1. 名谷教会 podcast
  2. 2024/06/09:羊飼いである神
2024-06-09 29:03

2024/06/09:羊飼いである神

2024/06/09 ファミリーウェルカム礼拝

加藤満牧師

詩篇 23:1-6


サマリー

彼らは一人一人を愛し、捧げている父王とその命は新たな命であり、主の言葉を聞くために目を向け、火のキリストである主を慰めることを祈っています。 彼らは羊飼いである神に導かれ、暗闇の中でも安心して生きることができます。 一つの中屋敷を中心に連動を始めたけいこさんは、神様を信じて歩み、乏しいことがないと感謝の言葉を述べています。

詩編の23編の言葉について
ファミリーウェルカム礼拝にようこそおいでくださいました。心から歓迎をいたします。
また、午後は、午後というか、礼拝後は、子ども祝福を祝いたいと思います。
残念ながらね、今日は来ていないかもしれませんが、ただ、子どもたちの祝福を覚えて、心を合わせて祈りたいと思いますので、ぜひご協力いただければと思います。
今朝は、詩編の23点、この歌詞にちょっと目をとめていきたいと思います。
一言お祈りをして、メッセージを始めます。
天の父なる神様、私たち一人一人を愛し、死の見舞いへと今日も招いてくださったことをありがとうございます。
あなたは、すべての人のために、ご自身をあの十字架へと捧げてくださいました。
その流された父王は、私たち一人一人のためのもどなかであり、そしてまたよみがえられた命は、私たち一人一人を生かすための新たな命であることを覚えて感謝をいたします。
あなたはもはや、あなた自身の足ではなく、私の恵みによって私と共に歩みなさいと、優しいあなたの見声を日々かけられながら歩むことのできる幸いを感謝をいたします。
どうか私たちを、あなたへと今一度目を向けさせてくださり、あなたの言葉を聞くことができますように、かえりみてください。
お願いをいたします。
ご自宅で礼拝を守り、施設で礼拝を守り、本当に様々な事情で来たくても来れないお一人一人がいることも覚えています。
お一人一人をどうか主が慰めてくださり、あなたとまたお出会いすることができますように、かえりみてください。
お願いをいたします。
これからの時をみてに委ねます、あなたがお導きください。
イエス様のお名前によってお祈りをします。
アメン。
今朝は詩編の23編を読んでいただきました。
この詩編の言葉というのは、おそらく聖書全体を見渡しても人気がある聖書の言葉だと思います。
おそらく愛称性質というか、聖書の中でどの箇所が好きですかと聞かれたら、この箇所を挙げる方ってかなり多いと思います。
それだけ何か私たちの心に触れるものがある、そのような聖書の言葉です。
余談かもしれませんが、私はこの詩編の23編というのは、結婚式でもお葬式でも聞いたことがあります。
結婚式の時には、よく結婚されるご夫婦に向かって、
二人の門出を祝うためですけれどもね、どうかお二人で仲良く支え合って生きてください。
でも忘れないでください。
あなたたちを支えてくださるのは、あなただけではなくて、執事会である神様ですよと。
そのお方を見失わないように、ぜひ歩んでくださいという祝辞を聞いたことがありますし、
またお葬式の時に、今日のこの4節に、たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。
亡くなってしまったあの人と、あの人の傍らにもはや私たちは共に歩むことができないけれども、
大丈夫ですよと、死の陰の谷、その道を歩む時も、傍らにイエス様がいてくださいますよ、
だから大丈夫です、安心してくださいということを聞くことがあります。慰めの言葉として聞くことがあります。
ある種喜びの時も、悲しみの時も、何か心に触れてくれる聖書の言葉が、詩編の23点だと思います。
私たち、今朝集っている私たちもきっと、元気だなという人もいればおそらく、
今私は本当にしんどいんですという方もいらっしゃるかもしれません。気候もちょっと落ち着かない中で、心身ともに疲れているという方もいらっしゃるかもしれません。
ぜひ礼拝の時は気楽にしてくださいね。ゆっくり体を休めて聞いていただければと思いますが、
この詩編の23点を見ながら何か、そういう一人一人に慰めになることを願って、ちょっとお話をさせていただこうと思っています。
まず最初に、この1節をご一緒に見たいと思うんですが、1節はこのようなことが言われています。
主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。
この言葉は、この詩を書いたダビデの、一番最初に彼はこの詩の中で確信を表明するところから始めるんです。
私は人生は、この主というお方が羊飼いとして一緒に歩んでくれた。
そして、このお方と人生を共に歩んだ時に、私には乏しいことがなかったなという実感から始まるんです。
乏しいこと欠けたるところがなかったなという実感から始まります。
ダビデは、王様になる前は実は彼は羊飼いという職業を実際にしていた人物でした。
だから、主は私の羊飼いと言われる時、その言葉に実に実感がこもっているんですね。
羊飼いという仕事がどういうものか、彼はよく知っていたからです。
羊飼いという仕事は、クリスマスの時もよく話しますが、この仕事は実に過酷です。
社会的な立場が弱いということもありますが、仕事が大変なんですね。
なぜかというと、羊という生き物は、世話をするのに手間がかかる生き物だからです。
例えば、羊というのは目がよくありません。
明らかに近視、結構強い近視だと言われます。
だから遠方が見渡せないんですね。
ですから羊というのは、自分自身の力で牧草地や水場というものを探すことができないんです。
できない生き物です。
加えて、羊は目が悪いのだけれども、同時に性格が臆病なんです。
主が私たちを導く良い羊飼いであること
でも臆病でありながら頑固なんです。
だから、怖いと思いながらも、この道はあったといって、違う方向に進んでいってしまうわけですね。
結果、一度群れから離れると道に迷ってしまって、
よく野獣の餌食になってしまうということがある。
そのような生き物なのかそうです。
羊飼いというのは、そういう羊の特性を理解をしながら守っていくお仕事ですね。
羊を牧草地や水場という場所に、羊飼いは知ってますから、羊を導いてそこにご飯を食べさせる。
違った方向に行きそうになったら、杖。
杖というのは、羊の方向修正をするためのものです。
そっちじゃないよということをやるということです。
そして、羊飼いが持っている鞭というのは、野獣と戦うための武器です。
羊が野獣に襲われたら、羊飼いは命がけで戦わなければいけないんです。
でも、それを野獣と命がけで戦いながら、羊を守ってくれる。
実は、それが良い羊飼いという姿なんですね。
ダビデは実感を込めて、まず最初に言うのは、私が羊であったとするならば、
神様というのは、本当にこういう良い羊飼いのように私を導いてくれたな、そういう実感なんです。
こういうお方だった。
ただ、この主を見るときに、良い羊飼いだったなという実感は、
この二つぐらいの箇所でも表されていると思います。
二節三節と、四節五節に分けて見ていきたいと思います。
彼はこう言います。二節三節。
主は私を緑の牧場にふさせ、憩いの御際に伴われます。
主は私の魂を生き返らせ、皆のゆえに私を義の道に導かれます。
神様、羊のようであった私を、あなたは牧草地や水場で休ませて下さいましたね、と言っています。
これは、彼自身の反省を振り返っての言葉だと思います。
彼自身が、あの羊飼いに飼われる羊。
ああ、私の人生はああいう羊のようだったけど、羊飼いが導いてくれたと言うんです。
この主を見るときに、タビレが実に、羊と私が似ているということを言うんです。
羊と私はよく似ている。
これは私たち人間もそうかもしれません。似てるんです。
例えば、羊というのは近くのものしか見えないんですよ。
私たちが臆病で頑固であること
近視眼的と言ってもいいかもしれませんけれども、目の前の現実しか私たちは見ることがなかなか。
私が牧師になるときに、先輩牧師の先生がアドバイスをしてくださいました。
それは、加藤さん、牧師というのは目の前の事実じゃなくて真実を見抜かなきゃダメだよ、と。
目の前の事実じゃなくて真実を見抜かなきゃダメだよ、と。
それはきっと目に見える事柄に振り回されずに、その背景にある人の心であったり、色々目に見えないものまでちゃんと見なさいということだったと思います。
確かにそうだと思いますね。
私たちは目に見えることだけじゃなくて、目には見えない相手の心というものを、例えば見なければならないことがあります。
それだけじゃなくて、おそらく自分がやっていることが未来どうなるのかという、将来のことを見て動かなければならないですよね。
例えばね。
けれども、私たちの現実はどちらかというと、人の心であったり、未来を想像しながら動けたらいいのだけれども、現実は目の前のことしか目が詰まらないことが多いと思うんですね。
そしてまた、この羊というのは臆病で頑固です。
でも、おそらく私たちも臆病で頑固なところがあります。
そうではないでしょうか。
ダビデはこうでありましたけれども、自分が解決しようもない問題をいくつも彼は抱えながら生きていました。
そういうところに立たされるとき。
もしくは、抱えきれないような家庭においても、職場においても、抱えきれないような責任ですね。
重責を負わされて、でもその中で決断をしていかなければならないというとき。
もしくは、本当は誰かに受け止めてほしいけれども、誰にも受け止めてもらえなくて、ああ孤独だなと思って悲しんでしまうときに。
私たちは臆病になります。
臆病になります。怖い。
でも頑固なんです。
そうでありながらも、いやでも大丈夫、私はこういう方向に進んでいったらいいはずなんだと思って、
頑張って、怖いんだけれども頑張って進んでいくその結果、外からの声が耳に入らないということがあります。
臆病で頑固。
羊飼いである神
これは私自身もそうだなと自覚をしながらお話をいたします。
近視眼的で臆病で頑固。私の姿だなと思わされます。
けれども、そのような中で私たちは時に本当に道に迷ってしまうということがあるんです。おそらく。
道に迷ってしまう。
自分が何をしているのかがわからないし、どこに行けばいいのかわからない。
お腹は減っているし、喉は渇いている。何かが足りないことはわかっている。
でも、ここに行けばそれが満たされるという場所が私はいつまでもわからない。
実はそれが羊の姿であると言うのです。
神では、私はかつてそういう羊のようだったと告白するのです。
でも、この羊のようであった私を導いてくれる羊飼いがいたと歌っているのです。
神は羊飼いである。
それは言い方を変えるならば、神は私を私一人ではたどり着くことのできない牧草地や水場へと導いてくれるお方だということです。
私だけが歩いていたらたどり着くことのできなかった緑の牧場、肥肥の身際へと私を導くことのできるお方だということです。
そしておそらくそれは羊という生き物にとっては絶対に必要な場所でした。
食べなければ死んでしまいます。
飲まなければ死んでしまいます。
けれども、そこにたどり着けなくて苦しむ羊が多いのかもしれません。
おそらく、そうは言いながらも、私たちで考えるならば、羊飼いのような神がいなくても、おそらく羊は生きることはできるでしょう。
でもそれは、いつまでも飢え渇いて生きていくということなのかもしれません。
今朝お伝えしておきたいことは、羊飼いである神は、私たち一人一人を緑の牧場、肥肥の身際に導くことのできる神だということです。
死の陰の谷
そのお方がいるということです。
ぜひそのことを覚えていただきたいと思います。
そしてもう一つ、この四節五節に目を止めてまいりますと、こういう言葉があります。
たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私は災いを恐れません。
あなたが共におられますから、あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に紅葉を注いでくださいます。
私の杯はあふれています。
四節に死の陰の谷という言葉が出てまいります。
これもまた、ダビデの人生を謳っている歌でしょう。
彼は多くの戦争に従軍いたしました。
その中で成果をあげた王でしたけれども、死というものが常に傍らにあった人生。
後に彼は自分の一人息子に無法、一人息子じゃないですね、息子に無法を起こされて、彼は国を追われるという人生を歩みます。
それもまた死が隣り合わせの人生です。
それはどれほど恐ろしいことであるか、この死の陰の谷という言葉自体に目を留めるならば、これは真っ暗という言葉が2回繰り返されて語っている言葉なんです。
死の陰の谷と言われますが、これは言い方を変えるならば、真っ暗であるということです。
何一つ見えないということを言っているんです、死という場所が。
それは確かにそうだと思うんですね。
私たちは誰も、ここにいる私たちは少なくとも、死というものは未体験のものであると思います。
そして仮に死が私たちの存在の終わりを意味するのであるならば、死が近づくというのは私たちの存在全体を揺さぶります。
これは私もそうだと思います。
その暗さを思うときに、怖くて夜も眠れない日々がある。
旅でもそういう日があったということを詩編に書いていますけれども。
自分の存在全体を揺さぶる痛みや苦しみ、まさに真っ暗であるという谷を歩んでいくときに、私たちがしてしまうことは、この闇の深淵を見つめながら目が離せなくなるということです。
そうではないでしょうか。
病であうならば、病から目がそらせなくなります。
自分の心を揺さぶる問題があるならば、問題から目をそらせなくなります。
それはつらいことですね。
でもなぜそれをしてしまうんでしょうか。
おそらくそれは、私たちの中で、私がそれを把握して、私がそれを解決して、その道筋が立たないと、いつまでも不安だからです。
しかし、全てそれができるとはならないですね、おそらく。
暗闇に見つめながら、いつまでもその道筋が見つからずに不安で恐れて、暗闇に心を奪われるということが、私たちもあるかもしれません。
しかし、ダビデはこの詩編を読むときに、彼は反省を振り返りながら、この闇が暗かったということを振り返っているわけではないんです。
彼が振り返るのは、いや、死の影の谷というあの真っ暗闇の中でも、私は一人ではなかったということを振り返るんです。
私は一人ではなかった。
羊飼いが導く
羊飼いである神様が私と共にいてくれた、死が襲うようなどんな災いをも、あなたの鞭とあなたの杖が私を守ってくれた。
先ほど申し上げましたが、鞭と杖。
鞭というのは、私たちを恐れる者に向き合う神様の力です。
杖というのは、私たちが道を逸らして暗闇に目が捕らえられるときに、そうじゃないよと方向を戻してくれる神様の愛です。
ダビデは言うんです。
あなたは、あの時に、ご自身の力と愛を持って、私を守ってくれましたねと。
あの時に、あなたは私と共にいて下さいましたねと、彼は言うんです。
そしてまた5節も興味深いですが、彼は同じことを語ります。
5節はちょっとだけ比喩が変わります。
これは、旅人を囲まっている羊飼いの光景です。
旅人は敵に追われていますとして、敵が旅人である私を囲っているのです。恐ろしいですね。
でもこれは、その敵を見て恐れる私の心とは対照的に、羊飼いはのんきにその場でご飯を作っているという光景です。
そして羊飼いはきっと、こう言うかもしれませんね、旅人に対して。
よく来たねと。大丈夫だよと。
敵のことは私に任せて、あなたはここでゆっくり休んで、温かいうちにこのご飯を食べなさいと。
そうやって温かいご飯を差し出してくれるかもしれません。
ただどうでしょう。旅人はそのご飯を食べられるでしょうか。
おそらく私であれば、頭の中で、いやどう逃げるかという算段ばかりつきます。
どうやったらこの場所から逃げることができるのか。
そのことでフル回転で頭を回して、おそらく食事がどんな味しているのか想像もつきません。
ただ、私が不安なそのように考えているその姿。
きっとそれは結局、この問題は私がどうにかするしかないと思っていて、羊飼いの言葉なんか信用できないと思っているんですよ。
けれども彼を知る目に羊飼いはここで、まあまあもうちょっとゆっくりしなさいというような彼の立場を確定する油も、そしておそらく乾杯用の武道書も備えているんじゃないでしょうか。
どうしようどうしようと考えている私の横でキュポンと音がする。
この羊飼いは最初から旅人に対してこう言っているわけです。
大丈夫。
敵のことはとりあえず私に任せて、私が作ったご飯を食べなさい。
ゆっくり休みなさい。
神がご自身の愛と力を持って私があなたを守っているんだから、あなたはご飯を食べてゆっくりしなさいって言っているのかもしれません。
一つの話をしてもう終わりたいと思いますけれども。
私は福島県の教会に3年間ご奉仕をさせていただきました。
北方という町の教会でした。
その教会にいたときに、とあるご夫人の方が召されてですね、教会の方が召されてご高齢の方でした。
人生で初めて奏技をさせていただいたわけですけれども、この方は召される前に私はその方のところに行って、よく月に1回、賛美と聖書の学びのときを持っていたんです。
そのときに、その人の反省を聞かせていただくわけですけれども、この方が繰り返しよく言われた言葉が、仲屋敷での13年という言葉でした。
仲屋敷での13年。
どういうことかと申しますと、この方は若い頃に結婚をなさった、お腹に子供ができているときに、ご主人が戦地へと行ったわけですね。
戦地からフィリピンの方に行かれたということですけれども、戦地からお手紙が届いてきて、妊娠の奥様のことを気遣ったりだとか、男の子なら何々、女の子なら何々という名前を変えたお手紙も送ってこられて、
それも実際に見させていただきました。本当に胸がつまらされました。ご主人はもう帰らなかったんですね。フィリピンのルソン島で寝されたということでした。
当時、藍津の地方というのは、農家になるのが当たり前の世界です。
ですから戦争未防止になったこの方も、再婚して農家をお手伝いしなさいということを勧められたそうなんです。
でもこの方は、「いや、私はこの子供を主人の実家で育てたい。」
そう思われて、そのご主人の実家である中屋敷、そこに住まわせてください。ここで育てさせてくださいとお願いをして、ただそこには住む場所がなかったから離れ。
農家だった離れを改造して、そこに住み始めて13年間子供を育てられた。農家じゃなくて和菜を身につけて、近所の方々に和菜を教えて、そのように子育てをされた方でした。
ただ生活は大変だったそうです。貧しさもありますが、心ない言葉がその方を襲いますし、何よりもその人自身の立場もあまり強いところにはなかった。
当時の人たちの言葉を聞くならば、けいこさんです。けいこさんはずっと下向いてばっかり歩いていたということをお話を聞いたことがあります。
神様を信じて歩く
けれどもこの中屋敷の13年の中に、実は中屋敷という場所を中心にして、当時合図で連動を展開しました森山先生が、中屋敷を集会場所に定めて連動を始められた。
そこでけいこさんが聖書に出会い、神様に出会い、そこで神様を信じるんですよ。
当時どういう変化があったのかということをご本人の口から聞くことはできませんでしたが、周囲の方の話を聞くならば、下がっていた目線が神様を信じてからけいこさんは上を向いて歩くようになった。
それだけを言っておられました。下がっていた目線が上を向いて歩くように変わった。
実はこの方の哀愁誓句が今朝の23篇の1節なんです。
葬儀の時も開かせていただきました。
主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。
この方の人生を伺うときに、乏しいことがなかったわけがないです。
乏しいことはあったんです、現実。
ご主人がいなくなったということ、心ない言葉があったということ、けれどもそのような中で、けいこさんという方は人の悪口を全く言わないことで有名だった。
親族の中でも人の悪口を全然言わなかった。
それが信頼を集めたということもお聞きしましたけれども。
そしてけいこさんの口からよく聞いたのは、人間だからねえということでした。
人の現実をよくご存知だったのだと思います。
でも私はそうは歩まない。
そしてよく、助けられてありがたかったねえと、私が最後までお聞きしたのは感謝の言葉でした。
ありがたかったねえ、あの人この人に助けられてありがたかったねえという言葉でした。
最後は本当に穏やかに天に帰っていかれました。
なぜここまで強くあることができたのかと思わされます。
乏しいことがたくさんある中で、あれもこれもない中で、でも人にも悪口を言わずにコツコツと息子のために生きていく。
なぜこんなに強くあることができたのか。
でも私はこの方から乏しいことはないという言葉の意味を教えていただいたように思います。
それは乏しさは現実にはある。
けれども迷っている私はもう一人ではない。
私はもはやこの方と共にいるならば迷ってはいない。
羊飼いである神がいる。
あらゆる乏しさも死の恐れも全てを委ねることができる神がいる。
全て共にいてくださる神がいる。
だから私は乏しくない。
そしてその歩みはまさに読説にありますけれども、これは必要版権のイメージですね。
慈しみと恵みが私を追ってくる。
私の人生は慈しと恵みに追われながら前へと進んでいく。
本当に牧師はそういう方の姿にいろんなことを教えていただきますが、
今朝一つのことをお伝えをさせていただいても終わりたいと思います。
神は私たちの羊飼い
言いたいことが一つです。
神は私たちの羊飼いです。
神はあなたの羊飼いです。
この方と共に歩むならば、私もあなたも乏しいことはないということのできる、
その世界を生きることができるのではないでしょうか。
そのような歩みが待っているということです。
ダソクかもしれませんが、ぜひ神様を信じる時を大事にしていただきたいと思います。
私たちの時は永遠ではありません。
ダソクかもしれません。
でも、ぜひこれが私の羊飼いとして必要なんだ、この方なんだと思ったら、
ぜひこの方を仰ぎ一歩、仏様に歩み始めていただきたいと願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
29:03

コメント

スクロール