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皆様おはようございます。今日も主の支えによって、遠から近から私たちは二道に集い、
まず、感謝と喜びをもって参上いたしました。
そもそも、恋愛が説教中心になりやすいわけでありますけれども、そうではなく、
神様に向かって感謝と喜びと、また、期待をもって前に出るということです。
そして、その後、私たちは二言葉を聞くわけであります。
さて今日は、光に向かって叫ぶ、暗黒から光に向かって叫ぶというテーマでお話をするように導かれています。
イエス様の生涯を記した福音書は、十字架と復活が中心でありますけれども、
その中には人々がどのようにしてイエス様に出会い、そしてイエス様を信じて救われるのか、
その道筋、この九道のモデルがあります。
さて、イエス様が十字架に向かい、赤鞘の港を完成するためにエルサレムに向かわれました。
エルサレムから24キロほど離れたところに、エリコというこの町があるわけです。
最後の十字架に対する行軍と言いましょうか、最後の戦況旅行と言いましょうか、
そのエリコからベカニアに進み、そしてエルサレム、
もう目の前はエルサレムの十字架がイエス様には見えてきたわけです。
さて、その町に入って読んでみるならば、この町を出て行かれるとされます。
この丸手前の法人が、この旅でのイエス様は私を憐れんでくださいと町の外に行ったわけです。
彼はすでにイエス様の噂を聞いていたわけです。
そしてこの時とばかり逃がさんと必死に叫び始めたわけです。
たぶん町の中には入れなかったんじゃないだろうかと、私の想像であります。
道端に座らさせていただきました。
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必死に叫び始めたわけです。
この法人丸手前にとってイエス様に会えるチャンスはこの時だけでありました。
もうエリコの町から上げてベサミアそしてエルサイムに行く途中でありますから、もうイエス様は引き返すことはありません。
この世の中で周りの者たちは黙らせようとするわけでありますが、彼は叫び続けるわけです。
ザビデの子イエス様私をあげてください。イエス様私をあげてください。
これを見たイエス様が人を返して心配しないでよい、お前を呼んでいると彼に伝えました。
すると彼は上着をしていてイエス様のところに来たと言いますから、まあ必死であります。
真剣にそのもの。
それに対してイエス様はあなたは私に何をしてほしいのですか?と尋ねました。
すると彼はとくがに見えるようになるだけです。見えるようになることです。そう願いました。
イエス様は彼の信仰に答えて、あなたの信仰があなたを癒やしたので、と言って彼の目をお癒やしになりました。
さてここで彼がイエス様に求めた態度、信仰そのものを見ることができるわけになります。
まず彼はその機会、チャンスを逃さなかった。たった一回、もうイエス様に会える。
そして様々な障害があっても求め続けました。
ダビデロコイエス様私をあげてください。もうお前はなんか静かにしろと言われてもイエス様私をあげてくださいと。
そしてイエス様が呼ばれると、彼は邪魔なものを脱ぎ捨てて、上着を脱ぎ捨てて、イエス様のところに来て。
そしてはっきり言うとイエス様私の目が見えるようになりました。
そして目が癒やされてイエス様についていった。そうお会いです。
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さて、このヴァルテマイの信仰はどこから来たのでしょうか。
詳しい情報は分かりません。
ヴァルテマイというのは手前の方という意味があります。
この人はお父さんの名前で呼ばれ、自分の名前ではありませんでした。
どうぞ彼の一日を想像してみてください。
彼はいつから目が見えなくなったんだろうか。
いつから苦弾きをしていたんだろうか。生まれた時だろうか。
分かりませんけれども、ボケモノにされいじめられ、不自由の連続の毎日であるか。
家族はいたんだろうか。また病気をしていたかもしれない。
皆様ご存知のように、当時のイスラエルの社会では、目が見えないということは、
神様の恵みから漏れている罪人だと言われていました。
ですから彼自身、生きることが苦しみです。
またいつ死んでいくのかも分からない。
その日その日の状況で、一体誰が食べ物をくれるのかも分からない。
道端に座っていたわけです。
これもまた私の想像です。
もし家族がいるならば、まだ家族が生存しているならば、家族のもとに座っていたと。
でも町から出た町に入ることもできず、その道端に座っていたわけです。
彼自身も不安です。
あとどうなるのか。
彼の人生は、個人的にも社会的にも絶望の状況の中で、
精神的にも見捨てられて、押し潰されてしまったんじゃないだろうか。
もう自分でも自分を見捨て去る、見捨て去るを得ませんでした。
だからこそ叫ぶしかないんです。
神様にしか指導がなくて、神様だけにしか頼れない。
こういう状態であったからこそ、叫ぶしかないんです。
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そういう状況の中で、心は神様に向かっていくのか。
あるいはまた、心はこの世を戻り続けるのか。
どちらかじゃありません。
この世を見ると、叛国の状況、先はもうない。
神様に向かうならば、一筋の光があって、
そしてそこにはまだ微かな希望がある。
むしろもう神様以外に頼れないわけない。
私は思うんです。
神様に向かって頼ることしかないということは、
ある意味幸せだなと思います。
私たちは人に頼ります。
お金に頼ります。
あるいはそれぞれ皆さんの健康に頼ります。
頼れるものをいっぱい持っている。
最後は自分に頼るでしょう。
ですから祈ることしかしません。
人は頼るものが全てなくなっていくときによって、
初めて神様と祈るわけですし、
誰もがものに頼れない、人にも頼れない、自分にも頼れない。
そのときだけ神様が唯一の希望になって、
そして神様私をあげてください。
私を助けてください。
と祈るわけです。
ですから、
僕氏としての思いは、
いち早く皆さんが頼るべきものがなくなって、
神様と祈れるように、
そこまで追い込まれるということは辛いことかもしれません。
そのことは少し横に、
神様と祈れるまで導かれていけたら感謝だなと思います。
さて今日の朝は順序よくケースを見てまいりますけれども、
まず第一番目にこのバルテマイの冥金があります。
もう分かりました。
目が見えるようになる。
ぜひとも癒していただきたい。
そういう覚えがあります。
ここに四つの動詞があります。
一つはですね、
今日開いていませんけれども、
ルカの福音書の18章の36節。
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皆さん、説教原稿をご存知でしょう。見てください。
どうぞ、それをまた後から見てください。
大群衆がですね、この目の前を通っていくのを、
目で見たんじゃないですよ。
耳にしたわけです。
何かしないけど、ガサガサゴソゴソですね、
大勢の人が自分の前を通っていく。
そういう中で彼は言いました。
これは一体何事ですか。
群衆は弥彦様の元にまあ集まってくるわけです。
目で見ることはできなかったけれども、
耳で聞くことができた。
真剣の8章の17節に、
私を愛する者を、
私を愛する者を、私は愛する。
下についてますよ。
私を熱心に探す者は、私を見つけるとあります。
求めるならば、あなたは神様に出会うわけです。
時々神様がわからないという人がいました。
私も過去、見えない神様がわからない、
信じられませんと牧師先生に言いました。
教会ではみんながお祈りをしている。
この住み人の私をお許しください。
横で私は見ているわけです。
目に見えない神様に、祈って神様がいるんだろうか。
この住み人を許してください。
よっぽど悪いことをしたんだろうなと思いながら、
神様がいるならば見せてほしい。
わかりませんでした。
1週間、1ヶ月、教会に通い出して、
聖書の御言葉が私の心の中に飛び込んでまいりました。
聖書に、心の強い人は神を見るからです。
それで私は、心が穢れているから、
神様が見えないんだ、信じられないんだと思いました。
けれども、さらに教会生活を続けていくうちに、
神様がわかってきたんです。
目に見えることはないけれど、見えないけれども、
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確かにこの場所に主がおられる。
そして彼らが祈っている、その祈りのお方が生きておられる。
神様がわかりました。
神様がわかっただけではないんです。
自分がどんなに住み人であるかということもわかってきました。
さらに、神様がわかり、自分がわかり、
そして教会の中で苦難にあっている人たちが、
苦難の中にあるけれども、神様にお供えしながら、
希望を持って歩んでいる、状況を見ている。
どうしてあのように引き下ることができるんだろうか。
あのような安心を持っておれるんだろうか。
それが、私の欲しいと思うようになります。
皆さん、求めていくならば、段々と見えてくるわけだ。
そして、何ができなくても、その世の中で皆さんが輝いていくならば、
それが伝道であります。
どうしてそんなに喜んでいるんですか。
どうして平和でいられるんですか。と、尋ねられます。
もし皆さんが、真剣で修行を求めるならば、
神様がわかり、自分がわかり、さまざまな様々なものがわかってくる。
さて、そういう中で、第2番目はですね、47節。
私をあえんでくださいと叫び求めました。
みんな、どろどろどろどろですね、イエス様の元に行くから、聞いたらですね、
ダビデの子イエス様が、福井にしか来ておられるんだ、ということがわかって。
そこで彼はですね、私をあえんでくださいと叫びました。
彼が神様から、あえれみを受ける以外に生きる道がなかった。
もう頼るものがなかった。
その時にイエス様は立ち止まって、私に何をしてほしいのかと言われました。
ダビデの子イエス様、私をあえんでください。
どうぞ皆さん、イエス様が立ち止まってくださるように求めなければなりません。
私たちの求めは、イエス様が立ち止まるような求めでしょうか。
あえれみを受けてくださいと言っているでしょうか。
その言葉がイエス様を届けるわけです。
なぜならば、イエス様はあえれみのために捕らえたからです。
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あえれみを受けてくださいならば、全ての問題が光の方に光り、解説の方に進んでいく。
神様がわかり、自分の弱さや惨めさが神様がわかっていく。
また、私は冷たい人間で、自分のことしか考えられないというのもわかっていく。
ですから、あえの人に帰ってくださいと、憐れんでいただかなければなりません。
さて、私たちはもし道端見ながら、自分の姿に気づかずにいるならば、自分は飛んでいく。
豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分が惨めで哀れで貧しくて、
盲目で裸の者であることを知らない。
牧師の参照の十七世史と言われるような生活を送っているということになります。
そこには、悲観たる状態であることの認識はなくて、叫びもないんです。
こう考えると、このバルセマイが叫ぶことができたということは、なんと素晴らしい恵みでしょうか。
こうも言えるのではないでしょうか。
神様に向かって叫ぶということは信仰の表明であります。
いわゆる福音書の9章の40節に、私たちも盲目ですかと大差人たちは言います。
それに対してイエス様は、もしあなた方が盲信であったなら、あなた方には罪はなかったでしょう。
しかしあなた方は今、私たちは目が見えると言っています。
あなた方の罪は残るのです。
自分は何でもできると思えば傲慢になって、人を見上げて応援が最後に出ていきます。
言葉もそうです。
いつも見えるのではなくて、見せていただいている。
イエス様は、この大怪人たちは大切なものが見えていないと言います。
それは、自分が罪人であるということですからね。
いつも他人と比べて、自分は大丈夫だ。
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いつも他人と比べて、こんなものを持っている、あんなものを持っている。
あんなものよりも、まだ悪しだと思っている。
そうではない。神様の前に出て目が開かれる。
神様の前に出て目が開かれなければ、盲信と一緒だとイエス様がおっしゃった。
そういう中で、今日イエス様が私たちに言っていることは、
神様に向かって、私たちは心の深いところで叫んでいるでしょうか。
そういうことです。
さて48節、第3話目でありますが、「ますます叫んだ」、「ますます叫んだ」。
別の訳では、「叫びかけた」と書いてある。
大きな声で、しかもしつこく願います。
私はですね、この叫ぶということだけではなくて、叫びかけるという言葉に目が当たっている。
イエス様は祈りについて、失望しないで祈りなさい、祈り続けることの大切さを教えられました。
昔ヤコブが、私を祝福してくださなければ、私はあなたを晒せませんと、神様の仁義誓いを捉えて、晒せませんでした。
まるで前はですね、人々が彼を捉えて黙らせようとしましたが、ますます叫び立てたわけです。
こんな熱心な祈り、切ない願いができるようにお互いも祈りませんでしょうか。
少し祈っては終わってしまうのではなくて、イエス様にこのことだけは聞いてもらわなければならない。
聞いてくださなければ、もう私は祈ることをやめませんよというような、私たちは少し祈ったら終わりです。
家族の救いのためにも、仕事のためにも、人間関係のためにも、皆さんは祈っておられることでしょうけれども、どれほど叫び立てているでしょうか。
継続しているでしょうか。うるさいほど、うるさいほど、打ち返っているでしょうか。
不正な裁判官に邪魔目が答えてくださいと言って、夜中までも出かけ寝してですね、棒を叩き続けるように祈ることの大切さ。
次に49節があります。イエス様が立ち止まってですね、マルティマルお前を呼んでいるぞということを聞くと、どうしたと返されますか。
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49節、さらに50節、その人は上着を脱ぎ捨てて踊り上がってイエス様にとどまりました。
私はこの言葉も忘れられません。この時点ではまだ目が見えていないです。しかしイエス様も声が聞こえるように立ち寄りました。
しかも上着まで脱ぎ捨てて行きました。イエス様が来なさいと言ったならば、すぐにでも行きたい。
そのことで邪魔になるものは何でもいらない。彼にとって上着が唯一の財産、持ち物だったでしょうけれども、それも金具に捨ててもいいようにイエス様の前に行ったわけであります。
すなわち上着はどうでもよかったんです。そこまで必死だった。
さらに50節、イエスは彼に言われた、私に何をしてほしいのですか。その時に先生、目が見えるようにしてくださいと言っています。
抽象的な祈りではない。具体的に目を開けてほしいと言います。神様、祝福してください。神様、私を荒れんでください。そんな抽象的なことではなくて、目を開けてくださいと言います。
作りならば作り。まだ神様のことがよく分からないと思っていらっしゃる方は、神様をはっきりと知ることができるように、分かるようにさせてください。
表明を求めていらっしゃる方は、もう勢いを下さい。はっきりした祈りであります。今です。明日では遅い時があります。
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明日に伸ばせば、人々の冷たい言葉や様々な需要が劣って、皆さんの祈りを朽ちることがあります。
必ず女のように求めるまでは、たとえ犬頃と言われても、イエス様の足元から離れない。そのような祈りは必ずに応えられるように、見えるようになりたい。その願い。
先週のこのヤコブとヨガネが熱心に頼んだことは大きな主題です。
イエス様は彼らに対しても、何を求めているのですかと言います。
そうして彼らに、あなたらが自分が何を求めているのか分からないと言います。一方では目が見えるようになります。
もう一方では、あなたらに一部、うざい身にさざいしてほしい。うざい身にあがったならば、あなたが王でしょう。その次の具合になるものにさせてくださいと言います。
人というのは、求めるものによって、その人の心の本心が現れて見えてまいります。
第二番目に私たちが学ぶことは、このバルテマイの信仰であります。
彼の信仰は、彼が耳にしたことを尋ねたというところ、一体どういうことでしょうか。何の騒ぎでしょうかというところから始まって、彼はどう言ったでしょうか。
ナザレのイエスをダビデの子、すなわちメシアと呼ぶことによって強められました。
多くの人たちはイエス様のことをナザレのイエスと呼びました。ナザレ村の出身のイエスです。
けれども、このバルテマイが言ったことは、ダビデの子イエス様、スペシャルで預言しておられる救い主という意味であります。
あなたにとって私の救い主、あなたは私の救い主です。
多くの人たちがナザレ村のイエス、ナザレ村のイエスと言ったけれども、彼はダビデの子イエス様と言いました。
ですからこそ、イエス様はあなたの信仰があなたを救ったのです。
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ここまでバルテマイがいろいろな試みや試練がありました。
彼がダビデの子イエス様、ダビデの子イエス様と叫んでも、イエス様は答えられませんでした。
お祈りをしても答えられないことがみなさんありますけれども、このことだけは知ってください。
イエス様の耳には覚えているということです。
そしてその祈りは、みなさんの願った方向に進まないかもしれない。
また、みなさんの願った方向に即座に叶えられるかもしれない。
でも、もう少し待ってくださいよ。もう少し時期が必要ですから、あなたの願った方向にことが進むかもしれないけれども、もう少し時間がありますよ。
三つですよね。
即座に答えられるか。
あるいは、もう少し待ちなさいということか、答えられるけど。
でも、あなたが願っていることは、神様の御心とは違いますよ。ダメですよということ。
でも、とにかくこの三つはイエス様の耳に届いている。いや、このお祈りは届いている。無視されているかもよ。
でも、イエス様は、みなさんの祈りを地に落とすようなことは決してない。
必ず聞いている。
どんなに小さな祈りでも、どんなにくだらないような祈りでも、
あなたがイエス様こそ福祉であると知っている。
さて、二つ目です。
人々が彼を黙らせようと大勢で差し舐めたときも、イエス様は冷たい会話を力ずに止められません。
私たちの場合には、いろんな妨害があるかもしれません。イエス様のことに行く、あるいはイエス様の前に祈るという妨害があるかもしれない。
でも大丈夫です。
そしてさらに、イエス様は私に何をして欲しいのかと、わざわざ尋ね上げました。
イエス様は分かっていたことを何で聞くのでしょうか。イエス様は善悟のあるお方でしょう。
このバルセバエが今何をしようとし、どういう思いであるのかは、イエス様に全部を。
目が開かれるということも知っておられます。何故言われたんでしょう。
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イエス様は無駄な質問をするお方ではなくて、
そこにははっきりと自分の言葉で伝える、あるいは目的がある。
何をして欲しいのか、目が見えるようになる。
イエス様が皆さんに、今あなたに何をして欲しいのですかと尋ねられたら、どう答えるでしょうか。
質問されたら、たぶん戸惑ってしまうと言うでしょう。
それは具体的に、皆さんが求めているものがないか、必要と感じていないことだと。
だから何をして欲しいのかと言われても、わからない。
でも、このところで5分、10分、自分の心を本当に深めていくならば、
それがはっきりと分かるようになる。
そのこともこの部屋で必要ではないだろう。
私の周りには、こんな家族になりたいとか、あんな人になりたいとか、そういうモデルがあります。
あんな家族を作りたいと言って、結婚してもう30年を過ぎました。
果たしてそのモデルに近づいたかどうか分かりませんが、
たらないながらも、私の前に歩んでいく新婚の先輩たち、
あんな人に寄せたい、このような家族を生きていきたい。
じゃあ今、果たして世数年に願っていることは何かと尋ねられれば、
やっぱり一瞬躊躇するのではないでしょうか。具体的なものです。
さて、ある世界の新婚の第二番目でありますけれども、
ここの先生、目が見えるようにしてくださいという、ここの先生という言葉は、
一般の人が言っている、使っている先生という言葉ではありません。
この言葉は、どうぞ覚えていてください。
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私の先生、あの先生を言う、この先生を言う、こういう先生を言う、
たくさん世の中には先生がいます。
そうではなくて、バルテマイは私の先生と言います。
それが新婚にあらわれています。
イエス様はバルテマイの新婚を試されました。
新婚は試されて、試されて、
無人物が取り除かれ、
新婚の実態が現れて、あるいは純粋な新婚になるだけではなくて、
願望が増し加えられて、
自分が一切何を求めているのか、何が大切なのか、それが分かって、
不動の新婚となりました。
そして彼は、イエス様が呼ばれた時に、上着を脱ぎ捨てて、
イエス様のところに、
最後になりますが、第3番目は、バルテマイの宮城先生。
せっかくですから、ルカの福音書を読み上げてもらいますか。
ルカの福音書の18章、
マタイ・マルコのルカ。
ルカの18章の43節。
進化薬の第2節。
2,317をお持ちの方は、
新薬聖書の157ページ。
ここにも同じような記事が出ています。
その全部をまた見ていただければ分かると思います。
その人は直ちに見えるようになり、
神を崇めながらイエスについていた。
それを見て、神は皆、神を賛美した。
この記事はですね、
バルテマイは肉体の目だけではなくて、
霊の目も開かれてきたということだ。
彼の名前、バルテマイとして、
聖書に記されているのも、
イエス様についていった彼、
彼自身のキーストーシャとしての生活を送ったからだ。
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イエス様についていたからこそ、
その名前がこの聖書に記されている。
52節に、彼は見えるようになって、
道を進むイエスについていた。
どうぞ皆さん、私たちにとって大切なことは、
信仰によって霊の目が開かれる。
そして神様を暴れながら、
イエス様についていくことであります。
信仰によって目が開かれる。
この霊廃においても、
確かに私たちを信じるイエス様がここにおられる。
そしてそのお方に対して、
私たちは感謝と喜びを捧げる霊廃。
そして御言葉を聞いて、
そしてイエス様はこの道から先に出かけていくわけでありますが、
その後に私たちはついていく。
どうぞ信仰によって目が開かれる。
暗黒の状況の中で、
先が見えないような、
劣劣の多いこのコロナ禍があります。
ミスにならないように、
人とすり合わないように。
これは悪魔の殺略です。
けれどもそうせざるを得ない。
本来ならクリスチャンはミスにならなければならない。
そしてお互いのことを知り、
祈り合い、
身体のミスには今はなれません。
できませんけれども。
そしてこの世の中にあって、
信仰を持って進んでいく。
ある霊廃は、
イエス様が行かれるところをついていきました。
と書いてあります。
でもこのことは書かれていませんが、
わずか皆さん、
一週間後、
イエス様が治してくださった目で、
目が見えなかったけれども目が癒されてですね、
イエス様はこういうお方があるということがだんだんとわかって、
イエス様の姿を見て、
イエス様に従っていきました。
その目が、やがて一週間後、
十字架を見なければなりません。
この振り返る手前は、
はじめイエス様は人の目を開ける奇跡をなさるお方なのに、
どうして自分を助けることをしなかったんだろうかと思ったでしょう。
けれどもイエス様の使命は、
人を救い、
霊の目を開けることが一番大切なことだと知ったのではないでしょうか。
あの十字架こそ、私のためであった。
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それが霊の目が開かれるということだ。
そしてどうぞ、私たちもバルテマイのように、
いつでも、どこでも、
イエス様が行かれるところに行き、
イエス様、私をあげてください。
ただ、その抽象的なことではなくて、
目が開かれるように。
皆さんにとっての具体的なことは、皆さんご自身がご存じありますから、
その具体的なことを祈りつつ、
それを忘れない。
しっかりとイエス様に挨拶していただきたい。
どうもお祝いをいたします。