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2021-04-18 44:37

2021/04/18:創世記(14)バベルの塔と人の傲慢

2021/04/18 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -11:9


00:03
おはようございます。
今日も、いろいろありますけれども、守られてともに、首脳協会に集まって礼拝できることを本当に感謝いたします。
まだまだですね、このコロナの感染の恐れや心配が、まだ終わっていない今のところでありますけれども、
また、日本もですね、この関西だけ見ても、感染者数が増えている感じでありますし、
また、まん延防止等措置みたいなものがね、あったりする中でありますけれども、
本当に、世界のすべてを治めておられる我々の主が生きておられること、
そして、すべては神の御手にあることをですね、信じながら、主を信頼しながらですね、歩んでいきたいと思います。
一方ではですね、ニュースによると、イスラエルは全国民の60%ぐらいがね、ワクチンを受けて、
野外ではマスクをしなくてもいいみたいにですね、本当にはとても自由な雰囲気であるというみたい、そういうニュースもありますけれども、
先が見えないこの時代であります。その中で、自分自身の健康だけではなく、
信仰をしっかりちゃんと守ってですね、また、主の恵みと守りの中でですね、礼拝を守っていきたいと、そういうふうに思っております。
また、いろんなところではまた、教会の礼拝をオンラインに切り替えたり、また二部に分けて礼拝したり、またいろんな動きがあったりしますけれども、
とりあえず明大協会は、特別な措置が国からですね、出ない限りは、この状態でですね、形式で礼拝をやっていきたいなと、そんなふうに思っておりますが、
でもそれも何が起こるかわからないわけですから、それにですね、様子を見ながらですね、対応していきたいと思います。
そんな中でまた、私の治療のために皆さんに本当に心から祈っていただいて本当に感謝いたします。
毎週ではありませんが、検査があったりするときにまた皆さんに報告をしたいなと、そんなふうに思っております。
先週ですね、9回の抗がん剤治療を受けてから、レントゲン検査をしましたところ、とてもいい結果が出ました。
私は医者じゃないのでそこまでわかりませんが、左の方が診断されたときの右の肺ですね、白い部分が多くありましたけれども、
03:04
9回目終わってからの検査のところは、この画面はちょっとぼやけていますけれども、きれいにですね、線が出ています。
主治医もですね、こんなケースは珍しいと、9回、10回も休むことなく毎週点滴を受けていますし、特に副作用もありませんし、
どんどんどんどんのがんが小さくなっていることは珍しいと、医者さんもですね、びっくりしていました。
なかなかこういうふうなケースも稀なんだけれども、医者さんがんばっている方ですね、というふうに言っていました。
本当に背後での皆さんのお祈りをですね、本当に心から感謝いたします。
神様が生きておられてですね、この時代に祈っても、もう祈りは聞かれない、もういいですよ。
祈っても、なかなか答えがないな、みたいな、そんな不審の時代でありますけれども、
そんな中でですね、この者の病気を通して神様が皆さんにですね、祈れば聞かれるよ、神様は生きておられますよ、というね、確かな証をですね、
私の病気を通して皆さんに神様はそれを語ってくださって、それを皆さんが信仰をもって、アーメンと思ってそれを受け入れれば、
それが皆さんに大きな祝福になると思うんですね。そんなようにですね、受け止めていきたいと思います。
それで治療のこれからのことは、4月までは毎週水曜日に天敵の治療を受けて、
それから様子を今の状況だったらですね、5月からは3週に1回の病院の通院になりますのでね、
そのうちまたもっと今より体的には負担が減るかなと思っております。
また水曜日に毎週病院に行ってですね、水曜日とかへのメッセージもできなかったんですけれども、
5月からは3週に2回はですね、報酬をさせていただけるかなと、そんなふうに思っております。
一言お祈りしましょう。主は生きておられます。あなたは全知の主です。主よ、その方が私たちの良きお父さんであること、本当に感謝いたします。
今日もその神様が生きておられ、私たちに語ってくださる主の御声を聞くことができますように、
私たちの霊の目が開かれ、霊の耳が開かれますように、神の声を聞き、神にお会いするこの時となりますように、
主よ、一人一人の霊の中に主御自身がお語り下さいますように、主に期待して、イエス様の皆によってお祈り致します。アーメン。
06:04
今日は創世記の14回目です。ノアの時代の大洪水の後の話になりますね。
タイトルはバベルの塔と人の傲慢です。
今日、10章の32節を見ると、大洪水の後、彼らはノアの子孫たちですね。ノアの子孫が諸々の国民になったわけです。
子孫が子供が生まれて生まれて生まれて生まれて、どんどんどんどん増えていくわけなんですね。
そして地上に分かれているようになったわけです。
この32節はですね、ノアの子孫たちが増えて、そして地上に分かれていたということを概論的に描写している節だと思います。
だから皆さん、まず簡単に知ることができるのは、大洪水の後のすべての人類は誰の子孫ですか?
ノアの子孫なんです。
今ね、世界にいろんな人種、民族がありますけれども、そのルーツは一人、ノアに遡れるということなんです。
そして全人類は一つの家族であるということですね。
ところが皆さんよく考えたらですね、この中に私たちの神様の行為がここにあるんです。
洪水の前の世界はどうだったんですか?
神様が生き物を滅ぶしかなかった、それほど堕落した時代だったんですね。
それで神様は大洪水をもって、もう裁かれたわけなんです。
そんな中でも神様はノアとその妻、息子3人、嫁3人、この8人を守ってくださった。
そして今の人類があるということを考えたらですね、
しかも彼らがその大洪水の後、あの箱舟から出て死ななくて、また子孫が増えていくということだけ見てもですね、それは奇跡だと思うんですよ。
神様の守りがあった。
09:02
増えることができた、分かれることができた。
これはですね、本当に神様の素晴らしい守りと神様の行為、助けがあったんだということなんですね。
皆さん考えてみてください。
大流が通った後、あるいは津波が通った後だけ見てもですね、この地の上はもうめちゃくちゃになるんでしょう。
もう世界的な大洪水の後なんだから、もう地の上は本当に洪流としてですね、もう何もできないそういう地面だったと思うんですよ。
ここが山だったのか海だったのかわからないほどですね、もうめちゃくちゃになっていると思うんですよ。
生きているものは箱舟の中の中にあるものだけ。
そんな洪流としたその地球の中で彼らが生きることができた。
子供が生まれた。生活ができたということはですね、本当に神様の守りと恵みによらなければ不可能なことなんですね。
神の恵みなんです。
そういう言葉を分かり合わせる言葉で言えば、好意ですね、好意。
そんなふうにして神の恵みの中でですね、ノアの子孫が増えて地上に分かれ出るようになりました。
そして彼らは当然ですね、ノアの家族でしたから、同じ言葉、同じ話し言葉を使っていたわけです。
皆さんが、我々が日本語を喋っているよう。
そして彼らは増えるから、どんどんどんどん広いところにもっと遠いところに散っていくわけなんです。
ここでですね、増えて地に満ちることはそれは罰ではないんですね。
これは神様の祝福なんです。
ちょっと一箇所ね、聖書を開けたいと思います。
漱石の1章28節、開きましょうか。
漱石の1章28節、私が読みますね。
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。
うめよ、ふえよ、地に満ちよ。
ここを見たらですね、神様が彼らを祝福されて、うめよ、ふえよ、地に満ちよと言われたんです。
だからね、人が子供を産むこと、増えていくこと、地に満ちること、散っていくことは神の祝福であるということですね。
12:03
また同じ言葉がですね、旧書1節にもあるんです。
旧書1節にも開きましょうか。
旧書1節はこうありますね。私が読みます。
神はノアとその息子たちを祝福して。
ここに先の1章28節にも祝福された。この旧書1節にも祝福してとあるんです。
彼らに依された。うめよ、ふえよ、地に満ちよ。
まったく一緒でしょ。同じですね。
だから皆さん、子供が産まれること、増えていくこと、いろんな地に散って満ちることは神の祝福なんですね。
創造の秩序であり、神の心であり、人に対する神の素晴らしい美しいデザインなんです。
それが祝福なんですね。
だからですね、いろんな複雑な問題はありますけれども、
人が、男女が結婚して子供を産むこと、もちろん産みたくてもできない方々もおられますけれども、
自然な人だったら、男女が結婚して子供が産まれることは神の祝福である創造の秩序であるということなんです。
ところが、この産めよ、増えよ、地に満ちよという神様が素晴らしくデザインしたこの人生、
この人への祝福を拒む事件が起きたんですね。
それが何でしょう。これがこのバベルの塔、この事件なんです。
11章1節。
さて、禅知は一つの話し言葉、一つの共通の言葉であった。
当然、ノアの子孫だから最初はみんな同じ話し言葉を使っていたわけなんです。
そして彼らが2節を見ると、東の方へ移動してシンアルの地、
昔の聖書は多分シナルと書かれていたと思うんですけれども、
シンアルという地に平地を見つけて、そこに住むようになりました。
そして彼らは結構な技術を持っていて、レンガを焼く技術を持って町を作る。
しかも、漆喰の代わりに歴史を使えるほどの技術を持っていたわけなんですね。
歴史といったら原油の副産物の一部だから、すごい技術だと思うんですよ。
そこを使えるほどのある程度の文化文明を持っていたわけです。
15:05
どれくらい大きな町だったのかわかりませんけれども、大きな町を作って、知らないで、
そこでみんな集まって、我々の王国を町を作って生きようと、住もうと、そう思ったわけなんです。
それだけでは悪いことではないんですね。
レンガを作る、町を作る、一緒に集まること、それだけは悪いことではないかもしれませんが、
そこに彼らの思いは、どんどんどんどん人間の欲望と言いましょうか、その方に傾いてしまいましたね。
4節ご覧ください。
彼らは言った。
我々は自分たちのために町と頂が天に届く塔を建てて名を挙げよう。
我々が地の前面に散らされるといけないからと言いました。
この時の彼らの様子を、彼らの欲望を、この4節、1節だけでちょっと短いですけれども、ここに書かれています。
この1節、短い節ですが、この中にこのバベルの塔というものが象徴して表している、人間の罪の大きな2つのことが書かれていると思います。
その1つはまず、神のように自ら高くなろうとする人間の傲慢さですね。
神のようになろうとする人間の傲慢さなんです。
ここに彼らは、頂が天に届く塔を建てる、そして名を挙げよう。
名は神の名ですね。自分の人間の名ですね。
彼らは知ることが祝福なのにそれを拒みました。
そして、天にまで届こうと、神のところまで行こうとした、神の御座まで行こうとした人間の傲慢さのことに書かれています。
それができると思ったわけですね。
彼らは自分たちが主人になろうとしました。
神様を亡くしても生きていける世界を建てようとしました。
これはですね、創造主である主である神様に対する挑戦であり、神様が嫌われる傲慢さなんですね。
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私は読みますけれども、伊沢章14章13から15節にはこういう見言葉があります。私がお読みします。
お前は心の中で言った。私は天に昇ろう。神の星々の遥か上に私の王座をあげ、北の果てにある貝豪の山で座につこう。
密雲の頂に昇り、糸たかき方のようになろう。糸たかき方のようになろう。つまりね、神のようになろうと思った。
15節、だがお前はよみに落とされ、穴の底に落とされるという言葉があります。
人間の傲慢さ、傲慢さは何でしょうか。それはですね、神様の代わりに自分が主となろうとすることです。
ですから皆さん、このバベルの塔はですね、主なる神様を必要としない人間の傲慢と傲慢のシンボルなんです。
人が自分の霊的な位置を忘れてしまったわけです。
神様が創造主であり、神様が主であるにもかかわらず、人が非常物であることを拒み創造主になろうとしたこと、
人が下部であるのにそれを拒んで主となろうとしたこと、これが傲慢の罪ではないでしょうか。
今もですね、その本が何度も印刷されて、世界的なベストセラーの本が一つあります。
私が多分20代の時に読んだ本ですけど、アメリカにですね、リチャード・ポースターという霊性神学者先生、僕先生が書いた本が、日本語でも多分あると思うんですけれども、
人類を誘惑した三つの三大の罪、誘惑、それは英語のタイトルはマネー、パワー、セクスですね。
カネ、権力、セクス、セイ、もう人間のすべての罪はですね、よく考えたらこの三つのカテゴリーの中に入るんです。
まさにこのバベルの塔はパワーなんですね、権力、名誉といった快楽なんです。
バベルの塔は他人のことではないと思うんですね。
21:02
人は権力というこの甘い誘惑にどれだけ弱いものなのか、ということを示していると思うんです。
皆さんいかがでしょうか。私たちは自分の生活のあらゆる領域の中で、本当に神の主権のみを認めて仕えているのでしょうか。
家族が、周りの人々が皆さんの人生を、生活を、生き様を、言葉を、行いを見るならば、そこで本当に神の皆が崇められていると賛美されていると。
あの人を見たらもう、あの人は見えない、神しか見えない、そういった生き様が我々の生き様なんでしょうか。
もしも私たちが、バベルの塔のような傲慢さ、傲慢さを立てているならば、それを霊の目が開かれて、自分自身でそれを打ち砕かなければならないんですよ。一刻も早く。
皆さん、自分の目が開かれて、自分でそれを食い改めて打ち砕かなければ、神様に打ち砕かれる厳しい代価を払わなければならない場合もあるんです。
一律には言えませんが、その代価が病気かもしれない、死であるかもしれない、救いから取り除かれることかもしれない、祝福のところか、復興が続くものかもしれない。
生きていく中で、人は謙遜なものになるのは難しいんだけれども、傲慢なものになるのは簡単だなと思います。皆さんはそう思いませんか。
皆さん謙遜だからそんなことはないでしょうね。私はあると思うんです。
人の下に立って、本当にイエス様が弟子たちの足を洗ったかのように、人の下に使えるということはなかなか難しい。
しかし人の頭の上に立って、ああしろこうしろコントロールするのは、そこにすごい快感があるんです。人間はね。
謙遜という甘い快感がある。それをね、もうまるで麻薬みたいに味わえば味わうほど甘いんです。もっともっとやりたくなる。それが謙遜欲というサタンの誘惑なんです。
政治家じゃなくても同じなんです。
24:03
それほど私たちは弱いものなんです。弱いもの。罪深いものなんです。
謙遜になるのは難しい。傲慢になるのは簡単である。
だから皆さん、何十年かけて謙遜なものになってもですね、もう一瞬で傲慢なものになりやすいのが我々なんです。
特に何かをちょっと持っていれば、それがお金であろうが、名誉であろうが、何かの地位であろうが、進行の年数であろうが、経歴であろうが、学歴であろうが、経験であろうが、
人はですね、不思議に何かをちょっと握って持って、人よりちょっと持っていったらですね、傲慢になりやすいんです、人は。本当にそうなんです。
ところが皆さん、他人に指差す必要はないんです。自分自身が謙遜なものになれば大丈夫です。
私は本当に十字架の前で謙遜なものなのか、イエス様に似たものなのか、十字架で死なれたイエス様のように謙遜なものなのか、
常にですね、自分自身を変えりみて、傲慢の欲があるならば、それを打ち砕いて、キリスの謙遜の前に自分を服従させて、日々謙遜の衣を身につけなければならないんです。
私自身、この癌の闘病、戦いの中で神様から探られたこと、教えられたこと、あるいは悔やめたことが多くありますが、その中の一つは、この傲慢さという罪でした。
人がどれだけたかぶりやすいものなのか、もう人を見る必要はないんですよ。自分自身を見れば、自分自身のこの中を見ればですね、もう臭い汚い、どれだけ傲慢なものなのか、矛盾や偽善でいっぱいである。
でも人はそれを気づくのが難しい。ある意味で私自身も、この癌になるまでには、わかっているようでわかっていないようなものでした。
目は眩んでいました。私自身がどれだけ傲慢なものなのか、堕落したものなのか、知らなかったんですね。気づいていなかったんです。
27:04
それでですね、どれだけ多くの人々を傷つけたのか、傲慢なその振る舞いで、どれだけ神の栄光を邪魔してしまったのか、でも私は感謝します。
それはですね、主は神様が私にこの癌という病気を通して、神様が私を見捨てられなかったと、私はほっとして感謝しました。
もし神様が私を見捨てられたならば、私は傲慢なものであろうが、神のように振る舞うが、どうが、ほったらかされていたかもしれませんね。
どんな人生を自分で、自分勝手な道を歩むが、どれだけ多くの人々を傷つけようが、ほったらかされていたかもしれない。
病気もなく、まあまあ順調に行けたかもしれない。皆さんそれが祝福なんでしょうか。祝福ではないんですよ。
もしもそうだったのであればですね、最後の日に主に大きく裁かれたかもしれない。
放っておかれるのは皆さん、決して祝福でも平安でもありませんよ。
むしろですね、私自身に対するものですけど、このような癌との戦いを通して、自分の傲慢の罪を知ることができた。悔い改めることができた。
そして本当に悔い改めて謙遜なものになることが、癌にならないよりは、もう億万倍祝福だと私は信じております。
皆さん、もちろんですね、一番いいのは、病気もなくて貧しくもなくて、本当に素晴らしい信仰を持って謙遜で生きることが一番理想的でいいんですけれども、皆さんでもね。
そうじゃなくてもですね、ちょっと病気があっても、あるいはちょっと貧しくても、
ぼんこつの車に乗っていても、車買えるかならなくて自転車しか持っていなくても、
家の中にいろいろきっと課題があっても、謙遜に謙遜に主に仕えながら生きることが最も素晴らしい祝福なんです。
これを悟るのが天の智慧なんです。
私が自分が高慢であろうが、偽善でいっぱいであろうが、神に放っておかれた状態であれば、それこそ脆いであり、見捨てられた人生なんです。
30:13
皆さん、熱心と高慢は違うものなんです。
謙遜な人が本当に減り下るものが熱心を持っていたらですね、その謙遜な人の熱心によって人々が癒やされ励まされ生きるようになるでしょうけれども、
高慢な人が熱心を持っていたらですね、もっと熱心に高慢になって周りの人々も全部焼いてしまいますね。一緒に滅ぶわけなんです。
私たちは十何周と復活・再礼拝を捧げて、そんなにたくさん経っていないんですよ、皆さん。
今日が18日だからね、2周しか経っていないんです。もう忘れましたか、十何周と復活。
天の御座を捨てて、みすぼらしい馬小屋で生まれたイエス様。
あの苦しみと恥の十字架を負うまで、死ぬまで自分を低くされたイエス様。
だから皆さん、このイエス様を知れば知るほど、信じれば信じるほど、祈れば祈るほど、礼拝すれば礼拝するほど、人はどの方向に行くべきでしょうか。
謙遜の方向に行くべきなんです。それが信仰の証なんです。
イエス様に出会えば出会うほど、黙想すれば黙想するほど、礼拝すればするほど、もっともっと謙遜になるのが信仰の道であり、イエスの道であります。
皆さん、だからですね、もう無名のしもべとして生きることを決心してください。
私の名前が人々に供えられて神様に捨てられるよりは、人々に忘れられても覚えられなくても、神に覚えられて神様にたっとばれば、その道が祝福の道なんです。
大きい2番目。バベルの塔の罪は何でしょうか。彼らは神の創造の目的と祝福を拒んだということなんですね。
さっきも読みましたように、四節に、我々が地の前面に散らされるといけないから、散らされるのが神の計画なんです。
33:00
神のデザインなんですよ。それが祝福なんですね。でも散らされるといけないからといって、神の計画に対抗してしまったわけです。
もう嫌だ、しない、拒んでしまった。
おめよ、ふえよ、ちにみちよ、これが祝福なのに、それを蹴っ飛ばしてしまったわけなんです。
神の敬意に対する挑戦ですね。神を神として認めないこの振る舞いなんです。
今日の世代とよく似ていると思うんですね。
これが人間の愚かさなんですよ。
おめよ、ふえよ、ちにみちることが祝福なのに、そこに神の素晴らしいこの先の祝福があるのに、
それを知らないから、それをノーと拒んでしまった人間の愚かさがここに書かれています。
しかし神様はまたここでもそのまま放っておかれることはなさらなかった。
神様が働き出されあったんですね。それが誤説なんです。
ご覧ください。その時、石は人間が建てた町と塔を見るために降りてこられたとあります。
その町と塔を見るために降りてこられた。
神様が目が悪いからよく見えないなぁと、だから天から降りてきた、そういう意味じゃないんですね。
人間がいくら高い塔を建てても、いくら大きく巨大な町を作っても、
神の天の御座から見れば、見えないほど降りていかなければならないほど小さいものであるという意味でしょう。
皆さん、人がいくら名誉を持っていても、人々から称えられても、高くなっても、
神から見れば、見えないぐらいのみすぼらしい小さなものにすぎないんです。
どれだけ弱いものなんでしょうか。
神様はこういうふうに、彼らに対して行われました。
読説からご覧ください。
いいよ、彼らは一つの民で、皆同じ話し言葉を持っている。
このようなことをし始めるのなら、今や彼らがしようと企てていることで、不可能なことは何もない。
さあ、降りていって、そこで彼らの言葉を混乱させ、他界の話し言葉が通じないようにしよう。
主は彼らをそこから地の前面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。
彼らは皆同じ話し言葉を使っていました。同じ町に集まって住んでいました。
36:05
しかし主はその話し言葉を混乱させました。
他界の話し言葉が通じないようになってしまって、もうバラバラになって分裂してしまったわけでしょうね。
言葉が通じないからね。レンガを頂いたり、水をくれたり、あっちに行きましょうと言ったり、もう大混乱が起きたはずなんですね。
それで彼らはそれを建てるのをやめて、そこから散ってしまいました。
神様は彼らの高慢さ、不和立てたこと、彼らの意図、考えを主のやり方で虚しいことにさせました。
彼によって消える霧のようになってしまいました。
ところが皆さん、もう一度深く考えたら、彼らが違う言葉をするようにしたこと、
地の前面に散らされたことは、本当に神の、ただの神の罰なんですよ。
そうではないと思うんですよ。
彼らはね、違う言葉を使うことによって、これ以上の塔を建てなくなってしまったでしょ。
だからこれ以上の罪をしなくなったわけなんですよ。
これ以上の高慢や神に対する冒涜のような罪を、もう犯さないようにされたわけなんです。
ある意味で、罪を犯す機会、チャンスが減ってしまった。
これ以上大きな罪をしなくようにならないようになったわけなんです。
だからこれは、ただの罰というより、神の安全装置かもしれない。
彼らを何とか守ろうとする神の配慮が、行為が、ここにも含まれていると思うんですね。
彼らはそこから散っていきました。
それが神のプランでした。神のデザインでした。
そしてそこからですね、ノアの子孫の中にセムがいる。
そのセムの子孫からアブランが生まれる。
そしてやがてイエス・キリストがお生まれになる。
この神のプランが着々と進むわけなんです。
このバベルの塔の言葉の話をですね、どうしても神約の一つの出来事につなげてお話をしたいと思います。
39:01
それはイエス様が天に昇られた後、120人の群れがエルサレムの一つの家に集まって、
イエス様が約束された精霊が来られることを待ち待って、祈っていたんですね。
そしてやがて御殉節の日、ペンテコステと言いますね。
その日に精霊様が望まれました。
その時に集まっていた120人の群れ、他の人々もですね、いろんな各地から集まってきたわけなんです。
いろんな国からいろんな地方から。だからそれ、そもそも自分の国の言葉が実は持っていた。
ところがその当時、イエス様の当時もそうでしたけれども、話し言葉、その共通語はアラーム語という話し言葉を使っていたから、
みんなアラーム語で喋っていたわけなんです。
ところが精霊が来られて、望まれてですね、その時にそこに集まっていた人々に何が起きたんですか。
それぞれ自分の国の言葉でですね、祈言をするようになったんですよ。
シリアの人はシリアの言葉で、北アフリカの人は北アフリカの言葉で、ヨルダンの人はヨルダンの言葉で、
トルコの人はトルコの言葉でですね、祈るように賛美するようになったわけなんです。
そこに言葉はバラバラでしたけれども、彼らがやっていることは一つだったということ、ここにですね、大事なポイントがあります。
言葉は違っても、彼らがやっていることは神を誇ること、神をあがめる謙遜なことでした。
しかしバベルの塔のことはどうですか。
言葉は同じなんですよ。一致しているんです。
でも彼らはその一致をもって神に逆らった。
皆さんよく考えてください。
今の時代にですね、あらゆるところでこの確立性、一致を強いるような雰囲気があると思うんです。
日本という社会もですね、どんどん時代が変わるかもしれませんが、よく言われるような出る杭は打たれるみたいにですね、
何かしらこの確立性、一致を強いられるような雰囲気がこの社会にあると思うんです。
もちろんそれ自体が悪いものではないかもしれませんが、その一致、確立性、それをもって何をするかが大事なんです。
その一致をもってもし、神に逆らう、人間が傲慢になる、人が人をコントロールする、神と神の御言葉、真理に逆らうものであれば、この一致というものはバベルの塔になるでしょう。
42:01
だから皆さん、教会でもですね、よく一致を言います。
みんな同じで、みんな一緒にやりましょう。大事なんですよ。
ところがね、もちろん皆さんわかっているように、一致する、一つになること自体が重要なものじゃなくて、一つになって何をするか、何をしてきたかが大事なんですよ。
一つになって神を賛美して謙遜なものになるか、一つになってその力をもって神に逆らうか。
一致の結果が大事なんですよ。
だから私たちは常に十字架のイエス様を見上げなければなりません。
皆さん、私の後ろにこの十字架、27年、28年、ここに測っているでしょう。最初から測っていましたか。
毎週皆さんはこの十字架を見上げて、礼拝を捧げてこられたわけなんです。
十字架のイエス様を見上げて歩きましょうという意味ではないかなでしょう。
どうか私たちが十字架のイエス様を見習って、いつもへり下って、人に使え、神に使え、謙遜な信者として歩んでください。
最後に一箇所だけお読みしてメッセージを入れたいと思います。
ピリピリと絵の手紙2章3節、私がお読みします。
何事も利己的な思いや悔いからするのではなく、へり下って互いに人を自分より優れたものと思いなさい。
皆さん、何がどこがパラダイスなんでしょうか。そこが祝福されたことでしょうか。
人を自分より優れたものと思って行うところが天国でありパラダイスなんです。
夫が妻に妻が夫に、兄弟が兄弟の間に、信者の間に、互いに人を自分より優れたものとして立て上げて、私はその下に仕える下辺であれば、そこがパラダイスなんです。
どうか我々の皆さんの家庭が、この明太に教会がパラダイスになりますように、謙遜の天国になりますように心からお祈り申し上げます。お祈りしましょう。
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