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2022-05-08 23:45

2022/05/08:神の国に生きる

2022/05/08 聖日礼拝

光田隆代師

マタイの福音書 5:1-12


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おはようございます。
先月、イースターの時に来させていただいて、
名谷教会の雰囲気を味合わせていただいて、
今日は少し落ち着いて出席させていただいています。
では、初めにお祈りをいたします。
神である主の霊が、私の上にある
貧しい人に良い知らせを伝えるため、
心の傷ついた者を癒すため、
主は私に油を注ぎ、私を使わされた。
囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年、我らの神の復讐の日を告げ、
全ての嘆き悲しむ者を慰めるために。
至恩の嘆き悲しむ者たちに、
灰の代わりに頭の飾りを、
嘆きの代わりに喜びの油を、
憂いの代わり、心の代わりに賛美の該当を付けさせるために、
彼らは儀の菓子の木、栄光を表す主の植木と呼ばれる。
恵み深い天皇父様、尊いお名前を賛美いたします。
私たちの救いのために、とうとう一応流してくださった
イエス様の十字架を挙げます。
今日も、あなたによってこのところに招かれ、
共に同じ御言葉の植物を掛けとできることを感謝いたします。
どうぞ、神様御自身が支枠の時間ですけれども、
助け維持してくださることに、そのあなたの御手にお委ねいたします。
イエス様のお名前によってお祈りいたします。
今日は、大連休の最中に、まだ終わらない中にありますけれども、
いかがお過ごしでしたでしょうか。
大連休はなくても、いつも連休だという方もあるかもしれませんけれども、
もう今日でおしまいになります。
今日は、特にこちらにカーネーションが生けてありますけれども、
母の日ということです。
母の日は、アメリカからお母さんに感謝をしたツイート記念会から起こったと言われて、
今に至っていますけれども、
今、日本の社会も家庭環境が昔とは随分異なっています。
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一人親で子供さんを育てていたり、またお母さんがいないとか、いろいろありますので、
呼び名が母の日と呼ばないで礼拝をする教会も随分増えました。
家族の日とか、父母の日とか、いろいろな呼び方をしています。
また、福音的なキリスト教の集まっている団体でも、
最近のテーマでは、これまで教会は子供たちの集会、
少年、婦人、青年とかいうふうに分かれていたので、
バラバラに動いてしまっていたので、
今はもう一度家族に帰りましょうというような流れがあるようです。
そして、D6っていうのがあると思うんですけれども、
新霊記の6章に聞けと言って始まる一連の言葉がありますように、
家族全体で見言葉を聞いて味わいましょうという、そういう流れがあるようです。
そのような教会もその時代の背景がその時代にありますので、
その流れの中でいろいろ形を変えていくのだなと改めて思わされています。
今日は母の日ということの内容とはちょっと違うんですが、
今朝、私がラジオを聞いておりましたら、
前回ここに来させていただいた時にご紹介をいただいた、
信友さんの名簿さんですか、ご親戚の方がですね、
ラジオに出てきておられて、そのお母さんのことを語っておられたんですね。
それはボケますからよろしくという、その本がテーマになってインタビューされていたんですけれども、
そのところでその執筆者の方がですね、
最後にその本の最後のお母さんが認知症になられたことを、
今どのように感じられておられますかという質問なかったんですね。
そうするとその直子さんというお嬢さんは、
お母様はとても面白くて優しくて、
自分にとってとても大切な人だったと。
それでそのお母さんが急に亡くなったらですね、
自分のショックはとても大きかったと思うんだけれども、
お母さんが認知症が進むにつれて、前のお母さんでないお母さんをだんだん見ることによって、
少しずつさよならをする準備をさせていただいていたのではないかというような感想をおっしゃっておられました。
両親が仲が良くて、そして家庭が居心地がいいというのは、
子供にとっても家族の全てにとっても幸せなことですし、
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神様も私たちにそのことを願っておられると思います。
私はこれからしばらく、このマタイの福音書の三条の説教からお話をさせていただく予定にさせていただいておりまして、
しばらく続きますけれども、
今日はざっくり五章から七章に固められている三条の説教を眺めさせていただきたいと思っています。
天の御国という言葉が今日読んでいただいた聖書の中に、三節のところに、
心の貧しいものは栽培です。天の御国はその人たちのものだからですとありますし、
もう一箇所ですね、十節に、義のために迫害されているものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからですというふうに、
二回天の御国という言葉が出てきます。
でも、ただ、聖書知識がないでこれだけを読んでいたら、何を言っているのかなということになるわけですけれども、
聖書と親しくしていらっしゃる方々には、いろいろなことで教えられてきた箇所ではないかと思います。
先週、北米ホイネス教団という、北アメリカに日本人が集っている教会の団体があるんですけれども、
そこの100周年の記念詩というのが教団に届きました。
その歴史が前半には書いてありますけれども、後半部分にはそこの信徒の方々の証が書いてあったんですね。
その中のお一人に、日系の多分2世ぐらいだと思うんですけれども、まだお若い30代ぐらいかなと思う女性が証を書いていらっしゃいました。
その方は小さい時から両親に連れられて、教会に行っていて、10代で洗礼を受けて、自分は普通のクリスチャンだと思っていたと言うんですけれども、
その、ある集会で説教を聞いていて、目白の3章ですね、ラウディ系の教会の説教を聞いていて、
生ぬるい信仰というのを自分に突きつけられたというんですね。
どんなふうに生ぬるかったかというと、聖書を読まないクリスチャン生ぬるさ、
そして聖書を通読したことがない生ぬるさというのと、ずっといくつか書いてあったんですけれども、
その極めつけのところは、神様に捧げていない生ぬるさというのを書いていたんですね。
結局そこで自分が気づかされたのは、自分の価値観を中心にして生きていて、
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全然神様に捧げるとか、神様に喜ばれるためにという意識を抜かしていたんだということに気づいたという証を書いておられました。
結局その姉妹は、その自分の生ぬるさという、真剣に神に向かってきていないというのに気がついて、
それから教会の集会やいろんな集会で二言葉を学ぶことができるようになって、
そして内側から帰られて、今は信仰に生きる喜びを味わっているというような文章が書かれてありました。
今日の天の御国はその人たちのものだからですという、この言葉の中に神様が本当にこれは素晴らしいことなんだと言って、
文言訳では幸いなるからですけれども、これは本当に羨ましいことなんだよと私たちに教えてくれているのは、
自分は本当に空っぽです。何の良いところもありません。
あなたに本当に満たされていなければ私はもうダメですという、そういう自覚を持った心の貧しさ、
そういう存在が本当は天国を自分のものにする幸いがあるということをこのところで私たちに教えてくれています。
天の御国というのは、少し前の4章の17節のところに有名な言葉ですが、
この時からイエスは宣教を開始し、悔い改めなさい。天の御国が近づいたからと言われて宣教を始められました。
天の御国はもうやって来ようとしている。やってきている。だから何々しなさい。
まあ確かにしなさいではありますけれども、悔い改めなさい。とにかく方向を変えなさいとイエス様はおっしゃっています。
自分、それまでの生き方から何かこう行動を変えるというか、何か良い行いをするというより、
あなたの生き方の方向を変えなさいというふうにイエス様は示しておられるわけですね。
それはまさに神の国に生きる、神と共に生きるということがその中には入っているわけです。
こういうことがずっと7章の終わりまで続いていきまして、ちょこちょこ引っ張り出してお話をさせていただくんですけれども、
6章のところには今日私たちが一緒にお祈りさせていただいた主の祈りが入っています。
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それはまさに御国が来ますように、御心が天で行われるように、地上でも行われますように、
この主の祈りの前半は本当に神様があがめられますように、そして神様を愛します、大切にしますという言葉が主の祈りの前半です。
そして後半は私たちの必要を満たしてくださいという、私自身の祈りでありまた人々を愛しますという、そういうような祈りになっていると思うんですが、
この中にもやっぱり天で行われるように、そして御心がなるようにという神様中心の思いがその主の祈りの中には入っています。
続いて有名なこの6章の終わりには、まず神の国と神の義徒を求めなさいと書かれてあります。
それはその前の部分を読むとよくわかりますように、私たちは何を食べるか、何を着るか、そして私の健康はどうなんだとかいう、
そういうことを心配して当たり前ですけれども、心配しすぎることに対してのストップがかかっているわけですね。
確かに先を計画してみて予定を立てていくことは必要ですけれども、必要以上に自分であれこれするのではなくて、まず神様と一致して進んでいく。
そこが基本にならなければならないということを私たちに教えています。
ですから明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日、その日に十分あります。
イエス様も十分苦労はありますから、そんなによそから引き寄せてまで心配しなくていいですよと私たちに語ってくださっています。
次の7章のところにですね、一つそこに出てくる、何回か天という言葉も出てくるんですけれども、
21節のところに、私に向かって修行しようというものが皆天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行うものが入るのですと言われています。
そのように御心を行う、また神様と共に歩んでいくということが私たちに必要だということを教えています。
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先ほどの6章の中では、自分を中心にした思い、優先順位が自分の思いに置かれていることを警戒しなさいというふうに教えているのですけれども、
その連続というかその中には先ほど申し上げたように、この世の価値観が私たちをいろいろ左右してチャレンジしてくることがあります。
私は去年65歳になりまして、年金をもらうようになりました。給与の調整があって、ボーナスが少し下がるようになって、自分の帳面を数えて計算して、これを月定にして、これを現金にして、これでも考えるんですね。
そうすると、今まで通りにいかない部分が出てくるところの調整をどうしようかというふうに考えて、あそこを減らそうか、ここを減らそうかと考えるわけですね。
そういう現実があるんですけれども、そういうことを迷ってどうしようかなと思っているときに、会合に出たときに、やっぱり十分の位置はきちんとして、しかも税金を低める十分の位置をちゃんとしなければいけないという話を何かの会話のときに出てきて、そこの基本線が崩れてはだめだなと、今更ながら思わせられて、
かつてはいつでも十分できていたことがあるとき、できなくなったときに試されるんだなということを改めて感じたりしたわけですね。
でも、とにかく方向を変える、食い温めていくという、向き直るということが私たちにはどうしても必要だということを教えられます。
それで、この7章のYに、先ほど読みましたように、口で言うものではなくて、見心を行うものが入るのですと言われた最後の部分、よくご存知のように、岩の上に家を建てた人と、そして砂の上に自分の家を建てた愚かな人の例えが出てきます。
ですから、イエス様はいろいろなことを教えているのですけれども、結局岩の上、つまり神様の見心、神様のお言葉、そこに土台して生きていくことが、どんなことが起こってもですね、
ウクライナの戦争であろうと、コロナウイルスであろうと、核戦争であろうとですね、何が起こってもですね、岩の上に神に信頼していくということが私たちには大切というか、それを抜きにしたら、何かがやってきたときに必ず倒れるんだということをあらかじめ私たちに教えてくれているわけです。
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4月の終わりに、ゴスペルシンガー、クリスチャンのゴスペルシンガーの小坂中さんが召されなさいましたけれども、ですから、YouTubeを検索すると割とよく出てくるんですね。
彼の証を聞いていたりしますと、とにかく自分は本当にイエス様の十字架によって、罪許されて救われているんだという確信がしっかり入っているということと、そして自分は自分の賜物を用いて神様を礼拝するということの第一の自分の意味と目的は、
神様に賛美を捧げるというのが自分に与えられている使命だというか、皆さんにもそうしてほしいというふうに熱く語っておられました。
彼は近年、ガンとの戦いで糖尿をしながら活動していらっしゃったそうですけれども、私、メサレタというニュースを4月29日か30日に聞きましたけれども、
そのたぶん1週間か10日ほど前にラジオの生出演にNHKですけれども、出ていたのは私は確か聞いたと思うんです。
ですから死の直前まで彼は力ある限りですね、自分のクリスタンとしての証とか賛美ということに注いできておられたのだろうなと思いました。
ガンになると、私はなっていないですからなんとも言えませんけれども、びっくりして落ち込んでも何もできないという生き方もあるかもしれませんけれども、
神様は私に何かさせられるおつもりであるということを知ってですね、大胆に前進していく生き方もあるということ、恐れないで生きていく生き方もあるということを教えられるように思いました。
それで今日のまた初めの方に戻っていきますけれども、自分は弱くてだめだ、だからイエス様の愛と恵みで強められていく、そして御心の中に生きていくというものが本当の幸いだと言うんですけれども、
今私たちはイエス様の十字架によって全ての罪が許されていることと、そして神と永遠に生きていく、今から永遠に生きることができるという確かな約束をいただいています。
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ですから恐れず、またゆるいだとしてももう一度強められてしっかりキリストの愛に神の愛にしっかりと信仰に立っていかせていただきたいと思います。
それで今日のこの十字架のところに迫害されているものは幸いですという言葉があって、迫害だけではなくてこの世では私たちには悩みがあるとイエス様がおっしゃいました。
いろんな戦いがありますし、もしかしたらこの集っていらっしゃる方々の中にもいろんなことで迫害を受ける、その信仰の上の苦しみというのを味わっていらっしゃる方々もあるかもしれないんですね。
でも聖書を見ると偉大な預言者とか特に使徒たちはみんな殉教者です。終わりに幸せで立派なお家で安泰でベッドで亡くなれてよかったねではなくてみんな殺害されていった人たちがほとんどですね。
でもそういう人たちが私たちに預言書として旧約聖書に文章を残し、そして新約聖書にはこれから苦しみが来ても大丈夫だ、踏みとどまれという励ましのメッセージを新約聖書の中にいくつも私たちに残してくれています。
ですからこれを読むときに戦いがあり悩みがあるときに私たちの先輩が応援してくれている文章をこの中に読み取ることができるんですね。ですから聖書は素晴らしい。
道徳や何かを訴えているだけではなくて私たちに弱いときにこそ強いということを聖書自体が私たちに教えてくれていると思います。
ですので、ここの貧しいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。まさに私には何もないけれども、あなたが私の全ての力です。
今週も聖書がいう意味での貧しさと弱さの中にあって、キリストにあって強いものとならせていただきたいと思います。
ではお祈りをいたします。
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