00:02
お祈りを感謝しております。
今朝、こうしてもう一度、皆さんがあって一緒に、この礼拝において御用に与えられるという、この災害を、皆さんの祈りの中において与えられているということを覚えております。
一言お祈りをいたします。
えぐみ深い御座いての地なる神様、どうぞ、私たちが今、あなたの言葉をいただこうとしております、その上に、御精霊がお一人一人に、この朝のお言葉を、その必要の糧としてお与えください。
そして、どうぞ私たちを、さらにこのところから、あなたの御言葉によって、生きまた立って歩むことができるように、死の満たす日を仰ぎながら、主耶穌様の御名によって祈ります。
アーメン。
今朝は、今拝読していただきました、この支援の46編から、御一緒に御言葉を開いていきたいと願っております。
私の与えられたその奉仕の時が、最初の日曜日ということで、私の中にずっとありましたのは、次の機会の礼拝の時には、
この支援の46編から、御一緒に御言葉をいただいたら、そこに神様がどういうことを、私たちにお与えくださるかを、共に知っていこうと、また信じていこうと、
そういう思いで、この46編を黙想しながら、時にまた改めて46編を読みながら、ここにはどういうことが、そこに意味されているんだろうか。
皆さん方もこの支援の46編は、よく御存知ですし、拝読文は今、教会においては行っていませんが、拝読文の中にも、この支援の46編が用いられているぐらいに、大変親しまれる、また有名な歌唱であります。
聖書の言葉を好き嫌いで判断してはダメなんですけれども、しかし私は好きだなと思って、この46編が支援の23編など、本当に与えられていることを感謝しております。
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私は支援というのは、これは確かに支援ですから歌なんですけれども、同時にこの支援に歌われているこの内容は、これは私たちの信仰告白だ、同時に私たちの祈りだ。
ですから、この支援の言葉を自分の祈りとして、朗読することもこれまでしばしばありました。
私は同時に、このイースター明けてのこの時期ですから、この支援の46編は、そういう点では、やはりイースターのメッセージがここにあるのではないだろうか、当て付けじゃなくて、読みながらそのことを思いました。
ですから、イースターの歌とも言えるのではないか。
この歌をよく表しております。
エジプトと対峙するぐらい、その当時の力かというならば、エジプトもアッシリアの前には、ただ大国として何の力もそこにはなかったかもわからない。
ですから、このイザヤ書とかそういう劣情記の2を読んでいきますと、当時のこのユダヤの王様が、そういう戦争から自分の国を守るために、エジプトと組んでそしてアッシリアに対峙しようと思ったぐらいに、当時はまだエジプトはそういう国を治めておりました。
しかし、それも含めて、当時のこのアッシリアの王は、お前がどういう神を信じようが、どういう国を自分たちの支えとして同盟を組もうが、そんなものは私たちの力の前には微々たるもんだという、そういうことを書き送って、
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そして、この当時、ユダ王国には、ヒゼキアというこの王様が治めておったんですけれども、彼を脅迫する。ですから、さすがのヒゼキアも、何とかこの国を守るためにということで、いろんな財産財宝を見つけたんですよ。
それでも、このアッシリアは、その国を治めるまでは、その財をやめることはしない。
今、テレビや新聞で、ロシアがウクラに対して挑んでおりますけれども、何かこう読んでいきますと、そういう二重移しではありませんけれども、当時のこのアッシリアは、今のロシアみたいだったんだろうか、そんな風に思ったりしながら読みました。
このアッシリアの前に、当時のこの小国でありますユダ王国は、もうすでに、キタイスダエルのサマリアは、もうこのアッシリアの前に滅んでしまった。
彼らの配下にもとに、もうその存在も許されないぐらいになってしまった。だからそういう勢いを持っていますから、ですからその勢いで持ってこのエルサレムを治めようとして、そしてエルサレムに18万5千と書いてありますけれども、その立ち積もらえ軍力を向けたわけですよ。
ですからそのエルサレムには、それにかなうような兵力もないし、あるいは力もないし、ですから別に物を持って何とか治めようと思ったんですけれども、それすらもですね、アッシリアの方はとにかくエルサレムを治めるという。
そしてそれを足掛かりにして、さらにこの地中海沿岸の国々を自分のものと進めていこうという、そういう根担で来ております。
もう戦果たちきて、もはやアッシリアの前に私たちはもうなすびことは何一つないという、そこまでこの秀吉家は、もう当時彼は一つの病を持っておりましたから、自分の肉体上も含めて、そして国の運命も含めて、本当に大きな大きな重荷の中で彼はもうどうしようもなくなった。
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その時に彼は伊豆谷を通して神社の前に祈ろうということで、彼は覆いを脱ぎ捨て、そして灰を被って、そして杭を温めて神社の前にお祈りをした。伊豆谷も鳥無しの祈りをする。
そして国々の人々がいるそういうのも、人々がみんながお祈った。自分たちがもはや明日はない、あの大群の前にこの国がもう全部有利にされて何もかもを失うという、そういう迫った、さしてまった中でもって彼らがやったことは一見無力なお祈り。
お祈りをしたところで何が起こるんだろうかというのが、あるいは伊豆谷の人々もですね、そう思いながら祈ったのもおったかもわかりません。あるいは私も、もしその当時エイルさんに住んでおりましたならね、どういう道でもって逃げていこうかとか、祈ったところで何が起こるんだろうかとか、昔は全くわからないけれども、今現実にこういうことの前にどうしたらいいんだろうか。
何か別な方法を考えたかもしれない。しかしこの時の状況はもう祈りしかない。そして彼らは祈って、そして朝を待つわけですよ。
18万5千のあの朝礼の大群がこの城壁を壊して、そして流れるようにこのエイルさんの城内に入ってくるだろう、そういう不安な思いでもって彼らは朝を迎えた。
そうしたところがですね、祈りながらこういうことが本当に起こるんだろうか、祈っていてもそこまではというような、私たちはどうも、私たちというよりも、私は自分の祈りに制限をかけてですね、これは何とかできるかもわかんないけれども、そこ以上はいくら何でもできないだろうというような、だからそれは祈りじゃないわけですよね、そういうのは。
何の信仰も与え得ないんですから、エイルさんの城内にはそういう人も私と同じようなものがおったかもしれないなと思いながらですね、ところがですね、そういうこととはもう裏腹に、朝起きてみたら、あの18万5千の大群がですね、みんなそこで倒れている。
アスリアの王はさすがに状況を知って、そうして二年目にトッドと彼はですね、帰ってしまったんですね。
彼を待っていたのは二人の息子が、それこそ手薄めに聞いてですね、お父さんよ帰ってはならないんですよ。
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この父親をそこで待って暗殺して、その国を自分たちのものにした。
アスリアはこのエルサネム攻撃で大失敗を犯し、そして大群を失い、そしてその勢いはもうそれこそ途端にですね、もう小さく小さくなり、それ以来アスリアというその国の名前を見ないんですよね。
前にも話したと思うんですが、私が平方希望協会を去って、そして昔にこのすることが決まって、この新年礼拝か何かその時ですね、
ゲンさんという家族が礼拝に来られた。この方は日本人なんですよ。ところが奥さんは外国の人だなと思って、そして終わってからそれぞれご挨拶に回った時に、いきなりこの奥さんがですね、
たくみな日本語で先生、私はアスリア人ですって言うんで、え、アスリアという国があったかなって。アスリアは昔のイスラエルみたいにですね、もういろんなところに行ってしまった。
それでこのイスラエルはね、1948年ですか、そこで初めてあのわずかな人数でもって、今も彼氏の一角に自分たちの国を作ったわけですけども、アスリアはそれがなかった。
イランにも、前のイラクにも、そしていろんなところにね、また親戚の一人はオーストラリアに行ってますとか、アメリカにおりますとか、みんな来てしまった。
だから聞いた時にね、昔のイスラエルの人たちが、イデア人たちが、もう散らされていった、それぞれの国でもって彼らは生き延びたんですけども。
けども、アスリア国はですね、再びそこに来て、そして自分たちの国を作るっていうことはもうなかった。
だから私はもう、聖書の世界だけじゃない、実際にこの地球上の歴史からもうなくなってしまったのかな、と。
そんな思いでおりましたから、私はアスリア人です。
そしてさらに言うのはですね、先生、日本のクリシャ人口よりもアスリアのクリシャ人口の方が多いんですよ、と言って。
それでこの方たちがね、その平方の一角に教会堂を建てたんですよ。
で、一時はやってたんですけどね、なかなかうまくいかなくて。
そしてその会堂が空き家みたいになって、その当時おりましたこの牧師がそこに住んでた。
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ですから教会が教会としての存在がないんで、聖書の教会であそこを管理しながら、そしてもう一度あそこで伝道してもらえませんか、と。
で、当時平方にはですね、サキュライト教会っていうのを、そういう構想があったんですよね。
まあ今どうかわかりませんけど。
それでそういう中で今のこのカケノキリスト教会が生まれたりもしましたし。
それじゃということで、教会でそのことを取り上げて、そして祈りましたら、そこはいくらぐらいかかるんでしょうかっていう。
やはり役員さんですからね、購入すると思ったんですよ。
私もそう思いました。
私もそう思いました。
そうしたら、いやもう先生伝道してもらえたら、そこを全部捧げますって言ってね。
それで捧げてくれたんですよ。
で今平方もですね、街道建築最初なんですけども、それがあるもんですからね、助けられておりますけども。
まあそういうことで、思いがけないところからアスシリアという名前を聞いて私は、神様って方はね、国はなくなったし、全くわからない。
けどなるべくそういう中から、クリスチャンたちをそこに起こし、そしてそれは日本の伝道のためにそれが使われるならば、私たちはもう喜んで捧げますよって。
でその後、この家族は平方希望教会に席を移して、そして平方希望教会の法人下のもとで、今もその教会が用いられているわけですけども。
私は神様のなさるってことはね、昔も今も本当に不思議なことをなさるんだな、この46編を読みながら、ふとそんなことを思い起こしておりました。
でこの46編を見ますと、そこに3節と7節と11節にセラという言葉があります。
これは間という、そういう意味がありましてね、言うならお芝居のときに幕が開いて、そして一つが終わったならば幕が閉まって、その幕が開いてんでしょうかね。
そういう意味で、そこに一つの間を持って、そしてまた次の御言葉がそこに新しく開かれる。
幕尊先生の書き留められました、この支援の霊的思想という小冊にあります。
先生はこのセラについてこういう説明された。
これは止まって考えよっていう、そういう意味である。
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だから、そこまで歌ってしばし神社の前に静まって、そしてその言葉を二連見ながら、また新たな思い出を持って次の祈りに、あるいは次の言葉に移る。
先生はこの1節から3節をこの恐れと苦痛の中に平安が与えられるとし、そして4節から7節は喜びの流れが与えられる。
8節から11節は勝利の力が与えられる。
そういうふうに短く御自分の聖書に書き留められておったようです。
それが今小冊になって支援全体に先生のショートメッセージと言いましょうか、先生が読んで受けた、それをまとめなさった本が出ております。
そういう観点から見てまいりますと、
まず私たちはここに、神は我らの避け所、または力、苦しむときそこにある助け、という大変力強いお言葉でこの46篇がスタートします。
守護は神様ですよね。
ただ、私たちは神様との関係において、本当に主こそ自分のすべてという信仰に立つべきなんですけれども、
時に私たちは神様と自分との関係の中に余分なものを置いてしまうんです。
ある人はね、これ天道館時代だったかな、もう天道館時代、今から60年くらい前の話ですけれども、
人間がだんだん古くなりますとね、昔のことほっかりが出てくるんですが、
で、その時にね、入ってきた、そして話を聞いたその方が、神は我らの避け所ってわかりにくい。
わかりにくい。
神は我らの避け所ってのが一番わかりやすい。
神と金、身と根の違いだなと思いながら、ああ、なるほど、なんてうまいこと言うねって言ったけど、
そりゃあ、そういう神様を知らない人にとっては、神よりもね、金の方が一番だっていう。
けど考えてみますとね、私たちは、そういう風に置き換えてしまう場合があるんですね。
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処方を間違えてしまう。
そして、神様と自分との間に、そういう余分なものが入ってまいりますと、そこから仏欲っていうのが生まれてくるわけですよ。
金がすべてを織る舞い手で、何もかも自分の夢を果たしてくれるとなったら、やっぱりそこで求めます。
ところが、神様と自分との間にね、人が入っちゃうとね、これまたややこしくなって、偽善っていうのが生まれるんですよね、自分の中で。
あの人の前で、あるいは、なんかそこを人を意識すると、ついそうストレートに、いや、さまーっち行かないで、なんかこう、もたもたするんです。
一番の問題はね、神様と自分との間に、自分が入ることがあって。
もうそれこそ、自分が第一になっちゃって、いくら神様と言っても、いつもそこには自分が存在しているわけですから、いろんな点でぎこちない信仰生活をやりますし、
また、自分を阻害するようなものがあると、それに対して敵対するっていうような、こうやるわけですよね。
だから、神様と自分との間にね、本当に何者も入れてならない、この言葉のように、神は私たちの先どころ。
そうするときに、神様は、俺にかなう助けや力を与えなさる。
私はこの聖歌の、新聖歌の280番をそこに選んだんですけども、これは有名なマルチン・ルターの作詞作曲のこの歌ですよ。
確か、マルチン・ルターが宗教改革という思い切った、当時のこの教会に対しての95か条にわたるその質問状と言いましょうか、公開質問状、この何れかげて当時の教会の生き方に対して、彼は質問した。
それが、改革へのひとつのきっかけになった。
確かにそのときはね、このマルチン・ルターは、彼はカトリック教会の一位修道僧にすぎないわけですから、それがですね、ローマ法に立ち向かうわけですよ。
まあ、思い切ったことをしたんだな、しかもそのドイツはカール皇帝が治めておりまして、その皇帝とローマ法とはもう一心同体みたいなもんですよ。
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なんかそれもですね、今のプーチン大統領と東教会の最高の知人やると言われております。
なんかそれもダブって見えたりもするわけですよ。
そういうときの権力に対して、ルターはね、私たちは教会がどうあろうと、法が何を教えろと、
私たちの信仰は、それは初めてイエス・キリストの十字架によって罪が許されるこの信仰こそが私たちの求める聖書、やはり聖書はそのことを私たちに教えている。
当時の教会はね、カトリー教会にも立派な生徒が起こされて、そして今日のカトリー教会があると言っても決して過言ではないと思うんですよ。
しかし当時のカトリー教会は、今のサンペイトル教会、大聖堂を建てるために莫大な資金がかかる。
そのために教会がやったことは、悪名高き免罪符というね、それを売り出したわけですよ。
まあ日本式に言ったら、お札みたいなものでしょうか。
神社の教育に行きますとね、そういうものをいただいて、そしてそれで何がしかのものを、まあ今はきちっと優良ということでひとつになっているんですけどね。
昔はやっぱり多額のものを納めるならば、そこに大きな功徳があるというようなことで、まあやったんでしょうけどね。
当時の教会はね、この免罪符によって、自分も自分の先祖たちの罪も、これからの犯す罪も、全部それでもって許される。
多くそのために捧げれば、捧げること、功徳があるということを、それこそカトリックの教えの中の中心的な教えみたいにしてそれをやったわけですよ。
だからルターは、私たちが救われるのは、イエス・キリストの十字架のみ。この方を信ずることによって私たちの罪が許される、免罪符ではないという。
その免罪符の一箇所も入っているわけですけどもね、それだから当時の教会はね、今まさにそれをやり去る、それがこのどこにあったかわからないような一人の修道僧が言い出して、なんて邪魔なことをするか。
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神様の御心が遠い、というようなことでもって断罪し、そしてまたカール皇帝もですね、この拒断して、だからもう二つの大きな勢力の前に、もう自分の身体が戦ったって足りないみたいな。
しかも彼もまた病を身に持つ、そういう立場でしたから、もう肉体的にも精神的にも、もう負けてしまった。せっかく19歳か何かそのぐらいでもって、宗教改革って言って彼がお見え来たわけじゃないんですけども、当時の教会に対して聖書はこう言っている。
その前に何者も負けてはならないということでもってやったんでしょうけどね、さすがのルタはもう本当にこうダメになりそうだった。
これはエピソードの一つですけども、その時に彼の奥さんが防腐服を着てやって来た。ルタは今日はどこでお葬儀があるのかと聞いたら、マルチン・ルタ、マルチン・ルタは死んだ。
そう言われて彼はもう一度自分に与えられた神様の使命に立たなくちゃいけないという思いを持ったそうです。そんなエピソードも中にはあるわけですけども。
そういう中でね、私たちの属しておりますと言いましょうか、そういうことを聞きますとね、よくもカトリックじゃなくて東教会じゃなくて、このプロテスタントの信仰に私たちが今加えられているということは、そこには大きな犠牲とともに私たちはこの信仰を受け継いで今に至っているんだなということを改めて思います。
神様は本当にその通り、確かに一人の人から始まった宗教改革はわかりませんけれどもね、しかしその宗教改革に至る一つのお言葉が、この支援の46ペン、そしてそういう苦しい中からこの支援の46ペンを読みながら、この280番をそこに作詞、
作曲をした、ですからその一節一節の中にですね、当時の置かれていたルターの様子が知ることができるかと思います。
特にこの四節、
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このお言葉が最もよく私たちの心に響いてくるんですが、この四節、七節を見ますと、川がある、その流れは糸高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせるという言葉があります。
イスラエルに行かれた方は、そういうところに行かれたと思うんですがね、シュルアムの池という、ヨハネによる福音書で、生まれながら目が見えない人が、イエス様からこうつばされてね、
で、シュルアムの池に行って洗いなさい、そしたら見えるようになると言われて、私は何をばかりするんだと思ったかわかりませんけれどもね、それでも彼が言ったら目が散らかれた。
そのシュルアムの池と、その源になる、その川の源に、日本の泉という泉があるんですよ。
あの、そこを何人かの人たちでですね、朝早く見に行きまして、そしたら青年が出てまいりましてね、そこを説明してくれた。
で、私と、今アメリカにおられる細見先生という方と、それから今天皇におられますけれども、小山常夫という先生と、三人でね、ちょっと早めに起きて、それでそこを案内してもらった。
ああ、これが、いろんな泉ですか、そしてその流れがずっとシュルアムの池に行くわけですよ。
そしたら案内してくれた、その青年が、ワンダガーと言ってね、請求してきた。
そしたら、細見先生という方は、何回もそこに行ってますから、いや、ノーノーノーと言ってね、与えませんでしたけれども、
まあ、彼らは一つ目いいかなと思って、ガイドをよろしくやったんでしょうけれどもね。
しかし私は、そこで思ってね、ああ、これが、ヒデキアという王様がね、なぜアスティラの大群に攻め立てられながら、あるいはそれまでにもそういう危険があったんですよ。
けれどもエルサリムは守られた。水の源があったからですよ。
あのパレスラに行ってね、本当に水というのは貴重なものだなあと思いましたよ。
ですから今日も言っていただいておりますけれども、大きいやつ必ず持たせられてね、喉が渇かなくてもいいから飲みなさい、本当に渇くところだから。
日本は湿気が多いから、あんまりそれがないかわからないけれども、ここは飲みたくない、飲む必要がないように思われても、時間が来たら飲むようにと言われた。
33:02
で、その水が非常に貴重なものだということを、あらためてそこでも教えられましたけれどもね。
国が守られていく。特にこのエルサリムは山上にありますから。
ですからいかにその水源を持つことが大切か。
チリデキアという王様はね、その水土を作ったわけですよ。
それが後々、このイスラエにとっては貴重なものになっていった。
で、イエス様は、あのヨハネニノイ福祉の7章でね、祭りの終わりの最後の日、イエス様は人々に向かって言われた。
人も近くならば、私のところに来なさい。
私があなた方にその命の水を与える。
それがあなた方の中から、もう川のようにね、いく。
つまり、神様の臨済というのがね、この川に例えられたり、水に例えられたり、そして神様の力という風に例えられて、
聖者にはいろんなところで、この神の川というのがどんなに大切か。
イザヤション65章もその言葉がありますね。
そのように神様は、この川に象徴される神が共におられる時に、水があるから助かったんじゃない。
神がそこにおられるがゆえに、エルサルモンは守られた。
7節においてもそうですよ。
万軍の神は我らと共におられる。
ヤコブの神は我らの砦であり。
神の臨済こそが私たちの力の源だということをそこに言います。
最後に、8節からこの11節を見てまいりますと、本当の平和を象徴されるのは神御自身です。
私はこの8節以下を見てまいりますとね。
そして結び。
やめを知れ、私こそ神。
私は国々の間であがめられ、地の上であがめられる。
ここで再び、万軍の神は我らと共におられる。
36:03
ヤコブの神は我らの砦である。
シャッと結ばれております。
神こそが私たちが何度も何度も失敗し、大きな痛みを受けながら涙を流し、あるいは大切なものを失い、戦争のあるたびに私たちはこのとんでもない刺激を身に持つものであります。
けども、人は意味をいかにも使う。
あるいは槍を持って、戦車を持って相手に向かってくる。
それに頼っている間は、本当の平和というのは訪れないわけですね。
私は最初、ここを呼んで話を聞いたときに、大外予戦争のときに、私たちの周りにあるすべての金属のものを供出しなくちゃいけない。
それがやがて兵器となり、戦車となりというのは、今考えたら何になったんだろうかなと。
持つ武器は竹槍でしょ。そしてB29の火災に対してはバケツリレーでしょ。
しかし、そこまでしか当時の被災者たちの知恵はなかったんでしょうね。
だからそれでも勝つんじゃないかと思った。
そして私は子供でしたけれども、一緒になってこのバケツリレーに配って、殺すなと言われて仕掛かりながらやったことを今でも思い出しますけれども。
しかし日本は広島長崎に所長されるような大きな大きなとんでもない報いを受けて、
そしてやがてその後、かろうじて私たちの日本がもう一度立ち上がることができた。
戦車に頼り、弓に頼り、槍に頼ってないのは、私たちは何の部屋もないんですよ。
さらにそれを競い合って、とんでもないものをそこに作り上げていく。
今の蔵におけるその戦いの様子を見ていきますとね、まさにそういう人間の愚かさが。
確かに一人の指導者が、その国がもともと我らの国だったと言ってやったんでしょうけれども、それはそれなりの背景があるかわかりません。
けれどもしかしそういう無二難題でもってですね、自分たちの力でもって、
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もし少しでも自分たちが何かことが弱いならば、この核、それを使うということまで言い出して、
そして何とか断めよう、何とかしようということで、今しかしそのために大勢の犠牲が払われてきております。
もう見るたびにですね、気がさーっとこうなってきますよ。
だからそのたびにね、神こそがね、槍を、あるいは弓を、戦車を全部廃棄して、
神のみがそこに私たちに本当の平和をもたらしてくれるということを、私は、だからこのお言葉を祈りとして、
今も何とか遅れるだけではない、まだまだいろんなところで戦争が行われてきております。
だからこの神がね、全ての人にあがめられるときに、まことの平和がやってくるという、この聖書の言葉に私は立っていきたい。
またこのお言葉の受けているこの幸いを思いながら、祈りとしていきたいと、ご願わされております。お祈りいたします。