心を彼らに与えるんですよ。誰が与えるんですか。神様が与えるんです。
つまり、私たちが、皆さんもそうなんです。救われた方々はですね。皆そうなんですよ。
神様が主であることを、イエス様が救い主であることを、その知る心は神様がくださるんですね。
自然に、どこかで偶然起きるものじゃないんですね。神様が直接、人の心の中に、神は主である、イエスは救い主である。
42:01
それを知る心を与えてくださるから、信じることができるんです。
だからね、でも逆に考えると、神様が人々に、神様が主である、イエス様が救い主であることを知る心さえ与えてくだされば、信じられるということなんです。
ここからですね、救いというものは、私たちから見れば消極的な面があるわけなんです。
というのは、自分で自分を救えるものではない。自分で家族を救えるものではないんです。
救いに関するすべては、もう何から何まで、全部神様がなさる御業なんですね。
知る心も神様が与えてくださる。そういう環境も神様が与えてくださる。時も神様が定めてくださる。
実はね、よく考えたらですね、自分がやったことは何もないんです。
洗礼を受けてイエス様を信じるようになった人々に、どんなふうにして信じるようになりましたか。
いろいろこういうことがあって、ああいうことがあって、信じるようになりましたと言いますけれども、それは出来事であってですね、
実は、なぜ自分が神様が信じられるようになったのか、イエス様がすぐ心の中に入ったのか、よく分からないんですよ。
神様がその知る心をくださったから。そういう面から見れば、救いは消極的な面が確かにあります。
だから皆さん、祈ってください。神様、私の夫に、私の妻に、私の親に、子供に、友人、知人に、
神が主であること、イエス様が救いの主であることを、知る心を与えくださいと。
アメンですか、皆さん。知る心を与えてください。神様がその知る心さえ与えてくだされば、それでもう万歳です。神様みたいにね。
神様が必ず与えてくださるんです。
でも、ここからまたですね、いや、そしたらもうどうせ私は何もしなくても、神様が働ければ救われるだろうとね、そういうふうに思ってはいけません。
同じく、救いに関して私たちに求められる積極的な側面があります。
同じエレミア書の29章13節、29章13節を開きましょう。
エレミア書29章13節、1344ページですね。
ここのですね、13節を見ると、こういう言葉がありますよ。
あなた方が私を探し求めるとき、心を尽くして私を求めるなら、私を見つける。
アメンですか、皆さん。だから、私たちが探し求めなければならないんです。
45:05
心を尽くして神を求めるならば、その人が誰であろうが必ず神様を見つけるということなんです。
だからね、知る心は神様がくださるんですけれども、求めるのは私たちなんです。
神様を探し求めなさい。心を尽くして神を求めなさい。そうしたらもう見つけるよとね。
神様が永遠に見つけられないようにかくれんぼしている神様じゃないんですよ。
求める心さえあれば、すぐに見つけるように神様が現してくださる。自分自身を見せてくださるんです。
メッセージをそろそろ終わりたいと思いますけれども、神様はノアとその家族をお選びになって救ってくださいました。
同じく、今日もこの時代も神様はすでに私と皆さんを選んでくださって救ってくださいました。
そして私たちを通して家族の方々が、友人、知人の方々が救われるように主は望んでおられます。
そして待っていてくださるし、はてなきかけてくださるし、教えてくださる、導いてくださる、知る心を与えてくださる神様なんです。
どうか、私たちに、周りの人々に神が主であること、イエスが救い主であることを知る心を主が与えてくださって、
家族のみんなが、友人、知人の方々はみんなが救われますように。
そしてそのために、昼も夜も祈っている皆さん、涙をもって祈っている皆さん、その粘り強い祈りを主が必ずそれに応えてくださることを主に期待して歩んでいこうではありませんか。
主をイエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。
この御言葉が、私たちの家族に周りに起こりますように、心からお祈り申し上げます。
アーメン。お祈りしましょう。
47:21

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