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それでは、応援いただきました、この、
ヨハネル福祉署の十五章を開きいただきましょう。
この十五章は、大変有名な箇所でありますから、
礼拝で皆さん方も何回か、メッセージをこのところからお聞きなさったと、そう思います。
東日本大震災という、いまだにその痛みを抱えている私たちのこの国ですけれども、
その時に一つの言葉が注目されました。
そしてまた、女子サッカーが大変素晴らしい成績を収めたということもそこにあって、
絆という言葉がね、そこでよく使われました。
あるいはその時のこの言葉になったかは、きょうどその二人が教科書だからではありませんけれども、
それぐらい絆という言葉が非常に注目されました。
この絆という言葉は、時点によりますと、
立ちがたい人間同士の結び引きという、そういう意味があるそうです。
改めてそういう意味を申し上げるわけでもありませんけれども、
ああ、なるほどなと、もう一つそれでもってこの確認も来たりするんですけれども、
イエス様がこの十五章において私たちに教えなさった、
私は誠の葡萄の木、あなた方はその枝である、そして父は農夫です、というこのお言葉を見せまいりますと、
私たちはそういう意味において、父なる神、主イエスキリスト、
その関係において立っていることのない絆の中にあるというのが私たちクリスタンだ、あるいは教会だ。
そのようにこの理解していることもそこでもって教えられます。
旧約聖書ではしばしばこのイスラエルをたとえて、そして葡萄の木としてのこのイスラエルというものがそこに言われております。
03:11
お手元の神科約聖書の十五章の一節の難解を見てまいりますと、
イザヤ書とかエゼクエル書、あるいはスムーン、そういった箇所が引用されていますけれども、
それぞれの箇所が神とイスラエルの関係を葡萄の木としての関係において教えられているところですね。
特にこのイザヤ書の五章においては、万分の種の葡萄畑はイスラエルの家であり、種が喜んでそこに植えられたものは由来の人々であるとも記されております。
そういうこの種の神の喜びとしてのこのイスラエルでしたけれども、しかしこのイスラエルが神様の前に身を重ねて、
ついにはその喜びであるはずのこの葡萄の木が痛みとなり、そしてついにはつい葡萄として捨てられた。
イスラエルの様子を見てまいりますと、改めて私たちはそこにおいての厳粛な神様のなさる事柄を見るわけです。
しかしイエス様はこの神訳に入って、この十五章で改めて私たちに教えてくださったこの箇所において、私たちクリスタンを葡萄の木とその枝としての新しい関係は、
イエス様と私たちの関係においてそれをそこに教えなさっているわけですね。
しかし私はそのところに言葉こそありませんけれども、
木を納付として、そして葡萄のその輪を管理され、そしてそこの中央にある葡萄の木は、やがて枝々を通してタワーの実を結んでいく。
それは容易にその言葉から理解するわけですが、私はそこに隠された働きとしてのこの精霊のご存在を見るわけですね。
ことがありませんよ。
06:04
けれども、それから枝々に渡っていくその養分というのは、
それこそ精霊の恵みが私たちを呼んで、そして私たちを通して実を結ぶということにおいては、
容易に想像し、そしてまたそのように理解してもよろしいではないか。
ただここを読んで参りますと、この枝でも三種類の枝と見ることができるかと思います。
一つは密接にあるような実を結ばない枝とそこに書いてあります。
そしてそのすばらく読んでいきますと、実を結ぶ枝とあります。
ところが読み立てに入ってきますと、同じ枝でも武道の木につながっていない枝、この三つの枝というのがそこにあります。
実を結ぶはずのこの枝が実を結ばない。
私が新学校に入る前の年に、一年近くですけれども、
塩尻教会というところで持って、言うなら見習いとしてそこで一年過ごしました。
私がふざけましたのはスウェーデンホルネズミチョンという宣教室の団体の教会ですし、また若い教会でしたから、
後でもって気がついたんですけれども、最初の頃は礼拝が行われていなかった。
そういうことも何も知らずに友達に誘われていったところであります。
ですから礼拝献金なんていうのもわかりません。
それが一年間献金して新学校に行くという、それを持って森山さとすという先生が、
それじゃ最初はあなたね、日本イエスティスト教団の同じ平川出身の先生が北海にあったという教会があるから、
そこで一年間研修をされていった。
そしてスウェーデン教会というその教会に教会されて、そして帰りました。
初めてのこの教会での教会生活が始まったわけでありますけれども、
あっちにいてもこっちにいても初めてのような、そういう言葉がいたしました。
ちょうど一日前に来たので、その教会ではインスタキャロールというのがありましてね、
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長野県ですからものすごいインスタに向かいましても、非常にこの、確かその時はマイナスの気温ではなかったかと思うんですが、
早朝キャロルに出かけるというような教会で、クリスマス以外にもこういうことをやるんだなと、
私にとって今初めてやりました。
その教会に一ヶ月も経たないしですね、その先生に反抗しましてね、
何が原因だったか私は分かりません、覚えておりませんけれども、
あなたはやっぱり自分の教会で訓練を受けた方がいい、といわれたことがありました。
それぐらい花橋の強いこの若道だったわけですが、
しかし私にとりましてはその一年というのは非常に貴重な一年でした。
その教会の周りは葡萄園だったんですね。
ですからもうちょうど今ごろのシーズンは、もっとも貴重が張られているんですけれども、
その葡萄の香りがいい感じでした。またもういい葡萄でしたね。
そこで私は葡萄というのは別に種を飲んだからといってもうちょうなることはないんだということを教えられて、
それで食べ方を教えてもらいました。
このぐらいのかごにですね、もうお腹いっぱい食べても別にもうちょうならずに今日まで来ているわけですが、
その時にその教会の方がいらっしゃっております、葡萄園に行きました。
でその方が、「ねえ斎藤君、おいしいでしょ、この木きわらの葡萄は甘すぎることでもって提供があるんだ。
本当に甘いんですよね。これを種を出して食べようとすると酸っぱくなっちゃう。
もう酸っぱくしないでスッと飲み込むようにすると甘さだけが口に残って、そしておいしい葡萄としての味わいを保つことができる。
私はその時に話を聞きましたのは、みんなが飲んだおいしい葡萄多くするのではない。
ですから我々はこの時期の時に、ある時期の時にこの枝を剪定する。
これが難しいんだ。どれを剪定してどの枝を残すか。
そういう話を聞きました。
私はその時にこの横浜十五相を思い起こしましたね。
例えば家様も確かに剪定があるということを教えてらっしゃるが、甘い葡萄というのはそういう中から残されて、
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そしてこの十分な甘みを持ったものだけがそこで残って、そして大勢の人々に喜ばれるような、そういう葡萄になるなら。
それからというのは、葡萄を食べるごとに、
ああ、これは剪定された後に選ばれた、特別なこの葡萄が今私の口に入ろうとしているんだなと、
そう思いながら食べますとよくおいしさが感じられます。
本来この葡萄は、そういう葡萄の枝は十分な栄養をもらって、
そして実を結んで大勢の人々の喜びとなる。
ところがこれを見ますと、同じ枝でも実を結ばないものがある。
そういうところから想像をしますのは、同じ枝でも実を結ばないというのはどういうことなんだろうか。
結局はね、しっかりと葡萄の木につながっている枝なんですけれども、
その枝がどこかで持って、この葡萄の木から来るところのその栄養というものを、
それを妨げてしまっている。
そういう枝。
これも私の一つの証ですが、
私は尾傘から、先生は後ろ指輪と一緒で、
外見だけは元気そうだけども、それじゃなかったんですねと言われた。
その後心というのは、同じように心臓を病んでおりましてね、
見たところ元気そうなんですよ。
けれども召されましたが。
ところが私は、確かに見た目は、そしてまた教会の方からも、
先生は風邪ひとつひかない。
いったいどうなっているんでしょうかと言われて、
それでマッサレルイコウさんに、私はもう本当に健康だ。
そういう自信感みたいなところがありましてね、
他はだめなんですけれどもね、健康だけがとりあえず、その前を戻りました。
それが、もう今から11年、12年前になりますけれどもね、
一挙にダウンしてしまった。
それはもう心臓をやられちゃったんですね。
心臓をやられるということは、
ご承知のように胴脈と腸脈がうまく機能して、
そしてその心臓からのいろんな血液というものが私たちの健康を保つわけです。
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この心臓を病んだと言っても、正式な病名は生活疾患病。
悪い生活をしていると、そういう心臓をやってしまうという、
まあそういうことを言われましてね、悪い生活と言ってもなあ。
そして指摘されたのは、私が好物とするものはみんな買っているんですよね。
ラーメンもだめですよ。
それからケーキとかね、そういう甘いものも、それもやっぱりだめですよ。
好きなものみんなこれにだめになってしまって、ええーと改めて思いました。
そして普段のものどれでもいいというわけじゃない。
グレープジュースは、特にあれはグレープフルーツですね、糖分が高いから、
あれはあまり食べない方がいい。
食べていいのはイシゴかな、リンゴかなということを言われて、
そしてある時期までは本当にそうだなと思いました。
さっきは割合ですね、あれにもこれにも口をさせないとしまいましたけれども、
意外とそういったものがこの血液の流れ、
つまり私はどういうものを持っていたかというと、
中性脂肪の数値が非常に高かったんですね。
1000近くあった時もあったんです。
さすがにお医者さんも、一体何を食べているの、こう言われました。
そしてその薬をもらって、そして来たんですけれども、
今考えますとちょっと手遅れだった。
未だに200、300あるんですが、
そしたら最近そのお医者さんは、それぞれそれぐらいある人もおりますからね。
まあということで、一応諦めが半分ですけれども、
それでも気をつけながらおります。
つまりはね、そういう血液の流れを妨げるようなもの、
そういったものをいつしか自分の血管の向こうに持ちようになってしまって、
そしてそれがこの胴脈の、この3本ある大切な胴脈の2本をためにしてしまった。
自覚症状としては時々心臓が痛むというか、
お腹が痛いのか心臓が痛いのかその辺がよくわからなかった。
まさか心臓が悪いとは思いませんでした。
そしてわかったことは、最後の1本が時々詰まる。
ただ少し休むと痛みが止まるものですからそれである。
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そうするとまた痛みが来るものですから止まって、
そして休むとまた痛みがなくなって、
そしてそういう際どいところをやっていた。
あなたの場合にはそういう自覚症状がそこにあったからよかったものの、
自覚症状が全てにあるわけではない。
突然やられて、そして脳梗塞とかいろんな点でそのままダメになってしまうというケースがあるんですよ。
痛みがあったということは良かったと言って、そんなもんかなと思い、
そして私はそういうバイパス手術というものを今からちょうど11年前に、
ですからここにこうあるんですけどね、手術跡が。
ここの動脈をとって、そして中にどこかしらをつないで、あるいはバイパスをして、
そして過労死で健康が保たれるようになってきたという。
そしてその時この15章の言葉を本当に身近に感じました。
身に迫ってきたというかね。
こんなに体を持っていても、そういうせっかく神様からいただいた健康というものを自分の好みで持って、
それを止めさせてしまう、とどめてしまう。
なんてことをしてしまったんだろうかと、そういう思いを持ち、そしてその痛みということを受けていて、
私たちの霊的な関係においてもね、
いや大丈夫だ、私はクリスタルですと言っても、
せっかくの恵みを何か自分のことで持って、それをとどめてしまっている。
ですから、良いクリスチャンとして、そして愛もはずのそういうものが、
今日では無くしてしまっているという、
自分の自己観においても、それがこのクリスマスのために、できないためにそういうことをやっている。
ですから、枝であっても実を結ばないという、そのことが何故なんだろうかということに、
私たちは重視しなければいけない。
それからもう一つは、この枝であったとしても、ただ枝が良くてもね、
何にも気につながっていなかったならば、無用の供物だという、そういうことですよ。
あの、エセキエル書の、これ15章の方を開くとよくわかると思いますが、
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ページ一本を見ますと1379ページ、1379ページ、そこを見ますとね、
粒のような木の言葉が私にあった。
人の子よ、ブドウの木は森の木立の間になってしまいだが、他の木よりどれだけ優れているのか。
その木を使って何かを作るために、その木は切り出されるんだろうか。
それとも、洗う器具を掛けるために、これを使って木家具を作るだろうか。
見よそれは、焚き樹として火に投げ入れられ、柱との両端を焼き尽くす。
この中ほども焚いてしまえば、それは何の役に立ちだろうか。
見よ、それが完全な素木でも、何も作れないのに。
なぜ、木がそれを燃やして焦がせば、もうそれで何が作れようか。
要するに、枝振りやりとかね、見事な枝ですとか。
しかし、木に繋がっていなければ、枝そのものは何のこともない。
おそらく、この絵絶壁を表現されているこれらの言葉も、そこにかけながら、
イエス様は私たちに、あなたは武道の枝さん。
しかし、木に繋がっていなければ、じゃあそれで何の役に立つのか。
外に捨てられて、そして焼かれてしまうだけだ。
カティスアイルは、まさにそうだったじゃないかということを、
この絵絶壁の言葉を弦外に含みながら、イエス様はそのように教えなさっている。
武道の枝は、どんなに枝振りがいいからといって、それを用いるということは、これはもうこともないんです。
まさに建築材料の一つにしようなんてのは、そんな武道の枝はないですよね。
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以前よく言われた、そのクリスタンに対する呼び方の中に、
このデマクリとか、コソクリとかっていう、そういう皆さん方も聞いたことがあるんじゃないかなと思います。
デマクリってのは、デマばっかりやっているクリスタンかなと、
最初はきちんとこだわれて、そんなふうにゆっくりやっておりました。
そして説明を聞いていくうちに、あれ、デマクリスタンだっていう、それをデマクリ。
私はそれを全部、僕しか教えられたことはありませんけどね、娘から。
それからコソクリってのがありました。
わざわざしているクリスタンじゃなくて、あれこそクリスタンだっていう、そういう人たち。
そういったことを言いますとね、クリスタンとしての、それは何と言っても、
あれでもクリスタンかね、と言われてしまうようなクリスタンもおれれば、
あれこそクリスタンだと言えるクリスタンもおる。
この皆さん方は、八重の桜っていうね、この辺あたりが、それまではもう私は平川の人間としてね、
もう無理に忍びながら、どんどんどんどん追い詰められて、
平川が一番最初にやられてしまいましたから。
ですからもうきっちりな、なんで東北のあの大震災があった後に、
東北が痛められるようなドラマが始まったんだろうかな。
同じあれでも、朝の番組、
【質問者】アマチャン
アマチャンね、そうなったらいいな、と思いながら。
当時もあれ、面白くて都心から見出したんですけどもね。
まあ、そっちの方がまだいいもの。
ところがもうその全般は、本当に、もうこれでも来るかということで持って、
最後に暴死に投げて持って、死に滅んでいくわけですよ。
ところがそういう中から、一人の愛人氏が京都に留まって、
そして彼の説くところが、やがて認められていく。
そういう中でもって、あの新島次郎が出てくるわけですよね。
そして新島次郎のその生き方っていうのが、
非常に周囲の人々を驚かすもしなか、これから大きな感覚を与えて、
京都においての大きな働きをしていくわけですよ。
僕が、孤独天教徒だ、孤独クリスチャンだ。
私今、最近出ました【我が若し日】っていうね、
あの新島次郎の、それをちょっと読んでみよう。
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新島を読む中でもって、
彼は聖人に興味を持ち出す。
そしてその聖人の神こそが、本当の神様だと。
彼はそのことを知って、そしてそういうことを教える。
やがてアメリカに行かなくちゃいけないということで、
当時ですから函館から入港して、そしてアメリカに渡っていって。
改めて、彼は天教師として日本に行くの、
その活躍が今、報道されているわけです。
本当にクリスチャンだ。
もう10、15年前になるでしょうか。
韓国からおいでになった、一人の僕さんと一緒にレストランに行きましたら、
誰も誰も入ってこないんですね。
先生どうしなさった?と言っていましたら、
一生懸命ウィンドウから写真を撮っている。
当時は珍しかった。
それは天丼でも何でも、見事においしそうに見える。
すごいなあ、と。
それがその先生は珍しいものですから、一生懸命。
今、観光でも同じように、そういったものが出ているかと思うんですけどね。
見たところ、大きく見えるし、大きく見えるし。
時もそういう点で失敗したことがあるんですがね。
外で飾ってあるような、ああいう大きさが欲しいんです。
いや、これちょっと小さく言えないだろうか、と言ったことがあるんですけどね。
見事においしそうなそういったものがそこに飾られておりますけれども、
あくまでもそれはね、インプレッションですから。
食べておいしいものではない。
どんなに成功に作られていても、おいしそうに作られていても、まんまじもない。
イミテーションはやっぱりイミテーションだけのものですよね。
さすがデモクリっていうのは、そういう類かな。
どんなに表向きができていても、イミテーション・クリシャン。
イミテーションの教皇。
その先生が何年ぶりかでお会いしましたときに、
おっしゃったことは、日本にもたくさん教会ができてきましたね。
あの新幹線からでも電車からでもよく見るようになった。
私が行った頃には、ソウルに行きましたときに、本当にたくさん教会があって、
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いやあ、すごいなあと思いました。
今、ユン先生が行かれております四度教会。
あの皆さん方がもう一パソコンで、あのGoogle Earthっていうそれを開くならば、
スタンブラスで開くとすでにギューって行って、あの四度教会が映りますよ。
大きな教会ですからね。名前もちゃんと見せまいります。
そういう教会がたくさんある。
しかしそれに比べて日本は、なかなかそういう教会ってのが少ない。
そういう話をしておりましたもんですから。
その先生が、いやあ、そうじゃない。日本にも教会が増えた。
あれも教会。すごいなあじゃないですか。ってこう言って、
黒井さんがこの先に言われた。たくさん教会があって、建物が。
しかも銀座までついている。
けど私はそれを見ながら、先生ね、残念なことに教会っていうよりは、あれ結婚式場なんですよ。
行ってみたらわかりますよ。
えー?って言ってですね。
じゃあ恋愛も何もやってないの?って言うから、そこは結婚式だけが行われている。
そういうこの教会。
周りも、あるいは皆さん方もそういう教会をいくつかご覧になったと思います。
そっちの方が良いと。あれも教会だし。
そういう素晴らしい街道がそこにできておりますけども、
しかしそれは形こそ教会ですけども。
結婚式場としてのそれだけのことなんですね。
ホテルでも、ホテルが設けられになりました。
あくまでもそこも十字架もあり三字架も歌われる。
聖書も録録される。
けどもそれはこの結婚式の一つのプログラムとして昇華されるだけのことであって、
教会ではない。
そうしてみますと本当に、こういう日本でもって前導している者としてはですね、心痛みますよ。
しかし私たちはここにもう一度十五線に留まって、
そしてこの二つを見てまいりますと、
ここには身を結ばないっていうのと、
そして身を結ぶ枝っていうそれがあります。
それこそ、この枝こそが、こそ栗。
あれこそ栗じゃんだっていう。
そういうこの豊かに身を結ぶところの、この枝としての存在ですよね。
イエス様は、身を結ぶ者は、
とんで四節に、私に留まりなさい。
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なぜ身を結ぶのか、形だけではない、
何のかまたぎもない関係において、
私に留まりなさいというこの関係において、しっかりと身を結んでいるこの国じゃ。
身を結んでいるところの枝。
というのがそこに表されております。
あるこの中に、
これは初代の株主社の内川修社というその方がね、
自分が滅される前に歴史達を読んで、そして
お前たちに見せるものがある。
それでこの一番弟子に反省を持たせて、
そしてそこに、私の名前を書きなさい。
内川修社とこう書いてある。
内川、中の車ですよね。
そしてそれを裏返しにさせて、何て呼ぶかと発注されて、
役者は、たとえ舞台に立って演じること、
それがね、この内川修社だけども、
それだけで役者の勤めがそこでできるわけではない。
いつでも自分の中に、
役者としてのそれが、
引きをやる裏表のない、
そういう役者になるようにっていうことを、
そこでもってこの弟子たちに語ったそうです。
私がそれを読んだときに、
内川修社はどっちに、ほんとだな。
裏も表もないっていう、
やはりそういう芸において一つの道を達成なさった方は、
言うことも違うなと思いながら、
それが非常に残っているわけですね。
イエス様は、
あなた方がしっかりと身を結ぶために、
私にとどまりなさい。
とどまっていなさい。
そうしているときに、
父は私たちを守り、
そして政令は絶え間なく、
私の内から恵みとして、
あなた方の内に、
良い身をパワーに結ばせる。
だから、私たちのあるべき場所は、
私にとどまっていなさいよっていう、
そこだっていうことをイエス様は、
そこでおっしゃるわけですね。
ときは、
魔王大神教会というところで、
講師をしておりました、
それこそ今から40年、50年近く前なんですけれども、
当時独身でありましたので、
洗濯機があるわけではなかったんですね。
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ですから手で、
ワイシャツなんか、
それやりますと、
ケトロンのワイシャツが出ておりましたけれども、
なかなかそれじゃですね、
すぐにシワになってしまうので、
ワイシャツだけは、
クリーニング屋さんに頼んだようにしておりました。
そしてあのとき、
クリーニング屋さんが、
私のループの間に、
それをポッとこの玄関に置いていった。
そしてよくよくそれを見ますとね、
キリスト斎藤って書いてあるんですよ。
すごいな、どういうふうに。
キリスト斎藤。
まあ私は、
何かそういう新たなメッセージみたいになりましたよね。
クリーニング屋さんはそうではないんですよ。
斎藤ってのはどこにもありますから。
で、教会の斎藤は、
教会の斎藤を書くのが面倒だから。
そこでキリスト斎藤ってこう、
まあ書きながら書いていったんでしょうけれども、
しかし私はね、
そのとき、
ああ、これはね、
私が教会におればこそ、
こういう名前をつけてもらっているんだなと。
教会じゃない普通の家ですから、
そりゃ斎藤だけで終わったかもわかりません。
あるいはそこ屋の斎藤か、
医師屋の斎藤か、
なんかそのくらい終わったかもわかりません。
私が教会におるっていうことで、
資源の人は私を、
キリストを斎藤と呼んでくれた。
まあこれは私だけの理解ですから。
しかし私はそのときに思いましたよね。
私にとどまっていなさい。
私たちが本当にイエス様を信じて、
そしてイエス様ととどまっているときに、
私たちを、
あれこそ、
彼こそクリシャンだというふうに、
私たちをそのように仕上げてください。
何かやることによってじゃなくて、
ただ真相的にあることによって、
私たちはそのように、
呼んでいただけるようなクリシャンになれる。
大切なことはいつも、
信仰という素晴らしいそれを持って、
イエス様にとどまり続けるっていう、
ここですよね。
何ができる、何ができないっていう、
私たちはそういう世界ではなくて、
本当にキリストのうちにとどまり続けるときに、
私たちはそのような恵みを持って、
キリストのうちにある恵みを、
本当に表に表すことができる。
時々私はこの写真を用いるんですけども、
これは、
アンカレッジから、
マックンデイっていう、
あの北米で最も高い、
4300から7000かなんかある、
そういう4000級のこの、
有名なこの山です。
で、私が撮りましたのは、
このデジタルカメラで、
普通のように撮りました。
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で、戦地の遺跡はこのようにですね、
400キロか500キロ離れているんですよ、
アンカレッジから。
ところがこういうふうに映るんです。
デジタルでは映らない。
何でこのように映ったかっていうと、
もうこれはカメラに詳しい人は、
そりゃそうだ。
望遠レンズでね、
透けてさせてやりますと、
それぐらいの距離であっても、
ああいう本当にきれいなところでは、
400キロ彼方のものを、
それをしっかりとこの、
私たちがそういう意味で言うとは、
望遠カメラのようなそういう役割を
委ねられている。
つまりイエス様を、
私たちという存在を通して、
人々にこれを表す。
望遠レンズの、
あれは、あのカメラを愛好なされている方々は、
やっぱりこのデジタルだけじゃダメ。
同じデジタルでもそういう望遠の、
できるようなそういうものをやると、
本当にこう細かいところまで映すこともできるし、
また同じ遠方をそれを、
ちゃんと視野に入れて撮ることができる。
私たちクリシアンの存在というのは、
一つ目はそういう意味であるわけですね。
私たちを通して、
主は、
主御心を人々に表しなさい。
どうぞお互いの、
信仰生活の中において、
しっかりと、
私にとどまっていなさいよと仰る、
この方のもとにとどまり続ける、
そのことを願って参りましょう。
それでは一言お祈りいたします。
レフニル大主よ、
あなたは私たちを、
ブドウの木、
また、
私たちをその木につながる枝として、
私たちの存在をこれを超えなく、
喜びとしてまた、
私たちを全部このように置いてくださっておりますことを
ありがとうございます。
とんでもない過ちをしてしまうような
弱いものでありますけれども、
けれどもあなたはそういう中においても、
常にあなたの木にとどまり続けることの大切さを
常々教え、
そしてそれによって今日まで、
私も一人一人を守り続けてくださっておりますことを
ありがとうございます。
常にあなたの木にとどまり続けることができるように、
これからのうちにおいても、
私も一人一人を、
あなたのうちに生こわせ、
あなたによって歩むことができ、
あなたの生きるうちに存在するものとして、
われらをどうぞ続いて、
守りまた生き抜いてください。
正式に人のみんなによってお祈りをされたします。
42:00
ではみんな、
ご一緒にお祈りをされたしましょう。
あなたの木にとどまって、あなたにつながって、
終了をどうぞ。