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おはようございます。
皆様と新しい年を、ご一緒に礼拝を捧げることができることを感謝いたします。
では、初めにお祈りをいたします。
心の貧しいものは幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
恵み深い天の地なる神様、あなたの尊いお名前と
私たちの救いのために流してくださったイエス様の父をあがめて感謝をいたします。
新しい年も、あなたとご自身とあなたの恵みによって、
今日まで導かれ、また新しい一週間を始めることを心から感謝いたします。
祈られていますように、私たちの明日のことは見えませんけれども、
確かな恵みをもって、また導いてくださるご自身が共に歩んでくださいますからありがとうございます。
どうぞ、今日の御言葉を神様ご自身が祝福してくださって、
御霊の豊かな取りなしのうちに、礼拝を進めることができますようにお願いをいたします。
とうとうイエスキリストの否によってお祈りいたします。
参上の説教を始めさせていただいて、八福の教えの八つ目に入っていきます。
十節までのところが一区切りになっておりますけれども、
十一節、十二節のところも今日は十節のところから加えて、
九福の教えといわれる九つ目も一緒にお話をさせていただきたいと思っています。
皆様はどういうふうにお考えになるかは分かりませんが、
三節から始まった天国の教えですね、
中頃からはそうかなと思う部分もありますが、
最初の心の貧しいもの、悲しむものというあたりを最初に読んだときには、
そうかなと思うようなところもあるんですけれども、
ここの十節に至ってですね、義のために迫害されているものは幸いです。
なんと幸いな人なんでしょうかとイエス様の口から言われるんですね。
こんなに幸いな人はいませんよ。それは神のために迫害されている人ですと説教なさったわけですね。
聞いているその群衆の人たちは耳を疑ったのではないかと思いますがいかがでしょうか。
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今日の十節、この義のために迫害されているものは幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。
これは三節の心の貧しいものは幸いですと同じ後半になります。
天の御国はその人たちのものだからです。
心の貧しい人も幸いですが、義のために迫害されている人も幸いで、
どちらも天国はその人たちのものだからですというふうに語られているんですね。
この心の貧しい、自分の一なるものの貧相なこと、本当に良いものがないということをよく知っている人と、
そして神様のために痛めつけられ罵られている人は幸いだというところが、
なぜかこの天国というところに結びついていくということを教えられます。
今申し上げたように、一般的に考えられる幸せ感と、
イエス様が私たちに語られた幸せ感はかなり違っているということですね。
これまでこの世に生きていて持っていた常識、それらのものを全く覆ってしまって、
天からの視点、天からの光でものを見るようにと、イエス様が私たちに教えていらっしゃるようです。
世の中でもよく先入観を持ってものを見ると、物事が捉えられなくなるということはよく聞きますように、
この聖書の世界とか私たちの生き方に対しても、自分の先入観で型にはめて見てしまうのではなくて、
イエス様が言われるもっと逆の方向から人生を見ていくように私たちに教えられているのではないかと思います。
特にこの聖書に関わることですから、信じる者にとって神様からの視点というものが必要であるということを教えられます。
この十説のところから、私のために人々があなた方を罵り迫害し、ありもしないことで悪行を浴びせるとき、あなた方は幸いです。喜びなさい。
大きく喜びなさいと続いていくんですね。ですから、このところで自分の考えを捨てて、イエス様の価値観を自分のものにしていかなければならないということを教えられます。
そして、物知り、迫害、悪行、とにかく言葉によるところの痛めつけがやってくるときに、あなた方は幸いですというふうに語られています。
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しかし、その十一説の始めのところに、私のためにという言葉があります。
ですから、私たちの何かの失敗とか、咎によって迫害されたり罵られたりでもなくて、私のため、イエス様のために、信仰のゆえに迫害されたり罵られたり、言われもないことを浴びせかけられるときに、
あなた方は幸い、なんと幸せなんだろうかということをイエス様が語っておられます。
今の日本は信仰の自由が守られていますから、私も迫害を受けたというような強烈な記憶は私には経験としてはありませんが、
今はアフガニスタンとか、いろんな東南アジアの国とかですね、ひどい、中国もそうですけれども、迫害の中でまさに生きるか死ぬかの信仰の戦いをしていらっしゃる多くの国々の方々があります。
そして実際に迫害されて命も奪われる方々も多いということはニュースで聞いています。
しかしその中で迫害を受ける、それに対してイエス様はどう答えていくかということを私たちにこの聖書の中で教えてくださっています。
これは2000年前に書かれている副印象ですので、今の時代、また私たちが置かれている日本の状況とはかなり異なっていることは確かです。
しかしその中身において、信仰に対する迫害とか嫌がらせがあった時に、私たちがどういう対応をして生きていくものであるかという姿勢をはっきりとこのところで教えてくださっているように思います。
そこで今日は2つのことでお話をしたいと思っているのですが、なぜ迫害されるのかということは明らかですが、この世が神の国ではないからです。
ここは天国ではないからです。地上の天国は信仰の面では与えられていますが、実際に目に見える、肌で触っていく世界は天国ではありません。神の国ではありません。
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ですからもちろん、摩擦が起こったり嫌がらせがあったりする可能性は十分あるということです。
もう一つのことは、今日の10節の後半にあるように、天の御国はその人たちのものだからですとありますように、神様のために、イエス様のために苦しむ者には天国という報いがあるんだということ、そのために大いに喜びなさいというふうにこの聖書の歌詞は教えています。
私たちの報いは、この地上の上で豊かになって楽しいことがたくさん経験できてということよりも、神の国、天国の報いを求めるように私たちに教えています。
12節、喜びなさい、大いに喜びなさい。天においてあなた方の報いは大きいからですと書かれてあります。報いがありますよだけではなくて、イエス様はあなたに大きな報いがある、グレイトの方でしょうか、ビッグじゃなくてグレイトの方でしょうか、とにかく本当に想像もしないような報いが天国に待っているんですよ。
この地上の戦いをしっかり戦い抜きなさいよと教えてくださっているように思います。
ある方が天国に入った時の状況については想像力を膨らませるためにお話しくださったことで、一つ記憶に残っていることがあります。
それは天国に行って恥ずかしいなと思う人はどういう人かということなんですね。天国に行ったら実は手がなかったり目がなかったり、いろんなものが失われて傷にまみれた人たちがたくさん大戦している中に無傷、どこの痛みも感じないという、どこにも傷がなかったという人はきっと恥ずかしい。
天国に行ったら恥ずかしいなと思うだろうという、そういう例え話でした。
つまり、この2000年代の教会の歴史で信仰のために本当に命を失った人たちがたくさんいらっしゃいます。
新学校などで教えていただくと、教会史の中ではヘブル語の聖書を他の国の言葉、ドイツ語とかラテン語とかに訳した人たちで処刑された人たちがいます。
そのように命がけで信仰のために戦った人たちが教会の歴史にもたくさんおられますが、そのように天国に行った時にはもう元気で何の痛みも苦しみもなくて、過ごしてよかったですという人よりも、神様のために私は傷を受けましたけれども、喜んでここに来ることができましたという人たちがいるということを覚えさせられるわけです。
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始めのことに戻ってきますけれども、この世は神の国ではないというところに帰ってきます。
皆様もよくご存知だと思いますけれども、ヨハネの第一のお手紙の2章の中によく聞かれる言葉があります。
2章の15節からちょっとお読みしますと、
あなたは世にあるものも愛してはいけません。もし誰かが世を愛しているなら、その人のうちに道地の愛はありません。
すべて世にあるもの、すなわち肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は道地から出るものではなく、世から出るものだからです。
世と世の欲は過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は永遠に生き続けます。
世と世にあるもの、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢、それらの誘惑はこの世にいる間、いつも私たちをとらえてしまう、安い、そういう材料です。
これらの誘惑で私たちを神様の国から引っ張り出してしまう、またそれとか生ぬるくしてしまう、
昔は死んだけれども、だんだん昔の青年時代の頃と比べたら生ぬるいじゃないかなとか、私自身も思うことがありますけれども、
様々な誘惑で神様と違う方向に働いていく力が動いているのがこの世ですので、この世で十分楽しんで良い生活を送るというその誘惑、それらのものがたくさんあります。
ですので、この世の常識とこの世の豊かさにのみ目をつけていくとか、人との比較によって生きていては、私たちは目標を失ってしまう焦点を合わせなければならない、
神様の方に照準を合わせていかなければならないということをもう一度思い出させてくれるのではないかと思います。
確かに教会は神様がお住まいになって私たちの中に住まってくださって、そして私たちはこのように集いますけれども、そこは見えない神の国は確かにありますけれど、
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地上では教会は戦闘の教会と言われています。天上では勝利の外戦の教会ですけれども、地上にあっては戦闘、私たちはキリストの戦士であるということを言われますように、戦いの武装をしていなければいけないということを教えられるわけです。
この世に生きている限りは世の様子が見え聞こえてきますので、いろんなことを考えさせられますが、
私が前に使わされていた教会で、あるクリスチャーになった姉妹のお父さんは、そのお父さん、つまり姉妹にとってのおじいさんが牧師である方がいらっしゃったんですね。
でもその姉妹のお父さんは、七十いくつで寝されるときまで、寝されても洗礼は受けられなかったんです。五人兄弟で、たぶん二人くらいは洗礼を受けておられないように聞いたと思うんですが、なぜ洗礼を受けなかったかというそのあたりのことを姉妹から伺うと、そのお父さんは学校の先生をしていらっしゃったんですね。
神様は不公平だということを父が言っていましたということを伺ったことがあります。つまり子どもたち、いろんな状況からやってくる子どもたちを見ていて、どうしてこの子がこういうことに状況の中にいて、こちらはこうなのかというような上下とかを見ながらですね、
牧師の子どもですから、もちろん神様のいらっしゃることを自然に受け止めてはいらっしゃったにしても、自分の理解でこの世の横と比べてひどい差があることに、たぶん彼内の義憤を感じて洗礼を受けるところに至らなかったのではなかったかと思うんです。
そのように私たちの標準をどこから見るかということによって物はすごく見え方が違っていきます。この世の人と同じ視線で見たらお金がたくさんあって元気で何でも揃っているのが一番だと思いますけれども、神様の国の視線から見ると本当の幸せはそこではないということをイエス様は私たちに教えてくれます。
ですので私たちは平和なある意味で落ち着いた日本の国にいますけれども、礼的には戦いの中にいるということを覚えておく必要があります。
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もう二つ目のことですけれども、神様は天国に素晴らしい報いを私たちに与えようと待っていらっしゃるということですね。
これから少しペテロの手紙の中からお話をしますけれども、ペテロはイエス様がおいでになるということをかなり意識しながら手紙を書いています。
その中で、例えばですけれども、第一ペテロの3章14節には、「義のために苦しむことがあっても、あなた方は幸いです。人々の脅かしを恐れたり怯えたりしてはいけません。」
もうイエス様から聞いた通りのことをまるで彼は言っているようです。
15節で、「むしろ心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなた方の内にある希望について説明を求める人には、誰にでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」というふうに書いています。
その続きの16節にも、「健全な良心をもって弁明しなさい。」というふうに書いているんですね。
ですから、ただ迫害を受けたり、罵られるというだけではなくて、自分でもきちんと弁明できるようになっていなさい、用意をしていなさいというふうに書かれています。
ですから、私たちはそういう意味で聖書を学び、この御言葉の力をしっかり自分で握っておく必要があるのではないかと思います。
今お読みしました第一ペテロの3章の続きの18節の中には、
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。
それは、肉において死に渡され、霊において生かされて、あなた方を神に導くためでした。
ここまで来ると、罪のために迫害されている人たちに、本当に大迫害を受けられたイエス様とその十字架の方にマナコを向けさせてくれるのではないかと思います。
自分の苦しみとか戦いだけに集中してしまうと、それが膨らんできますけれども、
私たちの戦闘には十字架を割れて、そしてそこから勝利されたイエス様という偉大な手本があるということを見逃してはならないと思います。
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またイノ五章、もう一度12節お読みしますが、
喜びなさい、大いに喜びなさい。天においてあなた方の報いは大きいのであったら。
ですから、この世の中で起こることに対して失望しないで、私たちは天の報いをしっかりと期待して進んでいきたいと思います。
あちこち聖書をお読みしますが、ローマ日帯の手紙の五章と聞かれて、あそこだなとひらめかれたら嬉しいんですけれども、
そこの中には五章の三節からには、五章は神との平和が与えられたことを喜んで、そして二節のところで神の栄光に預かる望みを喜んでいますというふうにパウロを書いています。
彼もやはり神の栄光に預かる望みというものを固く持っていたんですけれども、その三節のところからに、それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。
それは苦難が忍耐を生み出し、忍耐がねらえた瀕世を生み出し、ねらえた瀕世が希望を生み出すと私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。
というふうに聖霊が私たちを励ましてくださいますというふうに繋がっていくんですけれども、天国の望みをしっかりと持っている人には様々な苦難も喜ぶことができる。
それはちょっと伝達というか熟練しないとダメですけれども、苦難によって忍耐が生まれて、そして瀕世がねられて、そしてそこから苦難が来たときに前も大丈夫だって今度も大丈夫だというふうに希望を生み出すことができるというふうにパウロは私たちに教えています。
ですので様々な戦い、信仰の戦いでない戦いもあるかもしれませんけれども、私たちはすべては神様の支配のもとにあって行われているということを認めていくときに受け止めていって、しかし神様と共にそれを乗り越えていくという、そして自分自身も整えられていくという両面があるということをしっかりと覚えておきたいと思います。
この栄光、神の国の栄光とかいうことに関しては聖書でいろいろ語られていますけれども、同じローマみたいな手紙の8章の18節をちょっとお読みしますからお聞きくださいね。
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8章の18節。
今の時の苦難は、やがて私たちに掲示される栄光に比べれば、取るに足らないと私は考えます。
というふうに、神様の将来、与えてくださるご褒美について、今の苦難は取るに足らないと私は思います。
というふうに、このイエス様のために苦しみを受けたパウロ自身が語ってくれています。
はじめのマタイの5章の方に返ってきますけれども、このちょうど5章の終わりの44節のところに、マタイ5章44節。
しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
これがイエス様の方法です。祈りなさい。迫害する者のために祈りなさい。
あなたは自分のために祈りなさいというのもあるかもしれませんけれども、
むしろ、自分の敵と思う人を大切にすることと、自分に圧を加えて圧迫してくる人のために祈りなさい。
これが神の国に住まう人、また天の報いを望んでいる人、神の国の栄光を求めている人の姿であるということを、イエス様自身がお話しくださっているんですね。
この逆説とも言えるような、喜びなさい。迫害を大いに喜びなさい。
天においてあなた方の報いは大きいのですからと言われた、この神様が私たちにそのように約束していてくださるんですから、
先ほども繰り返して申し上げておりますけれども、私たちの想像をはるかに超えた良いことが待っているということを、私たちは確信しているのではないかと思います。
ある方がですね、天国への道は、聖なる慰めの満ちた薔薇のいっぱいの道であります。
それと共に、慰めはいっぱいあって薔薇の花が咲いているような道であったとしても、
その反面ですね、天国への道の迫害ということに関して言えば、棘がいっぱいありますという表現をされたんですね。
私などはどちらかというと、自分が思うようになって幸せになれば楽をすればいいと思いがちですけれども、
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神様の本当にかぐわしい慰めがある一方で迫害という棘の道もあるんだということを私たちに教えてくれているとある人は語ってくれています。
それでもうお話を終わりにしますけれども、先ほどお読みしましたローマ人への手紙はパウロが書いた手紙です。
使徒の働きの中を読むと、彼は以前はパリサイ派の立法ギチギチの人で、クリスチャンを迫害しまくった、そして殺人を容認していた人だったんですね。
すごく激しい人だったわけですけれども、おそらくこのイエス様の御在世の当時に参上の説教で、
この義のために迫害されている者は幸いですとか、迫害する者のために祈れとか聞いていたその後クリスチャンになった人たちは思い出してパウロのために祈っていたのではないでしょうか。
大迫害者の彼のために教会が祈って、なんと神様は大逆転の技を、使徒の働きでは九章から始まりますけれども、彼が鮮やかに変えられて、今度はキリスト社となって命を賭して働いていくという姿に彼自身が変えられていったわけですね。
ですので、私たちの祈りは確かに神はその一人棒を賜ったほどにこの世を愛された、そして一人も滅びないで信じる者が、一人も滅びないで永遠の命を得るためであると言われるほど私たち一人一人を大切にされています。
続くまたいの福音書が求めなさい、与えられます、ルカの福音書が失望してはいけません、祈り続けなさいと教えているように私たちを祈りの座に招いていってくださるんですね。
そしてそこで私たちを励まし慰め力づけてまた明日へ一歩踏み出すことができるようにしてくださる、これが私たちに与えられている祈りの座というものだと思います。
ですので単に何かお願いをする場所ではなくて神様と一人ですね、神様と私という関係の中に自分を置いてその恵みを十分染み込ませていただくとともにこの迫害する人のために祈るというような神の国の意識を持った生き方をさせていただきたいと思います。
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いいのために迫害されている者は幸いです、天の御国はその人たちのものだからです。天の御国は非常に大きいのだということをぜひ覚えて祈りの座を大切にしていただきたいと思います。ではお祈りをいたします。