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2025-03-16 24:40

2025/03/16: 手放す恵み

2025/03/16 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 -22


サマリー

このエピソードでは、天の御国の価値観について話し、特に富や豊かさの真の意味を探求しています。「手放す恵み」というメッセージを通じて、所有物をどのように分かち合うべきかが強調されています。このエピソードでは、手放すことの重要性と、それによって得られる恵みについて説明されています。また、持っているものを分かち合うことが、真の豊かさや交わりを築く鍵であることが示されています。

祈りと感謝
それでは一言お祈りをさせていただきます。 天の父なる神様、尊い皆を賛美いたします。
今日も天候が悪い中でありますけれども、私たちの体を支え、 死の身元へと招いてくださっていることをありがとうございます。
あなたは十字架において変わりない、そして限りない愛を私たちに示してくださいました。 巫女が流された血潮は私たちのため、
私の罪のためであったと、 それによって私たちの罪がもはやあなたの前に許され、
よみがえられた復活の命、永遠の命を私たちに与え、 永遠なる死と共に生きる豊かな命へと私たちを招いてくださっていることをありがとうございます。
神様、 霊に燃えていますけれども、しかし心も体も私たちは弱りやすいものです。
どうか主が私たち一人一人をご存知でいてくださいますから、 なおもお支えくださり、あなたの恵みによって日々をお守りくださいますように、お願いいたします。
祈られたように世界の痛みがありますし、 本当にこの世界がどちらの方向へ向かうのかわからない中にある。
しかし私たちはこの世界の王は主であることを知っています。 あなたを恐れ、あなたの導きを求めることができますよう、
どうか私たちを導いてください。お願いいたします。 施設におられるお一人一人がいます。どうか主がお一人一人に助けを与えてください。
家で礼拝を守っておられる方、心が痛んでおられる方、 また今日は別のところで礼拝を守っておられる兄弟姉妹もいます。
お一人一人があなたの恵みを知ることができますよう望んでください。 お願いいたします。
豊かさの意味
これからの時を御手に委ねます。主が御言葉を開き、私たちに教えてください。 イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
今日は寒いですね。寒暖の激しいそのような季節になっております。
ぜひお体を楽にしていただいて、 礼拝の時はどういう時であったとしてもご無理ないように自由に動いていただいて結構ですので、
御重心のお体を大事にしていただけたらと思います。 今朝お読みいただいたのはご存知の通り有名な止める青年のお話であります。
以前この箇所から、この箇所のマルコの福音書から 綾名先生がお話しくださったことを覚えていらっしゃるかもしれません。
今日はまた異版のお話を少しさせていただきますけれども、 今日読んでいただいたこの19章の16節からですけれども、
この19章というのは18章からの続きとして書かれておりまして、 18章から何を言っているかと言いますと一言で言うならば、
天の御国について語られ始めます。 天の御国。
いわゆるそれは神様の御支配、神様の価値観とでも言っていいかもしれません。
イエス様は弟子たちに向けて、この世間一般、この世界ではこう考えられる価値観を、 いや違うよ、神様の国、神様の価値観ではこういうふうにそれを見るんですよという話を18章から始められるんです。
例えば18章の一番最初で話題になっているのは一節にもありますが、
天の御国では一体誰が一番偉いのですかという話から始まりますね。 神様の価値観、神様の基準で偉いってどういうことですかと弟子たちが聞くわけですね。
世間一般的な偉いといえば、例えば何か指導力があるだとか、 頭がいい、学歴がある、影響力がある、カリスマ、そう言えるのかもしれませんが、
イエス様が言われたのは違うよと、 子供たちだよとここではお話をされますね。
18章の4節というところに、子供のように自分を低くする人が天の御国で一番偉いのですと語られる。
偉いというのは神様の価値観では何か誇れるものを持っていることではなくて、 偉いとは自分を持っていたとしても低く謙遜に人々に使える。
まさにイエス様のようなですけども、そういう姿が偉いのだよとイエス様は言われるのです。
こういうふうに天の御国や神様の価値観というのはこの世界とは異なっているんですね。
イエス様はいろいろな人の関わりを通して、この世界で当たり前になっている価値観に、 いや神様の価値観はそうではないよということをお話しし始めるのです。
今朝の止める青年の話もその文脈に置かれている話なんですね。
ここではイエス様は、彼が持っているもの、いわゆる富について神様の価値観を語られるのです。
いわば豊かであるというのはどういうことかということを語られ始めるんですね。
先に今朝は結論から申し上げますと、豊かであるということでイエス様がここで話したいのはこういうことです。
あなたの持ち物はすべて神様からの賜物なのだから分かち合いなさいということです。
あなたの持ち物はすべて神様からの賜物なのだから分かち合いなさいということです。
それに準ずることを少しこの箇所から見ていきたいと思っています。
さて一つ目、今日三つのポイントで見てまいりますが、一つ目は豊かさとは何かというところをこの箇所でイエス様は語ってくださっています。
豊かさとは何か。
今日のこの16節からイエス様のもとに青年が一人やってきます。
彼は22節を見ますと多くの財産を持っている青年だったわけです。
その青年が16節でイエス様に聞きます。
先生、永遠の命を得るためにはどんな良いことをすれば良いのでしょうかと聞くのです。
彼が言うところの永遠の命と言いますのは、死んだ後の命だけを意味するものではありません。
むしろ当時のユダヤ人が考えている永遠の命というのは、神様の新しい支配の中に生きている命ということです。
何度もお話ししたかもしれませんが、当時のユダヤ人というのは、神が、メシアが新しい支配をこの私たちにもたらしてくださるということを信じていました。
新しい支配というのはまさに神様の恵みの支配ですね。
すべての被造物が新しくされて、悪や腐敗、死そのものが取り除かれる神様の恵みがあふれた支配。
以前、綾名先生がお話をしたときに、永遠の命というのは使っても使ってもなくならない豊かな命なんだというお話もしたと思います。
聖書はそういうふうに理解するんです。永遠の命というのは死んだ後の命じゃない。
永遠の命というのは、神とつながって無限に恵みがそこに注がれる命。だからなくならないんですよ。神と共に生きる命ですね。
そういう意味でユダヤ人も理解をします。
おそらくイエス様がこれまでされてきた働きを見て、このお方は神様の新しい支配をもたらしているのかもしれないと、青年は見たかもしれません。
特別なお方として彼はイエス様のところへとやってくるんですね。軽い気持ちで彼は来ていないんですよ。
イエス様は本当のメシアかもしれない。そうであるならば、イエス様もイエス様の弟子たちも何か楽しそうにしている。
私も神様がこの世界に始められた新しい恵みに入り、そこで生きたい。私もみんなが楽しんでいるこの永遠の命というものを、私もいただきたい。
そう願ったのかもしれません。けれどもそのためには、これまでの人々にイエス様が語られた同様、最終的にはイエス様についていかなければならないのですね。
そのためイエス様はこの青年を取り扱われるのです。
17節から20節というところが長いですが、パッと読みますね。
イエスは彼に言われた。なぜ良いことについて私に尋ねるのですか。
良いお方はお一人です。命に入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。
彼はどの戒めですかと言った。
そこでイエスは答えられた。殺してはならない。簡易してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。
この青年はイエスに言った。私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。
イエス様のやりとりは実にシンプルですね。
戒めを守っていますか。知っていますか。はい、すべて私は守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。
まるでお医者さんが悶心するように一つ一つを青年にイエス様は聞かれるのですね。
そしてこの青年自身がある種、彼自身が気づいていない矛盾をイエス様はここで指摘をなさるのです。
それは21節にも書いてありますが、
彼は多くの財産を持っているのに、すぐ周りにいる貧しい人々には手を閉ざしているという事実。
彼は多くのものを持っているのに、すぐ周りの人には手を閉ざしているという事実ですね。
富というのは悪いものではありません。富は大事です。
私たちが喜んで生きる上である程度の豊かさは必要です。
けれどもイエス様は天の御国の豊かさを青年に教えたいんです。
豊かであるというのは何かを持っていることではない。
本当の豊かさというのは、むしろ何かを持つではなく、
その富を分かち合うためにあなたの手を閉ざさないこと。
そこにこそ天に宝を積む本当の豊かさがある。
そうイエス様は青年を招こうとする。21節まさにそういうことが書いてあるのです。
完全になりたいのなら、
かえってあなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。
そうすればあなたは天に宝を持つことになります。
その上で私に従ってきなさい。
天の御国の豊かさというのは、富を持つ豊かさではなく、
手を開いてそれを分かち合うことの中に豊かさがある。
これは旧約聖書に思いっきり書いてあることです。
ちょっとだけ大事な箇所なので開きますと、神明記の15章。
私は何度か開きますけれども、神明記の15章の7節から10節というところ。
これもまさに5章であり立法と呼ばれる箇所ですけれども、
15章の7節から10節というところ。
神明記ですね。旧約聖書の342ページの下の段にあります。
神明記15章の7節から10節。
ちょっと長いですがさらっと読みます。
あなたの神主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しいものであるとき、
その貧しい同胞に対してあなたの心を固くなにしてはならない。また、手を閉ざしてはならない。
必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。
あなたの心によこしまな考えを抱き、第七年、免除の年が近づいたといって、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気をつけなさい。
その人があなたのことで主に叫ぶなら、あなたは在籍を負うことになる。
必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。
このことのゆえに、あなたの神主はあなたのすべての働きと手の業を祝福してくださるからである。
困っている人に手を開きなさい。そして必ず与えなさい。
損をするかもしれませんけど、決して損はしない。なぜなら主があなたの働きを祝福してくださるからと根拠が書かれます。
立法や語書というのは、この理解で一貫しています。それは、あなたの働きもあなたの富もそれは、純粋な神様からの祝福であり、賜物であるという理解です。
それはあなた自身のために当然与えられたものである。しかし同時に、あなたの周囲の貧しい人々と分かち合うためのものだと言われるのです。
これは今も変わらないのですね。本当の豊かさというのは、いくら私が持っているかではなくて、分かち合うために手を閉ざさないことです。
何が欠けているのか
そこにこそ本当の豊かさがあると、今日の歌詞は語らんとしているのです。 このような歌詞を読みながら2つ目のポイントを見てまいりますが、2つ目。
何がまだ欠けているのでしょうというところに、少しやはり目を止めたいと思います。
私はこの歌詞を読みながら、このマタイの歌詞を読みながら、この止める青年の言葉が心に残りました。青年は言います。
私に何がまだ欠けているのでしょうと。 この青年は、私は欠けていると理解をしています。だから、自分の何か満たされない渇きを埋めるためには、何かを得ることだと考えていたかもしれません。
何かを持てるようになることと考えていたかもしれません。 しかしここで言われるイエス様の解決策は何かというと、
何かを得ることではないんですね。 むしろ彼自身のことを考えるならば、小さい頃から立法を守ってきたということは、
彼はおそらく神様を恐れる良心の下で育ったのでしょう。 彼は十分に立法の言葉、神の言葉を蓄えているわけです。そういう人いますよね。
小さい頃からそういうものを受けて、霊的な祝福を持ってますね。 彼は多くの財産を持っていました。
生活も満たされています。 霊的にも物質的にも彼は十分豊かなんです。
十分に豊かです。 けれどもこの青年の解決策は得ることではなくて、むしろ手放すことにあったということではないでしょうか。
彼自身の握っている富というものを手放し、イエス様についていく。 あなたが欠けている、青年が欠けていると感じるのは、神様がそこに満たしたいと願っているところに、あなたが別のものを握り続けているからだよと。
そう言わんばかりにです。 ある種ここで私たちが教えられることは、手放して初めて得られる豊かさがある。
手放して初めて満たされるものがあるということではないでしょうか。 彼は何も欠けていないんですよ。
霊的にも物質的にも豊かです。 ただ一つ欠けていることがあるとすれば、彼は手放す恵みを知らないんですよ。
分かち合う豊かさ
手放す恵みを知らない。 私たちもこの青年の気持ちというのは、何かわからなくない気がします。
神様の恵みの中に私たちも生きていますし、神様ご自身もそれを味わいながら喜んで生きるようにと、私たちに願っておられます。
けれども時に、私たちは神様の喜びや恵み、愛を知りながら、その中にいないような実感を持つことがないでしょうか。
私自身も時々ありますね。 その時に思うかもしれません。私に何が欠けているのでしょうか。
私に何が欠けているのでしょうか。 特別な霊的な体験なのでしょうか。
精霊に満たされるということなのでしょうか。 それは大事です。何かを得るということで解決されることもあるでしょう。
しかし主が私たちを満たすのは、何かを得ることを通してだけではないということです。
むしろ私たちがすでに握ってしまっている何かを手放すことによって、得る恵みがあるということです。
そのことを覚えておきたいなぁと思うんですね。 そして3つ目のポイントですけれども、じゃあ私たちはどういう歩みに召されているのか。
それは豊かに自分を分かち合うという道へと召されているということです。 豊かに自分を分かち合う。
この止める青年の話というのは、確かに富の話です。 ただもう少し広く考えてもいいかもしれません。
いわばそれは私たちが持つもの、目に見えては物質的な何かということかもしれませんが、それだけではなくて広く言えばそれは私自身を分かち合うということへと召されているのではないでしょうか。
私の経験を分かち合う。 私の能力を分かち合う。
私の感動、喜びを分かち合う。 私の苦しみや痛みを分かち合う。
そして私の命を分かち合う。 そのすべては交わりを築きますね。分かち合われるところには交わりが築かれます。
私たち自身を分かち合うところに、実は共に生きる境界というものが形作られていきます。
私たち本当に大事に覚えなければならないのは、私たちは良いことばかりが私たちの恵みではありません。
喜びもあるんです。しかし悲しみもあるんです。人生は両方あって当然なんです。
でもどちらにも神様の意味はあるんです。 そしてそれは分かち合われるというところに用いられるんですよ。
一つの話をしてもう終わりたいと思いますが。
数年前に教団全国牧師会というものがありまして、その子で講師としてカンバーランド長老キリスト教会の講座教会の松本雅宏という先生がいらっしゃいました。
その先生の教会は本当に大きい教会でして、その時すでに先生は次の世代の牧師先生とバトンタッチを試合に入れてたわけですが、
こういう話をその講演の中でされていました。
生産式で私たちはイエス様の体であるパン、イエス様が咲かれた体であるパンをいただき、
血であるブドウ酒をいただきますよね。 私はこれが究極的な私に対する飯であると思うのです。
いわば私は最後に向けて、私自身が咲かれ、私自身が砕かれ、私自身が流されて、
みんなに食べてもらうようにと最後、私は召されていると思うのです。 私の奉仕も、私の経験も、私の喜びも、私の失敗も、
これからの人に食べてもらえるようにと、私は最後まで願いたいと思います。
できればそれが毒にならず、何かの栄養になれば本望です。 最後には、もうこの先生からは食べるところは何もありませんと、
そう言われて私は天国に行きたい。 そういうお話をされていました。
私は面白い話だなぁと思って聞いていましたけれども、 確かにそうだなぁと思うんです。
私たちは何を残すのか、私たちは食べていただけるのか、 食べていただけたら嬉しいなと思いますが。
けど、何も残らないほどに私たち自身を分かち合えるならば、 それはどれほどの豊かさを私たちは周りの人に残すでしょうか。
どれほどの宝を天に積むことができるのでしょうか。 イエス様は言われます。
完全になりたいのなら、かえってあなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。 そうすればあなたは天に宝を持つことになります。
その上で私に従ってきなさい。 今朝、私たちは
豊かであるという理解をもう一度神様の前に整えられようとしているのだと思います。 天の御国の基準。
神様の価値観に、豊かであることが何なのかということを知りなさいと招かれる。 豊かであるということは、どれだけ多くのものを握り、
自分の思い通りに人生が進んでいくかではないです。 豊かであるというのは、どれほど主の御前に手放すかということです。
豊かであるということは、どれほどのものを持っているかではありません。 豊かであるというのは、どれだけのものをあなたが分かち合ったかです。
そう思う時に、私たちは、私たちの持てるものもそうでし、私の存在もそうだし、私自身もそう思いますね。
牧師という働きもしておりますけれども、やはりその一つ一つ、私の存在も含めて分かち合われていくということは大事なのだなということを思っております。
どうか今朝ご一緒に覚えましょう。 神様は私たちの手が開かれて初めて与えようとしておられる恵みがあります。
手放して得られる恵みをご一緒に受け止めさせていただけたら幸いです。 一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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