00:02
アーメン、ありがとうございました。いつも素晴らしい賛美を感謝します。
では今日も、一言いただく前に、愛する兄弟姉妹ともにですね、握手をしながら挨拶をしたいと思います。
隣の方々と挨拶しましょう。
よくいらっしゃいました。
よくいらっしゃいました。
解説します。
一言お祈りいたします。
愛する父な神様、今日も主が我らを愛して下さい。この聖日礼拝を主がお招きさせて下さい。
愛する兄弟姉妹が主にあって、ともに心を一つにして、賛美を捧げ、また祈りを捧げる、また御言葉をいただく、この幸いな恵みを心から感謝いたします。
お貸しを、今から神御自身が私たちにお語り下さい。
このものはあなたの道具に引きません。ですからどうぞ、神御自身が、それら一人一人に心の中にお語り下さいますように。
そして神様の御言葉に、私たちが従順に従える信仰をお与え下さい。
感謝します。
今日、本当に久しぶりの方々、また愛してきている方々、同じ等しい恵みを主が幾倍も上から捧げて下さいますように、この心からお願いをいたします。
イエス様の御名によってお祈りいたします。
前回に続いて、私が信じるのは第二、我は全能の神を信ずというところです。
主導信条を一緒に学んでいるところですが、今日は全能の神について、聖書の御言葉から教えていただきたいと願っております。
今、私は毎週火曜日、夕方から塩屋神学校にいて寮で一泊して、水曜日午前の授業一コマを学んで書いてきていることを毎週繰り返しているのですが、
寮で一泊しているわけです。本当に十三、四年ぶりに神学校に戻って寮で、しかも硬い二段ベットで寝ているのですが、不思議にすぐ寝ちゃうんです。感謝しています。
03:10
同じ寮にインマヌエル教団から入ってきている50代の山本教大がいますが、彼の本棚に不思議に一冊の本が私の目にポンと入ってきました。
それはイギリスのチャールズ・スポルジョンという有名な牧先生がいらっしゃるのですが、今は亡くなったのです。
1830何年から1900年まで、本当にイギリスだけではなく世界的に偉大な牧会者であり、説教者である素晴らしい先生なんですね。スポルジョンという先生です。
その先生の一冊の本が私の目にポンと入ってきて、その本をお借りして読ませてもらいました。その中の内容の一部ですが、引用しておきでお話したいと思います。
その中に牧会者の責任について、その先生が引用している内容は、みなさんよくご存知の天皇歴帝のジョン・バニャンがありますよね。ご存知ですか。知りませんか、みなさん。
天皇歴帝、ジョン・バニャンという有名なプリタンの先生ですが、その本の中に地獄のため息という本がありまして、そのところをこのように引用しています。読ませていただきます。
盲目な生殖者よ、その虫のゆえにどれだけの魂を滅ぼしているだろうか。猫いわずが体を毒するように魂を毒する説教。
彼らのうちの多くは、一人でいくつかの町の責任を持ち、そのために神の御前に申し訳をしなければならないのではないかと思われる。
その友よ、私はあなたに申し上げたい。あなたは人々に説教をする責任を引き受けた。しかし、あなたは何を話していいのかわからないのかもしれない。
あなたの教会の人々全部がどなりながら、あなたの後について地獄に下ってくるのを見て、あなたはかなく思わないだろうか。
彼らは叫ぶ。私たちがあなたに感謝しなければならないことはこれだ。あなたは私たちの罪について答えることを恐れた。それは私たちがあなたの給与を払わなくてはあなたは大変だと思ったからだ。
06:20
お呪うべき卑怯者よ、あなたは盲目な案内者だが、自分自身が溝に落ちるだけでは満足しないで、私たちまで満ちて溝に叩き込んだのだ、というところを読ませてもらいました。
その本をその晩読ませてもらって、夜遅くまで自分が僕にとってどういう御言葉を取り継いでいるのか、悔やんでいるとともに哀れみを求めながら、夜遅くまで祈っておりました。
皆さん、説教者はまるで医師が患者さんに病名を告知することと似ていると思います。
去年、妻が胃がんを患ったわけですが、そのときにお医者さんは妻に私に、ちゃんと胃がんですと言ってくれました。
受け止めはつらかったのですけれども、でもお医者さんにありがたいことです。
胃がんと言われたのに、なぜありがたいですか。病名をちゃんと言ってくれたからです。
胃がんの患者さんにあなたは風邪ですよ。ちょっと休んだら治るよというお医者は、それは不覚かない医者なのか、患者です。
医者ではありません。もう仕事をやめなくならないんですよね。
胃がんであれば胃がんです。胃かいようであれば胃かいようです。風邪であれば風邪ですと、ちゃんと病名を告知しなければならない。それが胃がんの責任なんですね。
そういった面で、僕もそれ以上に重要な霊的状態を診察していると。それで良いことはよくやりましたと褒めたり認めますけれども、
ある時には教会があるいは人たちが霊的に怠けていたり過ちを犯していたりするならば、聖書に照らしていただいて、罪は罪だと言わなければならないでしょう。
09:06
癌を癌と告知することと同じです。もちろん、聞かれる側も、聞く教師の側も心を剥がれるかもしれません。でも、聞かれなければならないことは聞かれるべきです。
だから、説教者はまるでスピーカーのようです。神のスピーカーですから、聖書が語る言葉通りに伝えなければならないということです。
ですから、皆さんにお願いしたいことがあります。もしも私が講談で、説教で、あるいは人会で、祭典で、私が伝える、取り継ぐその説教とかお話が、
もし、聖書に逆らっている、聖書に相反することがあるならば、皆さんは反対してください。もし私が、検診をしなくていいですよ。聖書のこのところとこのところは嘘ですよ。
十字架を指定したり、キリストの復活を指定したり、あるいは聖霊様もおられない。そういうふうに私が説教するならば、私の説教を反対してください。
しかし、私が取り継ぐ見言葉が、聖教に相反することでない限り、皆さんは反対してはいけません。
それは私に反対するのではなく、聖書に反対する。つまりそれは究極的に神様に反対することになります。見言葉に私たちは従順すべきです。
聖書に語られている言葉は聞きづらくても、私たちは聞いていなければなりません。患者さんがあなたは遺伝子です、末期ですと言われるのが聞きたくても、聞いて治療を受けなければなりません。
そのときに、患者さんが皆さんに先生、私と仲良く二つとなって、後々教えてくださいという患者さんはいないのです。
生きてたところです。後々、ゆっくり後々で話してください。こういう患者さんもお医者さんもいません。
神様の見言葉に従うことは、祝福であり恵みであります。その見言葉に従うときに、主はその従うものに豊かな恵みを。
12:16
今日のメッセージはいつも大事なメッセージですけれども、今日はとても私たちの信仰に関わる、とても根本的な重要な見言葉です。
今日の説教題のように、我らは全能の神を信じます。私たちが信じている神様は、全能であるお方です。神様は全能です。しかし、私たちは全能ではありません。無力です。
神様は無限の神様です。しかし、私たちは無限ではありません。有限です。無力です。
神様の全能性と人間の有限性、限界性は、まるでコインの両面と、神様の全能性と人間の有限性が同時に出てくる有名な箇所がありますけれども、そのところを一緒にお披露目したいと思います。
マルコノ宗教二十七説です。先週の蒼天使徒会のデボーションの歌唱ですけれども、マルコノ福音教第十教二十七説です。では二十七説、ご一緒に大きな声でご一緒に読みましょう。
三、イエスは彼らをじっと見て言われた。それは人にはできないことですが、神はそうではありません。どんなことでも神にはできるのです。アーメン。
皆さん、人にはできないことですが、神はそうではありません。どんなことでも神にはできるのです。
ここにですね、人にはできない、これがまるでコインの表です。その裏には、神はどんなことでもできる、これが裏に書いてあります。
つまり皆さん、私たちがですね、神様の見前で、自分は有限である、できないことばかりで、いや実は本当に無力で、とですね、死の見前にキレをして、
15:11
自分の有限性、無力さを認めない限り、その神様の全能性が本当の意味で見えてこないのではないです。
神様の全能性の前で、「主よ、私は無力です。私は有限なものです。私は無力です。私にはできません。」と認める時に、その時に初めて神様の全能性が私の人生の真ん中に入ってくるのです。
もう前回もお話ししましたけれども、今日も日本の方の一つの特徴をお話ししたいと思います。
日本人のなじめさ、勤勉さはですね、もう世界最高じゃないかと思うことですけれども、それに比べて韓国人はですね、
デタラメで適当に適当にやっちゃう、そういうやり方がありますけれども、そのところはもう学ぶべきだと私は思うんですが、
ところが皆さん、そんな私たちの口からはよく出てくる言葉があるかと思うんですが、その中の一つは、「自分なりに、私なりに、僕なりに。」という言葉です。
自分なりに頑張りなさい。僕なりに頑張っていきなさい。よく言うんですよね。
ところが皆さん、ここで神様の見舞いで正直に認めてほしいという言葉があります。
それはですね、私たちが、皆さんが、皆さんの人生、今日まで、私なりにやってきて、人生のすべての問題は解決していなかったことを皆さんは知っていらっしゃいます。
すなわち、ベストを作ったとして、最善を作った、自分なりに頑張ってきたとして、でもうまくいかないことが多くあります。
ベストを作っても状況が変わらないことがいっぱいあります。自分なりにベストを作っても、それでどうにもならない問題が山ほどあるんじゃないですか。
18:05
自分なりに最善を作った、最高、ベストを作った、それでですね、すべての問題が解決してですね、そうなればいいのに、人生はそうにはならないんです。
ですから、自分なりの人生ですべてのものがうまくいかないことを、神様の見舞いで自分は有限なものであることを認めなければなりません。
それを早めに認める人生が、賢明な人生になれます。
自分にはできないことが、コインの表であれば、神様には何でもできるということが、コインの裏であることを信じて従うものが、幸せな人生を送ることができます。
ですから皆さん、神様が私たちに望んでおられることは、このようなことです。
私にはできない。私には無理だ。乏しい。自分は罪深い。情けない。悩み苦しみが多い。悩んでいる。
といった自分自身の有限性、限界性、無力性を、一の見舞いに認めることでございます。
私にはできるから、私にはできないへ変えられることです。
その時、初めて神様の善のある力が、私の人生の中に入ってくるのです。
つまり皆さん、善のある神様がおられると言っているのですが、
自分の無力性、自分の有限性、乏しさを認めない限り、その善能の神様にお会いできなくなってしまいます。
ところが皆さん、私たちは本当に一の見舞いで、自分の乏しさ、無力性、限界性をなかなか認めきっていないのではないかと思います。
なかなか難しいことではないのではないかと思います。
今日の本文に行きますと、小石十七教十八書のところ、アブラムとサライが出てきます。
今日の本文十七教一節からは、神様がアブラムとサライに三度目現れて約束していることは二言葉です。
21:06
アブラムにあなたを大いなる国民とすると、最初約束の言葉を聞いたそのときが、なんとアブラムは七十五歳でした。
ここの七十五歳ぐらいの方いらっしゃるかと思いますが、
七十五歳のおじいちゃんにあなたは申し訳子供を産みますよと言われたのです。
でもその後一向に子供は与えられていません。
二度目神様が現れてくださいました。八十五歳でしたアブラム。八十五歳の方。
そのときに神様があなたの子孫を空の星のようにと約束してくださいました。
でもまだ子供は与えられていません。
それで三度目でした。そのときがなんとアブラムは九十九歳でした。
九十九歳のおじいちゃんにですね、その御言葉は今日の十七話との一節なんです。
書いてありますね、一節。
アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れ、こう仰せられた。
私は全能の神である。あなたは私の前を歩み、全き者であると。
そのときですね、神様はアブラムにですね、初めて私は全能の神であると明確に仰ってくださいました。
全能の神としてアブラムに語っておられる。
みなさんアブラムはどうですか。ジムは九十九歳です。さらにもおばあちゃんのおばあちゃんです。
そのところアブラムは自分の体を見て、周りを見て、常識を見て、自分の有言性をあまりにも思い込んでいたわけだから、
神様のこの全能性に人生をかけることができなかったんですね。
今日の十七章、十七節をちょっと見てみましょうか。
神様が私は全能の神だとですね、あなたの子孫を増やそうとおっしゃいました。
そのときの彼の態度を見てみましょう。
アブラムの態度をよくご覧ください。十七節です。一章二を読みましょう。
24:00
三、アブラムは知れうし、そしてあなたが心の中で言った百歳のものに子供が生まれようか。
さらにしても九十歳の女が子を産むことができようか。
百歳です。アブラムは百歳です。サラヨは九十歳です。男性が百歳、女性が九十歳、子供を産むこと。
これはさすがに無理かもしれません。ギリスにもない記録であるかもしれません。
しかし皆さん、ここでのアブラムの態度をよくご覧ください。
神様がですね、私は全能の神だとおっしゃったんですよ。
にも変わらず彼は神様の御前で知れうしてはいました。知れうしてはいました。しかし笑ってました。
心の中でこう言いました。百歳の子供が生まれようととんでもない。さらも九十歳の女の子が子を産むことはありえない。
いやいやそれは無理だわとややか笑っていた。知れうしてはいました。
三度も神の御言葉をいただきました。しかし自分の体を見ても、周りの隣の誰々のおじちゃんを見ても、子供を産むことは不可能だと思い込んでいました。
神様の全能性を信頼していなかったわけですね。
皆さん、あたさきはどうでしょう?
アブラウムと似ていますか?似ていますか?違いますか?
皆さんは神様の全能性を信頼しています。信じていらっしゃるでしょうか?
神様を礼拝しています。祈りもしています。賛美もしています。教会にクリスタル信仰の練習も長くなっています。
ところが、神様の御言葉の前で、自分自身の信仰を正直に照らして見ていきたいと思います。
例えば、家族の中に病気があるとしましょう。病院もあきらめましたとしましょう。医者もこれは治ることはありませんと言われたとしましょう。
その日に皆さんは、神様は全能なるお方だから、どんな病気も癒すことができると信じて、治るまで信頼して粘り強く祈っていますか?
27:07
あるいは、今日のアブラムのように神様に向かって、あなたの全能性はいいんだけども、これは無理ですと笑ってはいないでしょうか?
ここで皆さん、アブラムと神様との関係をちょっと考えていただきたいです。実は皆さん、神様はアブラムが百歳になるまで待っていました。
なぜでしょうか?それは、アブラムの子供を産む可能性をゼロにするためでした。
もし80歳だったら、子供を産むこともあり得ますね。ニュースにトピックに出たりするわけですから。
アブラムが人間として子供を産む可能性を全くゼロにするために、百歳まで神様は待っていた。
それで、私には全く何もできないと認めるその時点と、その時に彼の有権者と神様の全能性が向かい合ったわけです。
そのところに、やっと神様はアブラム、さらに子供を、これを覚えていただきたいです。
自分は乏しい、罪深い、情けない、自分には無理だという、そういったような絶望の沼に溺れている時に、
癒した時にこそ、全能なる神様が私の人生に入ってこられて、初めて働いてくださる。
だから皆さん、私たちは無力でもいいんです。限界を抱えていてもいいです。
その時にこそ、神様にもっと近づいていきましょう。
無力だからこそ、死の御前に近づいていこうではありませんか。
愛する皆さん、私たちがいくら、いくらですよ、
全能なる神を信じると、信仰告白していても、自分の限界は徹底に認識して、
自分の不可能性を、無力さを、有限性を持ってですね、死の御前に下り下っていかない限り、
神様との正しい関係を持つことは、難しくなるでしょう。
30:02
アブランとサラへの話をもうちょっとしたいと思います。
アブランとサラは、この今日の十七つのような不信仰の笑いが二度もありました。
十八章ごと見てみましょうか。十八章、十二節。今度はサラです。
一緒に読みましょうか。三杯。
それでサラは心の中で笑ってこう言った。
この私に何の楽しみがあろうか。
それに主人も年寄りで、ここにですね、アブランだけではなく、
サラもですね、自分はもうお汚れてしまったこの私に何の楽しみがあろうか。
私だけじゃない。主人も年寄りでもダメです、とですね。
でも神様が子供が与えられるよう与えられるよう三度もですね、
あらわして語ってくるのに、笑って、いやそれは無理です、神様。と笑っていました。
サラもアブランも笑っていたんですね。
彼らは神様の御前に知れ伏せはいました。
イカヤマスと礼拝はしていました。
しかし全く信仰を持って神様の全能性を全く信頼を持っていない。
笑っていました。まるでですね、私たちの姿を見るかのようです。
私たちはついつい全能なる神様を見上げてそこに目を留めるんじゃなくて、
周りを見ちゃいます。
常識を見て、この世の一般的な状況を見て、
信仰の目を奪われたりすることはないでしょうか。
全能なる神の目でこの世を、自分を、日常の生活を見るんじゃなくて、
人間の常識やあるいは日常の感覚だけを持ってですね、
毎日の現実を見つめているのではないでしょうか。
それで、いつの間にかですね、日常生活の中に入ってしまうと、
神様の恵みとその全能なる御言葉がですね、
絵空ごとにしか見えないくらい、日常に没してしまうことはないでしょうか。
33:00
そこに実は皮肉な笑いが生まれてくるんです。
つまりですね、日常生活のただ中でその現実に埋もれていると、
いつしか神様の御言葉を正面からそのまんま受け止めることができなくなってしまっている。
御言葉はですね、軽くいなして笑いながら適当に扱ってしまっているのではないでしょうか。
例えばですよ、神様の御言葉は確かにありがたい。
でも現実はそんなに甘くはない。
私が抱えているこの現実はそんなものでは解決しない。
そう考えると私たちは神様を恋愛しながら密かに笑うこと。
それがこの17章、18章でのアブラムとホロのことです。
日常に没することなく、そんなときに目を上げて全能の神様を見つめます。
仏にはできないことがいっぱいあります。
ここに神様にはできないことがあります。
今から算数の勉強をしてみたいと思います。
割り算です。皆さんお答えください。
10の10分の1は?
1ですよ。さあ行きますよ。
10の10分の1は?
100の10分の1は?
1000の10分の1は?
1万の10分の1は?
10万の10分の1は?
では皆さんの一つ的な答えは?
収入の10分の1は?
それは答えなくていいです。
皆さん、神様の全能性を自分がどれほど信頼しきっているのか、信じきっているのかは、実は献金生活と直結しているものです。
皆さんは、10分の1献金を全く捧げるものとして捧げているでしょうか。
この献金というものは、とても重要な二つのパロメーターです。
一つ、自分は神様をどれほど愛しているのか。
神様との愛の問題です。
二つに、自分は神様の全能性をどれほど信頼しているのか。
36:01
この二つを知ることができるパロメーターは献金生活です。
皆さん、愛すれば愛する人のために何でもするんです。
身体も時間も金も健康も惜しいと思いません。
私は会社で仕事をしていました。学校を卒業して4年ぐらい仕事をしていたのですが、
1995年に入って、1996年に結婚したわけですから、勤めていたときに結婚しました。
会社はとてもいい会社でしたけれども、ものすごく忙しかったです。
夜、9時、11時、12時帰っているときも初日がありました。
毎週出勤でした。月曜日に出勤して金曜日に帰っていくと、新婚なのに。
そういう生活が続いていました。
そのときに自分は給料をもらったり、仕事をすること、そして給料を妻に渡すことをもったいないなと思ったことは一度もありました。
身体が疲れていても、夜9時、11時、12時まで仕事をしていることを自分は損と思っていたことはありません。
なぜでしょうか。妻を愛するからです。
愛するから仕事は自分はするんだけれども、給料を全部渡してももったいないと思います。
愛するからです。それが本当の愛です。
愛する人のために何でもすることができるんです。
命も身体も時間もかけることができる。それが本当の愛ですよね。
神様に対する愛も同じです。
私たちが神様を本当に本当に愛するならば、十分の一に、いや十分の一だけでなく、十分の二、十分の三、四もお返しすることができます。
ときには、神が願うならば一月の給料を全部お捧げすることもできるでしょう。
なぜそれはできるでしょう。
神様を本当に愛するからです。
教会の神とのお話です。
彼女は学校の教師でした。
教会の訪問伝導チームと同じく、訪問伝導チームがその女のお家に訪問して伝導して、
時間はちょっとかかりましたけれども、彼女はイエスラムを信じて救われました。
そしてそのお家がちょうど市の道路整備があって、道路が通るから市から補助をもらいました。
39:08
彼女は親からも兄さんも結婚もらっていました。
でも結婚をしていなかったんですね。独身でした。
親もいない、兄弟もいない、近いですね。親族も誰もいなかったんですね。
彼女はイエスラムを信じて、神様の恵みがどれほど大きなのかもスタープして感動していたわけだから、
自分が施設に行く前にちゃんと物を認識できるときに、弁護士として遺言を作って、自分の前代さんを教会に下させます。
ということです。
教会は行っていませんでした。
彼女は老人法務に行って、今日もですね、行ってきた。
そのようなところに行って、長い間そこで喰らって、やっと天に見されました。
彼女が教会に下されたその金金は、なんと1億円でした。
皆さん、あんまり驚いていないんですね。皆さん、どれほどお金持ちですか?
1億円って、もうスーッと投げるほどのお金持ちですか?じゃないですよね。
1億円を捧げました。
その教会は、その1億円の十分の一、一千万円を、今は日本の牧会さんのために、学びや施設のために、思い切って喜んで捧げています。
皆さん、どれほど価値ある人生でしょうか?
なぜこんな捧げ物ができるのでしょうか?
死を愛するからです。死を愛するからです。
2番目、神様の善能性をどれほど信頼しているかという問題です。
ちなみに、私は皆さんの一月の収入はどれほどなのか知りません。
また、皆さんがどれほど十分なお金を捧げているか、まだ教会の会計省庫を開けて見ていません。
皆さん、考えていただきたいです。
どんな信者が喜びを持って、喜んでおきまずに、例えば十分の一の献金とか感謝献金を捧げることができるでしょう。
簡単です。
収入の十分の一を神様にお返ししても、その残りで十分一月に生きていける。
42:01
神様はうえいじにさせない。
食べさせてくださり、生きさせてくださり、守ってくださる、善能なるお方なんだ。
信じきる方が十分の一も感謝献金もできるんです。
例えば皆さんの一月の収入が二十万円としましょう。
十分の一の献金は二万円です。
感謝献金は一万円捧げたとします。
どうすると残りは?
計算できましたか?十七万円です。
それで生きるんです。
お金だけ見つめたらちょっと低いかもしれません。
しかしお金を見るじゃなくて、善能なる神様を見つめることが信仰です。
それで一月の暮らしを神様に刻み切ることです。
神様はその民を絶対にうえいじにさせない。
漕ぎにさせない。守ってくださる。食べさせてくださる。
それが善能性を信じる信仰です。
それが使徒信条の告白なんです。
私たちは毎月、ある業界は毎週ですけれども、
みょうだんは一回、使徒信条、しかも教団の信徒告白も告白しています。
善能の神様、善能の神様、毎月毎月告白しています。
全く献金を捧げることができる。
しかし全く献金を捧げていないのであれば、それはなぜでしょうか。
収入の中十五の一献金とか感謝献金を捧げれば、残りでは生活が止まるから。
と、アブラームとサラのように、神様に比例付してはいるんですが、笑っているんです。
老れてしまったこの私に何の楽しみがある。
それに、主人もお年寄りで、そういうふうに笑っているんです。
神様の善能性はありがたいんだけれども、私の左右はそうではない。
皆さん、皆さんが全く献金を捧げているならば、
神様は皆さんを豊かに捧げてくださる。
自ら進んで、力に応じ、いや、力以上に捧げているならば、
神様は素晴らしいことを待ってくださる。
もちろん世の中では、多くの方々が力以上にですね、本当に尊い献金を神様に捧げておられたことです。
45:08
素晴らしい信仰です。本当に神様が喜んでおられるんです。
ひとつですね、お渡しがあります。
今日のメッセージを、私は大体月曜日から祈りながら書き込んだり準備するわけですが、
ひとつ神様が私に明確な印を見せてくださりました。
本日、あるヒントさんが、献金を私のところに持って来られました。
その方はですね、前日お家で夜祈っていたんですね。
その時に神様が捧げなさい、捧げなさいと言われたそうです。
それで、自分のこのお金を置いているところを主が指して、
捧げなさい、捧げなさいと言われてですね、その方は主を勘弁してください。
私が聞き間違っているんですよね。そうではないんですよね。
もう一度、もう一度、教えてくださいと勘弁してください。
でも神様、それで彼女は対応ですね。
そしたら神様、もう一度確かな印を教えて示してくださいと祈って、
その翌日の早朝に出られて、その時に丸子の十七曜でした。
私のメッセージはこのような内容でした。
十二の弟子たちは編みもして、家もして、家族もして、船もして、職場もして、
安全館も捨てました。ふるさかも捨てました。
全てを捨てて、主についてきました。
では私はそのために何を捨てたんでしょうか。
何をどれほど諦めたんでしょうか。
去年の一年、この前切磋がありましたけれども、
その家庭はいずれにしても結果を見たら、三尾谷教会は赤字でした。
しかし結果的に僕会社も役員も審査も誰も責任を負おうとしませんでした。
そんなに多くの審査ではなかったんです。120万円くらいだったんですね。
誰か献金してくれるだろう。私じゃない。
みんながそうではありませんけれども、十分の一度献金を全て者として捧げています。
老後のために貯金をする、食べるものを食べ、着るものを着て、旅行に行ったり、
教会は赤字になっても誰一人も犠牲を払おうとしない。
誰一人も大きく献金しようとしない。
48:05
献金をしていないわけではありませんが、線を引いてそれ以上深みまで献金しようとしない。
このようなメッセージを曹天に取り捨てらせていただきました。
それで彼女は、これは神様の確かな種類だと思って、この尊い献金を私のところに持ってこられました。
ある方にとっては少ない金額かもしれません。
しかしある方にとっては、あるいは目の中では、半年あるいは一年の十分の一献金に相当する献金です。
皆さん、神様の御言葉に従うほど、主は祝福してください。
この世でも、かの世でも、百倍の祝福を主は報いてください。
皆さん、私たちが勘違いして索得してはいけないことがあります。
私の財産も、生き物も、全ては、自分のものではありません。
献金は、私のものを捧げるのではなくて、神様のものを、死んである神様にお返ししてくれることです。
ところが、私たちは、神様が忍耐して、許しておられることを忘れたまま、お返ししていないのではないでしょう。
もう一つ、神様は善もなるお方ですから、神様が貧しくて、お金が欲しくて、私たちに物漏りをしているわけではありません。
神様には、私たちのお金なんか、必要しておられません。
神様は、何万円、何十万円もらわなくても、世界の、この世の全ての富みが、神様のものだから、全然困っておられません。
ではなぜ、私たちに、私の全能性を信頼して捧げなさいとおっしゃるのでしょうか。
それは、私たちを祝福するためです。
もともと、神様のものを、神様にお返しするんだけども、恵み豊かな神様は、それに祝福してくださるんです。
51:10
これが、不思議な恵みなんです。
皆さん、もう一度、銀行のローンを返済したことはありますか。
ローンを返済したとして、銀行が表をくれたり、お金をまた、パバでくれたりはしないんですよね。
当然返済するものだから、皆さん、私たちの現金も、全てのものは、神様のものです。
ある意味で、それはローンです。
恵みです。
お返ししなければなりません。
皆さんが本当に、私たちが神様を心から愛していきます。
全能性を信頼します。
もちろん、皆の中では、奥さん一人で親子生活をしているわけだから、もっと捧げたいんだけども、
他の反対があったり、いろいろあって捧げられていない方もおられるでしょう。
そうするならば、夜通ししながら、時には戦いがあっても、捧げるごとに徹底していなければなりません。
私は小さいの時でした。
うちは食堂、中華料理屋さんに仕事をしていました。
母はクリスタンでしたけれども、うちはクリスタンではなかったし、
大迫害されました。
でもその中で、母は他のことは譲っても、
信仰を守ること、日曜日スーツを守ること、検診をすることは絶対に譲っていませんでした。
時にはトラブルがあっても、検診をしても、決して譲っていなかった。
そのために母は父からお宝だとも承知がありました。
でも諦めていません。譲っていません。
日曜日になると、食堂はお客さんがたくさん来るわけですね。
しかし母は、しのいだから休みをして教会に行くのかな。
54:01
父は、いやお客さんがたくさん来るから仕事をしよう。
しません。しよう。しません。しよう。
それでトラブルがあったり、検診をしたりしました。
そのあたり私が教えられたことは、母の徹底した信仰でした。
自分は死んでも、主の意地を守る。
自分は親父にしても、主の者は全て者としてお返しする信仰でした。
決して諦めていませんでした。
母はやりくりをして、でも十分の意地を、感謝、歓喜を捧げていました。
妥協していませんでした。
もちもち死はつりかになってですね、4年前も亡くなったんですけれども。
皆さんもう一度申し上げたいと思います。
皆さんが全く捧げ物を捧げていらっしゃるならば、
皆さんの人心臓の信仰、告白は生きる告白になるでしょう。
全く捧げ物を捧げていないのであれば、
それは私が神様の全能性を信頼していない。
神様を愛していないという。
いくら人心臓を50年、100年告白していたとしても、
全く捧げ物を捧げていないのであれば、
我は全能の神を信ず、そこは矛盾になることでしょう。
愛する皆さん、全能の神様を信じますか?
本当に本当に神様を愛していらっしゃいますか?
そのものを自ら進んで、力に応じや、力以上に、
皆さんは明大に教会を愛していらっしゃいますよね?
20年、30年間、愛を持って皆さんを支えてこられました。
捧げてこられました。
そこからもう一歩進んで、もっと深い天真のところまで入っていこうではありませんか。
その教会を本当に愛するならば、
まず、謙虚生活から徹底にしていただきたい。
57:03
神様のものを神様にお返しいただきたい。
イエス様がおっしゃいました、ルカの16書13節をご覧ください。
ルカの福音書16書13節。
新学生書149ページです。
では、ご一緒に3位。
しもべは二人の主人に仕えることはできません。
一方を憎んで、頬をあいたり、または一方を悶んで、歯をかろんだりするからです。
あなた方は神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
皆さん、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。
御言葉にできないと書いてあるならば、できないということです。
皆さん、神様は善のなるお方です。
その善のなるお方が今も生きておられ、
御自分の民を、その善能の御手をもって、愛をもって守ってくださる。
試練から救ってくださる。
病気から癒してくださる。
疾患から、困難から、死は救ってくださる。
それが御敵になる善能のお方であることを信じていきましょう。
信頼していきましょう。
そして、神の者は神にお返しする。
全く捧げる者を喜んで捧げる私。
そこに、神様への愛が、善の性の信頼が生まれてくださる。
我は、善のの神を信じる。
お祈り致します。
今すばらく、死の御前に下り下して、心砕いて、まずは神様の祈りをしましょう。
善能の御手をもって今まで、慣用して待っててくださり、許してくださり、愛してくださった神様のその善能の愛に感謝致します。
また同時に、悔やための祈りを捧げましょう。
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神の者を神にお返ししていなかったことが、もしもあるならば、お返しできる信仰を与えてください。
神にも富にも量を使えることはできません。
死の者を死の者にもとに返すことができる信仰を与えてください。悔やためましょう。
お祈り致します。
アレリアス神様、あなたの恵め心から感謝致します。
あなたは今も生きておられます。神様は生きておられます。
あなたは善能の神です。すべてのものはあなたのものです。
主は今も生きておられ、善能の神のその身でおもって、我らを守ってくださり、祝してくださり、助けてくださるお方であられます。
どうぞ主よ、我らが本当に神様の愛に応え、神様の善能性を信じ切る私たちでありますように、どうぞ主よ、我らの信仰を強めてください。
我らを本当に神の者として、主が用いて祝してくださいますようにお願いを致します。
どうぞ主よ、我らが本当に神にも仕え、神にも仕えることができませんという言葉があるように、どうぞ主よ、神のためにすべてのものを手放して、卸して、捨てて、諦めて、主についていけるように、主よ、ついてきなさいとおっしゃられたときに、主よ、ついていきます、従いますとお答えできる我らと作りかえってくださいますようにお願いを致します。
どうぞ主よ、我らの信仰を深ごとお祈りします。
愛する日の神様、我らを今日までその善能の御手をもって守ってくださり、祝ってくださり、主が仕事を与え、
食べ物、着物、住む家も、家族も、健康も、すべてのものは主から与えられたものです。いや、預かっているものです。すべては必須のものです。
自分のものは、にもわからず、主は豊かに豊かに施してくださる。そして私たちが本当に思い存分使えることがあり、そして本当に人生を楽しむことができるように、主は許してとませてくださるお方であられます。
すべてはあなたの憐れみで、慈しみで、恵みであります。その中私が神様あたたちに十分の意志を捧げなさいとおっしゃっておられなかった。
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私があなたを慈しみでやりたいから十分の意志を捧げなさいとおっしゃっておられます。
しかし、私たちが主のものを、主の身元に全てものを持ってお返しできますので、まずは私たちの心を強めて、信仰を強めてくださいますようにお願いいたします。
今日に至るまで、多くの巨大妻たちの犠牲、捧げ物、奉仕を通して、今、明堂に教会が建てられていることを覚え、主よ感謝をいたします。
主よ、その涙、その奉仕、その捧げ物を通して、主よ、今までより、これからさらにさらに、主よどうか、あなたが大に我らのこの群れを用いてくださいますようにお願いいたします。
もっと信仰の、県心の深みまで進み出て、そして県心できますように捧げることができますように、どうぞ我らの信仰を強めて捧げてくださいますようにお願いいたします。
どうぞ主よ、この群れを覚えた日に、あなたにお願いいたします。
本当にお一人で信仰、今日まで涙をもって、本当に葛藤の中で、苦しみの中で、主よ愛し愛し、信仰を守っている兄弟あるいは姉妹たちよ、主よ覚えて、その涙の祈りを主よ覚えて、あなたが答えてくださいますように。
これで主よ、全ての家族が主の御前にそろって礼拝できますように、主よ、我らの群れのこの祈りを主よ憐れんで聞き入れてくださいますようにお願いいたします。
いつまででしょうか、いつまででしょうか、主よ我らの群れを憐れてください。
また、我らの病気で様々な長い間の病の中で戦っている主よ兄弟姉妹たちよ、憐れてください。主よ、その病から立ち上がることができるように、主よ治して癒してください。
私にはできないんですが、あなたにはできます。信じて告白して祈って参りますので。
主よ、本当に働いている兄弟姉妹たちの病気を主よ、あなたが憐れてください。見て思ってやってくださいますようにお願いいたします。
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どうか主よ、我らのこの群れを本当に主よ感謝します。昼も夜も祈って、本当にこの足りない御口ですけれども、喜んで使いに行ってくださり、ともに福音伝説のために励んでいる兄弟姉妹たちのその尊い奉仕を主よ、あなたは喜んで受け取っておられることを信じます。
どうか主よ、我らは自分の身回りに見つめるのではなく、主を見上げて福音のために前進していきたいですから、主よどうかこの群れを憐れてください。
また本当に宇和波教会に全世代が共に集まって、礼拝できるその日を待ち望んで参ります。早いする赤ちゃんから、小学生、中高生、20代、30代、40代、全世代が本当に共に集まって、礼拝できる主の教会と作り返してくださいますように、あなたの栄光が見たいですから、主よ同情にさせてください。
今日の御言葉を感謝します。いえつさまの皆によってお祈りいたします。