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ハレルヤ、イエス・キリストの復活をお祈り致します。
今日も、この復活祭礼拝にようこそいらっしゃいました。
神様が本当に、この難しい状況の中でも、また今日、このように多くの方々が街道一般になって、
ともに、今年の復活祭礼拝をともに、守られて、生かされて、
礼拝できますことを本当に感謝致します。
去年もそうでしたけれども、今年も、この新型コロナパンデミックという、
この難しい状況の中で、皆さんが信仰を持って、また家族を誘って、
ともに、礼拝できますことを本当に感謝致します。
礼拝を守る皆さんの信仰を神様が喜ばれると信じております。
今日のこの復活祭礼拝が、信者の皆さんにとっては、
命と希望の信仰を再確認する礼拝でありますように、お祈り申し上げます。
また同時に、救助者の皆さんには、十字架と復活のイエス・キリストに出会って、
その真理を悟り知る救いの信仰に至りますように、心からお祈り申し上げます。
私自身、何度もお話しているところではありますけれども、
1月29日、肺がステージ4B診断されて、
医者からは、根治は不可能であると、
抗がん剤治療をして、がんの進行拡大を遅らす治療をするだけだと言われました。
直接、医者から言われたわけではありませんが、
自分で勝手に、まだ子づいちしかなっていないんだけど、
余命が短いかもしれない、みたいな思いまでしました。
しかし、本当に皆さんを始めて、多くの方々に祈っていただいて、
主が薬を用いてくださって、
たったこの2ヶ月間に、このように主が癒してくださっていることを、
私自身も実感していますが、
私を見ている皆さんも実感していらっしゃるのではないでしょうか。
神の癒しを信じて、進んでいきたいと思います。
だから、私自身、本当に、
どの年の受難集、復活祭、礼拝より、
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今年の受難集と復活祭、礼拝は、
私が死んだわけではありませんが、ほぼ死んだみたいなものでしたから、
本当にその死がどういうものなのか、苦しみがどういうものなのか、
生きるということがどういうものなのか、本当に深く、
真摯に真摯に経験して、日々過ごしております。
今日、この十字架、また復活の御言葉を共にいただいて、
神の心を悟り知る我々でありたいと願っております。
短くお祈りいたします。
天皇、父なる神様、主の皆をあがめて賛美いたします。
よみがえられた主よイエス・キリストを心から賛美いたします。
また、私自身も本当にイエス・キリストを信じる信仰によって生かされている、
毎日がよみがえりであり復活であり、命であることを信じて心から感謝いたします。
今日も様々な事情の中にありますが、
その中でも主が私たちの信仰と健康とまた志を守ってくださって、
ここに集わせてくださりました。主よ感謝いたします。
賛美の中で、祈りの中で、あるいはメッセージの中で、あるいは聖書が朗読される中で、
生きておられる復活のイエス・キリストに出会う我々でありますように、
主を見るこの礼拝でありますように、
どうか一人一人を守り、祝福に満たしてくださいますように、
聖霊様が主をわかるように、どうか教えてくださいますように、お願いいたします。
そして、それに私たちが応答する信仰も、上からお与えくださいますように、お願いいたします。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は十字架と復活のイエス・キリストという題をもって、
この死、それから十字架、それから復活、大きなこの3つのテーマを一つにして、
御言葉から恵みを共にお受けしたいと思います。
昨年の2月頃からでしょうね、この新型コロナウイルスの感染が、
もう世界中に広がってですね、もう1年過ぎている今も、
全世界は感染の恐れ、死、あるいは病気、その恐怖に震えて、
世界がもう地球が震えているようなところであります。
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私たちはその中でですね、自分をあるいは家族を守るために、
もう懸命にいろいろ取り組んでやってきました。
学校は休校して、オンライン授業をしたり、緊急事態が発令されたり、
ソーシャルディスタントとかで聞いたこともないような言葉が言われてですね、
教会もこのようになっておりますし、
一時期礼拝もですね、もう街道で集まることを中止したり、消毒をしたり、
外出をですね、遊びたいんだけれども、出れなかったり、
このように今日もそうですけど、みんなマスクをかけてもう1年が経っています。
マスクをかけていないことがおかしいほど不慣れなことになっているような、
まさに変わった世界になっていますね。
一角ではコロナ以前の時代、世界には戻ることはできないだろうと言われているくらいになっています。
また調べてみましたらですね、統計によりますと、
最近までこのコロナで死亡した世界の死亡者数は、
約283万人に至るそうなんです。
世界でですね、そうすると大ジャパンに行って、
1年間でこの神戸市の2つが地球上で消えたということになるわけなんです。
近代のどの戦争の死亡者数より多いそうなんです。
これはある意味で恐ろしいことであります。
みんな死ぬことを恐れています。
それが悪いという話ではありません。自然な感情かもしれません。
ワクチンが開発されて、接種が始まって、少しの規模が見えたりしますけれども、
でもそれもそれなりにワクチンに対する不安があるわけであります。
世界は本当にそれぞれこのコロナウイルスと戦っているんだなと思います。
そして同時に、この死というものは人類最大の課題ではないでしょうか。
若いものも大きいものも。
子どもだから病気にかからないわけでもありませんね。
小さい赤ちゃんも、5、6歳の子どもたちも小児がんとか、
白血病のそのがんとか、大人は大人として様々ながんや病気や事故や事件に
私たちは晒されているんだなと思います。
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その中で立ち止まって一つ考えていただきたいんですね。
私たちは実際に何を恐れているんでしょうか。
私たちが恐れていることは何でしょうか。
それはコロナウイルスじゃなくて、そのために私たちが死ぬことなんですよね。
死亡、死ということです。
もしですね、コロナにかかってもですね、風邪みたいにですね、
どこかドラッグストアあるかに行って風邪薬買ってですね、飲んだらもう1週間で治りますよと、
死ぬことはありませんよ、ちょっとね、咳が出るくらいですよと言ったらですね、
世界はこんな大騒ぎにはなっていないでしょう。
マスクもあまり使わなくていいし、学校は休校しなくていいし、隔離をしなくていいと良かったと思うんです。
でも今のところは、これからどう変わるかわかりませんけれども、
今のところはこの新型コロナウイルスにかかったら亡くなる確率が高い方だから、
私たちはその死を恐れているわけなんですね。
ある意味で子どもにとっても大人にとっても、金持ちにとっても貧しい人にとっても、
どの時代の人にとってもこの死というものは、ある意味で最大の恐れの対象ではないかと思います。
みんなこの死というものの前には恐れるんです、怖いんです、死にたくないんです。
コロナ感染とか、私みたいにがんとか事故、事件、それがなぜ怖いんですか。
死ぬからなんですよ、死ぬから。
ところで、この死に対する一般的な考えと、聖書の教えは全く違うということです。
一般的な見解は何でしょうか、考え方はね。
人が死ぬことは自然的な現象と言われるんじゃないですか。
年をとって亡くなる。病気になって亡くなる。事故で亡くなる。
心臓が止まって亡くなる。
それで脳に酸素が行かなくて亡くなる、脳死。
で、医者が診断するわけですよ、死亡と。
それも間違いではないんです、その通りです。
しかし、聖書は死の原因について何と言っているんでしょうか。
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それは死は罪の結果であると断定して話しています。
他の説明はありません。
聖書の最初の書、荘石を見ますとですね、
神様がアダムとエバ、最初の人間にたくさんの果物とか実とか何でも食べていいんですよ。
でもこの一本の善と悪を知る木の実を食べてはいけませんよ。
食べたらあなたは必ず死ぬ。
あなたは必ず死ぬと言われたんです。
そしてアダムとエバは食べてはいけないという、食べたら必ず死ぬよといったその実を食べてしまいました。
そして彼らにもその子孫の私たちにも全人類に死というものがもたらされたということなんです。
だから聖書はですね、このように人の死の原因について、その原因は罪であると言っています。
しかしですね、今日もそういうふうに思われ方がおられるかどうかわかりませんけれども、
例えば初めて教会に来られたとか、あるいはたまに、あるいは旧土社の方が教会に来られてですね、
今日みたいに説教の中でですね、あなたは罪人ですと。
我々はみんな罪人ですよと言われたら不快な思いがします。
あんまり嬉しくないんですよ。
特に勤勉に生きてこられて、人に特に迷惑をかけたこともないですし、特に悪いことをしたこともない。
私にあなたは罪人と、あなたは悔やるためなさいと言われたらですね、もう二度と教会に行きたくないような、そういう思いもするかもしれません。
ところが皆さん一緒に、これは一つの仮定ですけど、考えてみましょう。
私たちは小さな嘘をつくことをですね、そんな大きな罪と思いませんね。
ところが、1日たった1回だけの嘘をつけるとしましょう。1回だけですよ。それでも素晴らしいかもしれません。
1年になったら何回になるんですか。365回。
10年になったら何回になりますか。3650回。
50年毎日嘘をついたとしたら何回になるんでしょうか。18250回。
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80年間、そんな人はいないと思いますけど、これ仮定ですよ。
80年間毎日嘘をたった1回しかつけたことだったとしても、80年としたら、なんと29200回の嘘をつけることになる。
あるいは聖書はですね、イエス様が実際に誰かを殺したことがなくても、心の中に誰かを憎むとしたら、その人は人を殺したことだとね、言われました。
1日1回だけ誰かちょっとだけ、0.5秒だけ、あの人はいないだな、みたいにね、憎んだことがあったとしましょう。
それを80年間そんなことがあったとしたら、半分だけとしても14500以上の人を殺した私たちということになるんです。
罪から自由な人一人もいません。
ただ、自分自身が罪人であることを認めるかどうかの違いがあるだけだと思います。
私たちはみんな毎日、本当に毎日、小さな罪、あるいはそれよりもうちょっと大きい罪、あるいはもっと大きい罪を、何かしらの罪を犯しているということなんです。
みんな我々は罪人であります。
だから、罪の観点から見ればですね、私たちはみんな最初の人間、アダムとエバにつながっているんです。
ところが同時に、なぜ私たちはその罪の結果である死を恐れるのでしょうか。
その理由は、自分にコントロールできないからなんです。
病気でもそうですし、死ぬことを自分でコントロールできないんです。
皆さんで皆さんの命を、もっといい時代に生きたいんだから、あと50年ちょっと伸ばそう、できる方はおられますか。
できないんです。
コントロールできないから恐れるし、つらい、怖いということなんです。
これはですね、実は聖書を照らしてみれば、大事な事実を教えているんです。
それは、私たちの命は子供であろうが大人であろうが、その命の持ち主は主人は自分ではなくて、私の命の主は神様であられること。
神様が私の命の主であることを、その方が全てを持っておられる。
主権は神様にあるということなんです。
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全ての人々は、この命の主である神の前に立たなければなりません。
だから人々は死を恐れるんじゃないでしょうか。
それからですね、何より、聖書が罪と関係して教えている大事な真理があります。
それは死の後には永遠の刑罰があるということなんです。
死の後には必ず永遠の刑罰がある。
そしてこの罪の結果である永遠の刑罰の地獄の恐れを、恐怖を、人間の力では誰もそこから避けることはできないと聖書は話しています。
もしですね、人がこの私の存在が、魂とか霊とかそんなものはなくてですね、
もうこの体だけあったならば、そんなに死ぬことを怖がらないかもしれないですね。
もう死んだらですね、その後に何も残らないし。
しかしどうですか、人間は体だけの存在ではないんですね。
それが精神であろうが霊魂であろうが魂であろうが霊であろうがいろいろ説明がありますけれども、
人間は体とこの霊魂、霊魂を持っている存在である。
だからその霊魂、魂がですね、死んだ後、裁きの中で永遠の死窮苦を抱くか、永遠の刑罰に下されるか、どっちかになることを、
その魂はそれを恐れるということなんです。
それを恐れるんです。
少し日本に来まして、13年、14年になりますけれども、
たまに信者の家族の葬儀にですね、そこに出させていただいて、
見たことがあって、少し感じたことがあるんですね。
例えばその信者の家族の方が未信者でですね、仕方がなく、いわゆる仏教式で葬儀をする。
ところがその亡くなった方は普段お寺に行ったこともほとんどない。
ところが葬儀を誰に頼むと、それで日本は普通に無宗教の人もお坊さんに頼むわけなんです。
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生前何の係もない、一度も見たこともない、話をしたこともない、
私のことにしても特に知っていることもない赤の谷みたいな、
もちろん自分は亡くなったり、自分が頼んだわけではありませんが、
家族がですね、どこかのお寺の有名なお寺のお坊さんに頼んで、
写真を差し上げて、それで自分の魂をまるでそのお坊さんに預けるみたいに。
皆さんもそういうふうに皆さんの魂を真っ赤の谷の私のことを何にも知らない、
そういう人に預けたいんですか。そうしたくないでしょう皆さん。
皆さん真剣に考えていただきたいんですね。
自分自身の魂を誰に預けるか。
私を創造し私を愛し、一人後イエス・キリストを十字架につけて死なせるまで私を愛してくださったその神様に、
イエス・キリストに今もなお愛しておられるその神様に、我々の魂を預けたいんです。
それを信じるから、そしてその後の世界に対する確信があるから平安なんです。
だからそういう確信を持っている方々は、四篇の二十三篇の六節の御言葉のように、
私はいつまでも主の家に住まいます。私はいつまでも主の家に住まいますと賛美ができるんじゃないでしょうか。
この確信を持っていますから、嵐の中にあっても、コロナのこの感染の恐れの中にあっても、
あるいはいろんな病気の戦いの中にあっても、静かな湖のように平安に満ちて日々生きていけるんですよ。
いかがですか皆さん。この頃皆さんの暮らしというか生活はどうでしょうか。
今の時代に大変じゃない人は誰もいないと思いますね。本当に混乱の時代です。難しい時代なんですよ。
自分自身の健康のことも心配ですけれども、自分が健康であっても、奥さんの方が、あるいは孫の方が、
あるいは自分の親族の誰かが病気で糖尿していて、しかもそれが何年も何十年も続いていたら、そのためにずっと心に思いがあったりする。
あるいは治療したくてもお金の問題があったりします。
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お金をたくさん持っていたら、いいところで介護を受けながら老後を暮らしたいなと思うが、皆さんにおありかどうかわかりませんけれども、そうしたくても
家庭の経済的な問題の中で、どうしようもなくて苦しいつらい思いをする方々もおられるでしょう。
あるいは夫婦間の間でいろんな考え方が違って、あるいは宗教が違って、つらい思いをする方々もおられるでしょう。
あるいは息子とか娘とか、その相手のお婿さんとかお姉さんのことで、いろいろ頭が痛いほど複雑な問題で、つらいな、つらいなというふうに日々を過ごしている方もおられるかもしれません。
しかし、そんな中にあっても、復活の主イエス・キリストの命にあって生きる人は、私はいつまでも主の家に住まいますと言える、宣言できる信仰に生きているから。
たとえこの地上の暮らしが、つらいこともあったり、しんどいこともあったり、頭痛いと、もう逃げたい、そういう思いが少しはあったとしても、しかしイエス・キリストにある希望を持っているから歩んで生きるんです。
決して滅びはないということであります。
しかし聖書の話は、人の永遠の刑罰、死、そこで終わっていないんです。
聖書は唯一の神様が、創土主の神様が、救いの神様が、私たちが受けるべきその刑罰を代わりに受けてくださる。
そしてそこから救ってくださると語っておられます。
だからここで十字架が登場します。
皆さん、ぜひ聞いていただきたい。
人間の死に対する唯一の答えは十字架なんです。
イエス・キリストの十字架。
ところが、よく考えてみたら、この十字架というものは、私たちの頭では測り知ることのできない神様のミステリーなんです。
神のミステリーなんですね。
唯一の誠の神様が人間になられました。
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そしてそのイエス様が、癒し人間の罪とその結果である永遠の刑罰を代わりに背負ってくださいました。
そしてその凄まじい苦しみの十字架にかけられて、吹き付けられて、物知られ、苦しまれて、死なれました。
イエス様は十字架で完全に死なれて、完全に埋葬されました。
しかし皆さん、イエス様は神様なんです。
不可能のない言葉で宇宙万物を作られた神様なんです。
その神の独り子なんです。
神のような人間ではないんです。
全く神様なんです。
だから皆さん考えると、何でもできる不可能のない神様が、そのイエス様もそのお父さんの父なる神様も、なぜあの無力な十字架、何もできない十字架で死ななければならなかったのか。
なぜそこでイエス様が付けられて死なれることを、神様は何もしなかったのだろうか。
イエス様が十字架であまりにも苦しくて、
エリー、エリー、レマ、サバクタニ、
我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですかと叫ぶときに、一体神様は何、どこで何をしておられたのでしょうか。
なぜ神様は何をしなかったのでしょうか。
私たちはそれを知り尽くすことができない。
全てを理解できないということなんです。
だから十字架は神の神のミステリーなんですね。
私たちはある意味で神様が、イエス様が、精霊様が教えてくださる分だけ、十字架について、神について知ることができるんですよ。
だからある本で読んだら、ある神学者はイエス様の十字架についてこう言いました。
神によって神が死なれたこの神を誰が計り知ることができるだろう。
神によって神が死なれたこの神を誰が計り知ることができるだろう。
本当に計り知ることができないんですね。
ミステリーなんです。奥義なんです。
神様は私たちを罪から、その永遠の刑罰から、恐怖から、死の恐怖から救うために、イエス様を代わりに死なせる十字架をあられ火になりました。
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そしてこの救いの道を信じる者には、
罪とその結果である死の永遠の刑罰から救ってくださって、自由をくださって、永遠の命をおあたりになります。
だから神様の、神の愛の最大値は十字架であると言われるんです。
神の愛の最大値は十字架である。
イエス様の復活は、実、今までお話ししました、罪、死、十字架、神の愛を言わずには、そこに至ることができないんですね。
私たちの全ての罪を許して、このサタンの鎖から私たちを買い戻すために、死という代価を洗ってくださった。喜んで洗ってくださった。
そして神なるイエス様は、墓から三日目によみがえられました。皆さん信じますか。
その復活をですね、空いているお墓が証明してくれる。
多くの弟子たち、何百人以上の人たちが、そのよみがえられたイエス様に出会って、しゃべって、一緒に食事をした。
彼らが証人である。
そして、彼らが集まって建てられた、あの一世紀の教会、そして今に至るまでのこの信仰教会が、その証人でありますよ。
イエス様は、そのサタンの頭を打ち砕いて、死の力に打ち勝ってよみがえられました。
だからイエス様の復活は、死に打ち勝った勝利であり、しかもその勝利は、永遠であり確定的な勝利なんです。
一時期じゃないんです。
だから皆さん、死に打ち勝ってよみがえられたイエス様の勝利が、私たちの勝利でもありますから、
私たちに対して、イエスを信じる私たちに対して、
罪の力も、死も、闇も、何者も、誰も、私たちの死をイエス・キリストの復活の前では何者でもないんです。
何にもできない無力なんですね。
私たちを滅ぼすことはできない。
怖がらせることはできない。
とらわれることもできない。
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イエス様が死を打ち破って、勝利の主がよみがえられたからです。
これがキリスト教最高の真理であります。
これを信じる信仰について、一箇所、これからね、千章何箇所開けたいと思いますけれども、
まず、ヨハネの福音書11章開きましょう。
ヨハネの福音書第11章、25節、26、27節、一緒に読みたいと思います。
私の聖書では、新約聖書の205ページですね。
よろしいですか。
私が25節読みますので、皆さんで26、27を読みください。
25節、イエスは彼女に言われた、私はよみがえりです、いのちです。
私を信じる者は、死んでも生きるのです。
せーの。
永遠に決して死ぬことはない。
アーメン。
イエス様がですね、私はよみがえりですよ、いのちですよ。
私を信じる者は、永遠に決して死ぬことがありませんよ。
あなたは信じますか。あなたは信じますか。
その答えに対してマリアは、私はあなたが神の子キリストであると信じておりますとですね、大胆にはっきりと答えました。
我々も、どの問いに対しても、どの質問に対しても、このね、マルタのように答えるクリスチャンでありたいんですよ。
その復活の信仰を持っているから、私たちはまたこのように宣言できるんです。
もう一箇所、聖書いただきましょう。
新約聖書、ローマ人への手紙、8章、37、38、39節。
ローマ人への手紙、第8章、38節から、37節から読みますね、37節から39節。
新約聖書の311ページです。
私が37節読みますので、みんなで38、39、信仰を持って、もう宣言する信仰を持ってですね、一緒に読みたいと思います。
37、私は読みますね。
36:02
しかし、これら全てにおいても、私を愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
せーの、俯身しています。
死も、命も、見つかりたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな非造物も、私たちの主、キリスト、イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
アーメン。アーメンですか、皆さん。
今日のような日は、アーメンと言っていいんです。
私たちを引き離すことはできません。
それが死であろうが、何であろうが、
蘇られたイエス・キリスト、私たちに復活の希望を与えてくださったイエス・キリストにある私たちを、その愛から引き離すことはできません。
それがコロナであろうが、ガンであろうが、何であろうが、引き離すことはできません。
信仰が、イエス・キリストの愛が、復活が、その確定的な証なんですね。
何者も、誰も、どんな者も。
私たちの主、キリスト、イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないから、私たちは恐れることはありません。
恐れることはありません。
もう一箇所、復活のことをしたら、ここをぜひお読みしたいと思いますけれども。
コリン島人への手紙第1、15章。
54節、それから55、57まで読みたいと思います。
54節、私は読みますので、皆さんで55、6、7節、一緒に読みますね。
神訳聖書352ページです。
コリン島人への手紙第1、15章、54節。
そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着る時、このように記された御言葉が実現します。
死は勝利に飲み込まれた。せーの。
神に感謝します。
39:14
私たちの主、イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えて下さいました。アメン。アメン。
死は勝利に飲み込まれた。死は勝利に飲み込まれた。
イエス・キリストの復活の勝利に完全に飲み込まれてしまったんです。
イエス・サマは、よみがえりを通して、私たちに勝利を与えました。
だから皆さん、信仰というものは、信仰生活は勝つために頑張るのではなくて、もう既に打ち勝たれたイエス・サマの勝利の上で生きるんです。
アメンですか、皆さん。自分が勝利しようとしても、既に勝利は決まっているんですね。
勝利は決まっている。復活は決まっている。与えられている。その信仰の上に生きることが信仰なんです。
御言葉が宣言しているんですね。死は勝利に飲み込まれた。飲み込まれたんですよ。私たちに何もすることができないんです。
イエス・サマがよみがえられて、シャタンの頭を完全に打ち砕いて下さいました。
信仰を持って、信仰によって宣言して生きていきたいと思います。
私たちは1年以上、このコロナとか他の病気、事件事故、様々なことで恐れを感じて日々過ごしていると思います。
もう全世界が大騒ぎです。幸いにワクチンが開発されて接種が始まっていますけれども、
でもその中でウイルスはまた変種を起こしている。
いくら世界すごいワクチンがあったとしても、ワクチンはウイルスには勝てないかなと思ったりするんですね。
本当にありがたいことですし、感謝のことなんですよ。
しかしこのワクチンも完全なものはない。
特に死に対するワクチンは存在しない。しかしイエス・キリストこそ完全なワクチンなんです。
死は勝利に飲み込まれたから、よみがえられたからなんですよ。
イエス・キリストを救い主として信じて、唯一の神を信じる生徒。
復活の罪と死の力を打ち勝ったイエス・キリストを信じる人々には不安がないです。
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死は勝利に飲み込まれたから。死に打ち勝ったイエス・キリスト。
墓からよみがえられたイエス・キリストが我々の人生の将来に対する唯一のワクチンであり、唯一の希望であり、唯一の力なんです。
これを信じていくことが復活の信仰なんです。
メッセージをあげたいと思いますが、皆さん、確信をお持ちください。勝利の上に生きていってください。
我々にはイエス・キリストによる復活の希望が与えられています。
だから感謝の中で、喜びの中で、賛美の中で生きて生きることができるんですよ。
ちょっと弱くても、時にはつまずいても大丈夫なんです。
さっきも申しましたけれども、私自身も本当に信号が弱いものだなと思わされました。
最初何かしらの病気であろうだと思いましたけれども、
肺がんの末期みたいな4期とそこまでは思いも帯びませんでしたね。
最初の頃は、この死に対する恐れを感じました。
もうなかったならばそれは嘘ですからね。嘘を言ったら駄目でしょう。本当に感じました。
しかし、何日か経っているうちに、この復活の信号を主が改めて確かめてくださりました。
生きていても感謝ですし、もう亡くなっても死んでも感謝である。
今はですね、毎朝目が覚めて起きたら、主を感謝します。
新しい日が来ました。新しい日が来ました。主を感謝しますとですね、朝起きるんです。
我々は復活の希望に満ちて生きる本当に幸せな人々なんです。
この主が与えてくださった復活の希望、その勝利を感謝して感激して感動する皆さんでありたいと願います。
復活と天国の希望のうちに歩んでいきましょう。
だから皆さん、生きているうちにも復活の信号で歩んでいってください。
亡くなる時にも復活の信号で天国に入ってください。それが信号なんです。
最後に一つだけ、この復活を知らない周りの家族、友人、父親、人々に、死を恐れている人々に、
45:10
あらゆる苦しみの中に恐れている人々に、辛い思いをしている人々に、希望のない人々に、
皆さん、このイエス・キリストを述べ伝えてください。
皆さん、ここに本当の希望がありますよ。死に打ち勝ったイエス・キリストがおられますよ。
死は勝利に飲み込まれましたよ。ここに復活の希望がありますよ。
イエス・キリストの中にありますよ、と明かしできる皆さんでありたいと願います。
イエス・キリストは、死の力を打ち勝ってよみがえられました。
アーメン。お祈りいたします。