00:01
皆さん、おはようございます。
今日も雨の日ですが、礼拝にようこそいらっしゃいました。
では、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
それでは一言お祈りいたします。
お祈りします。
どうか、参察の地なる神に、いい世界がそこしえにありますように。
今日は、信仰のベーシック、この4番目、クリスチャン・スチュワードシップについて、神の御言葉を語っていただきます。
神様からいただいた全てのものは、神様のものであることを覚え、また御言葉から学び、また実践できる信仰の力も、恵みも、喜びも、この朝、満たしてくださいますように、お願いをいたします。
最後まで、主御自身が深き悟りを与えてくださいますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
信仰のベーシックのシリーズの説教をさせていただいております。
今日は、その4番目です。クリスチャン・スチュワードシップというタイトルを付けさせていただきました。
日本語の政府には、スチュワードは、管理人、管理者、ビルやマンションの管理人が思い浮かぶわけですけれども、それも適切なのか、どこの国の言葉も限界があるわけですから、
非常に言語は、日本語にも英語にも訳しにくい、とても深い、豊富な意味を持つ言葉であります。
スチュワード、あるいはスチュワード管理人、そのスピリット、精神というものは、つまりこういうものです。
この私たちが住んでいるこの自然世界、あるいは私たちの命、あるいは健康、家族、友人、知人、あるいは時間、あるいは金銭、その他すべてのものは神様のものであるということです。
03:20
そして、それらを神様が私たちに一時的に預けて下さい。
その預かったものを、もちろん自分のためにも使っておりますけれども、神のためにそれを用いさせていただくこと、その生き方、それがクリスチャンスチュワードということであります。
それを今日はピリピみたいな手紙に、今日朗読していただきましたその手紙の見言葉に、ファウロ先生は今ローマにおります。しかも国中にいるわけなんですね。
そして、昔、伝道して建てたそのピリピ。ピリピはマセドニア、今のキリシア、キリシアの北部にあるわけなんですけどね。そこの教会に手紙を送りました。
ところが、今日皆さんが読みになってわかりますけれども、どれだけこのピリピ教会のその神父さんが、ファウロ先生をどれだけ喜んで、全力を尽くして神に捧げ、あるいはファウロ先生を支えていたのかが、誰でも読んだらすぐわかると思います。
ピリピ教会のことについては、まずその背景を見ていきたいと思います。まず、それを知るために、一箇所手紙を開きたいと思います。
第2コリント8章2節から4節です。新約聖書の354ページです。
では、私から読み始めますのでご覧ください。
06:18
ここの彼らは、1節からわかるように、マケドニアの諸教会なんです。つまり、ピリピ教会も含めて、マケドニアの教会のその教会は、極度の貧しさにありました。
ピリピ教会は貧しい教会でした。しかも、極度の貧しさです。どれだけ貧しいのでしょうか。たぶん、自分たちも、食べていくにもかろうじていたかもしれない。
人を助けるほどこすなんて、考えられないほどの貧しさかもしれない。ところがですね、そのマケドニアの教会の彼らはどうでしょうか。極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなくほどこす富となっていました。
タオル先生は、これの教会にそれを明かしています。3節、彼らは、ピリピ教会は、自ら進んで力に応じ、いや、力以上に捧げた教会でした。
そしてですね、そのピリピ教会のとっても素晴らしいところが、4節なんです。その意味を知っていただきたいと願いますが、
生徒たちを支える交わりの恵みに、ピリピ教会の鎮人さんはですね、タオル先生、私はもう貧しいんだけれども、この生徒たちを、先生を、他の教会を、エルサレム教会にもですね、研究を送ったわけですから、
それを支える、その交わりの恵みに預かりたいんですよ。いや、外さないでくださいよ。そういうことを、熱心にタオルたちに願っていた。
何と素晴らしいでしょうか。そのピリピ教会は、今日のピリピ教会の手紙に戻りますよ。
彼らは、タオル先生がローマにいました。今の刑務所じゃなくてですね、いわゆる、何と言いましょうか、難勤状態なんですね。家のどこかにですね、そこにいて難勤されている。
ところが、例えばね、何と言いますか、持ち込みもできますし、手紙も、送ることも、もらうこともできますし、仕入れも、そういったものももらえる、そういうところでありました。
だから、今日の御言葉を見ますと、ピリピ教会は二度もものを送って、そしてタオル先生の乏しさを補ってくれたんです。
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皆さん、ピリピ教会のこの人々は、何か特別な人種でもなく、特別な宇宙にいる人々でもありません。私たちと何の変わりもない、普通の平凡な人々です。一世紀の人々です。
ここですね、皆さんがご承知のように、実は日本にいる、私たちよりはるかに難しい時代に生きている人々です。貧しさの中にありました。
ローマの統治の違法の国で、彼らはイエス・キリストを信じる人々です。中にも底にも大変な中に、こんな中にありました。経済的にも大変でした。
彼らにも、普通に家族があるわけですし、普通に食べて生きるわけですから、必要があるわけなんです。ところが、そのピリピ教会の信徒さんは、そんな中でも、
さきの第二コリントの御言葉のように、今日のピリピ教会の手紙のように、極度の貧しさの中にあっても、自ら進んで喜んで支えている。何を申し上げたいかと言いますと、
彼らは、自分たちの必要がある。極度の貧しさの中にもあるにも関わらず、パオロ先生のために二度も物を贈りました。さきのコリントの御言葉のように、喜んで他の教会のために献金を贈ってくれました。
この二度と見た手紙を見まして、1世紀にエルサレムに非常に激しい禁がありました。エルサレムにですね。エルサレム教会が大変なことになりました。そのときに、このマセドニア教会、ピリピ教会も含めて、彼らが自分たちも貧しいんですよ。
なのに、エルサレム教会が大変だから献金を暇取っておいてですね、それを集めて、あの貧しい人が大変の中にあるエルサレム教会に献金を贈ってくれました。
すみませんが、そこのドアをちょっと止めていただきますかね。ちょっとお願いします。あの玄関の外のドアですね。濱田さん。ピリピ教会の誰々は、黒土の謎の中にあっても、主のために、主の教会のために自ら進んで、今日のね、あの言葉を借りますと。
12:21
その香ばしい香りを、神様が喜んで受けて下さるその獲物を捧げていたのです。決してですね、物が、金が、食べ物が、あり余って、あり余って捧げたわけではありません。これだけ麗しいことです。
このピリピ教会の神田さんのことを読むたびにですね、私の母のことが思い出します。私が小さい時から、母はですね、日本風に言いますと、お正月とかお盆とか、何かのお祝いの時があれば、昔はですね、私がちょうど一年生頃は、
韓国はとても貧しい時でしたから、何をお土産にしたのか。お砂糖、砂糖ですね。砂糖一袋。それがお土産でした。それをね、私に持たせて、僕先生の家に捧げて帰って来た。
それをですね、持って行って捧げたり。ある時は卵を焼けたり。それをずっと長い間、喜んで喜んでしておりました。私が考えられるのは、母は3回も大きな死の時点がありました。
がんの膜、交通事故、脳梗塞で倒れたこともありましたけれども、そんな中でも主は命を守ってくさったことは、その母の神様を愛するその神徒、その主の教会にお仕えするその忠心の神様が喜ばれたからじゃないかなと私はそう考えております。
この宿泊というのは、単なる献金のものだけなく献金の意味もそこに含まれているわけですね。献金、捧げ物、それについていくつかのことをほどっと掘り下げて考えていきたいと思います。
フィリピン教会のチントさんから教えられるのは、献金あるいは捧げ物は祝福への道である。皆さん、捧げ物、献金はどういうものでしょうか。
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それは、神様からいただいた恵みに対する感謝と献金の具体的な表現なんです、あらわきなんです。
献金をします、奉仕をします、捧げ物を捧げますというのは、捧げたそれと私と自分と何の関係ないものであります。何かを捧げましたとしたら、それが自分なのです。
自分の代表としてそれを神様に捧げ物を捧げるわけなんです。だから、その捧げ物が自分なんです。真実に捧げたならば、その捧げ物も自分も真実なものであるということであります。
葬式を見ますと、アベルとカインがそれぞれ神様に捧げ物を捧げるんです。そのときの聖詩を見ますと、神様はアベルとカインが捧げた捧げ物だけを受けられたわけじゃなくて、
アベルもアベルの捧げ物もカインもカインが捧げたものも受け取られたということです。天神こそ捧げ物こそ祝福への道なんです。捧げ物というものは神様への感謝と喜び、天神の具体的な表現であります。自分を捧げるものです。
ですから、極度の貧しさの中にあるフィリピン教会ですけれども、彼らが主に喜んで捧げることをしなくていいんですよ。フィリピンの皆さん貧しいでしょう。あなた方も食べ物もないし、その中でも捧げなくていいんですよと言っていないんです。
それを捧げなくていいんですよというのは、彼らが神様に捧げて、彼らが受ける祝福を奪うことになるわけなんです。むしろ、手に振っていて、主にお仕えするように、捧げるように、愛を持って、親の気持ちで進めているんです。
私たちも不景気の中に住んでいるかもしれない。あるいは、元気に生活をしていらっしゃるかもしれない。いろんな必要がありまい。
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ところが、フィリピン教会の信徒さんから教えられるのは、同じ状況にいるにも関わらず、自ら進んで、主にお仕えするその信仰だね。そして、無動もきであるイエス・キリストにつながり続けていること。
これこそ、大きな祝福であることをサウル先生は知っているから、フィリピン教会の信徒さんに、あるいはさっきのコリント教会の信徒さんに、それを捧げるように進めているのです。
もう一度申し上げますと、献身というもの、あるいは捧げ物というものは、神様がお定めになった、神様から祝福をいただく手段なんです。
それを香ばしい香りと言っている捧げ物なんです。
主に捧げ物という言葉は、旧約聖書から出てくる言葉ですけれども、旧約の時代に、祭壇の上に羊とか牛とか、それを生牛として捧げるんですね。
いくつかの条件がありますけれども、その中の、よく皆さんがご存知の条件の一つは、傷のないものなんですね。
というのは、真実のもの、まったきものという意味ではないでしょう。
ところが、それを自分自身に当てはめてみますと、パウロ先生は、フィリピン教会の信徒さんが贈ったものを、香ばしい香りであって捧げ物だと言っているんですけれども、
現実的に考えると、自分自身のことですよ。皆さんも自分自身のことを考えますと、私たちは、いろんな捧げ物を捧げている。
報酬をしている。研修をしている。ところが、自分自身のことを見てみますと、傷がないのか、まったくないのか、そうではない。
欠点だらけで、短所だらけで、傷だらけで、死にだらけで、そういうものなんですね。
クリスタルになった後にも、必ずは、なのながら、時には罪を犯すこともあり、信仰にふさわしくないことも考えたり、言ったり、したりすることがあるかもしれない。
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あるいは、クリスタルになってからも、辞めるべきことを、辞めていないことがあるかもしれない。
あるいは、本当に政府が言う通りに、素晴らしい人格と家族関係、親と関係、人間関係を持つべきなのに、持っていないかもしれない。
子供の目には、こんなに立派な親でないかもしれない。
こういった現実が、私たちにあるのではないでしょうか。
そうしまって、私たちは、皆さんは、だからこんなに弱いもの、傷だらけのもの、矛盾だらけの自分を神様に捧げるなんて、それは神様に迷惑になるかもしれないと考えるかもしれませんが、ところが皆さん、そうではありません。
今日の御言葉は、私たちが主を愛して捧げる、自分の権威、あるいは捧げもの、それを主は、いやもうね、あなたのものも迷惑だから辞めてほしい、じゃなくて、そう思われるのではなく、香ばしい香りとして、主が喜んで受けてくださる、ということであります。
もし、傷がある、あるいは矛盾があるならば、神様がその傷を治してから来て、とおっしゃらないでしょうか。
イエス様の十字架という恵みは、私たちの傷も矛盾も弱さも罪深さも、それを覆ってくださって、ないものに来てくださる恵みが十字架の恵みになります。
その恵みに応じて、主の御前に近づいていくこと、捧げていくこと、それこそ信仰ではないでしょうか。
ところが皆さん、本来、権威、あるいは捧げものというものを考えると、受け取る神様が、もう結構ですと言ったら、捧げたくても捧げられないんですよね。
ところが、神様はそう言われました。
イエス様の十字架という愛、その許しのゆえに、私たちの罪も傷も罪も罪だらけの添いたものも、主が覆ってくださって、許してくださって、贖ってくださって、香ばしい香りとして、主が喜んで受けてくださる。
その恵みを私たちは覚えるならば、さっきのピリピリ教会の神様のように、自ら進んで喜んで捧げることができるのではないでしょうか。
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あるいは捧げたくなるのではないでしょうか。
その神の恵みを考えると、本当に素晴らしいことであります。
自分自身のことを考えますと、クリスタなのに、あるいは私の場合は牧師なのにと言って、自分自身のことでがっかりするときもあったりします。
もっと広く言いますと、うんざりするときもあるかもしれません。
誰がこんな私たちを喜んで受けてくださるのでしょうか。もちろん受けてくれたから結婚して暮らしているかもしれませんけれども。
ところがですね、家族のこと、子供のこと、あるいはお互いのことを考えますと、本当に感謝することだけではないです。
いずれにしても本当に感謝のことは、神様は私たちの自身も、私たちが捧げるその捧げ物も香ばしい香りとして受け取ってくださる。
しかも渋々ではないですよ。
じゃなくてですね、喜んで受けてくださる。
それが今日の18節の見事です。
フィリピン教会にだけではありません。私たちにだけでも同じです。
その神の恵み、その喜んで受けてくださるんだという神のね、その心をですね、気持ちを分かったらですね、感謝のうちにですね、なおなお豊かに捧げたくなるのではないでしょうか。
変身したくなるのではないでしょうか。
そしてそういうように変身する、奉仕をする、捧げるというときにどういう恵みが私たちに来るのでしょうか。
それは、ああそうだ、神様はこんな私たちも捧げたくても捧げていない、いや捧げるべきなのに捧げていないこんなものも、私は喜んでくださるんだとですね、
その無条件の愛を知るようになって、なおなおさらにさらに、私たちものを、全て捧げるものを捧げるようになるのではないでしょうか。
福音書を見ますと、イエス様が大型巨大を始まる前に、ヨルダン川でバプテスマヨハーネから洗礼をね、バプテスマを受けられる場面が出てきました。
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そのときに、天から神の声が聞こえてきました。
簡単に言いますと、これは私の愛する子、私はこれを喜ぶという御言葉です。
皆さん、その御言葉ですね、よく見ますんですね。イエス様が洗礼を受けられるときには、イエス様は、実際イエス様名社としての働きは始まってますか、始まっていませんか。
始まっていないんですよ。また、イエス様は実際何もやっていないんですよ。
癒しても来ていませんし、産女生徒も来ていませんし、奇跡も起こっていない。実は何もしていないその前なんですね。
なのに神様は、私はこれを喜ぶ、私の愛する子とですね、そのイエス様の存在を喜んで受けてくださったという恵みがある。同じではないでしょうか。
私も洗礼を受けました。ある方は1年前、ある方は10年前、ある方は50年、もっと古いかもしれませんが、実は私たちの捧げ物を香ばしい香りとして喜んで受けてくださるということであります。
その献身する、捧げる時に私たちがいただく一番大きな恵みは、ああ、そうだ、神様は喜んで受けてくださる。実は全く捧げ物でなかったのに、実は捧げるべきものを捧げていないのに、にわからず私は喜んでくださったんだ。ああ、なおなお捧げようと導かれるのではないでしょうか。
3つ目、献身あるいは捧げ物というものは、それを受ける神様に必要なものではなく、実は捧げる私たちに必要なものであって、私たちに有益のあるものなんです。
申し上げたように、ピリティ教会の経済的状況はどうでしょうか。極度の貧しさの中にあります。彼らが誰かを助ける、施す、そういう余裕のある人ではありませんよ。父親のようなパオロン先生は。
その経済的な状況、あるいは迫害その状況、小さな群れ、違法の国で信じている、本当に頑張って信仰を守っている彼らの状況をよく知っているはずなんですね。そこで改札口という教会を建てたわけですから。そんな中にもあるんです。
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でも、パオロン先生は人間的に考えて、皆さん難しいですね、問題もありますし、もういいですよ。皆さんの家族も守らなきゃなりませんでしょう。そういうふうに教えていない。
あるいは、フィリピンの皆さん、皆さん難しいから、もっと余裕ある教会からもらうから、大丈夫ですよと教えていない。
どうでしょうか。献身というもの、捧げというものは、このクリスタルシュワードシップに来る、それは恵みの手段であるからです。恵みの手段。
献身あるいは捧げというものは、教会の予算を満たすための手段ではなく、神様が私たちを祝福しようとする、神様が用いてくれる恵みの手段であるということです。
それを知ってほしいんですよ、パオロン先生は。
まるで、私が小さい時に、今はそうではありませんが、ご飯に豆が入っている豆ご飯を、よく母が炊いてくれます。
豆が炊けてくれる豆を取って、取るんですね。力で、「食べなさい、食べなさい。」
親は、その豆ご飯が体に良いから、それを炊いてあげるんですね。
でも、その親の気持ちが分からない子供は、もう嫌だから、それを取るわけなんです。
似ているかも。神様は捧げること、それはあなたが祝福されることなんですよ。その手段ですよ。
それを、ピリピを通して、パオロン先生を通して、私に教えている。
でも私は、もう嫌です。豆を取るような、子供のような姿勢があるかもしれない。
親になったら、親の気持ちが分かるんですよね、皆さん。私も親になって、親の気持ちが少し分かるようになりました。
捧げ物というものは、献身というものは、クリスさんに与えられた特権なんです。
ピリピ教会のヒントさんは、大変貧しさの中にありますけれども、彼らは一生懸命に頑張っていました。
つまり、彼らが神様から受けられる素晴らしい祝福を取ることを、決してパオロンはしていない、教えていないということでありました。
真実なクリスさんの親は、子供にあなた忙しいから、教会に来なくてもいいよと言いました。
真実なクリスさんは、あなたも忙しい試験もあるしも、だから生命を生まなくていいんですよ、祈らなくていいんですよ、献金を捧げなくていいんですよ、と。
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あとで教科。礼拝すること、捧げること、報じることこそは、この子が神様から祝福を受ける道なんだから、
それを知っている親は、その恵みを邪魔することをしないわけない。むしろ、進めるわけない。
あたしが青年の時に行ってくださった先生が、いつもこう教えていました。
何がどうあっても、礼拝を必ず守りなさい。
青年の時、礼拝できない理由はいくつでもある。あった、ちょっとだ、あった、危険だ、いろいろ理由はある。しかし、何がどうあっても、礼拝を捧げなさい。
そして、青年の時から、まだ給料が少ない時から、神様に十分の一、献金を捧げることを愚かにしてはいけない。
もっと多くもらった時には、なお難しくなるから、その時から十分の一、神聖献金を満たすものとして捧げなさいと、よく教えられました。
皆さん、礼拝すること、献金すること、捧げ物を捧げるというものは、福利さんに与えられた特権であります。
そしてこれは、御道の木に繋がる繋がり方なんです。繋がっていて、神様から祝福が与えられるということなんです。
一からですね、聖書を開きたいと思います。
納体の福利書、二十三章、二十三節です。新約聖書の四十八ページです。
二十三節を一緒に読みたいと思います。
あざわいだ、偽善の立法学者、足りさい人。お前たちは、八卦、異能土、苦民などの十分の一を治めているが、立法の中では、遥かに重要なもの、憐れみと誠実をものとかにしているのです。
これことしなければならないことです。
ただし十分の一も、おろそかにしてはいけません。
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皆さん、イエス様が、足りさい人たちに何をおっしゃったんでしょうか。
立法学者たちは、立法も守っていました。十分の一もしていました。
その彼らにですね、これこそしなければならないことです。
ただし十分の一も、おろそかにしてはいけません。
と、イエス様も決して十一憲旗を指定していないということであります。
むしろ、おろそかにしてはいけませんと、イエス様は語られています。
あれでしょうか。これこそ、福福の秘訣であるから。国産の特権であるからです。
お金の問題ではありません。時間の問題ではありません。
実は、誰を最も侵害しているのか。その問題ではないでしょうか。
今日のテレビの4と17節に戻りますと、パオール先生がこう言っていました。
私は贈り物を求めているのではありません。
その次が大事ですよ。
私の欲しいのは、あなた方の終始を償わせて、余りある霊的な祝福なのです。
つまり、パオール先生は、PGP教会の信徒さんが、彼らから物を求めているわけではない。
彼らが、もう終始を償わせて、余りある霊的な祝福を、皆さんが受けて欲しいですよ、と教えているんですね。
そして、19節。私は読みます。PGP4の19節。
また、私の神は、キリスト・イエスにある、ご自身の栄光の富をもって、あなた方の必要を全て満たしてくださります。
皆さん、転身する方、捧げ物を捧げる方は、神様からいただく大きな恵みは、
自分が生きていること、自分が支えられていること、これはお金のもの、お金によるものではない。
神様によって自分は支えられている。神様によって生かされていることが、捧げる人はわかる。
PGP教会の信徒のように、自ら喜んで進んで捧げる人は、
神のものをまず取り分けて、そしてそれを喜んで捧げる人は、自分は神に愛されて、神に支えられているんだ、と。
39:00
その愛がなおなお深く実感できるようになる。
ただ、献金というもの、それが誠実献金であれ、獣医師献金であれ、一般社会の常識から見たら、それは非常識のものだったしね。
馬鹿げたものであるかもしれない。しかし皆さん、私たちは世の常識に合わせて生きるものではありません。
この世がいくら常識と言っているものであっても、それが神の御言葉に照らしあわせてみた。
そしてそれが間違っていれば、私たちはこの世が非常識と言われる、その聖書の道を歩むこと、それがクリスタスチュワドシ。
それが信仰の道ではないでしょうか。
最後にこの話として終わりたいと思います。
古い本ですけれども、日本でもかなり有名な本ですが、スティーブン・コービーさんが書いた、七つの中間でしょうかね、
セブン・ヘビという本があります。そこに出てくる一つの有名な令和があります。
真っ暗の海でした。一隻の船が高下に落ちていました。ボンボンの港に向かっていくんですよ。
遠いところにかなり光っている光がありました。
船の船長はその光に向かって大きな声で叫ぶんです。
船を移動してください。危ないです。衝突する恐れがありますよ。もう移動してください。早く移動して。
いくら叫んでもその光はひとも動きません。
もう船長は緊張した緊張した。どうしよう。もう近づいて近づいてみたら、それは灯台でした。
わかりますか皆さん。灯台は動きません。神の御言葉は動きません。
私がその御言葉に合わせて生きるもの。
神様はフィリピン教会の神様のように、自ら進んで喜んで捧げるものに、その以上に秩序をすべて満たしてください。
そして最も大事なのは、今からそれを付与ではありませんか。付与、愛付与ではありませんか。
神様が示す御言葉の表図に向かって行こうではありませんか。今からそれをしてほしいと。
それが神の御言葉であります。皆さんそうでしょう。
富も、家庭も、財産も、地位も、名誉も、職場も、すべて神のものなんです。
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私はスクワードなんです。神になります。
それを主に明け渡すときに、喜んで捧げるときに、永遠に残る贅沢な祝福をいただける。
最後の三つを読みまして、メッセージを終わりたいと思います。
どうか、私たちのつくなる神に見栄えが常にありますように。
私たちがこのフィリピン教会のパウロ先生とのフィリピンの御言葉のように生きるときに、私たちの生き方を通して何が現れるのでしょうか。
それは神の栄光なんです。
どうか皆さん一生懸命、神の栄光が私の故に、皆様の故に、世の中の教会の故に現れますように。
そのような生き方を歩んで行こうではありませんか。お祈りしましょう。