1. 名谷教会
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2022-05-22 50:05

2022/05/22:はじめにことばがあった

2022/05/22 聖日礼拝

福本行弘師

ヨハネの福音書 1:1-18


00:05
一言お祈りをお捧げいたします。
愛せる天の父なる恩神様、あなた様の限りない豊かな愛を覚えまして、心から感謝をいたします。
そして今朝も、私どもの罪をあがない許すために十字架におかかれくださって、尊い命を捧げ、
父を最後の一滴までも惜しむことなく、余ずことなく注ぎ出してくださったことを感謝いたします。
そして、イエス様の尊い力強い権威あるお名前とともに、私どもの心の内にお住まいくださっている聖霊様をあがめて心いっぱい賛美をいたします。
今朝も神の家でありますこの宮谷教会におきまして、愛せる兄弟姉妹たちとともに、まことの神様を礼拝できます恩恵を心いっぱい感謝いたします。
その日にしえ、ガリラやコハンで多くの人々に語られた同じイエス様が、今朝も生ける御言葉をもって私たちを豊かにあしらってくださることを恵ませてくださっていることを心から感謝をいたします。
どうぞ、今ひととき、聖霊様が豊かに臨んでくださるように。そして、日本エスキツー教団の教会とともに、日本全国のすべての教会の礼拝、そして世界中のすべての教会、クリスチャンたちその家族を豊かに祝福してくださることをあわせてお祈りいたします。
私たちの愛するユン先生、ハンナ先生3人のお子様たちの家に、あなたの平安が豊かにありますように、特に、病と戦っておられる愛するユン先生のお体を、全能の主の御手をもって守りお支えくださるようにひたすらにお祈りをいたします。
巨大姉妹たちの心持ちにある願いと感謝にあわせて、私たちの救い主イエスキリストの尊いお名前によってお祈りをいたします。
03:04
今日の説教の題目は、「はじめに言葉があった」という主題であります。
イエス様は、永遠の始めから地なる神とともにおられました。
今読んでいただきますのは、1章の18節の見言葉をご覧いただきたいと思います。
ヨハネの福音書1章18節
「いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる一人子の神が、神を解き明かされたのである。」
この訳は、私は素晴らしい訳だと思います。
この1章の18節の言葉を何遍も読んでおりますと、
誰一人として、まことの神様を見たり知った人は誰もいない。決していない。
ただ、神の一人子、つまりイエス・キリスト様のことでありますが、この方だけが神を知り、また見ていたという。
そしてこの方は、まことの神様と同じであったという。
つまりイエス・キリストという方は、神そのものであるという。
それが一番元々の言葉はそのように記されております。
そしてそのキリストは何もかも知っていた。
これは知識的に知っていたというよりも、
とにかくイエス・キリストという方は、はじめのはじめから神そのものでありますから、何の説明もいらないわけであります。
神であったという。何か知らないうちに時とともに神になったという。そういうことでは決してありません。
06:10
それがここの訳の意味ですね。
一人子の神が神を解き明かされたという意味はそういう意味なんです。
これはすごい役だなと思いました。
ヨハネの福音書というのは言うまでもなく、使徒ヨハネのことですね。
もう一人ヨハネという人が出てきますが、これはバプテスマのヨハネのことです。
この弟子のヨハネという人は、このイエス・キリストという方を言葉とか、誓いとか、命という表現をしておりますが、
おそらく彼はこの方のことを表現しようがない。どう表現したか私には分かりませんという。
そしてそれとともに彼はおそらく人間の言葉とか知識ではこの方を表現できないという限界をものすごい感じたのではないかと私は思います。
どうしようもないからおかしいんですが、それぐらいのお方である。
いい意味ですよ。素晴らしい意味で、この方は誰も手の付けようがないという、言いようがないそれほどの神そのものである。
この恵みと誠に見せておられた方とヨハネは言っていますが、人間の言葉では言い合わすことのできないお方、今申し上げましたように。
でもその方が、人間の言葉もそれから人間の姿も人間に分かるような姿で来られたのが、イエス・キリスト、つまり聖霊によって乙女マリアに宿られた方がこのお方なんだ。
そういうことは私どもは誰も理解できないんですね。知識的に理解してよと言っても納得はできない。
けれども神の言葉である聖書がそのように言っているんですから、これはもう全仏の信頼と言いましょうか、信仰もってアーメンと受け入れる以外に私たちは何もできない。
09:11
なぜ人の姿をとって来られたのか、今更説明の必要もないかもしれませんが、
例えばこの神の愛、神の愛と言ってもよく分からない、あるいは人の罪、あるいは天国地獄、あるいは罪の許し、永遠の命、そういうことは私どもは全然分からない。
けれどもその分からない、いわゆる真理ですね、真理を私たちが分かると言いましょうか、信じることができる、悟ることができるために実は人の姿をとって来られた。
しかも未尽の罪もない、完全な人間として来られたのが、精霊によっておとねマリアから生まれた方、このお方なの。
イエス様は罪は一つも犯しませんでした。けれども私たちと同じような生活をされた。
涙も流すし、それから小さい頃からこの地上の父親である大工のヨセフさんのお手伝いをしながら、大工の仕事もされた。汗水垂らして労働もされた。
聖書の中にイエスが笑われたというところはないと思いますが、しかしイエス様は生涯で一回も笑わなかったのかというと、そうでもないと私は思います。
本当に弟子たちと愉快に楽しく遊んだり、悪い遊びではないですよ。楽しくゲームをしたり、リクレーションを楽しんだりしたのではないかなと想像します。
私たちはそういう点ではまだ変わりはない。ただ申し上げましたように、罪を犯さなかったというところだけは私たちとは大違いなんです。
だから私たちはこの方を信用できるんです。
はじめに言葉があった、今読んでいただきました。
12:01
このあったというのは、偶然そこに出てきたとか置いてあったとかそういう意味ではないですよね。
これはもう存在していた。もう既に存在していた。つまり永遠の始めから必然的に存在していた方がキリストである。
彼は神に何度も何度も同じことを申し上げますが、このはじめにという言葉と創世紀一章一節に出てくるはじめという言葉は全く一緒の言葉。
はじめに、つまり永遠の始めという。とてつもない始めだと思いますね。
もう一つ、ヨハネの第一の手紙の一章一節にはじめからあったものという、そこにははじめという言葉が使われていますが、
実はこのヨハネの第一の手紙の一章一節に出てくるはじめからという言葉と創世紀一章一節とヨハネ一章一節のはじめにというのは、ほぼ一緒の意味でありますが、
ヨハネ第一の手紙の一章一節のはじめからというのは、これはヨハネではないですが、これはもう人間の言葉が表現できないのですが、はじめの、はじめの、はじめの、もうそこしれのはじめという、それぐらいしか表現できないのですね。
だからもう、とてつもない、そういう重量感と言いましょうか、もっと深みのある意味の言葉がこのヨハネ第一の手紙の一章の一節なんです。
このイエス様が地上生涯の最後は十字架の死という、まあ言ってみればもう見ておられないという、ところがその十字架で死んだけど三日目に死人の家からよみがえった。
15:01
そして四十日の間、多くの人たちに献言された。そして神の御国の福音を語られて、その後弟子たちが見ている中で復活のイエス様は昇天されて、神の右の身座につかれた。
信仰告白でも私たちは毎日唱えますけれども、死と働きの一章の3から11にそのことが明確に記されております。
やがて、そこで取り出しておられるイエス様が栄光の中に再び帰って来られるというサイリン、何度か申し上げておるんですが、サイリンというのはクリスチャン、キリストの教会にとっては最高の希望なんです。
サイリンというのは悲しい、大変な、悩ましい、苦しい時ではない。キリストにある者にとっては最高最大の希望がサイリンなんです。
森山先生が作られた、夕べ雲が来る空を見れば、二人とも死をしのばるという、私はスタンビが大好きですが、夕べ雲が来る空を見れば、本当にあの栄光の雲というか、栄光に包まれてイエス様が帰って来られる。
そういう聖画もございますが、その時に実は、その時に100%、100%丸々わかるのが、キリストによって救われてよかった、と言うんです。
私のようなものが救われて、クリスチャンにさせてもらったのが本当に最高の幸せだったということが、100%わかる時がサイリンの時だと言われております。
いや、サイリンの時、あの時を持たなくても、今も私は最高に幸せだと信じております、感じておりますという方は、それは感謝です。
それでも、もっと、ああ、よかった、と。
18:11
で、イエス様が、ちょっとお話が前後しますが、イエス様が十字架にかかれる時に裁判を受けましたが、
あの、聖書をよく読んでくださったらわかりますが、当時の宗教家、大祭司とか、たくさん出てきますね、聖書の中に。
読んでますとね、彼らは矛盾だらけですよ。
間違いだらけなんです、当時の大祭司とか、多くの宗教家たちが言っている言葉ね、矛盾だらけ。
で、その中で、大祭司カヤパの前で、イエス様が自ら宣言されたところがあるんです。
それは、聞いていただきたいと思いますが、
しかしイエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。これマルコの十四章ですね、十四章六十一節に。
しかしイエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。
大祭司は再びイエスに尋ねた。
お前は本べき方のキリストなのか、メシアなのか、救い主か、と聞いた時にイエスは言われた。
私がそれです。私がそれだ。
つまり、もっと分かりやすく言いますとね、
アイアム、アイアム、クライスト、アイアム、メシア、メサイア。
モーセが神様に証明を受ける時に、
あなたは一体誰ですか?と尋ねるところがありますね。
あなたは一体どういう方ですか?と言った時に、主は答えて言われた。
アイアム、アイアム、私であって私であるという。
つまりその、私こそが、私が主なる神であるという。
こいつは一緒の言葉ですね。
私がアイアムだとアイアム、私はキリストそのものです。
あなた方は人の子が、つまりキリスト様のことです。
21:02
人の子が、力ある方の右の座につき、
そして天の雲と共に来るのを見ることになります。
大西子は自分の頃も引き裂いていった。
これ以上、何か言うことがあるのか、承認が必要か、もうない。
つまり皆さん、イエス様は自ら、
自分がメシア、キリスト、そして神自身であるということをはっきり宣告された。
それがまあ、決定的な、
なんて言いましょうか、彼らに言わせればね、
もう何も他に聞く理由はない。
彼自らが自分が神であると宣告されたんだから、
もうこれ以上の冒涜はないということで、処刑に決まったわけ。
これは人間側の処刑、処刑を決めたのは人間側ですが、
これは皆さん、遠大なる神様のプロビデンス、説理だった、予言の常事だった。
この辺も皆さん本当に、私はなかなか理解し難いところですけれども、
しかし、聖書がそう言ってますから、これ事実であるわけですね。
私たちは、聖霊によって、今私が申し上げたことよりも、
聖書の記述を全部信じております。
理解できないところもあるかもしれませんが、信じております。アーメン。
ところが、悪魔というのは、なかなか諦めない。
私たちは、皆さんのことではないですけどね、
人間というのは、すぐに諦めてもダメや。
現実を見てしまいますからね、私たちは。
現実を見るなということではなくて、現実も大切ですが、
現実を考えることは大切ですが、あまりにも現実を見すぎたり、
現実に頼りすぎると、もうダメや。
クリスチャンでも、大変、牧師さんたちの姿勢ですけども、私のことです。
牧師であっても、とてもではないが、
これだけ祈っているのに、何ともし難い。
ダメかなというような思いを持つことがないわけではないです。
24:01
皆さんいかがですかね。
それはね、やっぱりサタンの働きだと私は思います。
悪魔は、もう諦めさせる。
こんな祈っても、現実はこんなんだと。
あなた、どれだけ祈ってますか、これまで。
何にも祈りの通りにならないじゃないですか。
サタンは私たちに疑問を持たせたり、騙したりしてくる。
これはサタンの仕事なんですね。
不平不満をつい吐き出してしまうような。
悪魔というのは、皆さん、必死にもがいているんですね。
聖書を見ますと、サタンは十字架で頭を砕かれた。
頭を砕かれたということは、これはもう皆さん、逃れようがないですよ、頭。
イエス様は両手両足に犬クギのようなガーッと杭を打たれた。
イエス様が砕かれた両手両足。
あるいは脇腹もそうかもしれません、そうですけども。
サタンは両手両足で頭を打ち砕かれた。
ところが聖書を見ますと、
皆さん、今更ながらこんなことを言うと失礼ですけどね、
やっぱり聖書というのは、読めば読むほど、
ああ、そうだったんだと。
こんなことがこの聖書に書いてあると気が付かなかったというところは必ず出てきますよ。
実は、今日の説教を準備しているときにね、
聖書にこんな言葉が出てきた。こんな言葉があったかな。
私だけじゃなくて、皆さんこれまで聖書を何遍くらい読んでおられますか。
私も偉そうなことを言いませんが、やっぱり相当読んできたと思うんですよ、何回も。
それでもこんな言葉があったのかなと。
それはね、こういう言葉です。
イエス様が荒野の試みを受け入れられたでしょ。
その時にね、こういうことが出てきた。
サタンはイエスからしばらく離れた。
27:01
サタンは完全に打ちのめされたはずなのに、
イエスからしばらく離れたということはどういうことかな。
いや、悪魔はこのイエスという方にはもう歯が立たない。
それでは人間どもを今度は餌食にしてやろうと考えたのかどうか。
その辺はなかなかこうであると断言しにくいんですが、
やっぱり私たちが騙されたり不平不満を言ったり疑問を持ったりということは、
やっぱりサタンは最終的には完全に打ちのめされても、
イエス・キリストが完全勝利なんですが、
そのプロテスの中ではやっぱりまだのた打ちもあっている。
でも皆さん、イエス・キリストと共に私たちは最終的には勝利なんですよ。勝利。
だからヨハネは、闇は光に勝てなかった。悪魔は皆さんもう敗北者に決まっている。
だからどんなに私たちがサタンにごまかされることがあったとしても、
私たちはいつも十字架と復活のイエス様が一緒だということを忘れないようにしたいですね。
この方が一緒なんだと。
聖書を見ますと、三年六ヶ月イエス様と行動を共にしたお弟子さんたちが復活のイエス様にお会いした。
イエス様がやがて天に帰られる時に、
これもね、聖書というのはこういうところまで国名に帰出しているなと思った一箇所なんですが、
30:10
彼らはイエスに会ってひれ伏した。復活のイエス様。
ところが、しかし疑う者もいた。
復活のイエス様のことをよく聞いて知っていて、しかも復活したイエス様にお会いして、
そのイエス様から神の御国の福音を何回か聞いていたはずなのに、
彼らの中にしかし疑う者もいた。
皆さん、私たちは申し上げましたように信じております。イエス様信じておりますよ。
でも、信じてますけども、疑うこともあるのかなと。
しかしイエス様は疑う人たちをお責めはならなかった。
ここがイエス様がすごい素晴らしいところですね。
決して責めない。私たちがすぐに責めてしまうのに。
しかしイエス様は弟子たちに近づいて来られて、そして
聖霊をお待ちしておりなさい。聖霊を受けるんですよ。
そしたら何もかも全てのことが明らかになります。
皆さんご存知かもしれませんが、
シーナ・リンゾウという有名な小説家がいます。
過去ですけど、いましたが。
このシーナ・リンゾウという小説家は、
もともと無神論者で、神などいるもんか。
しかも彼は虚無的な思想で、共産主義者でもあった。一時ね。
そのために3年間、刑務所生活をした。
刑務所で釈放されてから、彼は点々と職業を変えていくわけですね。
33:00
産業電車に勤めていたこともあるそうです。
その彼が酒に溺れて、しばしば泥水して
路上生活のような生活をしていた時もあったそうです。
その時にふらふらと入った本屋さんで、
ロシアの有名な文豪であるドゥスイスキーの作品と出会った。
本屋の店頭でパラパラと見たら、
何か面白そうな小説家だなと思って、
泣きがしのお金を払った。それを買った。
最初に読んだ作品が、カラマザフの兄弟。
皆さんご存知の方もいらっしゃると思いますが、
カラマザフの兄弟というのは、もう忘れ込んだんでね。
3巻ほどありますが、私も恥ずかしいですが、
読み始めたことがあるんですが、あんまり長いから、
飛び飛びで、恥ずかしいですけどね。
言いとこばかりでしょうかね。
読んだこともあるんですけどね。
ところが、個人的なことで申し訳ないですが、
映画も見たんです。カラマザフの兄弟。
ちょっと申し訳ないですけども、
映画は小説の内容とかなり肝心なところがね、
ちょっと欠けてるんじゃないかなと。
次に読んだのが、罪と罰という。
これを読んでいるうちに、
シーナ・リンゾウがこのように告白しております。
ドストエースキーの作品には、
闇の中に必ず光るものがある。
その光とは何か。
その光は、イエス・キリストから来る誠の光である。
私も詳しいことは分かりませんが、
ドストエースキーという方の作品というのは、
ベースが、大抵イエス・キリストがベースなの。
彼はドストエースキーの作品を読んで感動して、
36:09
そして洗礼を受ける。
これだと。
でもこれだと思って洗礼を受けたんですけども、
キリストの十字架も復活も彼は分かっていなかった。
自分で告白しているんですよ。
それで聖書を読んでいたそうですね。
ある時に、ルカの福音書のイエス様が復活されて、
ガレレア広範でケシベで寮をして、
船で帰ってくる弟子たちを待っていた。
その時にイエス様が、聖書によるとね、
焼き魚を焼いて、そして食べていた。
弟子たちにも、あなた方も一緒に食べなさいと。
そこを読んだ時に、シーナ・リンゾウがものすごい衝撃を受けた。
イエスという方は十字架で死んだ方であると。
十字架で死んで墓に葬られてやがては腐ってしまうはずの方であるはずなのに、
弟子たちの前で焼き魚をむしゃむしゃ食って、
弟子たちにもそれを勧めた。
こんなことがあるだろうかと。
必然性というものがガラガラガラガラと崩れていった。
イエスは死人のはずなのに生きていると。
その時に彼はこう言っていますが、
この時点で私の生き方が変わってしまった。
この方が真の救い主でなくて、誰が救い主だろうかと。
死んで墓に葬られた方が、死人の中から蘇って復活したということは、
いまだかつて人類の歴史ではなかった。
この方だけだと。
その時に私は本当の自由を得ました。
39:03
彼はそう告白しております。
その後の彼の小説というのでしょうか、
死なれんぞの作品というのは、ほとんどキリストのことがベースになっていると思います。
ですから、私たちも誰が私の人生の指揮者、コンダクターかという、
己か自分か、誰か他の人か、
誰が私の人生のタクトを振ってくださるのか。
右向けと言われれば、右を向けばいいわけです。
左を向けなさいと言われれば、左を向いたらいいわけです。
左も右もそうではない、真ん中だけを見なさいと言えば、それでいいわけです。
これは皆さん、イエス様を信じ、イエス様に従い、イエス様に使えるということではないかと思います。
私たちは、私も言いたいこといっぱいありますよ。
イエス様なんでですか。
イエス様はそうなされているけど、なされなされているけど、
僕には僕にやりたいこと、やりたいこといっぱいあります。
言いたいとこもいっぱいあります。
けれども主よ、あなたは私にどういうタクトを振っておられますか。
もうお話を終わりに持っていきたいと思いますが、
3年6ヶ月のこの地上におけるイエス様の伝道、大成功だったと思いますか、皆さん。
イエス様のこの地上生涯、福音伝道の生涯と言っていいでしょう。
人間的に見たら失敗だった。なぜか。
だって皆さん、あんなに可愛がって愛して命までも捧げた弟子たちが、
皆イエス様を捨てて逃げてしまった。
イスカリエトのユダを誰も責めることはできない。
ある本で言ってましたが、本当にそうですね。
ペテルはどうか。知らん。あんな人は見たこともない。ひどいですね。
しかし、私はどうか。いつも自分に問いかける。私はどうかな。
42:06
本当にイエス様を捨ててないかな。
いや、実際には捨ててませんよ。
でも、思いや何かの中でイエス様を捨ててしまっているようなところが
絶対ないとは言い切れない。
しかも最後は惨めな十字架という残酷な死刑で終わった。
お墓に葬られた。
しかし、イエス様は最後まで従った。これは神の御心であるという。
神様には下手なことなさらない。
だから、私の人生、私のクリスチャン人生を本当に失敗だらけやったな。
いや、成功したこともある。そんなことは問題ではないと思いますね。
つまり、どういう指揮者に従ったか。
従ったからこそイエス様は復活されたと思います。
ある時、作戦連盟の領主たちに、
雨を右に降ろしなさいと。
ペテルは何を言っているのかと、
素人のくせにと思ったかもしれません。
というのもお言葉ですから、これですよ皆さん。
信仰生活の勝利を、祝福をね、お言葉ですから。
右に降ろしましょう。
結果はもう、闇があふれそうになって、一層の船ではまかないきれなかった。
これがクリスチャン生活の祝福。
右に降ろすのも左に降ろすのも、そんなに違わないではないかと。
いや、そうではない。大違いですね。
お話の最後に一つのことを申し上げて終わりたいと思いますよ。
今世界は本当に、今の時代だけではないですけど、
今本当に世界は皆さん大変な状況ですね。
コロナがあり、ウクラナとロシアの争いがあり、
その他もう、世界はもう皆さん、
もう、悩みと苦しみと問題で渦巻いているんです。
例えばその国連という、国連とかWHOとかJICAとか、
それからもう、私なんかでも、国連は前から知っておりますけど存在はね、
45:01
WHOとかそういうJICAとか、そういういろんな世界の組織とか働きのことは、
本当に恥ずかしいですけど、あんまり知らなかった。
で、国連の働き機能というのは、今満員状態だと言われておりますね。
もう手がつけられない。
どうしたら本当に世界が平和になるのか、どうしていいかわからない。
で、その国連のことで、ちょっとお話ししたいんですが、
国連の第二代目の事務総長は、ダグ・ハマーショルドというスウェーデン人の方。
私も若い、まだ子供の頃ですかね。
ハマーショルドという名前はよく知っていたんですね。
でも彼がクリスチャンであるということは全く知りませんでした。
で、彼は有名な話ですけども、中東ドーランで非常に活躍した方だそうです。
そして、今後の内戦を収めるために、行く途中で飛行機事故で亡くなった。
まだ60歳にならなかったんじゃないかと思います。
そのダグ・ハマーショルドが妄想としていたのは、自分の人生の指揮者はキリストであると。
彼がある本の中で告白しておりますが、
個人も家庭も社会も世界も、人類歴史の中心は神である、キリストであると。
現状がどうであろうと、神が支配しておられます。
困難な南極を救うのは、最終的には神に寄らなければならない。
神の許容をなくして、この重大な務めを果たすことはできません。
彼はいつでも、何をしていても、どこを行くにしても、必ず聖書を読み、お祈りしていた。
まさに彼は、自分のタクトは主の主御自身であると。
みなさんいかがでしょうか。
国連やWHOや財科とか、そういう国境なき石段とか色々ありますが、
そういうことのために祈ってもどうにもならないと思いますか。
いろいろ必要な時には、軍事力も必要、政治力も必要、福祉とか経済力とか色々なものが必要ですね。
48:06
話し合いとか、同盟とか、契約とか、みんな必要だと思います。
けれども、やっぱり最終的には、この方にお出ましをいただかなければどうにもならないと、私もそう思っております。
旧約聖書を見ても新約聖書を見ても、お祈りで様々な奇跡とか、色々な出来事解決とかいっぱい出てきます。
あれは先生、遠い昔の話で、聖書の中のお話で、現代の私たちには関係ありませんと思いますが、私はそうは思わないです。
もろん、聖書の中に出てくるものすごく大きな奇跡と同じ奇跡が起きるとは限りません。
けれども、私たちはこの善能の神様に、それこそ命がけで祈っていれば、時が来ると必ず神は最善の答えを出してくださるんじゃないかなと、
願いながら、わずかな小さい働きかもしれませんが、私たちも今一度、皆さんも祈っていらっしゃると思いますけれども、今一度ね、
膝をかがめて、この生きる幕府の神様、全世界全人類を支配しておられるこのお方に、もう一度皆さん、祈り続けたいなと思います。
神は生きておられる。お祈りをお捧げいたします。
50:05

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