2024-03-10 24:50

#執拗に具体的に祈る 24/3/10

マルコ-52からの礼拝説教。2024年3月10日録音。今回取り上げる出来事はマタイとルカを含む3つの福音書に書かれています。しかし3福音書の中でマルコにだけ盲人の名前がバルティマイと紹介され彼の一挙手一投足に注目が集まる様に描かれているのです。なぜならこの福音書はバルティマイの姿を通して後のクリスチャンたちに何かを教えようとしているからです。その教えは試練の時の祈りと関連しています。ここからどのように祈ったらよいかを、1.しぶとく願い続ける、2.願いをはっきり知り伝える、3.生活のただ中で目が開かれイエス様について行く、の3つの点から考えましょう。


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10章46節から52節です。 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、
ティマイの子のバルティマイという目の見えない物語が道端に座っていた。 彼はナザレのイエスがおられると聞いて、
ダビデの子のイエス様、私を憐れんでくださいと叫び始めた。 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、ダビデの子よ、私を憐れんでくださいとますます叫んだ。
イエスは立ち止まって、 あの人を呼んできなさいと言われた。
そこで彼らは、その目の見えない人を呼んで、 心配しないでよい、さあ立ちなさい。あなたを呼んでおられると言った。
その人は上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た。 イエスは彼に言われた。
私に何をしてほしいのですか? すると、その目の見えない人は言った。
先生、目が見えるようにしてください。 そこでイエスは言われた。
さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。 するとすぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
以上です。今日はこのところから、 必要に具体的に祈るときと題してお話しいたします。
みなさんおはようございます。 今日は3月10日ですね。言わずもちれた明日はですね、
東日本大震災から丸13年目を迎えます。 3月1日はですね
ノトハントの地震から2ヶ月過ぎて、 本当に被災者の方々はですね、
昨日のことのように覚えておられて、 まだまだ復興の道が長いというところですけれども、
今日そんなこともありますが、見言葉から共に学んでいきましょう。 今日のところはですね、
盲人の癒しで、 レジュメにないんですけれども、実はこれ8章の前半にも盲人の癒しがありまして、
盲人の癒しがサンドイッチになってですね、 これまでのところが書かれている意味がある。
まあそれあんまり詳しくは言わないんですけれども、 目が開かれて救い主イエス様がわかるようになる。
最初の奇跡の後にはですね、ペテロがイエス様をですね、 あなたこそ生ける神の子、キリストですと告白したのがあります。
目が見えてイエス様が救い主だとわかるということと関連していて、 その締めくりが今日の出来事だって言うんですね。
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でそのこれまでのところと、これからのイエス様の道行きとが、 繋がる箇所と。
まあそれは去っておきまして、実はこの盲人の癒し、 バルテマイの話と見られるものはですね、
マルコ、マタイ、ルカ、3つの共感福音書の中にいずれも書かれています。 それで以前お話した通り、マルコの福音書は簡潔ながらも詳しい描写に溢れているということで、
このマルコのところにだけ、この癒された人の名前がバルテマイ。 テマイという人の子、バルというのは子って言うんですけど、
テマイという人の子であるという、名前が特定化されているんです。 実はこの今日の箇所を見ると、イエス様の言動よりもむしろこのバルテマイの一挙手一投足が
詳しく書かれていて、読者にその彼の姿を印象付けているんですね。
ですから、この彼の姿を通して私たちはあることを学ぶことができる。 それがマルコの福音書でこのことを読む意味があるというわけです。
その中で3つのことを今日学んでいきましょう。祈りについてなんですが、しぶとく願い続けるということと、願いをはっきり知らせるということ、そして生活のただ中で目が開かれて、イエス様についていくという、弟子の道ということを見ていきます。
一番最初はですね、しぶとく願い続けるということです。 繰り返しになりますが、
10章48節を見てみましょう。 読める方はちょっと読んでみましょうか。オークノハラさん。
多くの人たちが彼を黙らせようと差し舐めたが、 ダビデの子よ、私を憐れんでくださいと、ますます叫んだ。
今日の説教題は、執拗にと言いましたが、しぶとく彼は願い続けたわけです。
彼がですね、エリコという道の道すがらに座って物声をしていた。なぜか、そこはですね、今で言えば、
浅草、インバウンドの人が多い、カッパ橋のこともやってましたけど、浅草とか渋谷のセンター街のようにですね、多くの人が行き交うんです。
ですからそこにいれば、分け前に預かれるということで、 そのビーチストリートですか、彼は座って物声をしていたわけです。
そしておそらく普段とは違う賑わいを彼は感じた、聞き取ったんですね。 そして何事ですかと尋ねると、イエス様が歩いておられる。
彼はそのイエス様に向かって叫んだ。 ダビデの子よ、私を憐れんでください。実はこの言葉、短いながらもある信仰を表しています。
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ダビデの子よというのは、この後のジュナン物語でも論争になりますが、ユダヤ人が信じていた、
王なる救い主、約束の王なる救い主を意味します。 私を憐れんでくださいというのはですね、
ギリシャ語で言うと、キュリエ・エレイソン名という、何か聞いたことありますでしょう。 キリエとかキリエ・エレイソンという、例えばグレゴリアン聖歌とかですね、
あるいはいわゆるエンヤという人が流行りましたね。 エンヤ・コラヤって演歌を歌うわけじゃないんですけども、ケルトの民謡を
世界に流行らせた、エンヤさんをキリエと歌っています。 それはキリエというのは主よという呼びかけです。エレイソンというのは憐れんでください。
名というのは私。キリエ・エレイソン名というのは、旧約時代から続く、この 自分を救うことができないことを知った人が、神に助けを求める、軽々な叫びです。
この一見、モモ人の物語という惨めに見えた人が、このようなイエス様へに対するおぼろげながらも、はっきりとした理解を、信仰を持っていたんですね。
しかし、そのような彼の求めにもかかわらず、 多くの群衆が、という言葉が書いてあります。多くの人たちが彼を黙らせようと
たしなめた。黙れ! その時に彼は、ますます叫んだというのです。
ますます。このますますという言葉は、
元のゲリシャ語では、違う2つの言葉が並べられていて、英語で言うとの訳では、マッチモアという訳されています。
日本語に訳すのが難しいんですけど、ますます持ってとか、とにかくしつこく、
彼の必要さがここで見て取れるわけです。黙らせれば黙らせようとするほど、大きな声で叫ぶ。
で、その彼はなぜかというとですね、長年物語をしていて、こんな暗い生活から早く出したいと強く願っていたからかもしれません。
あるいはもう、このイエス様が噂を知っていましたから、イエス様と出会うチャンスを逃したら、次はないと思ったからかもしれませんね。
もう長く座ってですね物語していく、こういう惨めな生活を早く諦めたいという思いも相まったかもしれません。
とにかく彼は、しつこく必要に繰り返し邪魔をされてもイエス様に、私を憐れんでください、救い主よと叫び続けた。
で、このバルテマイから私たちが学べることがあるとするならば、それはやはり粘り強くイエス様に求め続けるということだと思うんですね。
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これはですね、祈りにおいてこういう姿勢を当てはめることができると私は思います。
だから今日は祈りのテーマにしたんですが、この皆様どうでしょうかね、あまりにも辛い状況が続いたり変わらないときに、いわゆる心が泣いてしまう。
心が折れてしまう。 そんな時にですね、祈りをやめてしまうことがあるかもしれませんね。
そんな時にですね、このバルテマイの粘り強さ、必要さはですね、私たちの心を励ますわけです。
そして私たちを自分と一緒にイエス様の前に連れ出して、私たちをイエス様の祈りの座にですね、招く。
そんな姿がバルテマイに見て取れるのではないでしょうか。
この必要に求めるバルテマイに対してイエス様は目を注がれてですね、
皆さんの聖書にもありますが、10書49節ですね。
立ち止まって、あの人を呼んできなさいと言われています。 そして彼を黙らせようとした人たちでさえ、そのイエス様の命令を聞いてですね、その目の見えない人を呼んで、
心配しないで良い。さあ立ちなさい。 あなたを呼んでおられると言ったわけですね。
さあその中で次、願いをはっきり知り、願いをはっきり知って伝えるということが祈りの中に出てくるわけです。
呼ばれた彼はですね、その人は上着を脱ぎ捨て踊り上がってイエスのところに来た。 イエスは彼に言われた。私に何をしてほしいのですか。
するとその目の見えない人は言った。先生、目が見えるようにしてください。
この踊り上がってという表現も 詳しい描写で、物語で座っていた男の人が踊り上がって飛び上がる様子が
スプリングアップですね。 描かれている。
生き生きしている。 そして、師匠よ憐れんで下さい、救い主よ憐れんで下さいという経験の求めをしていたにも関わらず彼はですね
その声を知って、なおですねイエス様は私に何をしてほしいんですか。 さらに問い詰めたわけです。すると彼は間髪入れずに目が見えるようにしてくださいと答えたわけです。
さあどうでしょう。皆さんは、私たちはですねイエス様にあなたは何をしてほしいんですかって言われたら、すぐこうして下さいって言えるでしょうかね。
何と答えますか。 具体的にそうやって答えることができるでしょうか。
具体的にこうして下さいとイエス様に、まあここでは祈りの中でと言いますが、具体的に申し上げるときに
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はっきりした答えが与えられるんですね。そこにはですね、イエスの両方の答えがある。
90年代にSay Yes なんて歌流行りましたけどね。 はっきりこうして下さいと言うとイエス、ノー
どっちでもあれですね、明確な答えが
受け取るという傾向があるんですね。例えば先週見た箇所、ヤコブとヨハネも同じようにあなた方は私に何がしてほしいんですか
聞かれたんですね。その時にはっきり彼らは何て言ったか覚えてます? 私を左大臣と右大臣にして下さいって言ったわけですよね。
それに対してイエス様は、いわゆるノーって言ったんです。できません。 でも何がそこで答えられたかというと、もっと良い答えをイエス様はヤコブとヨハネに
授けたわけですよね。
私たちもこのお祈りする時に はっきり
申し上げた方がいいって、私も最近実感するんですね。あえて言わないですけど。
そして明確に祈ると、たとえその通りに祈りが応えられなくても、例えば もっと別の道やですね、より良い道をイエス様が示してくださることがある。
クリスチャン生活長い方はそういう経験をされていると思います。 明確に祈って、期待通りな答え、救いが与えられる場合があります。
でも 期待と違った場合でも
やはり答えが与えられて、解決策が見つかるということがある。 答えが
自分が願っていようが、願ってなかったものであろうが、新しい道が開かれるということがあるかと思うんですね。
イエス様は何かそんなことと喚起してでしょうか。有名なこんな命令と約束をしていますね。
マタイの7章の7節から8節、読める方 読んでみましょうか。求めなさいから。
求めなさい、そうすれば与えられます。 探しなさい、そうすれば見出します。
叩きなさい、そうすれば開かれます。 誰でも求めるものは受け、探すものは見出し、叩くものには開かれます。
具体的にということと同時に、
しつこく、必要に求め、祈り続けなさいということもここから言えるかと思います。
その時に誰でも求めるものは受けるし、探すものは見つけるし、叩くものには開かれていくという約束をイエス様は与えてくださっています。
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最後、そうした中で私たちは3番目、生活のただ中で目が開かれてイエス様についていくということがあるんですね。
このバルテマイが目が見えるようにしてくださいと言ったら、イエス様も感発言えずに、そこでイエスは言われた。
さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。 ここから読んでみましょうか。するとから3回。するとすぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについていった。
ここで面白いのは、興味深いのは、目が開けとかって言ってないんですね。もう行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったとしか言ってない。
そして彼の姿がやはりありありと、バルテマイの姿が明確にはっきり書かれているところが注目すべきです。
ここの見言葉10の10章52節で、ある学者さんが言うにはですね、大事な言葉がいくつかあって、その中の一つ特にそれは道を進むという言葉で、英語で訳すとですね、文字通りこのギリシャ語を英語で訳すと、
in the road っていうことで日本語に訳しにくいんですね。別の英語の訳では、on the road って言ってですね、イエスに道中ついていった。
他の英語の訳の聖書では、along the road って言って、道すがらイエスの後を歩いていったと訳されているんですね。
この時イエス様はどこに向かってましたっけ? エルサレムに向かってましたね。
ジュナンの道に向かっていった。その道に、このバルテマイもついていったということです。
もう一つは、彼は自分の生活の道の中で、イエス様になって、その生活の道の中で、
イエス様にさらについていったという、そういう意味もあるんですね。 この言葉は何を意味するかというと、
私たちもですね、人生や生活の中で、彼の場合は渋谷のセンター街だったかもしれませんが、人生や生活のたたなか、道の道行きの中で、
檻に触れてイエス様の救いに出会うということなんですね。 その中で、イエス様の救いを知った時に、新たに目が開かれて、
イエス様の後をついていくという、そしてそれが人生の繰り返しだと言うんです。
私よく思うんですけど、聖書にこういう奇跡物語がありますでしょ。 読み過ごすと1回で解決してるじゃないですか。
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でも1回で解決してますけど、私たちは生涯かけてとか、歴史上何回もこのところ、いろんな人が読む、繰り返し読むわけですよね。
なぜかというと、おそらくそれは、これ私の知見かもわからないんですけど、私たちは1回限りじゃなくて、人生を旅をし続けているので、
その都度その都度に、このバルテマイの物語に出会って、やはり目がその都度開かれて、
人生の中でイエス様についていくということを、繰り返し繰り返し決断して歩んでいく、そういう意味があって、
繰り返し聖書に触れるように、このような奇跡物語が書いてある。 人生の旅路の同伴者として、この物語があると考えるわけですね。
まあちょっと難しいかもしれませんけど、 言い直しになりますけど、このバルテマイと私たちの人生や生活を結び合わせて解説すると、
こういうことが言えると思うんですね。
私たちもこの人生、日々の生活の中で、バルテマイのように暗闇の中を歩んでいる、そんな経験をするかもしれないわけですよね。
その時に私たちもバルテマイのように、イエス様私を憐れんで救ってください、そして具体的にこうしてくださいとイエス様に救いを求めます。
そんな中でイエス様からはっきり答え、救いをいただく。 そうすると何が起こるかというと、その度に新しく目が開かれて、
そしてイエス様の救いを新鮮な気持ちで知ることになる。 そして新たな思いでイエス様の弟子として、日々の生活の中、人生の中でイエス様の後をついていく。
イエス様と共に歩む、それを繰り返すということですね。 余談で思いついたんですけど、ある人はですね、聖書の言葉は焼き魚じゃなくて刺身のようだったんです。
刺身。 新鮮なのを食べなきゃいけないんです。その都度その都度。
ずっと何日か持つとか、冷凍食品みたいに持つんじゃなくて、その都度その都度、新鮮な救いの経験を聖書を通して、あるいは祈りを通してしていくということで今言ったと思います。
わかんなかったらごめんなさい。今の話は忘れてください。 とにかく人生の節目節目にですね、このイエス様に救いを求めて、救いを知る時に新たに目が開かれて、
その人生の使命、救いの中で、日常生活の中で新たにイエス様にまたついていこう、イエス様と共にいるなってことがわかって、人生を歩み続けるという、
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バルテマイのような経験を折に触れてするということだということなんですね。 このような体験をですね、
こういうふうに言い換えることもできるかと思うんですね。 暗闇の中にいるからこそ、最も大事なものが見えるようになる。
北米のですね、ある友人ピーターソンですけども、学者あるいは牧師がですね、こんなことを言ってるんですね。
私たちにとって神様の愛と救いと恵みが最も大切なことである。 しかし私たちは日々の生活の中で様々な雑事に気を取られ、この最も大切なものを見失いがちである、と言うんですね。
できれば、暗闇の中を歩むような経験を私たちはしたくありません。 しかし、そんな中にあるからこそ、最も大事な神様の愛、神様の救い、神様の恵みというものですね。
にすがる、それを知る、そういう機会が与えられて、この最も大切なものに目が開かれるのではないでしょうか。
その時にですね、イエス様がまさに、救いと愛と恵みに満ちた救い主であるということを私たちは知って、
暗闇の中でイエス様に助けていただくことによって、新鮮な思いでですね、イエス様についていくことができる。
そのことがですね、私たちのイエス様を信じる人生の繰り返しなんではないかなと、
マルテマイの物語を通して学んだ次第です。 そのことを思いながら、共に歩んで参りましょう。
最後に、この祈り続けることの大事さ、
新教導訳聖書からの訳ですけれども、みなさんで読んで終わりにしたいと思います。
ローマ人への手紙の12章の12節です。 希望をもってから読んでみましょう。
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、頼まず祈りなさい。
お祈りします。 私たちの救い主なるイエス様、あなたのお名前を賛美いたします。
あなたは暗闇の中で助けを求め続ける私たちに目を止め、お声をかけてくださいます。
どうかその時に私たちがはっきりとあなたに対して何がしてほしいのかを申し上げることができるように、
どうか私たちを導いてください。 私たちがどうか自分の願い、自分のあなたにある救いを明確にイメージしながら、
あなたに助けを求め歩んでいくことができますように。 その中であなたの救いを知り、新たにあなたが救い主であるということを喜び、
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そして心新たにあなたに従っていく、その歩みをしていくことができますように、
どうか私たちの日々の生活、人生を導いてください。 どうかその度にあなたが新たな人々を加えてくださるようにお願いいたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。 アーメン。
それでは1分ほど御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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