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一言お祈りします。神様、感謝します。私たち一人一人に、神様ご自身がお語り下さいますように、賛美と称賛と栄光は、神様だけが受けられますように、
あなたを愛して、あなたに仕える、この民一人一人を覚えて、
主ご自身が御手をもって守り、悪から救い、信仰を保たせ、キリストの再臨の日まで、私たちが傷のない者として、責められるところがない者として、主が保ち、導いて、満たして下さいますように、
この朝もしをどうぞ、あなたの御声を聞く者とさせて下さい。心を無にし、祝福して、えりくらり、祈礼をして、あなたの御言葉に配著する、信仰の礼を、心をお与え下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アメン。
私だけはネットで説教をさせていただきました。
お祈りをありがとうございました。
今日はイエスキリストを指す、あるいはイエスキリストを指さすヨセフの内容ですけれども、ちょっと長いので、
今日と来週に2回に分けてお話をしたいと思います。
葬式ももう後半を過ぎてですね、そろそろ終わろうとしています。
今日は45章から50章飛んでいったりしますけれども、何とか目指したわけではありませんが、3月までには葬式の最後まで、説教を取り継ぐことができるだろうと思っております。
一つの書物を主が始めさせてくださりましたから、その完結も主がそういうふうにしてくださると信じて、またここまで導いてくださったことを本当に神様に感謝いたします。
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今日が43回目ですので、おそらく46ぐらいで、とりあえず葬式は終わるだろうと思っております。
結構長く時間がかかりましたけれども、本当に感謝いたします。
葬式を皆さんよく読まれて分かると思いますが、葬式は37章から50章までがヨセフの物語になっていますね。
ですから大体ですね、3分の1がヨセフの物語になっているんです。
神様は、ご自身を信じて従っていく者の生涯に、その背後から働いておられて、そしていろんな歴史的出来事やその人々を用いて、
その歴史を、一人の人生だけではなく、その歴史を導いていってくださるということですね。
もちろん歴史を導くためには、その中にいろんな人物やいろんな出来事も含まれているわけですからね。
それを説理とも言いますが、神様が整えをもって、ご計画をもって、私たち一人一人の生涯も、世界の歴史も人類の歴史も導いておられるという形です。
それをですね、今日はこのヨセフの生涯を通して一緒に考えていきたいと思います。
そして、最も注目したいことは、このヨセフの生涯は、前回も一緒に学びましたけれども、
そのヨセフの生涯そのものが、あるいはその生涯の中にあるいろんな出来事が、ヨセフその人のその本人がですね、イエス・キリストを指さす人物であるということです。
もちろん、漱石のどこにもヨセフの生涯のストーリーの中に、イエス・キリストのイの文字、一文字も出てこないんですね。書かれていないんです。
しかし不思議にも、私たちは信約も持っているものとして、本当にこのヨセフその人物は、彼の生涯は、その出来事は、まさにイエス様の生涯を、イエス様の救いを示しているんだなとね、それがわかるんですね。
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このヨセフの生涯を、信約時代の使徒の働きに出てくるステファノという人物がありますよね。ステファノが長い説教をするんです。
その説教が主に、旧約の歴史をまとめる説教をするんですけれども、そこにこのヨセフの生涯が何を意味するかを、まるで中解しているように、解説しているようなメッセージがあるんです。
そこを一緒にね、まず開きたいと思います。
信約聖書の使徒の働き、使徒の働き7章9節からを見ていきましょう。
信約聖書の使徒の働き第7章9節から10節を読みたいと思います。
私がお読みします。信約の244ページです。
では私がお読みします。
族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売り飛ばしました。
しかし、神は彼と共におられ、あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプトをファラオの前で恵みと知恵を与えられたので、
ファラオは彼をエジプトと王の善下を治める皇官に任じました。
とありました。
前回にヨセフは12人の兄弟の中で、お父さんに非常に可愛がられた。
兄弟たちからひどい目にあわされた。
その兄弟たちはたまたまそこに通り過ぎていたミディアン人の商人たちに、その招待にヨセフを売ってしまった。
そして彼は奴隷として、売られてエジプトに行ったとお話をしました。
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皆さん、それをよくご存知でしょうが、奴隷として売られてエジプトに行ったヨセフは、彼はその後どうなったのですか。
不思議に、エジプトに人口が多いと思ったのですが、その中にポテーバルというエジプトの偉い将軍の家庭の奴隷になりました。
ところが、彼はそこでネキネキと実績を上げて忠実に働いて、そして彼はその主人から褒められて認められて、多くの下部奴隷の王子になって非常に祝福を受けた。
そしてそのポテーバルは、すべてを彼に任せた。
ところが、そのポテーバルの奥さんの誘惑があって、そこで彼は断固として拒んだ。
それで無実の罪を負わされて、牢庫にぶち込まれてしまったわけです。
一気に奴隷で売られて、そして奴隷の王座になって非常に祝福して、また天国したような彼でした。
上がったり下がったり、上がったり下がったりしていくんですね。
ところが、今日も先ほどのこの1の働き7章の10節に書かれているように、9節の後半に書かれているように、しかし神は彼と共におられたとありました。
奴隷として売り飛ばされた彼。
また、その誘惑を拒んだためにぶち込まれた彼。
そんな彼がですね、神は彼と共におられたと、荘石にもこのステパナの説教にもそれが書かれているんです。
神様はですね、本当に背後で神様がですね、一生懸命働いておられるんですね。
そして、その牢獄に入れられてしまった。それで予選後の生涯は終わったんですか、皆さん。
そうではないんですね。不思議にパラオは夢を見ました。
それをね、僕、解説できる者はエジプト中に一人もいなかった。
それを予選後がですね、呼び出されてそれを解きました。
そして夢を解いたところ、それがエジプトの大帝国を支配するような将来の契約とつながるものであった。
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資金を備える、そういうものだった。
そしてパラオはね、その通りにしてもらってですね、いよいよこの予選後はパラオによってですね、いわゆる総理大臣のような皇官に任じられました。
その大帝国のエジプトのすべてを任せることになったんです。
不思議なことが起こるんですね。
さっきの見たこのステパノの説教はですね、まさにヨシエフの生涯は奴隷に行って囚人になって、しかもその中で終わってしまわずに逆転して、
エジプトの総理大臣にまでされて、そして約一族の命を救ったとね、ステパノがこの使徒の働き七章に語っているわけです。
神様はヨシエフだけではなく、ヨシエフと同じように私たち一人一人を選んで、召して、同じような説理を持って導いていて下さるということ、この朝共に覚えたいんです。
歴史を導く神様ということですけれども、族長たちをヨシエフを値段でエジプトに売り飛ばした。しかし神は彼と共におられ、あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプトをパラオの前で恵みと知恵を与えられたので、
パラオは彼をエジプトのと王の善下を治める皇官に任じましたと。そしてそれをね、また荘石に戻って一緒に読みたいと思いますけれども、荘石の四十五章の四節から、今日の聖書箇所ですけれども、もう一度皆さんご覧下さい。
先ほどの使徒の働きの御言葉とこの部分をですね、合わせながら読みたいと思いますが、四節からご覧下さい。私が読みします。
ヨシエフは兄弟たちに言った。どうか私に近寄って下さい。彼らが近寄るとヨシエフは言った。私はあなた方がエジプトに売った弟のヨシエフです。
私をここに売ったことで、今心を痛めたり自分を責めたりしないで下さい。その後ですね、神はあなた方より先に私を使わし、命を救うようにして下さいました。と告白していました。
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ヨシエフを売った兄弟たちとお父さんのヤコブのその金に貯金が来ました。そのままだったらですね、もうみんな飢え死にするわけなんです。それで食糧をもういただくためにエジプトにヤコブの息子たちが下ってきた。
そこでこのヨシエフに出会ったわけなんです。そしてヨシエフは自分があの時売られた弟ヨシエフなんだと。
そしてね、その兄弟たちをヨシエフはそこで復讐でもしてもいいような十分できる交換になっているわけですから、何でもできるわけなんです。力があるわけなんですね。
しかしヨシエフは恨みも痛みも怒りも一切負っていないです。皆さんこれが信仰なんです。
自分を奴隷に売ってしまった兄たちよ、あるいはその前に自分を無実の罪を負わされたポテファルの奥さんを恨んだり妬んだりしていたら、この45章あるいは後で見ますが50章でのヨシエフはいないでしょう。いないんですよね。
彼はこういうふうに告白をしているんです。私をここに売ったことで今心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神様はあなた方より先に私を使わし、命を救うようにして下さいました。
この2017はこういうふうに訳されていますが、前の交互訳とかはですね、命を救うために神はあなた方より先に私を使わしたとなっていますね。私はそっちの方が訳が好きといいか、原文に合っているかな、私は個人的にそう思うんですね。はっきりと目的が書かれているんです。
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命を救うために主はあらかじめ全てご存知だから、先にヨシエフ自分を使わした。だから自分が奴隷になって売られてしまったのが神様の摂理なんだ、神様の計らいなんだと彼は告白をしているんですね。
もう一度ヨシエフは同じ話を繰り返して言っていますね。
命を生き延びさせるためだったんですよ、とヨシエフは何度も神が私を先に使わされた。命を救うために告白をしているんですね。
なんと素晴らしいでしょうか。どんな危機も異世代の民を抹殺することはできないんだと。あらかじめ主は全て整えをもって備えておられるんだとヨシエフは告白をして兄たちにそれを聞かせているんですね。
大いなる救いによって、あなた方を生き延びさせるために神様は私をあなた方より先にお使わしになりました。
確かにヨシエフの兄たちは悪いことをしました。自分の弟を奴隷で銀20シケルで売ってしまったんだから。人心売買のありえないことなんです。最悪の罪なんです。
ヨシエフの生涯にこれ以上悪はないほどの悪なんです。彼らがしたことは。
そしてその悪を犯した兄弟たちはヨシエフには許されましたけれども、実際に他の兄弟たちはヨシエフほど祝福されていないことが葬石、聖書にそれが明かしされているわけなんです。
21:01
けれども皆さん知っていただきたいですが、神様を信じる者に神様にだけ信頼する者、どんな悪いことが自分に起きたとしても、やられても、言われても、悪口されても、あるいは誤解されても、
神様だけを信頼する者は周囲の人がどんなことをしたとしても恐れません。心配しません。びっくともしません。なぜでしょうか。
ヨシエフのように自分が正しく、真っ直ぐに神に向かって真っ直ぐに正しく歩んでいるならば、周りからどうやられても、どう言われても、奴隷に売られても、悪口されても、抽象されても、恨まれても構いません。
神様はそれらをその悪を犯した者には主がさばいてくださる。しかし私には主がそれらを益に変えて恵みの取り計らいのうちに導いてくださること、勝利に祝福に変えてくださるということを信じるからなんです。
これがヨシエフの障害が表していることなんですね。
葬式を飛びまして50章にちょっと行きましょう。最後の章になりますが、50章の19節からご覧下さいますか。葬式の50章19節から読みたいと思います。98ページです。
私が読みます。ヨシエフは言った。恐れることはありません。どうして私が神の代わりになることができるでしょうか。
あなた方は私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。この部分ですね。それは今日のように多くの人が生かされるためだったのです。
20節もう一度私が読みます。よくご覧下さい。あなた方は私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように多くの人が生かされるためだったのです。
24:11
簡単に言ってヨシエフはこう言っているわけですね。あなた方は私に対して悪を企んだ。私を不幸にし悲しませ。絶望のどん底に叩き落としたけれども、神はそれを良きに代わらせてくださった。というふうに言っているわけです。
ここの良いことという言葉は言語で頭部と言いますが、頭部。これは単なる善、良いことではなくてですね、もっと深い意味があってですね、それは日本語で表しにくい言葉ですけれども、
恵み深い愛の取り扱いが含まれている善なんです。
だから単なる道徳的に悪い良いの良いことじゃなくてね、そこの背景に神様の恵み深い愛の取り扱いが含まれている善がこの頭部という意味で、それがこの良いことの意味なんです。
だから良いことだけでは、どこの国の言葉もそうですけど、この良いことだけでは意味がもう足りませんね。不十分ですけどね。だから都合よく言ったとか、そういう意味じゃないんです。
深い深い永遠からの神様のご帰還があって、しかもそれが恵みと愛に基づいた深いその愛と恵みによる神のお取り扱いが含まれている善なんです。
それに主が帰ってくださった。だから私は心配しない。だからあなた方も恐れなくていいんですよという話になる。皆さんこれはね、神様をどれだけ信頼できるかということなんですね。
私たちもしばしば生きていく中で、社会人は社会人として、学生は学生として、それぞれ人はですね、本当に自分は何もしていないのに、ただ忠実に神の道を歩んでいるだけなのにですね、時には誤解されたり、時には悪口されたり、時には抽象されたり、あるいは人にやられたり、
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いろんなことが起きたりするんじゃないですか。信仰と関係なくてもですね、いろんなことが起きたりするんです。で、悔しがったりね、恨んだりね、もう頭に来てですね、もうストレス溜まってですね、私みたいに癌になったりね、そういうことがあるかもしれませんが、
人が自分に悪を図ったとしても、恐れることも心配することもないのではないでしょうか。
なぜなら、与世保のように私たちが正しく歩んでいるならば、神様にだけ信頼して黙々と歩んでいるならば、人からめちゃくちゃね、認められて褒められることがなくても、褒められるところからむしろ抽象されたとしても、
神様はその悪を良いことのための計らいとしてくださるから、恐れることも心配することもないんですね。これが皆さん、神様の全知全能を信じるということなんです。
一箇所、聖書を開いて、メッセージを終わりたいと思います。
ローマ人への手紙、8章28節。
新約の310ページです。
私が読みします。神を愛する人たち、すなわち神の御計画に従って命された人たちのためには、全てのことが共に働いて益となることを私たちは知っています。
だから皆さん、私たちが何をしても、悪をしても、何をしても、それを主が益にして良いことにしてくださるんですよ。そういう意味ではありません。
これ、大体そんなふうに皆さん捉えるんです。そういう意味ではないんです。
私たちが神を愛して正しく歩むならば、そんな中で良いことも悪いことも起こるだろうと、その全てを主が共に働いて益としてくださるんですよ。
30:01
でもその益は、寄せ具のように、いつでも祝福でいつでもプラスだけの話ではありません。かけりません。
時には、私には益のように思われないことですが、神様の判断では、これはもうあなたのための益なんだよといった、自分にとってはちょっと悲しいこととか、今の私の癌という病気みたいなことが起こるんです。
人間的に見れば、益じゃない、これはマイナスだと思われることがあるかもしれませんが、神様の判断では、それは益ですよと起こるんです。
だから皆さん、どういうふうに捉えるかが信仰次第なんですね。
最後にもう一箇所すいません。一箇所開いてメッセージを終わりましょう。
四編84編6節です。旧約聖書の1022ページですね。
1022ページ四編の84編6節。私は読みます。
彼らは涙の谷を過ぎる時も、そこを泉の湧くところとします。
アーメン。お祈りしましょう。