神の子とされる
湿気が多い日です。少し身体を楽にしながら、メッセージを聞いていただけたらと思います。
一言お祈りをいたします。
ああ恵み、計り知れぬ恵み、我にさえ及びりと。
愛する天の父なる神様、主の皆を賛美をいたします。
今日も私たちを、あなたの御前へと招いて下さり、
あなたが豊かに恵もうと、この場所で待ち構えていて下さっていることを感謝をいたします。
私たち、それぞれのうちに、罪の歪みがあるものですけれども、
そのような私たちを、神の子とし、そして、あなたの弟子とするために、
イエス・キリストが、あの十字架で血を流して下さいました。
それによって、私たちの罪が完全に許され、神の子とされ、それだけではなく、
永遠なる人と共に生き続ける、永遠の命を与えて下さったことを感謝をいたします。
あなたはもはや、自分の足だけで立つのではない、私の恵みによって、私と共に歩むのだと、
あなたは語りかけ続けて下さり、そして、あなたと共に、私たちが御国を築く、
そのような働きへと招いて下さっていることを感謝をいたします。
罪の歪みへの対処
神様、私たちは本当に、いろいろなものを抱えています。
疲れがあり、戦いがあり、言葉にはできないうめきがありますが、
あなたは全てを御存じで、今ここに私たちを招いて下さいました。
どうか御言葉を聞かせて下さい。
悟りなき者に、あなたが悟りを与えて下さり、
私たちが共に、あなたの御前に跪き、励ましを受けて、
ここから立ち上がっていくことができますように、私たちを顧みて下さい。
お願いいたします。
ここに来たくても、来れない方々がいらっしゃることを覚えます。
御自宅で礼拝を守らざるを得ない方、施設におられる方、
また心と体が痛み、傷ついて、今日来れない方、
体が疲れておられる方いらっしゃることを覚えます。
お一人一人にどうか主が届き、語りかけて下さいますように、
お願いいたします。
世界での戦争が収まりません。
主をどうか、平和の主が、そのうちに働いて下さい。
一生者にあなたが働きかけて下さい。
どうか被害に遭っているお一人一人を、どうかお守り下さいますように、
災害のうちに苦しんでいる一人一人に、また主が慰めを注いで下さいますように、
お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。
御言葉を主が開いて下さい。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン
私は子供の頃に、子供向けの礼拝ですね、
教会学校というものに通っていたんですけれども、
教会学校の時間に献金の時間があるんですね。
家から出て行く時に、母親から今日の分って言って10円玉をもらうんですよ。
それを握りながら教会に行くんですけど、
皆さん経験ないですかね。
ある時、出来心で献金袋に献金を入れるふりをしながら、
それを入れずにポケットに入れたことがあったんですね。
ほんの出来心です。
誰にもバレてないだろうと思ったんですが、
教会学校のある先生にはバレてまして、怒るでもないんですよ。
終わった後、笑顔でミックンちょっとって呼び出されて、
耳元で一言言われたのが、
神様は見てるでって言われたんですよ。
私はその言葉にすごく怖くなってですね、
やったらあかんことをやったんやなということであったり、
まあ出来心ですね。
誰にも見られてないと思ったら平気なんだけど、
神様が見てると思ったら、
もう怖くてそんなことができないということを思って、
初めて人生で盗んだ経験ですけども、
でも盗みって怖いことだなとその時に教えられた。
まあそんなことから分かち合わせていただきましたが、
今朝ご一緒に目を向けて参りますのは、
この実会の第8回、盗んではならないという言葉です。
順に実会に私たちはこれまで目を向けて参りました。
キリスト教会の中には大事な文章が3つあると言ってきました。
それは主の祈り、人信条、そして実会です。
実会というのは、先ほど読んでいただきましたが、
出英熟読記の20章の2節から17節の言葉です。
その中には神様との関係や人と人との人間関係のことが書かれてあって、
ある種これはキリスト社にとっての倫理、
私たちがどう生きていくのかということ、
そのことの示唆になる言葉ですね。
何々をしてはならないという言葉が語られるときに、
私たちは時々胸が刺されるんです。
ああ、私それしちゃってる。
でも胸を刺されて、ちょっと痛みながら、
でもそれはきっと私たちの中で歪んで痛んでいる部分なんです。
神様はそのところを指摘して、
回復させるためにこの言葉を語っている。
実感を読むときに誤解してはならないのは、
これは裁くための言葉ではないということです。
私たちを慰め、癒すための言葉ですね。
そのようにして、神様は私たちを、
人間本来の難しい言葉を使えば、
神の形へと回復させようとしている、
そのような言葉です。
この読みました、盗んではならないという言葉も、
そのような言葉なのですが、
この言葉は一体私たちの何に関係するのでしょうか。
人間関係と財産の大切さ
おそらくここに来ていらっしゃる方々に、
泥棒はいらっしゃらないと思いますね。
上昇的に盗みをしている人もいらっしゃらないと思う。
であるならば、盗んではならないという言葉は、
私たちに無関係の言葉なのか。
そもそもこの盗むとは一体何を盗むことであり、
そしてそもそも何が問題なのか、
ちょっとそのことに少し目を向けていきたいと、
そう思っております。
盗んではならないという言葉、
今日目を向けましたが、
これはそもそも何を盗むなということを
意識しているのでしょうか。
おそらく二つほど言えるのです。
一つは、人を盗んではならないということ、
そしてもう一つは、
財産を盗んではならないということです。
ちょっと順に聖書を見ていきますが、
人を盗むな、いわゆる人身売買が
この言葉には意識されています。
今日開いた箇所の1ページめくっていただいて、
この21章の16節というところに
それに関することが書いてありますが、
ちょっとお読みします。
出エジプト記の21章の16節のようにしますと、
人を誘拐した者は、
その人を売った場合も、
自分の手元に置いている場合も、
必ず殺されなければならないということが書かれてあります。
人を誘拐した者を、いわば人さらい、
そして他国に売りつけるという人身売買です。
そういうことが当時の世界はおそらくあったであろう、
私たちの中で想像していただきたいのは、
創世紀のヨセフです。
お分かりかと思います。
お兄さんたちに彼は人さらいに売られて、
エジプトの奴隷にされますね。
ヨセフのことをちょっと思い出していただいたら
分かるかと思いますが、
ヨセフはその後エジプトに行った後、
サラオの自住町のポティファルという人のところで生活をして、
彼は奴隷だけれども、その家の善財さを任されるんです。
当時の世界において、奴隷というのは、
私たちが想像するように無知を打たれてという、
そういう過酷な生活ばかりの人ではないんですよ。
執事をしたり、家庭教師をしたり、
それなりに異色獣が守られる、
そういう立場の人たちもいました。
ただ、ある先生が言いました。
そういう社会であるならばなおさら、
この21章の16節の言葉は重すぎる。
奴隷が当たり前にある世界で、
いや、人をさらって奴隷にするなら死刑。
厳しすぎるんです。異常なまでに。
これは一体何が問題とされているのか、
おそらくですけれども、ここで問題になっているのは、
その人をさらって打って奴隷にするという中で、
相手の人の自由が奪われるということが問題になっているんです。
自由が奪われる。自由が奪われることです。
これは二つ目の、財産を盗むことにも関連をしていきます。
人の財産も盗んではいけませんね。
ただ、この盗んではならないという言葉は、
単に人の財産を盗むだけではなくて、
例えば、商売の場でも意識されました。
旧約聖書の中でよく出てくるのは、ご存知の方はあれですけれども、
エパマスですね。マス目を小さくして小さく測ったりだとか、
売買をするときに、シェケルの重りをあえて重たくして、
買う人が損するように不正な取引をする人たちというのが出てきます。
あれは盗みなんです。
売買において、買い手が損をするように売るというのは盗み。
一方で、買い手が売り手に対して強い圧力を加えて、
もっと安くしろと言って、無理やり安く買うのも盗み。
また、もう一つあるのは、
お金を貸すときに必要以上に高い金利でお金を貸すこと。
これも盗みだと考えられました。
いわば、商売とかお金のやり取りに関して、
そういうことをするのは盗みなんです。
なぜかというと、当時の人たちは私たちほど生活が安定していないんです。
日々生きるだけで精一杯の人がほとんどの世界にあって、
例えば誰かに財産を盗まれるだとか、売買において損させられるだとか、
盗みと自由
もしくはお金を高い利息でされるだとかあったら、
その人の人生、生きる自由というものが著しく揺さぶられるんです。
一人の人間が人生を自由に生きることを奪うことにつながっていく。
盗んではいけないというのは戦術メルトですから、
相手の自由を盗んではいけないということにつながるんです。
相手の自由を盗んではいけない。
さて、そう考えるならば、私たちは盗んではいないのでしょうか。
私が新学校に行っていたときに、学科の鎌野直人先生が定例起答会の中でこういうお話をされました。
日本の生活の豊かさは貧しい第三世界の国々からの搾取構造の上に成り立っている。
その場合、私たちが日本で生活する以上、
貧しい国々から盗むという罪に加担せずに生きることは不可能である。
難しい言い方をしましたが、
私たちはすでにどこかの国からの搾取の上に立って、今の生活があるんです。
私は無知だったんですね。
その話を初めて聞いたときにすごくショックを受けました。
頭で整理しきれなくて、
ただそういうもので買われている毎日ご飯が作られていると思うと、
ご飯が食べたくなくなって、
起答会が終わった後に鎌野先生のところに、
先生、明日から私はご飯がいりませんと言いに行きました。
そしたら鎌野先生にものすごく怒られました。
アホ!と言われてですね。
それは、じゃあ君は日本で生きていたら、
餓死するのかと。
それがクリスチャンとしての生き方だと思っているのかと。
そうじゃないと。
むしろ、私たちはこういう構造、問題がある日本で生きることを自覚しながら、
クリスチャンとして盗まないというのは何を意味するのか。
そのこと、その答えが出ない難しい問題を、
祈り、考え続けなければならない。
君のその発言はその責任を放棄しているに過ぎない。
だから明日から黙ってご飯を食べろと言いました。
本当にいろんなことに頭がいっぱいになりそうな話でしたが、
でもすくずくそれは思わされます。
社会構造としての盗みは存在し、
そしてその中に私たちは生きています。
そして世界には貧しさゆえに、
盗まなければ生きていけない人たちというのがいます。
そういう人たちを私たちは簡単にこの言葉でさばけるのか、
問題はその人個人にあるのか社会にあるのか、
実に複雑な問題です。
だからこそ私たちは祈り、考え続けなければならないというのは、
その通りだと思います。
ただ、その市場も構造も生み出すのは人間です。
なぜそんなことをするのでしょうか。
それは先日めて言うならば、
自分の利益のためならば、
相手に自由があることを忘れてしまう罪人の姿があるんです。
自分の利益のためであれば、
相手にも自由があるということを忘れてしまう私たちの姿がある。
ある先生が指摘をしました。
誰かの自由が盗まれるのは、
傍聴した誰かの自由によってである。
誰かの自由が盗まれるのは、
傍聴した誰かの自由によって奪われる。
私の自由が傍聴するときに、
私たちは相手の自由に対する想像力を失うときがあります。
この人にも自由があるんだということを忘れることがある。
神様は一人一人の存在を愛しておられますね。
私たちは神様に命が与えられて、
そして私たちに人生を神様が与えてくださって、
私たちそれぞれに生きる尊厳と自由を与えてくださっています。
一人一人に自由があるのです。
私たちはその意味で尊い一人なのです。
でもその自由を持つそれぞれの人格を時に、時にです。
でも私たちは私の自由を満たすためにそれを忘れてしまって、
自由を持っている人格じゃなくて、
物のように愛した人を扱ってしまう時が、時に私たちはあります。
人と共に生きていく以上、
相手の自由に干渉せずに生きることは不可能ですね。
私たちは色々なことをしながら、相手から自由をいただいて、
私の自由を相手に差し出しながら、一緒に時間を過ごします。
それは大事なことですよ。
でもおそらく注意しなければならないのは、
当たり前のことだと思ってはいけないということだと思います。
私のこれを満たされるために、
あなたがそれだけ自由を差し出してくれて当たり前よね、当然よね。
それは違うんじゃないでしょうか。
それは一方的に奪うことにつながっていくのかもしれません。
自由という言葉は実に難しいんです。
自由という言葉は何でもありだと思われてしまう。
しかし、私たちもそうですから、
私の自由ということをみんなが主張し始めたら、一緒に生きることなんか不可能ですよ。
自由というものは、ふさわしい扱いが必要です。
でも、そこの自由の扱い方を忘れてしまうことが私たちは、
マルチン・ルターという人物が代表的な作品で、キリスト社の自由というものを書きました。
その中で彼は、
クリスチャンというのは本当に自由を得たものだということを彼は語るんです。
クリスチャンというのは、二つ自由がある。
一つ、クリスチャンというのは、
自由を正しく扱う
あらゆる罪から、キリストの十字架によって、あらゆる罪から自由にされたものだ。
私たちそうですよ。
いろいろな罪の歪みがあって、実戒のこれまでも見てきて胸が刺されることがあるならば、
でも、そこから神様は私たちを自由にし、
回復させ、癒すことができるお方です。
私たちはそのような自由を得ているのですが、
もう一つルターが言ったのは、
そのような自由を持っている私たちは、
自由をふさわしく使う自由が与えられた。
それは何か。
他者を愛する自由が私たちは与えられたと彼は言います。
他者を愛する自由。
ルターの表現って実に独特で、
ルターからするならば、自分勝手に自由を使う人というのは不自由なんです。
それは罪の奴隷だから。
でも罪から解放された私たちは、
自由を正しく扱うように召されている。
相手を愛するために自由を使いなさい。
そうであるならば、
私たちは自由をキリストのように使えているだろうかということが問われるような気がします。
一箇所、パウロの言葉を目に留めて終わっていきたいと思いますが、
今日、中心請求として挙げさせていただきました、
エペソビという手紙の4章の28節というところをちょっとお読みしたいと思います。
これはパウロが手紙を書いたときに、
エペソ書は巡回書館なんですけれども、
教会の中におそらく盗んでいる人がいるということを意識して書いた言葉です。
エペソビという手紙の4章の28節をお読みします。
新約聖書の389ページにありますが、
お読みします。
エペソビという手紙の4章の28節。
盗みをしているものは、もう盗んではいけません。
むしろ困っている人に分け与えるために、
自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさいと彼は語ります。
パウロは教会の中で盗みをしているものがいるということを意識していました。
これは考えてみたらすごいことだと思うんです。
ちょっと想像してみてください。
この街道の座席の中に善か説当でしょうか。
万引きでしょうか。
そう分かっている人がこの座席の中に座っているときに、
私たちその人にどう関わるでしょうか。
おそらく、よく来てくださいましたねと、
兄弟姉妹として関わる。
当然そうだと思いますが。
ただ、私のような心の貧しい人間からすると、
たぶんこういうことを言うんじゃないかなと思うのは、
もう同じ過ちを繰り返さないように、
頑張っていきましょうねみたいなことを、たぶん言うんだと思います。
でもその心にある本心は、
もう社会秩序を乱さないように、
ひいては教会の秩序を乱さないように、
問題を起こさなければいいよ。
それで十分だよということを、
困っている人に分け与える
おそらく私なんかは思うんだと思います。
でも、パウロはそうじゃないんですね。
この言葉を見るときに、
パウロが本当に没解者だなと思わされますが、
彼はこの盗んでいる人に対して、
正しい仕事をしろーくして働きなさいだけを言っているのではありません。
むしろ困っている人に分け与えるまでに、
そうしなさいということを言うんですね。
これは一体何を言っているのでしょうか。
28節というのは、ちょっとだけオメディザイゼーションなしですが、
28節というのは25節のですからから続いている言葉です。
何々だからあなた方は盗んでいたとしても、
分け与えるほどまでになりなさいと言われます。
じゃあ何だからそう言われているのでしょうか。
エペソ書の4章の21節から24節をさらっとお読みしますと、
こういうことが言われます。
ただし本当にあなた方がキリストについて聞き、
キリストにあって教えられているとすればです。
真理はイエスにあるのですから。
その教えとは、あなた方の以前の生活について言えば、
人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、
新しくされることとキリストの形
あなた方が脱ぎ捨てること、
またあなた方が霊と心において新しくされ続け、
真理に基づく義と誠を持って、
神にかたどり作られた新しい人を切ることでしたと。
ちょっと難しいです。
ちょっとまとめてみますと、
パウロが言ったのは、
神様を信じ、洗礼を受けたあなたは古い人を脱ぎ、
新しい人を来たものなんだと言うんです。
これは立場が変わったということを意味します。
あなたは既に神の子、キリストの弟子とされたんだということ。
私たちの言葉で言うならば神聖ですよね。
新しくそうなりました。
そしてキリストに教えられ続け、
その霊と心、いわば人間の根幹から新しくされ続けています。
キリストという真理に表された義と誠、
要はキリストの生き様を通して、
あなたたちは神の形へと回復していっているんですよ。
聖化ということです。
こう言ってももっと難しいです。
でも言いたいことは何かというと、
あなたたちは既に神の子とされ、
そして神様によって日々新しくされて、
神の形へと帰っていくものとされているの。
だから盗んでいる人は与えるほどまでになれると言っているんです。
それは何かというと盗人の姿の中に、
この人の中にも神の形があって、
諦めない神との共に歩む
神の形をまで回復させることが神にはできると、
パウロは諦めていないということです。
盗む人というのは恐らく、
繰り返し盗みたいという欲求があります。
そのため、またやっちゃったということで、
私たちはそういうときに、
自分で自分のことを信じられなくなるときがあります。
どうせまた同じことを私は繰り返すんだと思ってしまう。
そして恐らく周囲もその人を信じられないことがあるかもしれません。
人は簡単に変わることはできないでしょう。
そして恐らく私のように心の貧しい人間であれば、
まあまあ問題なく盗まずそこで生活してくれていたらいいですよと、
そういうところで多分見るんです。
でもこれも冷たいですね。ある種諦めてますから。
でもパウロは諦めないんですよ。諦めない。
正確に言うならば、神ご自身がこの盗人を諦めないんです。
なぜならば、神は人を作り変えることができるからです。
神が私たちの霊も心も新しくすることができるからです。
できるんですよ。
だから神が諦めないならパウロも諦めないって言ってるんです。
私も諦めない。
この勃開したパウロの姿がここにあるような気がいたします。
読みながら非常に反省さされます。
ただこの姿に習わなければならないと心から思わされます。
このように私たち自身を諦めない神が私たちと共に歩んでくださり、
人生の最後まで一緒に歩んでくださるんですよ。
作種の中に盗むのではなくて、むしろ分け与えるほどまでの姿を築こうと、
種は働き続けられる。
デモを終わりますが、この世界からおそらく作種というものが消えた歴史は一つありとしてありません。
歴史において作種は消えたことがないでしょう。
そして私のうちにもおそらく盗みがあって、
もしかしたら与えることよりも奪うことの多い私たちかもしれません。
その事実にどれほど私たちの中で私自身への諦めが積み重ねられてきたでしょうか。
けれども私たちが知らなければならないのは、
この世界も私たち自身のことも諦めようとしない神がおられるということです。
私たちができる応答は一つではないでしょうか。
ただ、私が自由を奪うためではなく、自由を愛するために使うことができますように。
盗んでいたものから分け与えるほどまでに、
あなたの形を私のうちに築いてくださいますようにしよう。
それは私にはできません。
どうかあなたが私のうちを心から変えてください。
そのように、諦めずに主の御前に立ち続けることではないでしょうか。
誰かに言っても解決しません。
主が私たちを変えることができます。
盗みをしているものはもう盗んではいけません。
むしろ困っている人に分け与えるため、
自分の手で正しい仕事をし、道具して働きなさいと。
どうか聖霊なる神様が私たちに満ち満ちあふれてくださって、
見た目の身ですね、愛は。
でも、その方が私たちにその身を結ばせてくださるように、
そのことを願っております。
一言お祈りをして、メッセージを終わります。