1. 名谷教会 podcast
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2022-07-10 26:12

2022/07/10:柔和な人

2022/07/10 聖日礼拝

光田隆代師

マタイの福音書 -42


00:01
おはようございます。
今日は、5回目、立たせていただきます。
福井県の五所を開かせていただいていまして、
本当は、これまでの3回と同じように、五所の1節から12節まで読んでいただこうかなと思っていたんですけれども、
あまり毎回だと良くないかなと思って、
福井県の五所の5節を主題にしてお話をするんですけれども、
今日、今読んでいただいた38節から42節が応用編かなと思って、
ここのところを読んでいただいたという。
お祈りにもありますように、私たちの今置かれている世界と社会の状況が非常に、
私たちの心、憂いを持たせるような状況ですけれども、
その中にあって、私たちはどのように信仰を確認し、
しっかりと目を向けていくかということが問われているような気もいたします。
はじめに、お祈りを。
柔和なものは幸いです。その人たちは、地を受け継ぐからです。
愛媛市会天皇お父様、尊いお名前とイエス様の十字架の父を崇めて感謝をいたします。
暑い毎日が続いていますけれども、また社会情勢も心を騒がせるような中にはありますが、
私たちを支えてくださり、この場に共にあなたを礼拝するために集めてくださっていることをありがとうございます。
どうぞ、御言葉を聞かせてくださって、あなたの御心に生きることができるように、私たちをこの朝も整えてください。
そして、私たちの生きることがあなたの御社会につながってまいりますように、主が帰りに来てくださることをお願いをいたします。
尊いイエス様の皆によってお祈りいたします。
今日の私が中心にしたい、しようと思っていたのは、この乳話という言葉であるわけです。
乳話は聖書の言葉からすると穏やかな、ジェントルマンの穏やかさというのと、
もう一つは、癒やしいという意味の両方が含まれているような言葉だそうです。
ですから、乳話と聞いただけで穏やかさというのはわかるんですけど、
もう一つの癒やしいというのはどういうのかなというと、自分には価値が本当にないんだということを認めている、
03:06
そういう性質がこの乳話の中にはあるようです。
少し違うんですけれども、聖書の中には忍耐という言葉もたくさん出てきます。
そしてまた寛容というような言葉も出てくるわけですけれども、
いずれにしても柔軟性があり耐久力がある性質を含んでいるような気がします。
聖書の示す忍耐という言葉には二つのタイプがありまして、
一つは山上に立ってものすごい激風が吹いてくる中でも耐えしのぶ忍耐力と、
それから長い坂をずっと力を込めて登り続けていく忍耐力という、そういう忍耐力があるわけですけれども、
イエス様の御生涯を考える時に逆風の中で立ち続けるというよりも、
ご自分の与えられている使命のためにずっと登り続けて復旧の精神で耐え続けていくというのがイエス様の御性質だと思います。
その性質によって私たちはイエス様に罪を許していただいて、
そして神様と和解できて、神様の子供となって神と共に生きていくことができるということを覚える時に、
今日お読みしている入和、穏やかさ、そして自分に何の力もないというようなイエス様の自覚が私たちを救いに導いているんだなということを改めて感じるわけです。
この有名なマタイの福音書の11章の29節の中に、私は入和で謙遜なものであると書かれてあります。その入和と同じ言葉です。
ガラテアの有名な五章の23節の中に入和、犠牲ですとなっています。そこの入和もここに使われているのと同じ言葉の入和という意味です。
それで入和の話をとりまして、今日の読んでいただいた聖書の箇所なんですけれども、皆様はこれをお読みになるたびにどのようなことを感じになるのでしょうか。
私はもうこれを読むたびにいつも自分にがっかりするという、そういう鏡になるわけですね。
06:01
ご存知のように、この38節の目には目を、歯には歯をと言われたのは、スタンニン注釈があるように、旧約定書の出エジプト記とかエビキの中に目には目を持って仕返ししなさいという文章があるわけですね。
でもそれは、人間って何かされたらもう倍返したいというような罪の性質があるので、その聖書の旧約のルールでは目をやられたら目以上に返してはいけない。歯をやられたら歯以上に相手に仕返しをしてはいけないという制限ですね。
それ以上に倍返しをしてはならないという制限が設けられていると聞いています。
しかしそれは旧約定書の話でありまして、イエスタマンのルールは、しかし私はあなたが言ったに言います、悪い者に手を向かってはいけません。あなたの右の方を打つ者には左の方をも向けなさいというふうに書かれてありまして、
仕返しをするということ自体をもうやめなさいとイエス様は押してあるんですね。
右の方が打たれるということは、右利きの場合ですけれども、正面回りではなくて、手の甲で打つんですか、侮辱している打ち方なんですよね。
そのようなものに対して、侮辱に対して抵抗するなというのがイエス様の説いておられることです。
それだけでも人間は固まったりしやすいですが、しかし次々とここ40、41、42って続いていることは、訴えて下着を取ろうとする者には上着を取らせなさい。
下着は替えがいくつかあるんですけど、上着は一つしかないんですね。しかしイエス様はそういう場合に上着も上げなさいとおっしゃいます。
この世の中の標準から考えるとかなりルールを逸脱していると言えるようなことです。
そしてその当時、荷物を運ぶのに1ミリオン1.5キロぐらいなら当然のこととしてしなさいというルールがあったんですが、イエス様の場合はそれを倍にしなさい。
自分からすることは倍で返しなさい。良いことを倍で返すようにということを教えられました。
求めるものには与えなさい。借りようとするものに背を向けてはならない。とにかく困っている人は助けていくようにというのがイエス様のここでおっしゃっているルールです。
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参上の説教はたびたびガリラやご飯とかいろんなところでお話になったものが固めてありますので、これだけを順序立て続けてお話になったのではなくて、いろんなところでお話になったことがこのような形で与えられていますけれども、
普通に私が思うに、人間が当たり前に思う感情ではなくて、それを遥かに超えた態度で生きていく、その思いを持つことが必要だということ、旧約のルールではなくて、それを遥かに上回る愛で生きていくようにということを語って、その後に十字架にかかっていかれるんですね。
この教えを語られた方は、説教としてこれは理想的な人間ですと語られただけではなくて、ご自分が歯向かう者に背を向け、打ち打たれるのにも耐えられて、侮辱の椿も受けられて、
それでもなお、私は正しいということを一言も弁論しないで十字架にかかっていかれたんですね。この言葉の通りに生きられたのが、まさにイエス・キリストをご自身であるということです。
そして、今日祭典に、「入和なものは幸いです。」と書かれてありますが、イエス様ご自身が入和の塊のような方です。
それだけではなくて、本当は仕返しできるんですけれども、しないという、そういう力を持っているのがこの入和です。できるけどしない。しかししようと思えばできるけどしない。
でも、自分が何か痛みを受けても、なすべきことがあればするという、そういう両面を持っているのがイエス様であります。
そして、私たちは本当に罪深いものではありますが、神様は限りなく私たちを愛してくださっているので、私たちがどんなに失敗をして、ある時どんなにひどい醜態を見せ、また心で思ったり、再度で示したりしても、
この入和の方は、私は入和で謙遜であるから、私のもとに来なさいと言って、いつも呼んでくださって、私たちを叱りつけるというよりは、その愛の中に包み込んでくださって、私たちを癒して回復してくださるお方であるということを覚えたいと思うのです。
12:20
旧約聖書の中には、いろんな入和なタイプを表している人たちが示されていると思います。旧約聖書で入和というと、2世紀の初めに、もうそれほど入和な人はこの地上にいなかったというようなことです。
その前の創世紀の時に、アブラウンの息子のイサクという人が、お父さんが掘った井戸をもう一度掘り直して水を出すようにしていた時に、彼は3回もその時の人に、
井戸を掘ったら埋められ、掘ったら取られという感じで、3回そういうことが繰り返して、4回目にやっとその相手の地域の人が、あなたは神様に祝福されているから、もう私たちと仲のある契約を結びましょうということで、
4回目にやっとレール芝というところを約束をして、そこの井戸を自分のものにしたという人がいます。
彼は全然その3回、1回、2回、3回と井戸をせっかく掘ったのに埋められたり取られたり争いが起こったりする中で、全然歯向かっていかないで次へ次へ次へ移動していくんですね。
4回目にちゃんと自分のものになったわけですけれども、その4回目の時も、攻めてきている人に対して、じゃあ契約をしましょうと向こうから言ってくるんですけれども、
その時に自分から遠回を、遺作自身が遠回を模様にして対して、じゃあ契約しましょうということにするわけですね。
ですから、この遺作の言い訳を絵に描いたような人だなと思わされます。
また、先ほど申し上げたモンスペも、最初はイヤイヤ神様に立てられて訓練されていきますが、
彼もその使命が終わるまで、イスラエルの民は彼が指導者であることに忍耐して忍耐して40年からの指導していくんですね。
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彼も本当に優雅な人で、最後は120歳で元気そのものであったんですけれど、彼は約束の地を遥かに見るだけで、そこに一歩も入ることができなかった、許されなかったんですね。
そのような人生ですが、聖書はこのような人たちが神様の歴史の中にいるんだということを教えてくれるわけです。
そこで、新約の時代に生きている私たちは、なぜかよくルカの譜面書の15章のいなくなった息子の話のところに話が結びついていくんですが、
あそこにイエス様が描かれた父親の像は、形は二人の息子がいて、一人はお父さんがまだ生きているうちに財産をもらって、冒頭湯水のように浸かってしまって、帰って申し訳ないと言って下辺のようにしてくるという話がありますが、
あの父親の姿も、ニューワサということを非常に教えられるんですね。
帰ってきた息子に対して、いくらでも怒鳴りつけて、一年間給料なしで働いてとか言ってもおかしくないような状況ではないかと思うんですけれども、
喜んで受け入れて、お風呂に入れて、一番良い着物を着せて、そして約束の呼び合いをはめて、足にも靴を、奴隷から解放するという、もともとの状態に息子を回復するんです。
何の代償も払わないんですけれども、その息子を回復していくという父親の姿が描かれています。
その弟の話もさることながら、その話が進んでいるうちにもう一人の長男の方が長男で拗ねてしまってですね、お父さんに文句を言うわけですよね。
あなたの子供が放逃して帰ってきているのに、私には何の良いこともしてくれないというような文句を言う息子が家にいるわけです。
その息子に対しても、あなたは私といつも一緒にいるし、私のものはみんなあなたのものじゃないかと慰める姿があって、それはまさに父なる神様が私たちを助かわれる姿であるということですね。
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あの中に魅せられている神様の私たちに向かっている愛というのは、このマザイの語説に書かれている優和なものそのものです。
そしてその神様、またイエス様ご自身の優和さ、仕返しをするけど、できるけどしないし、そういう穏やかさと柔軟性を持っておられるわけですね。
そして自分はこれだけ偉いんだというような素振りもないというのが神様ご自身でありますし、この優和なものの姿です。
そしてその人たちは地を受け継ぐからですとありますけれども、イスラエルの人たちがカナンの約束の地を受け継いだこともありますけれども、私たちにとっては天皇の国というか神の国を受け継ぐということが教えられているのではないかと。
それで今この時代の戦争が起こったりですね、いろんな人間の非常に短い期間で物事を判断してしまう、そして自分自身の得になるか損になるかという逆転が、欠点があるかと思います。
神様の愛を覚えるときに私たちは最終的にどこにたどり着くかというと、神の国にたどり着いていきます。
今、教団から発行されているデラカの聖書日記は今日目標区の22章にたどり着いておりまして、そこには神天神地の様子が書かれています。
そこには夜がないということですし、そこでは涙も死も痛みもないところが用意されているということが最後に書かれてあって、私たちはそこに招かれているというのが聖書の最終的な行き着くところなんですね。
結論として私たちは神によってそこにまで痛みも涙も悲しみもなくて、全てのことが報いられていく神様の愛と慰め、その優和な方のご性質が導いているようなところに私たちは招かれています。
それが最終決着であって、この地上の様々な確かに、私たちの願い通りにならないこの現実の中にやっぱりいるんですけれども、しかし最終は神様の国が完成するというのが私たちの最終目標であるということをいつも確認しておく必要があるかと思います。
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仕返しをしたい場合は、なんとかこの地上で決着しようというのが先にありますから、いろんな事件が起きたりします。
でも私たちの最終の行き着くところは神の国にあるという、そっちの終着点にしっかり目を止めていくならば、私たちは今の混乱と今の様々な事件にも神様の将来の裁きがある、納める神様の裁きがあるということに安心をする、また委ねることができるので、
神様自身が創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方はご自分の前に置かれた喜びのために恥ずかしめようものとせずに十字架を忍び、神の溝の右に着拒されたのです。
そういう言葉がありましたように、イエス様には将来のことが見えていたので、今いろんな艱難深苦というか困難に戦い壁があるということの中で、しかし十字架を忍んで最後まで末等されたという姿が描かれています。
ですので私たちも今の起こっている出来事だけに目を奪われてしまわないで、もっと先に神様の計画というか、大きな神様の歴史の中に生かされていることに時々目を開いてですね、神が知っておられる、神が決着をつけられるというところに落ち着かせていただきたいと思うわけです。
私なんかもね、これ本当にどうなのというのかなと思うことは時々あります。しかしその自分で捌いてしまう思いをとどめてくれる聖者のかしらはいくつかありますけれども、
その代表的なのは私にとっては四辺の37辺はそこを開くたびにそうだなと思わされるんですけれども、悪を行う者に腹を立てるな、不正を行う者に痛みを起こすな、彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだから。
神様の世界では決着がつくので、自分で先に手を出さないとか思いを走らせていかないということは必要だなということを教えられます。
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怒ることをやめ、意気通りを捨てよ、腹を立てるな、それはただ悪への道だ、というようなことが四辺の37辺には人生経験の豊富なキリストの言う噂は私たちを救いに導いてくださっています。
そしてキリストの言う噂は今も私たちに向けられています。
繰り返しになりますが、私たちがどんなに弱くて愚かで失敗したとしても、神は受け入れる許容量をお持ちですので、そのお方にしっかりと立ち返って、このお方の真実の愛の中で作り変えられて、優雅なものとされていきたいと思います。
今日も賛美で、葡萄の木に繋がっていたら、御言葉に繋がっていたら、御を結ぶ。御霊の御は、御霊が結ばせる御は、愛、喜び、平和で、優雅、慈悲、優雅も含まれております。
イエス様の素晴らしい御言葉を私たちのうちにも御身が結ばれて、提供するとともに、聖筆をいただいて、私たちもこの困難な時代ではありますが、お祈りにありましたようにリバイバルが起こされ、また救われる人たちが一人でも二人でも加えられていくことができるように、信仰をもって祈っていきたいと。
お祈りをいたします。
26:12

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